今日から10月、今思うこと2017年10月01日 13時24分28秒

★間もなく逝く父と暮らしながら

 安倍晋三の身勝手な突然の解散総選挙で、急に慌ただしくなってしまったが、これこそ国難と言っても仕方ない。今日から10月、今年も残すは三か月である。

 外は雲一つない秋の青空、まさに天高くの快晴である。風もあり実に爽やかで心地よい秋の日曜日だ。陽射しのあるところは汗ばむほどだが、日陰や朝晩はそろそろ暖房が恋しいほど気温が低くなってきた。
 昨晩は、溜まった紙ゴミや廃材を燃やすため今季初めて薪ストーブに火を入れた。炎に向き合う季節もすぐそこまで来ている。
 政治の話は横に置くとして、さて、これからどうしたものか。とにもかくにもさらに老いて弱って来た父の今後の扱いである。

 我の父は今月の21日で93歳となる。一兵士として大陸へも行き、帰還後は、長男であったので下の妹や弟を喰わせる為に働き続け結婚も遅くなり、同じく長女で同環境にあった我が母と出会い、当時としては遅い結婚で我と妹が生まれた。
 若い時に結核で入院もし、その後も前立腺癌をはじめ数々の病に見舞われたが、苛烈な戦争から戻って来れたのも頑健な身体であったのであろう、気がつけば一族の誰よりも長生きして、去年五つ歳下の妻のほうが先に逝ってしまった。
 今は、独身のまま還暦となる息子=我との男同士二人暮らしである。我としてはまさかこの人がこんなに長生きするとは、そして父もまた、妻を先に亡くして息子と二人で遺されるとは思いもよらなかったに違いない。そう、こんな余生、末期が待っているとは誰も予想もしなかった。

 ただこのところ今夏が過ぎてから父はめっきり衰えて来て、介護施設に勤めて同様の老人の世話をしてきた我が妹の予見では、もうそれほど長くはないだろうとのことである。
 父の具合を説明したら、まずは年内越して正月を迎えられるかどうかで、来年の夏まで難しいのではないかと妹は電話でいう。じっさい我もこのところの父の言動、体調を見るとそう思えなくもない。
 ともかくこの秋になってからほとんど歩けなく食べられなくなり体調も減る傾向が止まらないからだ。そして頭のほうも比例して衰えて、ますます呆けが進み記憶が続かず何もわからなくなって来て共に暮らし介助する側としては困惑するばかりだ。

今日は昨日から一泊二日で民家型デイサービスへ、ショートでお泊りに行ってくれているので我はこうしてブログ書いたり父不在故のんびり好き勝手なことができる。
 ただ今の感じでは、そうした通所型介護サービスも限界となろうから、特養もしくは入院介護施設へと当人の意思は関係なく嫌でも移らないとならなくなると思う。そう、本人はどれほど呆けて息子に過度の負担かけようとも最後の最後までこの家、自宅で暮らしたいと言い張っているのだ。

 しかし、当人の意思や希望とは関係なく、高齢から?の老衰は確実に進み、今父は、自室の介護ベッドで寝起きしているのだが、もう自力ではそこから立ち上がること、起きて居間に来ることすらかなわなくなってきた。
 これまでは廊下やあちこちに取り付けた手すりバーに掴まって、何とか一人でも移動できていたのが、息子が介助して起こして手を引いてでないと歩くことすらままならない。
 ここまで弱って来てしまうと外出も自力では難しくまた車椅子を用いなければならないわけだが、我家は室内でそれは入らず、となればもう在宅での生活も困難だと判断せねばならない。
 そして杖を用いて無理して立って歩けば、当然ふらつきと転倒も起きてしまうわけで、おそらくウチでなくても言った介護サービス施設内で転倒してまた骨折してしまうか、誤嚥からの肺炎を起こしたり風邪から肺炎に至ったりと、近いうちに嫌でも搬送、入院となることは必定かと考えている。

 母の場合は、進行性の癌であり、意識もしっかり最後の日まであったから、我はこの家で、一人で寝ずの介護をし、精根尽き果てるまで看取ることができた。
 が、父の場合は、ウチで寝たきりとなってしまえば、下の世話も含めて我は最後の最後まで一人で面倒みれるとは思えないしその気も正直なところ全然ない。呆けも進み意識もしだいに遠のいていくだろうししかもそういう人にどう食事を摂らせたらよいのか我は見当もつかない。
 今はかろうじてまだ起きてきて世話焼けるけど紙パンツを交換して着替えさせて食事をつくって出せば、何とか自分の意志で食べられるし、週のうち何日かはショートステイで介護施設に行かせて預けられる。

 それが出来なくなって、毎日父が家にいて、寝たきりとなってしまえば、我は24時間父の容態に注意をはらい側にいないとならない。
 それではストレスで発狂してしまうだけでなくまず体力も続かない。母の時は大変だったけどまだ母と共に生きる希望や喜びが確かにあった。一日でも長く生かすことが目的でありまさに生き甲斐となりえた。  が、父の場合は、おそらくしだいにボケから呼びかけても反応もなくなるだろうし、意識もなくほぼ寝たきりの人を相手に、付ききりの生活が何日も続いたら我こそおかしくなって死んでしまうかもしれない。ならば介護専門病院に入ってもらうしかない。
 そんな状況は願い下げしたいけれど、おそらく間もなく間違いなくやってくると予想している。
 ならばあともう数か月、あるいは数週間かもしれない。父がこの家で暮らせて我が父と過ごせるのは。

 我のたった一人の妹が九州大分の山中耶馬渓から近く今月半ば過ぎに上京してくる。今回は二泊三日程度だが、おそらくそれが意識ある父と対面する最後の機会かと思える。彼女もそのつもりで最後の別れに来るつもりだろう。

 それにしても人の死に方は様々だとつくづく思い至る。のみ亭のやっちゃんのようにほぼ同世代で、癌がみつかって約半年かそこらで誰も予期せぬ死に見舞われることもある。
 また母のように、若い時からほとんど病気もせず元気に様々な活動していた人が、老いてきたら癌に侵され、何度も手術や入院の挙句になす術もなく衰弱してまさに骨と皮と化し、精根尽き果てて逝く人もいる。
 そして我が父のように、社会的活動は一切何もせず身勝手に生きてまさにただ馬齢を重ねて、立木が朽ち倒れるかのように全身が老衰により緩慢に死に向かう人もいる。

 どんな死に方が理想的かとか、どう死にたいかなんて考えても意味ないわけで、誰一人望みも願いもせずとも確実にそれはやってくる。どんな死に方が訪れるのか、それは神のみぞ知ることだ。どれほど拒み抗おうと懸命に願い祈ろうが何もかなわない。
 交通事故などは論外だが、あまり時間なく癌のように判明してから打つ手なくあっという間に死んでしまうのも嫌だが、父のように老いて緩慢にじょじょに衰弱し、しかも当人もオツムも呆けて何もわからなくなっていくのがマシなのか我はわからない。
 ただはっきりしているのは、「その時」は生受けた者は誰にでも必ず来るし、いつ何歳で死に見舞われるか予想も想定もまったくできないということだ。平均年齢というものぐらい意味ないものはない。

さておき、ともかく父は間もなく間違いなく近く死んでしまうのだから、そのときに備えて覚悟と準備だけはしておかねばならないと言うことは間違いない。 が、告白すると、望まないことだからではなく、今は日々ともかく忙しくて、父と我は「今」を生きることだけ、金の工面と日常生活をやり過ごすだけでいっぱいいっぱいで、「その先」については何一つ準備も考えることができやしないのだ。
 父のように、間違いなくもうそれほど先はない、長くはないとわかりきっていてもだ。
 こういう切迫する「現実」、状況になってきても人は何事も真剣切実になかなか事態に向き合えないものだと今さらながら気づく。いや、これは我だけの性分なのか。

 さあ、今日から10月。何とかまだ父がかろうじて元気で動けて、ショートステイなどに行けるうちにこそ、少しづつでいい、その時に備えて万全の準備をすることだ。
 こうしたことで、我マス坊は我が友や知人、知り合いに、いろいろ不義理をかけているし、きちんと果たすべき約束事など放擲してしまっている。
 しかし言い訳にはできないが、まずは父のことこそ最優先にせねばならず、我の用事も傍ら進めていくことも考えてはいるけれど、父に先はないが先の見えないこの状況なので、どうか何卒ご理解頂けたらと願うだけだ。
 一日一日ともかく大事にし慈しむように大事に生きていくしかない。あと少しだからこそ。

枝野氏の「立憲民主党」、大いに歓迎したい。2017年10月02日 21時04分08秒

★立憲・護憲野党は結束して改憲政党に立ち向かえ!

 本日夕刻、民進党の「希望」への身売りに異議を唱えていた枝野氏ら民進党内の左派・リベラル勢が、希望の党への合流は政治理念が異なるとして新たに新党を立ち上げ発表した。
 「立憲民主党」、良い名前である。民主党の前に「立憲」が付いた。民主だけならば自由民主党と大きな違いは出てなかった。
 立憲主義を看板に掲げた政党はこれまでなかったと思う。どうか看板倒れにならぬよう、名に恥じぬよう立憲主義、護憲を全面に押し出しぶれることのない政治活動を続けてほしいと願う。
 つまるところ前原代表がやったことは、クーデタだったのである。枝野氏と代表選を争い、民進党の実権を手に収めた途端、あろうことか彼はできて間もない新党に、公認権まで売り渡して民進党はこの総選挙で消滅してしまった。なくなることは予想していたが、まさか選挙前に自ら消えたのには呆れ驚かされたが。
 前原曰く、名を捨てて実をとるなんて言ってたが、希望の党側が、受け入れる人を選別すると公言し、しかも改憲と安保法制容認がその条件だと言うのだからまさにこれまで民進党のしてきたことを党議員は全否定しその理念を捨て去ることが求められた。
 そしてそれを御身大事の保身ゆえ受け容れる輩も呆れ果てたクズだと思うが、当然向うから絶対最初から排除される者も出てくる。民進党で左派に位置し、共産党などとの野党共闘に積極的だった人たちだ。彼らの動向が案じられた。

 我はもし彼らがそのままこれまでの政治理念を投げ捨てて自民党と何一つ変わらない改憲と戦争法容認の新党に、「踏み絵」を認めて入ったならば、失望するだけでなくこの国の政治、民主主義はオシマイだと危惧していた。今の政治家なんて結局は己の当選のためには右にも左にも言ってたことをころころ変えて勝つためには誰とでも手を結ぶ奴らばかりだから、このまま民進党の議員は全員希望の党へと、臆面なく吸収されるのかと深く案じていた。

 しかし、少なくとも枝野氏たち何人かは、志を変えずに自らの政治信念に基づいて新たに新党でこの選挙に臨むことを決意したのだ。これはこれまでの野党四党の共闘の延長であり、我ら護憲と反戦を願う国民が求めていたあり方である。そのことを歓迎したい。
 前原代表のクーデタが頓挫したと言うよりも、このことは、これまで野党にいても内心は自民党に近しい、親自民非共産という志向の奴らが全員その補完政党・希望の党へと移ったならば(自由党小沢一郎も含め)逆に護憲を掲げる政党はすっきり純化されたと言えなくもない。ある意味災い転じて福となす結果となったのかもしれない。

 これまでの野党共闘だって、民進党内では、長島や細野、そして前原氏らは、共産党と一緒にやるのはぜったい嫌だと文句つけずっとごね続けていた。彼らの理念や政策はほとんど自民党と変わらないほど右だから当然だ。ならば自民党に行けば良いのに、何で野党にいるのかと我は前々から思っていた。
 そうした野党共闘の足を引っ張る、政策的には自民党とまったく変わらない輩、あるいは政治信念のかけらもない無節操な奴らは今回希望の党へと行ってくれたので、政党のスタンス、見通しはスッキリわかりやすくなった。今、視界が晴れた気がしている。各政党の立ち位置、図式がはっきりした。
 小沢一郎のようなかつての自民党のボスや、民進党にいた改憲右翼長島たちと「共闘」せねばならないのは正直苦痛の思いもあった。

 政治家の集う政党は確かに小池都知事が求めるように、ワンボイスにまとまり、イデオロギーは純化せねばと我も思う。そして民進党は寄り合い所帯ゆえそのところが常に曖昧で、足並みが揃わずこれまで内紛を重ねて来たことも否めない。異なる思想の人が数多くいて動きが取れない、それが彼らのネックだったのだ。
 そして今ようやく「立憲民主党」という護憲と立憲主義を掲げる政党が民進党から独立した。むろんスタンスは近くともその新党は共産党とは根本が違っているだろう。他の野党との選挙協力は野合だと自公は早くも批判しているようだ。

 が、まずは、この総選挙にあたっては、野党は護憲と反安保法制という一点のみでも、共闘し共倒れを防ぎ、改憲政党と対決しないとならないと信ずる。まさに小異は捨てて大同に立つと言うことだ。それは野合ではない。野合とは、希望の党に入れてもらおうとこれまでの政治理念を投げ捨て求められるまま踏み絵を踏む奴らとそれを受け容れる側であろう。
 そして政党選択選挙と言いつつ、選挙後の首班指名は、誰なのかはっきり示さない政党こそ選挙後は自民党と連立するのではないか。それこそが野合ではないか。いや、元々政策に大差ないならば、何も改憲新党など作る必要もなく、自公政権で良いではないのか。あるいは維新の党へでも入れば良い。

 ゜自民党は選挙公約に九条改憲を今回はっきり示して来た。そう、ならばこそまず何よりも改憲か護憲か、自公か希望かではなく、改憲二大政党対護憲野党共闘勢か、この選挙はその選択選挙となってきた。

長年の同志や自党の候補者、支援者を裏切り見捨てる政治家は・・・2017年10月03日 22時23分12秒

★卑劣かつ身勝手な政治家たちは国民さえも簡単に裏切るだろう

 まだ告示にもなっていないが、今回の衆院選、もう日本の政治、政治家たちにはほとほとアイソが尽きたという方も多いのではないか。

 身勝手にも森友・家計問題追及逃れの自己保身解散を決めた安倍晋三に端を発して、誰も彼もが自分の都合、勢力の維持と御身の保身しか考えていない。今の政界に国民生活やこれからの日本について自らを捨て石にしてもと真剣に考えている政治家は果たしてどれだけいるのだろうか。
 とにもかくにもまず自らが当選しその勢力を伸ばすこと、権力の維持だけしか頭にない。政治理念も投げ出し公約も含めて後のことはどうなろうと知ったことじゃないということは、民進党分裂騒動や、希望の党の動向、そして彼らを口汚く批判する与党自公を見ても窺いしれよう。特に晋三には彼らをとやかく言う資格はない。

 ただこれでようやく与党「自公」と小池都知事が率いる「希望の党」という新党、そして護憲と反安保法制を掲るリベラル野党という三極で、今回の衆院選の色分けが確定したようだ。
 そのうち、野党といっても希望も選挙協力している維新も「改憲」と安保法制容認は自公と全く同じなわけで、今回の総選挙の大きな争点、改憲の是非という対立軸だけ捉えれば、与党自公+希望の党+維新=改憲派VS共産党+社民党+立憲民主党という護憲派「リベラル野党勢」という図式になる。

 そしてもう何度も書いて来たが、新党が躍進して政権交代がなったとしても自公と同じ保守である限り、改憲はもちろんのこと政策に大きな差はほとんど何もない。ただ首相が変わるだけの話だ。
 しかも維新も希望もその暁には、今の時点から自民と連立の可能性をほのめかしているのだから、自民、公明、希望、維新のどのような組み合わせで新たな政権ができたとしても現与党とどれほど違いがあるのか理解に苦しむ。
 場合によっては、彼ら保守政党が全部連立して保守大連立政権となれば、憲法改定どころか、かつての体制翼賛会、あるいはナチスのように絶対的な権力となってどんなことでもできるようになるだろう。日本軍が半島や大陸に再び攻め入るかもしれない。そうならずとも我も含めて「赤」は全員、要観察、逮捕拘禁されるかもしれない。それが嫌ならば戦前のように「転向」という踏み絵を踏まされることになろう。

 我もまた人の子であり、そんな恐るべき不自由な時代が来ることを深く怖れる。そうならぬためにも何度も何度も今回の総選挙について警告的な思いを拙ブログで書いて来た。
 公示も近づきそろそろいったん終わりにしようと思ってここらで一度筆をおこう。が、最後にどうしても書きたいこと。

 選挙はまだ公示もされていないし、新党に都知事小池氏の代表就任と、民進党の合流、分裂と情勢は混沌として、先行きについて今は誰も予想もつかない。よって自公がまたもや勝利し安倍政権延命となる場合もあろうし、逆に新党が先の都議選のように大勝し、維新や公明などと連立し政権交代も起こるかもしれない。
 逆に、保守二大政党に対して批判が集まり、共産や立憲民主党らリベラル勢力が伸びる状況も考えられる。ならば改憲の流れは止めることもできよう。また我が一番怖れる保守政党大連立が成るかもしれない。
 ほんとに先のことは神のみぞ知る、であり、我としては、聖書にある、イエスの言葉、カエサルのものはカエサルに、という気持ちも実はあるので、政治的なことは、どんな状況となろうともそれはそれで仕方ないという気持ちもある。何しろ国民がそれを選び望んだ結果なのだから。選挙に行かず棄権する者もまた同様に。※繰り返すが棄権者は安倍政権を信任したことに繋がる。

 歴史はただ愚かな人間の成すことだから再び過ちを繰り返すのか、それとも逆戻りのように見えても段階的、進歩的に発展していくものなのか我は正直何とも確信が持てない。
 ただ、一つだけどうしてもはっきり言いたいこと、糾弾したいことがある。それは今回の表題、冒頭に書いたことだが、「裏切者」は国民さえもカンタンに裏切るということだ。誰のことか言わずともわかるだろう。

 民進党を分裂、解党に追いやった前原氏は、当初、新党への合流に際して、所属議員に、希望から出馬すべく今回は民進党としては公認しない、全員が希望の党へ行けるように交渉する、これは政権交代のため、名を捨て実を取る、と見栄をきった。そしてそれは異論もなく総会で了承された。
 が、すぐさま小池都知事をはじめ希望の党側からは、民進党議員全員の受け容れはさらさらありえない、きちんと選別する、と突き放されたあげく改憲や安保法に賛成するかと、これまでの政治理念撤回の「踏み絵」を踏まされた。
 そして枝野氏ら、かねてより共産党などとの野党共闘に積極的だったリベラル派議員たちは、憤慨しどうせ新党側は受け入れてくれるはずもないのだからと、離党し独自に立候補の道を探り今回の立憲民主党という新党設立に至った。

 こうした事態にさぞや前原氏は、反省し軽率な合流話提案を悔やんでいるかと思っていたら、当人は反省どころか「全てが想定内」だとすまして語ったと今日報じられていた。
 ならばこれはさらに悪質どころか確信犯で、つまるところ民進党全議員が希望の党に行けると最初から嘘をつき、皆を信じさせて了承を取る。しかし希望側は当然のようにリベラル派受け入れを拒みはねつける、そして行き場をなくした彼らは憤り自ら離党する、そうさせるための「筋書」だったのである。
 先に我も書いたが、最初からそうした民進党内のサヨク、リベラル勢を追い出す、一掃するために、前原は小池氏と謀らいこの筋書きで動いていたのだ。何とも呆れ果てる。この男は四半世紀共に行動してきた同期の古い仲間である枝野氏さえ欺き追い出したのだ。

 日本史に見るように、戦国時代ならばこうした同志を欺き裏切ることは日常的であったかもしれない。明智光秀のように仕えていた主君信長さえも討ったのだから。
 しかし、現代社会で、しかも信頼がもっとも求められる政治の世界で、こうした謀略を立てて、いくら安倍政権を退陣させるため、政権交代を目してとしてもあまりに卑怯卑劣ではないか。そこに政治家としての大義はあるか。そんな嘘つき政治家を誰が信じることができようか。
 彼は自分の都合しか考えていない。当選の可否以前に、立候補を望む者を排斥してはならないのではないか。彼は皆から選ばれたばかりの党の代表なのだから。
 民進党を解党させ新党に合流させるのは政権交代という大義があるとしても仲間の議員を騙してまで切り捨てる、この卑劣かつ身勝手な計画の理由にはならないはずだ。

 しかしこうした自党の候補者、支援者のことは一切考えない暴挙は前原氏だけの話ではない。
 先の小池氏と大阪松井知事らの「三都物語」会談では、突然、希望と維新の党は、それぞれ東京、大阪では自党の候補は立てないという選挙戦略に合意してしまった。
 つまり、東京都では、維新は維新の候補を擁立しない代わりに、大阪では希望の党は自党の候補を立てない。さすれば小選挙区ゆえ競合避けられるわけで、それぞれ当選する確率が高くなる。この「選挙協力」なるほどと思える。

 しかし、この公示直前の今になって、突然降ってわいた様にそうトップ同士が勝手に決めたとして、それぞれ東京や大阪で出馬の準備をしていた候補と支援者たちはどう思うだろうか。特に大阪で、希望から出ることを予定して新党に合流した元民進党の候補たちは。
 要するにこれも立候補する予定でいた者が、その機会を突然奪われる事態となるわけで、党のトップが決めたことだからと突然言われてもただただ困惑し大いに悩み戸惑うことであろう。だって選挙に備えて常日頃ずっと準備して来て突然今になって、他党と調整したから「出るな」と言われても。それが嫌ならば当選の可能性は極端に低い無所属で出るしかないのである。

 選挙に出るということは特に国政選挙の場合、片手間にできることではない。今までの仕事や社会的立場をなげうって、ともかく必死で当選を目指す賭けのようなものだろう。そのために私財を費やした人もいよう。昨日今日の話では当選できやしないからずいぶん前から準備してきたはずだ。その政党を支援してきた人たちに対してもこの政党間の協定は裏切りではないのか。
 それぞれの地盤、東京や大阪で自党の候補が当選しやすくなるように、と希望と維新のトップである両知事がその異地域から出る予定だった候補者たちに相談することもなく「話し合いでそう決めたから今回は出るな」と独断で決めて良いのであろうか。これもまたずいぶん勝手な、候補者のことを何も考えていない暴挙であろう。これもまたトップの「裏切り」であり誰に対しても背信行為だと我は考える。

 自党の仲間や候補者たちすら騙したり勝手に切り捨てたり、自党や自らの都合や理屈で同士すら排斥する政治家は、その支援者のみならず有権者を、国民をまた同様に簡単に裏切るだろう。
 人の痛みがわからない、人のことを考えない者はまず第一にそれだけで政治家としての資格がない。前原氏にしろ、小池都知事、松井府知事にしろそれはまったく同様だと我は思える。彼らは自分たちのことしか頭にない。
 そして言うまでもなく政治を私物化し国民の声に耳を貸さず、オトモダチ優先の政治を進めてきた安倍晋三こそ、こうした風潮をつくった元凶なのは言うまでもない。
 そうした真に日本のためにならない害悪政治家たちに鉄槌下れと我は心から願っている。

 これまで何度も「政治」と今回の選挙について書いてきたが、要するに様々な政党間協力の図式や政権交代の是非以前に、これまでの安倍政治を信任するかどうかが最大の争点なのである。
 
 自公安倍政治の暴走がこれからも続くことを誰が望むのであろうか。民意はどこにあるのかだ。
 最期に、下手な狂歌都都逸を、
 ♪立憲民主党は、第二社民党だと第二自民党の維新の府知事が言い
 ♪アラ、失礼ね、第二自民は、あたしの党よ、と二束ワラジの都知事がいい

ユリノミクス?論評に値しない。2017年10月06日 16時12分50秒

★希望の党・小池百合子がここまでバカだとは

 俗に、バカと付き合うとバカになると言われている。バカを相手にするのも同様に。
 それは、バカの言うことやバカのしたことに対して、いちいち取り上げコメントしたり反論したりして相手にしていると、同次元に落ちてしまいこちらも「バカ」の域に入るからであろう。バカの言いには、無視するか取り合わないに越したことはない。何しろそいつはバカなのだから。
 ゆえに、菅官房長官の、どう思うか?と問われての対応は実に大人だと感心した。

 今日、小池新党・希望の党の衆院選での選挙公約が出たようだ。そして代表である都知事が、自党の経済政策について言わば「ユリノミクス」だと評して大真面目な顔で自賛していた。
 ニュースで小耳にしたとき、これはギャグだと思った。早くも失速感の目立つ希望の党が、ひとつギャグかまして息抜き的に一呼吸おくつもりかと考えた。で、笑おうと思ったが、その真顔を見ると笑うに笑えない。
 信じがたいが、不評かつ実体のない色褪せて来たアベノミクスに対して大真面目で「ユリノミクス」で対抗しようとしているようだ。呆れた。
 今回の総選挙、本番戦の前から次々と呆れ果て驚きすら覚える不祥事的事態や発言が各党で続出しているが、小池氏の希望の党は、ダントツで話題にこと欠かない。こんなんで、新党の支持が広がり保守二大政党制が実現できると思っているのだろうか。

 アベノミクスという言葉自体、元より空疎なギャグ的言辞なのである。自らの名をとって喧伝したけれど、実態も効果も疑問符がつく胡散臭い経済政策はもう安倍首相自身も昨今あまり口にしなくなってきているではないか。
 それを今さら、今になって、まともに向き合いそれに対抗して自らの名前をつけて「ユリノミクス」とは、ギャグならば最高だ。お茶目である。が、それが国民から今回の選挙で支持されると思ってならば、失笑すらもはやできやしない。最低の大バカだと我は思う。
 アベノミクスというバカの言いに対して、相手にせず否定しての経済政策ならばまだしも、その延長にあるものとして「ユリノミクス」だとすまして説明している。バカのバカ、バカがバカを相手にして大真面目だったのだ。

 そう言うお前はバカではないのか、何様のつもりかと我にご批判もあろう。そう、オレはバカであり、そのバカさはこれまでも拙ブログで繰り返しどれほどバカか、どんなバカなことをしたか何度でも書いてる。
 俺はバカだと自覚しそれを告知している。今度名刺をつくるときは、肩書に加えようとさえ思うほどだ。そう、オレはバカだと自分でわかってこれを書いている。バカだからバカについて今書くのだ。
 問題は、晋三も、そして小池都知事も自らはバカだとまったくもって思っていないことだ。特に、小池氏は、難解なカタカナ用語を日常的に政治の場どころか会見の場で都民や国民に対しても用いて、すまし顔である。これをバカでなくて何であろうか。バカこそ難解な用語を使いたがると、亡き山本夏彦翁はそう断じていた。
 特に百合子氏は、先に、アウフーベンという難解な、哲学用語の中でももっとも理解しがたいドイツ語を何度も会見で使っていた。意味を問われると「止揚」だとすまして言う。お分かりでない?辞書で引いてくださいと。

 我はかつてマルクスを少し学んだとき、ヘーゲルらが使ったこの言葉だけは何度説明されてもまったく理解できなかった。「止揚」という日本語だってきちんと意味がわかる日本人がどれほどいるのだろうか。まさにちんぷんかんぷん、難解中の難解なアウフーベンを哲学者たちとの会話ならばともかく、一般大衆に向けて話すのは、本当に理解に苦しむ。しかも彼女自身が意味をわかって正しく使っていると思えないと言う指摘も相次いでいる。
 つまり本人すらよくわかっていない超難解カタカナ語をすまして使うことは、要するに大衆に理解してもらおう、伝えようという意思がそもそもないのである。あるいは、自らはカイロ大を出て語学も堪能でエリートだと鼻にかけ、利口ぶって大衆を蔑視してのことかもしれない。
 ならばその一点だけでも彼女は政治家失格であろうし、実に高慢かつ無責任、自分勝手な人格がそれだけでも読み取れるはずだ。

 真に国民一人ひとりのことを思う政治家は、どんな低学歴の人に対してもわかるよう、平易な日本語で、誰にでもきちんとわかりやすく伝わるように言葉を選んで話すはずであろう。
 小池百合子はそれとは真逆で、あえてあまりなじみのないカタカナ語を次々やたら振りかざし、そこに何か深い意味があるかのように、自らは賢いかのように見せている。そしてそれが「効果的」だと思っている。 が、実のところ彼女自身は、「ユリノミクス」程度の人間であり、自分の愚かさ、バカさに思いも至らない。これがバカでなくて何であろうか。

 安倍晋三という男もどうしようもない幼児的性向の大バカだが、まだ感情の起伏が大きく弱さが見え隠れするだけ、人間味もある。小池百合子という女にはそうした人間味はまったく感じない。彼女は常に誰に対しても容赦なく鉄面皮で冷血漢だ。彼女ぐらい尊大で、傲慢なバカ女は日本の政治史上唯一無比ではないか。まさに鉄の女サッチャー日本版であろう。

 ついでに書くが、我はこの女、公示直前に都知事職を投げ出して衆院選に新党代表として出馬すると見ている。当人は何度も否定し固辞しているが、できたばかりの希望の党は民進からの「合流」騒動で早くも陰りが見え、この総選挙は躍進してもその後はじり貧となることは先が見えている。都議会の都民ファーストだって、党と都知事を批判して既に昨日二人の離党者が出始めた。
 ならば、女性初の総理大臣を目指す彼女は、国政新党を作った今こそ、このチャンスを逃せばこの先はないと、一世一代の賭けに出るだろう。
 
 彼女が出れば、思ったよりも期待が集まらない新党にもまた活気が戻り、自公政権の明確な対立軸となる。結果として、大勝できなくても、国会議員になっていれば、自社連立内閣時の村山政権、その後の細川新党のように、第一党でなくとも連立により総理の座が転がり込むかもしれない。
 どれほど権限があろうと一知事のままでは、一国の総理大臣にはなれないのだ。彼女の歳を考えればこの先、何年後なんて悠長なことは言っていられないはずだ。そう、早くも新党は息切れして賞味期限が切れそうだし。
 ただそのためには、都知事職の後を託す、都民誰もが納得するようなアッと驚くサプライズの「後継者」を立てなくてはならない。
 もうそれが決まっているかわからないが、彼女は公示直前ぎりぎりまで情勢をみつつ各種世論動向調査を見比べた上で、新党の代表として衆院選にまず出るだろうと我は予想している。
 そのとき、こう口にするだろう。アタシもまた国難を救うべく、天照大神(実はアッラーの神)の思し召しだと。

 そう、ユリノミクス・小池百合子とはこれほど大バカなのだ。初の女性都知事はもうやった。次は彼女の究極の目的、日本憲政史上初の女性総理大臣の座である。都知事のままでは総理にはなれない。そのためなら彼女は都知事の椅子は簡単に投げ出す。
 国民の皆さん、どうかバカに付き合わないでほしい。それは百合子も晋三も同様にだ。これ以上この国をバカの思い通りにしてはならない。

さあ、総選挙、だがその前に冬支度2017年10月07日 23時06分33秒

★老いた父がこの冬を無事こせるか、だ。

 間もなく総選挙、公示となるわけで、今あちこちに立候補者のポスター掲示板が立ち始めた。

 が、小池都知事が仕掛けた「新党」と民進党分裂などの大騒動で、早くも情勢は過熱かつ混沌としてきている。ある意味、こんなに本番前からあれこれ喧しいサプライズ続きの衆院選はなかったと思う。とにもかくにもこれで投票率が上がり、一人でも多くの有権者が各々の一票を無駄なく投ずれば、民意はそれなりに形づくられると信ずる。

 その先に何があるのか、どんな日本社会ができるかは、今考え案じて心配してもしょうがない。劇場型選挙とか、ポピュリズムと言われようとも国民一人一人が国政選挙に関心を持つのは良いことなのだから、その結果はどうあろうと我は受け容れるつもりでいる。
 
 さて、熱い政治状況とは違い、10月に入ったらこのところウチのほう、東京の多摩地方は急に寒くなって来てしまい、今大慌てで冬物衣類を探したり冬の布団を出して干したりと冬支度に追われている。
 しかし、母がもういないので、父と我の男同士、冬物がどこにしまってあるのかよくわからず、今さらながら困惑している。いったい毎年冬は何を着ていたのだろうか。
 が、考えてみれば、母が逝ったのは昨年の秋であり、もう既に一度寒期は迎えているのだ。では、母のいない冬も初めてのことではないはずだ。ならば昨年の冬は何を着、どう過ごしたのか、今思い出しているのだが、まったく何も記憶にない。
 考えてみれば、昨年の夏もいったいどうしていたのか、暑かったのか、どんな夏だったかもまったく記憶になかった。

 それは母が病み衰えて、一人で自宅介護していた我は、その世話だけで手いっぱいで、季節のことなど何も意識すらできなかった。それどころか、父もこの家にいたはずだが、ほとんど父の世話をした記憶は何もない。まだその頃は、さほど手がかからなかったのかとも思うが、まだショートステイも行ってなく、今よりもっと家にずっといたはずだと思うのに、母とのことしか思い出せない。
 そして当然、外のこと、季節の移ろいなど全く気がつかなかった。去年の夏は暑かったのだろうか。夏の記憶が何もないことに驚く。母相手に初夏から秋口までただずっと家の中にいたのだと思う。

 その母が9月初旬に、医師たちの見立てよりも早く急逝し、その後に秋が、そして冬も来たはずだが、年内は死後の後始末に追われて目が回る様に忙しく季節を顧る余裕はまったくなかった。いったい父の冬物や冬支度はどうしていたのだろう。
 年が明け、やがて春がまた訪れ、今年の夏も来、今に至るわけだが、高齢で弱って来た老犬の死を看取り、子猫たちが生まれたりと我が家は何やら犬猫たちが次々慌ただしく、ようやく今頃になって季節をきちんと意識できるようになってきたようだ。
 それにしても去年の冬はどうやって我は父と二人で一番大変な厳冬期を乗り越えたのであろう。冬物はどこから見つけ出したのか。父の世話はどうしていたのか。まだその頃はさほど手がかからなかったのか。

 一昨日あたりは肌寒いというレベルではなく気温が低くなって、それまでまだ夏のままの薄掛けの布団で寝かしていた父は、寒い寒いと騒ぎ出した。どうやら寒くて眠れなかったらしい。朝になり紙パンツ取り替えてもまた布団に潜り込んで起きてきやしない。
 慌てて冬用羽毛の掛蒲団や厚手の毛布を探し出し陽に干したり、下着も厚手のものを出して着せたりと大忙しだった。しかし冬用衣類はどこにしまってあるのか、まだ出てこない。我が片付けたのかも思い出せない。

 父も去年より一歳年とった分、またさらに弱り衰えてきていて、同居している我がきちんと管理していないと、すぐさま風邪をひいてしまうはずだ。
 何しろ体重も落ちて、かつて80キロ近くあった大男も今は50キロ台なのである。死の間際の母同様に骨と皮になってきている。
 一度肺炎でも起こし高熱出せば、体力もないので簡単に死んでしまうだろう。ふらついて転んでの骨折も怖れるが、やはり肺炎が年寄りにとっていちばん致死的だとされている。
 呆けのほうも悪化する一方で介護する側としては日々頭痛いが、いかに風邪などひかさず体調管理できるかがまず我に問われている。

 父の誕生日は10月21日。間もなくそれで93歳となる。まず母の命日まで、母亡きあとの一年先まで父を生かす目標はクリアした。そして93歳もクリアできるかと思う。
 ならば次は、まずはこの冬の年内、何とか風邪などひかさず、転んで入院することのないよう我はとことん気と目を配って、今年を乗り切り新たな正月が迎えられるよう父と頑張りたいと考えている。
 そんな風にして当面目先の、短い目標地点を立ててそれに向けてやっていくしかない。

 父は来年の夏までたぶん生きないと思う。いろいんな点で衰弱が進みもうかなり限界点に近づいて来ている。長生きを望めどいわば「老衰死」が見えてきている。
 季節の移ろい、四季の変化があるからこの国は素晴らしいと思うし、日本に生まれて北国などではなくこの地方に住んで良かったと心から思える。が、夏冬ごと気温の変化が激しいことは、その都度毎に多大な負担を身体に、住環境に強いられる。
 若い時はともかくも年寄りにはそれが辛く大変だ。93歳のよぼよぼの老人がこの冬をともかく乗り切れるかだ。まずはこの年内だ。その先のことは考えない。

この10月10日、何が起こるのか2017年10月08日 23時20分30秒

★日米北朝鮮、ともに重要な日に「嵐」が起きる?

 アメリカのトランプ大統領は、「たった一つのことだけが有効だ」と述べ先の「嵐の前の静けさだ」と合わせ、北朝鮮を、威嚇、挑発するかのような意味深な発言をしたと報じられている。
 一部メディアで不安視、予測されているように、この10日にアメリカは、北に対して何らかの軍事攻撃をするとの見方が広がっている。
 
 というのは、その10日こそ朝鮮労働党の創建記念日であり、同日米国時間9日は米国の祝日「コロンブス・デイ」とも重なり、対立反目する両国にとってとても意味ある重要な日であるからだ。
 その節目の日に、まず北が、また何らかの「挑発行為」としてミサイルなどを我が国上空を通過させて飛ばすことは大いに有り得ることだろう。
 そしてトランプ氏の発言もまた自国の「その日」に合わせて、アメリカが「攻撃」という最悪の選択肢を選ぶという意思表示とも見られる。

 そしてしかもこの日本は、先の衆院解散、総選挙を受け衆院選の公示日であり、総理自らが一候補者となって超慌ただしく実質的に安倍内閣、現政権は無いようなもので機能していない状況なのだ。
 北は、まずその総選挙公示日、我が国の危機管理体制が手薄になっているのを見計らい、そこを突くように必ずこの選挙期間中に必ずミサイル発射など何らかの軍事行動をとると我は見ている。何しろ、安倍氏曰く、「北の迫る脅威」こそはこの選挙の「争点」なのである。そう名指しで「挑発」してしまったならば、かの国が選挙戦の最中、じっとおとなしくしているわけがないではないか。あのロケットマン氏は日本を揺さぶる妄動を繰り返すかもしれない。
 こうした日本、米朝三国にとって大きな節目の10月10日、まず何も起こらないことを心から望むが、(都知事の出馬も含め)どんな嵐が吹くのか、ある程度心し覚悟もしておくべきかとも思う。

 そもそもそんな朝鮮労働党の記念日に合わせて衆院選の公示日を決めたこと自体が安倍政権の「脇の甘さ」ではないのか。彼らはまたもその日にミサイルを飛ばすことは容易に予測もされ、米朝の緊張はまた嫌でも高まることは間違いないではないか。
 そんな緊迫する状況のときに、自らの都合で大義なき解散を決めた安倍首相の判断は厳しく批判され弾劾に値すると考えるし、結果として今回の総選挙に大きな影響を及ぼすことは間違いない。
 
 規模の程度は予測しえないないが、何らかの軍事衝突が起きれば、希望の党、小池都知事は、これだから安倍政権に国政は任せられないと、「国難」を理由に知事職を辞して国政に出てくることだろう。
 そうした都知事出馬に向けて誰でも納得せざる得ない「口実」をつくってしまう10月10日が目前に迫っている。

 ともかく米朝の軍事衝突、戦争の発端となるような事態が起きないことをただ祈るしかない。この10日が無事に過ぎても気を緩め安心してはなるまい。今後も米朝は高まる緊張状態が続くことは間違いなく、その狭間で、アメリカトランプ政権を無条件で支持する安倍自公政権が続く限り我が国の「国難」も続いていく。

嵐も吹かず、風も起きず、だが・・・2017年10月10日 20時23分31秒

★大山鳴動ネズミ一匹?いや、これからこそが要注意

 今日は朝から晴れて気温が高く夏めいた。汗ばむほどの久々に暑さがぶりかえした。
 英語で言う、インディアンサマーには早いが、たまにはこうした暑いぐらいの日があったほうが有難く思える。このまま一日一日どんどん寒くなり一気に冬になるのではたまらない。

 先のブログで、今日この10日に「嵐」が吹く、何かが起きると記した。が、朝から今日は暑くなったものの一日静かで、起きた時から今日は「有事」はないな、と安堵した。
 ※トランプ氏の「恫喝」がある程度は北のロケットマン氏ら政権に効いたのかそれはわからない。いったんは引いてもまた予想外の行動に突然出るのが彼らの常とう手段だから。

 米軍横田基地に隣接して、飛び交う飛行機の直下に住んでいると、飛行機の飛ぶ回数で、何か「異変」が起きたかすぐわかる。やたら爆撃機などが慌ただしく次々飛来しまた飛び立つときは、世界のどこかで何か有事が起きたか、起きる寸前の緊張状態が発生したときであり、子供の頃、ベトナムへの「北爆」を知る身として、この地にいれば日本にいながら世界情勢はごくごく身近に、リアルに把握できている。
 北朝鮮が今日、党の記念日に合わせて、またミサイルなど飛ばそうとする「妄動」の動きがあれば、横田基地は終日騒がしいはずで、朝から暑くなったものの穏やかな秋の一日に終始したことは、そうした「有事」は起きないものと判断でき我はほっと安心した。

 そしてもう一つの嵐の目、小池都知事自らの希望の党代表として衆院選立候補のほうもなかったわけで、夕方5時の選管業務が終わるまで気にかかっていたが、ようやくその件は潰えた。
 失速があちこちのメディアで報じられている小池新党だが、だからこそ起死回生、体制立て直しのためには、彼女自身が立候補し、ガチンコで安倍晋三と闘うしかなかったわけで、それが消えた今、希望の党は政権を争うどころか、今現在の獲得予想議席を大きく減らすことは間違いない。
 我もそのことを喜び歓迎するが、この不出馬を、もっとも歓迎し安堵しているのは、自公の政権与党であり、なかでも小池氏と都議会でも友好関係にある公明党であろう。

 新党誕生時に比べこのところ支持率は下がってきても何だかんだ言われても話題の「小池劇場」の主役は都知事自身であり、彼女自らが選挙の表に立てば、また確実に「政権選択」選挙に持って行けたと我は見ていた。先の都議選を見るように、彼女はテレビ、マスコミを巧みに使い「風」を吹かすことができる女なのである。
 つまるところ、本来は、自公の与党対民進党・共産党らの「野党共闘」勢との明確な二極対決となる構図が、小池氏の突然の新党誕生と民進党分裂により、自公対希望・維新対立憲民主・共産の三極で争う図式となり、「野党」が分裂し対抗勢力が細かく分散してしまったのである。よって自公はそうした野党の騒動を横目に漁夫の利を得ることが明白になった。
 与党勢は、おそらく解散時よりも議席はいくらかは減らすだろうが、地方の小選挙区中心にまたも「圧勝」してしまう可能性も出て来た。
 我としては、小池新党が伸びたとしても自民と政策も理念も全く変わらない改憲と安保法制容認の右派の保守政党なのだから、マスコミが持て囃す新党ブームに大きな危惧を抱いていた。
 だから代表の不出馬により、この前原民進右派を取り込んだ新党は予想外に躍進せず、代わってその期待を受けた立憲民主党などのリベラル政党、共産や社民の左翼政党が伸びることに大きな期待を託している。彼ら「護憲派」が国会で増えれば、結果として自公や希望、維新らの改憲勢力が減ることに繋がる。

 ただ政治の世界はほんとうに先のことはまったくわからない。結果によっては、早くもまた年末に「政界再編」の騒動が起きると政治記者の多くは見ているようだし、安倍政権が続いたとしても、首班指名での際には、希望が小池氏と親しい石破氏を担ぐことも噂されている。
 小池都知事は、安倍政権の一強を崩すとか安倍政権は倒すとは言っているが、元々は自民党のヒトなので、自民とは政策に差がないのだから晋三さえ下ろせば簡単に連立組むつもりだろう。
 稀代の策士であり、政権欲の塊の彼女のことだから、今回の希望の党が思ったよりほど伸びなかったとしても、またさらに「次」を見据えてコマを進めているはずだ。

 希望の候補者の選挙区だけ見ても、まず公明党の候補が出るところは希望は立てないし、彼女と親しいその石破氏や野田聖子のところも同様の心遣いが見られる。友党維新とも同様であり、つまるところそうした保守人脈で安倍首相を引きずり下ろして「政権獲得」を目指そうとしているように思われる。そうした自公寄り姿勢が明白なのは、立憲民主が出るところにはしっかり対立候補を出していることからも読み取れよう。そう、真に与党を倒そうと願うならば複数の野党候補乱立を避けるべく自公を利さないよう、共産党のように野党共闘を考えずとも自候補を取り下げるべきではないのか。
 これを見れば、まさに希望の党は政権与党の補完勢力であり、安倍一強を倒すとは口では言ってはいるが、選挙戦が始まった今でも自民や公明に秋波を送っていることはすぐに読み取れる。

 繰り返すが、小池百合子は、今日の公示ぎりぎりまで都知事職を投げ出し自ら希望の党の代表として選挙戦を有利に導くため「出馬」を模索していたはずだ。が、都知事の椅子を捨てるに値する、誰もが納得させられる「大義」がみつからなかったことと、細野や若狭氏たちには任せられぬと自らが名乗り出、新党を立ち上げたところまでは良かったが、民進党との合流が批判受けて「排除」の論理からリベラル新党誕生に繋がるなど予想外の流れとなってしまい、国民の支持と期待が萎んでしまったことで、今回は断念したのだと思われる。

 先に記した我の「予想」は二つとも外れたわけだが、正直それで本当に良かったと思っている。
 我は昨年来、母も含めて大切な人たちを何人も喪った。若い頃は、良いことでも悪いことでさえも何か起こること、新しいこと、「変化」を歓迎し待ち望んできた。
 が、今は、そうしたいくつもの「死」を経験し、ともかく何も起きずに誰もが無事で平穏、平和に生きているのならば、それだけで良いではないか、歓迎すべきだと思うようになってきた。
 そう、何も起こらないことがまず有難い。今日と同じ平穏な明日がくることを望む。

 そう、終わりのとき、破滅の時は誰にでも必ずやってくる。平家でなければ人にあらずの如く我が世の春を謳歌していた安倍政権にもついに終わりときが来た。どれほど株価が上がり求人倍率が高くても、庶民の暮らしは楽にならず、過労死もなくならないのが「アベノミクス」の5年間だったのだ。
 自らのオトモダチを優遇し、政治を私物化し問題人物トランプ氏に取り入る安倍政治とは、歴代自民党がやってきた金持・大企業優遇、対米従属の究極の姿であった。

 希望の党の登場により野党が分裂した今、その自公政権をまたしても勝たせてしまえば、日本には未来はない。アメリカと一緒に軍事的圧力を駆け続ければ、かの国は「暴発」してしまう。
 そのとき、弾道ミサイルはまずどこを標的にするか。我がロケットマン氏ならば、首都東京にある司令部横田基地である。我はその隣町に住んでいる。

国民はまたも安倍政権を信任し「改憲」までも託すのか2017年10月12日 08時13分24秒

★あれだけの不祥事があっても「与党勝利」の予測報道に思う

 未来は若者のものである。若い人たちが自由に選びとるものだ。
 が、その選択が危険なものであったり、間違いなく過ちに繋がるものであるとしたら、年寄りは、老婆心、いや老爺心だと言われようとも彼らに意見せねばならない。たとえ煙たがられようともあえて口出すことこそが年寄りの務めだと信ずる。
 むろん我も若い頃はそんな「説教」はどこ吹く風で、まったく耳を貸さなかったわけで、無駄、徒労だと覚悟のうえで書く。

 衆院選が始まり、序盤の情勢が早くも各マスコミから発表された。その「状況分析」によると、自公与党は堅調で、過半数を既に確保、さらなる上積みが見込まれ、小池都知事率いる希望の党は失速低迷し、現有議席ほどに終わる。代わって立件民主党に支持が集まり、躍進が予想されそのあおりで野党共闘に積極的だった共産党は現有議席確保も難しいのだそうだ。
 あくまでも現時点での情勢であり、今月22日のじっさいの投票結果が同様となるかはわからないが、今はこうした事前予測の精度も高いので、その予測がこのまま現実となるかもしれない。

 やはり我が怖れ不安視していた事態が起きようとしている。つまるところ、民進党前原代表が仕掛けたクーデターは、野党共闘を破壊しその勢力を分散させて与党を利する目的を果たしたと言えよう。
 我の住む小選挙区を見ても、定数1のところに、公明は出ないが支援する自民前職候補、それに希望、そして共産、さらに立憲民主と四人も立っている。
 これでは、反自公の票は分散し希望の党に向かわないとしてもサヨク票も二分されてしまう。もっと選挙まで時間があれば、立憲と共産とで調整もはかれたかと思うが、突然の安倍ご都合解散に、前原クーデターによる民進解体分裂騒動で、この混乱で漁夫の利を得たのは希望ではなく政権与党だけだったのである。
 枝野氏による新たなリベラル政党が出来たのは誤算だったかもしれないが、何より野党共闘をご破算とさせ与党に支持が戻せたことは大きい。多くの国民が野党の大義なき離合集散騒動を見せられて、ならば大義なき解散に出た安倍晋三のほうがまだマシだと思うのも当然かもしれない。前原氏には殊勲賞が与えられ翼賛?新政権では歓待されることは間違いないだろう。

 マスコミ各社のさまざまな情勢調査で目を引くのは、若い世代、二十代、三十代の層に圧倒的に与党支持率が高いということだ。
 つまりそれだけ彼らが現政権に恩恵を被っているからだと想像できる。確かにひところよりはるかに景気は回復し、株価も上がって求人倍率も最高水準となっている。
 我が若い頃のように、「大学は出たけれど・・・」ろくに仕事がないという「不況」ははるか昔の話だ。今は、仕事さえ選ばなければ仕事は数多あるのである。
 そして物価も安いままだから、給料は低くても何とか生活もできる。正社員になれなくても過労死するほど働かされても今は好景気で、ともかく仕事はいくらでもあるのである。
 そうした「安定」を作り出したのは、安倍政権であり経済政策アベノミクスだと現政権は胸を張る。そして若者たちもじっさいそう信じて彼らを支持しているのだろう。離合集散を繰り返す野党に何ができるか、信じられないと。
 自公が政権を失うような事態となって政治が再び混乱すれば景気もまた失速してしまう。ならば、今回の選挙でも自公政権を信任するしかない。いろいろ不祥事も多々目立つようだが、何よりも景気、経済だけ見れば彼らを見捨てる理由はないと。

 しかし、そうだとしてもそれは喫緊の今の話であって、「その先」に何が待っているかも考えねばならないはずだ。政治とは「経済」だけの話ではない。社会保障と安全保障、そしてそれらの根源の「憲法」も争点ならばよくよく検討せねばなるまい。
 今はこの国は安定し平和を謳歌している。が、周辺地域、東アジア情勢は緊迫の度を高めている。日本の上空をミサイルが飛び交うような好景気はまやかしであろう。

 ならばそうした無法国家は、先制攻撃で「排除」すれば良いのであろうか。武力で平和が作れると考える人たちも多々いよう。特に若い人たちは、戦争というものの現実を知らないだけでなく想像もできやしない。時代劇の中の侍のように、カッコいい大昔の美化されたイメージしかないのではないか。
 それはある意味当然だとも思える。かつての「戦争を知らない子供たち」が祖父母となってしまえば、またさらに戦争は遠く大昔のはなしとなる。戦争を知らない世代のまたその下の世代は、とうぜん「反戦・護憲」など鼻であざ笑う。
 晋三の提案のように、九条に自衛隊を書き加えることだって抵抗はないのだろう。「平和憲法」が何でできたのかと考えたことすらないはずだ。右派系雑誌が説くように、一方的に、アメリカに押し付けられたものだと信じ込まされている。そしてならば今の対米隷属の外交こそ同様に問題とせねばならないはずだが、そっちはなぜか不問で、憲法だけが押し付けられたから良くないと言うのである。米軍基地は押し付けられても日本の安全保障を考えれば有難い話なのであろうか。だから沖縄はどれほど戦闘機が墜落しても我慢させられるのか。

 自衛隊が合憲だとか違憲だとか我はもうどうでも良いと考えている。それよりも評価すべきは、彼らはこれまで戦闘で一人も死なず一人も殺さなかったことだけを高く評価したい。
 そしてこれからもそうした災害救助に特化した組織であってほしいと望むが、集団的自衛権の行使容認に加え安保法をはじめさまざまな憲法違反の法律もできてしまい、さらにそうした状況を後から補強すべく改憲がなれば、日本は堂々と海外に出て積極的に戦争に参加していく。
 あるいは結果として日本も攻撃されるかもしれない。それは核戦争となろう。そのとき、そうした道は誰が切り開いたのか、どこが歴史の分岐点となったか後世の歴史家は問うことであろう。
 それは今このとき、この衆院選だと我は考えている。経済だけで安倍政権を信任し様々な疑惑や不祥事すらも不問としてしまえば、日本の真の繁栄はありえない。何故なら平和こそがまず第一で、国民の命と安全が保障されてこその話だからだ。ならば日本の首相は武力攻撃すらも選択肢とする危険な米大統領を無条件に支持してはないらないはずではないか。

 恒久平和を謳い戦力の保持を放棄し、国際的紛争は武力では解決しないと宣言した憲法は今や風前の危機である。そんなのは机上の空論、言辞に則してないとよく言う人がいる。が、理想主義のなにが 悪いのか。そして「理想」がない「現実」にどれだけの価値があると言うのか。理想とは真の希望であり、それがあるから人は辛い現実を受け容れられるのではないのか。

 その先に来るのは何か、どんな時代が来るか。戦争を知らないまたさらに次の世代の人たちに、今こそもう一度よく考えて投票に臨んでほしいとただただ願う。

声に出すこと、出し続けていくことだと2017年10月13日 12時29分05秒

★誰も耳を傾けないからこそ、「真理」を訴え続けていく

 一昨日からずっと「世界の終わり」、破滅を前にして我は何をすべきか、何ができることかずっと考え続けている。
 
 今日、拙宅がある横田基地周辺は、昨日の沖縄高江での米軍大型ヘリコプタ―墜落炎上事件がどう影響したか定かではないが、終日プロペラ機やヘリコプターがやたら多く飛び交い騒がしく騒音でうるさかった。

 それにしても寒い。昨日は、汗ばむほどの30度近くの真夏の陽気で、雨の今日は一転して15度もなく、晩秋というか初冬の気温となった。寒暖の差、15度。身体だけでなく頭まで何かおかしくなりそうで、悪しき結果の選挙予測報道もあったことで、気持ちは落ち込み、暗澹たる気分で陰々滅滅、一昨日からろくに眠れず頭の芯が鈍く痛くふらふらで昨日は体調も最悪であった。
 で、このブログも思うところあって、またしばらく休止しようかと考えもしたが、書いたことへの有難いコメントも今日頂き、我の中で「答え」も出たので、ともかく書き続けていこうと気を取り直した。

 これは以前から気づいていたことだが、当ブログで、政治のことを書くとアクセス数が減り、ランキングが下がる。
 元よりそんな人気順位は関係なく全く気にせずに始めて今に続けているわけだが、開始当初は、百位に入ることもまずなく、続けているうちに近年それがしだいに百位前後に上がってきて、いつしかじょじょに読み手も増えて来たのかなあと思っていた。
 それが最近では、常時70台前後となって、最高位は何について書いたか失念したが、45位ということもあった。ちょっと怖くなるほど自分でもびっくりした。

 お分かりのように、拙ブログは、読み手からのコメントは他のそれより極端に少ない。だから書き手としては、書いてもそれがどれほどの人に読まれているのか、どんな反応があったのかまったくわからない。
 ある意味、無人島で一人で瓶に手紙を詰めて海へと流しているようなもので、それがどこか誰かに届くかその確証がない。
 しかし、元々書くのが好きで書きたくて書いているのだから、別に誰にも読まれなくても反響がなくても別にかまわないのである。書くのは我のサガ、業のようなものであり、誰かのためとか商売でやってはいない。しいて言えば、我が心の内を吐き出すことで、我の澱み溜まった心の浄化作用のためだと言えなくもない。ただ、それでも外に出すからには一定の節度とレベルがないと自慰行為のようなものでしかないわけで、これでもそれが拙くとも「芸」になっているかは気をつけている。

 そう、書くからには全く読み手を意識していないということでは全然なく、誰に読まれるかわからないからこそ、その不特定多数の顔も知らない誰かのために、その人に届くようにこれでもできるだわかりやすく真面目に書いている(つもりだ)。

 で、日々書き更新してもほとんど読み手からのコメントはないが故、その「手ごたえ」は更新のつど表示されるランキングの順位だけで、最近は60位台、70台が常となってきていたので、やはり長くやっているとコメントなどはなくとも知らない誰か多くの方に読まれるようになってきたのだなあと、それが励みになってきていた。
 一生懸命書いたときに順位が上がっていると正直言ってウレシイのであった。つまるところそのことは多くの人の関心をひき読んでもらえたことの証だと思えたから。
 こんな男でも誰かに「認証」されたい願望はあり、やはり書いたからには批判も含めて多くの人に読んでもらいたいと願うのである。

 それが、このところ衆院選のことを書き出すようになってから、60位台前半から70位台へと下がり、それが今週半ばは80台になったかと思っていたら、昨日13日は、一気に141位と大幅に暴落してしまった。
 このところ日々今年最高の株価を更新し上がり続けている東京の株価指数は今日、ついに2万1千円の高値をつけた。21年ぶりのことだという。我がこのブログで日々せっせと安倍政治を批判し、その愚をつき、日本の破滅を説いているのと反比例するように、アベノミクスは成果を示しているのである。
 我のブログは彼らを批判する政治のことを書くごとに順位は下がり続け反比例するかのように株価は、総選挙、自公政権堅調の報に連れて日々上がり続けていく。
 さすがに打ちのめされた。我の書いたことが間違っているとは毫も思わない。が、誰にも読まれないということこそ、この国が「破滅」へと向かっているこれまた証ではないのか。ならばいくら書いても無駄なのかもしれないと弱気にもなった。

 しかし、今は違う。誰にも届かないからこそ、誰も耳を傾けてくれないからこそ声を上げねばならないはずだし、書き続けなくてはならないのではないか。
 それはうただって同じで、たくさんの人に聴かれヒットした歌は常に良い歌だとは限らないだろう。ヒットしなかった誰も知らない歌だって良い歌は沢山あるのは我は知っているし、うたの価値は聴き手の多寡とは関係ない。
 同様に、読み手が少ないからといって書くのをやめたり、読み手が増えそうなこと、関心引きそうなことを考えて書くのは敗北であり卑劣だろう。
 大事なことは、誰でも、どんなことであろうと心の内に、外に出したい、伝えたい思いがあるのならば、それは常に外に出していかねばならぬということだ。つぶやくことだっていい。唄うことだって同じだろう。
 そうして聴き手がいなかろうと読み手がなかろうと、常に声に出すこと、書くこと、出し続けていくことが肝要なのだ。
 極端、大袈裟に言えば、誰も耳を傾けないからこそ、「真理」を訴え続けていかねばならないのである。何故なら、皆(大多数)が信じて当たり前だと思っていることは絶対的に正しいとは限らないからだ。
 鼠のレミングの大移動のように、皆で向かうその先が断崖絶壁となっていて、誰かが止めないと皆全員が海に飛び込んでしまうかもしれないからだ。

 我が書くこと、言っていることが「真理」と書いたが、今の我はそう信ずるがそれがその通りだなんてわからないし絶対正しいなんて自分でも思わない。
 ただ、当たり前のこと、世間の常識とは異なるかもしれないが、まっとうなことを我流に言っているつもりだ。日本国憲法と聖書に書いてある事を思うまま解釈してただ記している。それはJ・レノンも宮沢賢治も言っていることだと思う。我はそれを世の「真理」だと思っている。

 ならば誰も耳を傾けてくれなくとも、拙ブログでランキングがどれほど下がろうとも我は書き続けていく。そしてそれをときに歌い続けていく。
 それはきっと届く人には届く。そして届かない人にもそうした「異端」の者がいたこと、言っていたことはきっと心の隅には残り、もしかしたらいつの日かあの男の言ってことはこれかと、思い出してもらえる日が来るかもしれない。

 世界が終わりに、破滅に向かおうとしているとき、なにをすべきか、何ができるか。その答えはもうわかった。
 ともかくまず声に出すこと、そして声に出し続けていくことだと自らに言い含めた。誰にも届かなくてもかまわない。もしかした世界で一人でも誰かが読んでくれてその人に届けばそれでいい。

※追記すればこれ↑を記した10/14日付けのランキングは166位と出て、またまたさらに下がりこれは当ブログ開設の頃に戻った。ごくごく少数の方だけが今これを読まれているのである。ならばこそ、ここからまた再スタートだと誓うしかない。

どんな苦境でもできること、成すべきことがきっとある。2017年10月14日 22時26分07秒

★だから絶望しない、諦めない。
 
 誰も読まなくなったこのブログ、だからこそ更新していく。
 心が挫けそうになる、いや、心は押し潰れそうだ、が、こうしたとき、いつも思うのは、アウシュビッツ、ナチスの収容所の中で自ら死を申し出たコルベ神父のことだ。
 強制収容所から脱走した者が出たため、見せしめとして10人の囚人たちがランダムに餓死刑に選ばれた。そのとき、妻子がいるので死にたくない!と叫ぶ男の代わりに、日本とも縁の深いコルベ神父は、ぜひ彼の代わりに私を、と名乗り出た。
 そして他の人たちと共に何日も地下牢に閉じ込められて絶食ののち、最後は薬物を注射させられ死んだとされている。しかし、彼と共に死に向かわされた皆は、神父が傍らに共にいたもあり騒ぎ苦しむことなく皆平穏のうちに心静かに、神に祈りを捧げまさに安楽死できたとされる。
 その神父の死に方、いや、生き方は、収容所の所長であったルドルフ・ヘスのその後の人生にも大きく影響したはずだと我は信ずる。
 ならば出口のないナチスの収容所の中でさえも人はできることがあり、世界を変えられるのだ。

 今多くの、まっとうな政治と当たり前の暮らし、人生を望む人たちが悩み迷い苦しんでいると思う。我もまたその一人だ。果たして今度の選挙できちんと正しく民意が反映されるのであろうか。

 が、どんな悲惨な悪しき結果が起きようとも、受け容れはしても認めてはならない。認めるということはそれを肯定するということだ。
 それこそ、自らのこれまでの人生をも否定してしまうということだ。民進党から希望の党へと、踏み絵を踏んで理念を180度変えてしまった者たちはこれからもまたその都度いくらでも変節を繰り返すだろう。
 つまるところ彼らには何もないし何も残らない。その人生は虚しい。何もない。通り過ぎる風のようなものだ。

 人はどんなでときでもどんな状況に陥ってもできることがあるしすべきことがある。それこそがその人が人としての意味をなすことではないか。

 我は我の成すべきこと、信ずることをこれからも死ぬまで続けていく。
 誰も聴き手がいないとしてもうたは、歌い手がいる限り存在し続けるのだから。思いあらば、最後のときまでその思いを語り続けよ。