父93歳の誕生日に2017年10月21日 09時56分50秒

★記憶喪失と混乱と人格崩壊と

 今日も冷たい雨がかなり激しく降り続いている。これから大きな台風が本土を目指して来週にかけて襲来とのことである。
 日本の将来を大きく左右する総選挙の投票日が台風によって脅かされ有権者の出足も鈍るのもまた天の意思、配剤なのであろうか。不安とさまざまな思いで心中穏やかでない日が続いている。

 今日10.21は我が父の誕生日でもある。大正13年の生まれとなっているので、今日で93歳になるはずだ。
 昨秋、60年近く連れ添ってきた妻、つまり我の母を先に喪くし、今は一人息子である我と男同士二人暮らしで、ついに93歳になったのだ。実に長く生きて来たと改めて感慨深く思える。と言っても気がついたらここまで長く生きていて、いつの間にか93歳になったということだけの話なのだが。しかし考えればもう百歳も指呼の間なのだ。我は絶対にそんなに長くは生きないという自信がある。

 先ほど雨の中、ショートステイの迎えの車に乗せて送り出した。
 誕生日だからといって息子と二人だけで祝っても意味はない。が、来週半ばには、九州から我が妹が上京してくるので親子三人、久しぶりに水入らずで数日だが過ごせるはずだ。その週は、デイサービスに行くのもお休みにした。

 すべてのことは見ると聞くでは大違いで、実際に体験してみないとわからないものだとつくづく思う。
 老いた人を介護する話は、本やテレビでこれまでもさんざん知っているつもりだった。認知症なる病気、その症状も知識では知り、イメージも持っていた。
 が、実際にその人と、共に暮らしてみてしかもその進行に常に接していると、認知症と称される事態、人が老いて死に行くこと、その最後の姿はこういうことなのかと日々驚き呆れ果てるばかりでいる。

 母の場合は進行性の癌で、最後は本当にほとんど何も食べられなくなり痩せ衰えまさに骨と皮になって衰弱死したようなものだが、それでも最後のそのときまで意識はしっかりあり「水を飲みたい」と息子に指示もして死んだ。
 シンドイとは訴えていたが、癌による強い痛みもあまりなかったようでモルヒネなど用いなかったこともあって、意識も朦朧とならず、呆けることなど一切なくその人生を終えた。

 母のその母、つまり我の祖母も老いて寝たきりとなっても頭は一点の曇りもない人で、常々「呆ける人の気が知れない」とまで毒舌を穿いていたほど気丈な人であった。
 が、我が父の場合は、90歳になる頃までは、多少トンチンカンなことはあったものの、まあ「正気」で、パーキンソンなどからのメマイやふらつきはあっても、日常生活には何も支障なく、母と二人で元気に杖も使わずスタスタ歩けて犬の散歩にすら普通に行けていた。

 それが、一昨年、母の癌が再発し、身体の不調も出てきてその対処に追われ、我は母のことに頭も手もいっぱいとなっていて、父のことはほったらかしに、ややネグレクトしていたのがいけなかったのか、母の体調悪化と並行するように、父も誤嚥性肺炎を起こし入院、さらに院内でベッドから落下し骨折、三か月のさらに入院が伸び、父も一気に心身共に衰えてしまったのだ。
 長期にわたる入院生活で、呆けは一気に進み、足腰の機能も衰え歩けなくなってしまったわけだが、今思い返すと、その以前、まだ元気だった頃から突発的なボケ症状はあった。

 日帰りのデイサービスから帰ってきて、父はいったん昼寝して起きた。そしたら時間の感覚が狂ってしまい、夜の7時と朝の7時と勘違いして、しかもデイに行った日なのに行ったことすら忘れて、その日の朝だと思い込み、これからデイサービスに行かねばと、大慌てで一人で支度して荷物まとめて迎えを待っていたことがあった。
 我もちょうど母の介護の最中であったからか、父のそんな騒ぎに呆れ果てて相手にせず、諫めることなくほったらかしにしていたら、結局その日は小雨も降っていたと記憶するが、彼は外に出て、何で迎えが来ないんだ?、オカシイオカシイと混乱していた。我が、朝ならば何でこんなに外は真っ暗なんだ?と言っても、夜だと気がつかない。ただオカシイ、変だと騒ぎ立てている。
 このときは、確かその施設に自ら電話かけて、向うの人に、今は夜で、もう今日は来て帰りましたよ、と諭されてようやくカンチガイに彼は思い至った。
 思い返せば、元気な頃でもこうした突然の記憶喪失、時間認識の混乱、奇矯な行動はあったのだ。それでも後になれば自らその誤りに気がつき、状況を理解でき、ワシもどうかしてた、呆けたなあと省みることもできていた。
 その頃はこうしたことがあってもまだ人には笑い話として話すこともできたのである。それがいつしか日常化、常態化してくると・・・

 父は、昨年春、肺炎で入院中で大腿骨を骨折して、その時点でもう高齢のため、このまま寝たきりとなり、呆けも進むだろうから、家には戻らずこのまま特養に移る手続きを奨められた。
 が、骨折の手術も成功し、7月頭には退院して家に戻り、以後リハビリ施設に通い、当初の車椅子生活から、年末の頃には杖を使えば一人でも自立歩行ができるまで「奇跡的」回復した。
 が、それは身体のほうは、であって、オツムの方は母の死の痛手もあってか、認知症、物忘れはさらに進みだし、突然、今まで行ってた介護施設のことが、何もかもまったく記憶から消えてわからなくなるなどパニックを起こし騒ぐことも多くなってきた。

 さらに尾籠な話だが、下の方も緩みっぱなしで、退院後は自ら紙パンツと中にもう一枚入れる紙の吸収パッドを愛用していたのだが、このところは昼間も夜も常時垂れ流し状態となり、それが当初は尿だけだったのが、大便も漏らしたのも本人は自覚がなくなり、寝ればまた敷布団、下のマットまで毎晩濡らす小便の世界地図を描くようになり介護する我は日々洗濯と後始末に追われ心底閉口するようになってきた。
 汚い話だが、我が気づかず父自ら処理しようとすると、結果として糞便をあちこちになすりつけたり散らすので、事態はさらに惨憺たるものとなる。暑い季節は、父の暮らしている裏の部屋は、公衆便所のような臭いがして鼻が曲がるほどだった。

 つまるところ、誤嚥性肺炎になるほど吞みこみも悪く食べられなくなり、そして骨折後一人で歩けなくなり、さらに呆けが進んで何もわからなくなる、記憶が続かなくなる。これが歳をとるということの実相だとつくづく思い知らされた。むろんこの世代でも頑健で頭も体も正気を保っている人もいるかとも思うが、知る限り我が一族中では、男でこれほど長生きした者はいなく、こうした事態はまさに「想定外」であった。
 そう、まさか年下である母のほうが先に死に、残された我一人でこの大男の面倒を見る羽目となるとは。

 そうして順調に老いて心身が衰弱して来た父は今年の夏、突然の高血圧で不調を訴え、頭痛と吐き気に見舞われた。
 慌ててかかり付けの立川の総合病院へ、救急外来で朝一で連れて行った。レントゲン他いろいろ検査もした。もうこれで即入院、そしてそのまま家には戻れないかもと覚悟もしたが、血圧がバカ高いだけで特に異常はないと帰され、数日家で寝込んだぐらいで幸い大したことなくこのときは回復した。

 が、それ以降、何故か突然歩けなくなり、骨折、退院後は一度は回復して、看護師に付き添われながらならば、杖つきながら自力歩行でふらつきつつもこの町内程度は歩けたのが、もう室内を手すりに掴まりながらかろうじて移動できる程度に衰えてしまった。
 何日間か寝込んで筋肉が落ちたからかと我は当初思って、何とかまたリハビリすれば戻るかと思っていた。
 しかし先だってその父を連れて山梨へ行って来て、その考えが甘いこと、事態はさらに深刻化していることを思い知った。

 いくら支えて手を引こうとともかく歩けないのである。それは筋肉とかの問題ではなく重心のバランスが狂い足を動かそうとする神経系統の伝達に問題が起きてしまっていて、どうやら先の頭痛と高血圧は、脳内でレントゲンには映らない脳梗塞のようなものが起きたことを窺わさせた。
 毎週ウチに訪問してくれる看護師も同意見で、右の足が上がらなくなり力が入らなくなっている、よって前のように歩くことができなくなった理由も見えて来た。

 そして今は、朝方などはもうベッドから自力では起きられず、我が抱えて抱き起してトイレに連れて行き紙パンツを確認し取り替えたり排便があるときはお尻を拭いてやっている。
 一人だとそのまま床に崩れ落ちて立ち上がれず「イザリ」のように這いまわるしかない。そんなでこのところ寒さも相まって我は持病の腰痛もぶり返して苦しい思いでいた。
 そこにときに人格崩壊、発狂したとしか思えない奇矯な行動や発言も飛び出しなにもわからなくなってしまう。叱りつけたりベッド連れて行こうと無理に抑えつければ暴れたり子供のように甲高い声できゃきゃー騒ぐのである。繰り返し書いたが、父が家にいる時は気が休まらないし、寝かしつけるまではまず何一つ自分のこと等できやしない。そしてショートステイに送り出した日は、束の間の自由となるけれど、その初日は疲れがどっと出てひたすら眠り続け休息をとっている。
 もうこんな状態にまで「老衰」が、そう、まさに老いて衰弱が全てに進んでしまえば、この家では暮らせないし、まして介護するのは息子である初老の我一人なのだ。どう考えても無理で限界がある。

 ただ唯一の問題は、そんなにオカシクなってしまった父でも、正気の時は、まだはっきりとした意思も意見も彼なりの考えもあり、喜怒哀楽の感情がある。
 彼の意向、願いは、最後の日までこの家で(息子はともかく)
猫たちと暮らしたいということであり、それだけは絶対にぶれず、よって特養などの施設や介護病院などに入るのは絶対にイヤだ、死んだ方がマシ!なのだと強く言い張るのである。このままだと息子のほうが先に死ぬぞ!と怒鳴りつけても。
 おそらく今、無理やり父の意思に反して我が勝手にそういう手続きしこの家から出そうとしたら彼は狂ったように暴れるだろうし、職員たちが連れて行っても当人が納得しない限りはショックと環境変化で何も食べなくなり早晩失意から自死的に死んでしまうかもしれない。それだけは忍び難いし、極道の我でもさすればきっと夢見が悪い。

 家計の面でも頭痛めるばかりだ。我はそんなで仕事に出ていないし、父の乏しい年金内でやりくりしないとならないのだが、介護保険料も上がり、通っている二か所のデイサービスの利用料だけで毎月10万近くにもなる。それは食事代は一割負担にはならず実費だから、今利用している一つの施設では、一泊二日で利用するとそれで一万二千円もかかってしまう。毎月の年金だけではどうにも赤字で、仕方なく母の遺した僅かな保険金や家の貯金、それに我がかつて商売で稼いだ我の少ない預金を取り崩して何とか生活している。
 ウチには証券もないしどれほど株価が連日上がろうとアベノミクスの恩恵は何一つない。安倍自公政権が続く限り、保険料、医療費は上がり続け高齢者、年金生活者はますます困窮の度を深めていく。

 いったいどうしたら良いのかとこのところ真夜中に目が覚めては亡き友が口癖のように口にしていた「暗澹たる気持ち」になっている。
 ここまで長生きしたことは目出たい、良いことであるはずなのに、政治が、父の人生もだが、それについて行かない。ときに早く死んでくれと願うことすら正直あることを告白する。

 近く我の唯一の兄妹、九州の農家に嫁いで今は介護施設で働いている妹が父の誕生日もあって上京してくる。わずか数日だが、妹と今後のことについて相談に語り明かし痛飲するつもりだ。彼女は我よりもはるかに酒が強い女だから。

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