「家族」がいるという心安さと有難さよ2017年10月26日 22時01分53秒

★九州から妹が来て思ったこと

 私事を書く。一昨日から我の妹が父の誕生日に合わせて帰省していた。二泊三日の滞在で慌ただしく今日の午後帰って行った。
 我は、兄妹はたった二人であり、父が亡くなれば、血を分けた肉親はこの妹ただ一人となる。
 同じ親たちから生まれたといっても性も歳も違い昔も今もあまり仲の良い、親しい付き合いはなかった妹であるが、肉親として今回ほど来てくれて本当に有難く思えたことはなかった。そのことについて書きたい。

 我は結婚していないので、そもそも「家族」というのは、実家の両親とこの妹との「子」としての家族関係しか知らない。※幼い頃は祖父母も健在でさらに父の妹、弟も同居していた大家族であったが。
 たいていの人は大人になれば、結婚し子もつくり、また新たに「親」としての家族を築いていく。つまり生涯、二度立場の異なる家族関係を体験することになるはずだ。
 それが当たり前だとは思わないが、母を喪った今、やはり自分以外の家族がいることは素晴らしく良いことだと今さらながら思う。
 家庭生活の仕方は人様々であり、一人で暮らしていくというライフスタイルもあろうが、一人家族とは言わない。家族とは文字の如く、複数形のものであって、我のように老いた父と暮らしていれば、たった二人の暮らしでもそれは「家族」だと言えよう。
 しかし老いた父と初老の息子=我との二人暮らしは、我にしても父にとっても互いにものすごくしんどいものなのだと今回妹が来てくれて気づかされた。
 我家は元々は、父と母と我と妹との四人家族であった。だが、妹は、学生時代から家を出て、就職してわりと早く結婚してしまい、ダンナの実家である大分県に旅立ってしまった。
 我も一時は実家を出たこともあったけれど、きちんと就職せず遊びほうけてろくに収入もなかったこともあり、親の老いと共に実家暮らしに戻ってしまい、もうこの四半世紀は、幼少の頃より暮らしているこの家で、老親との三人暮らし、つまり三人家族が続いていた。
 そして昨年9月に母を癌で喪い、父との二人家族となったわけだが、父が老いても健常ならばともかく、要介護3レベルの認知症かつ歩行困難、食べるのも下の世話も常に介助が必要となると、我の負担の度合いは増大し心身共に疲弊はマックスにまで達してきていた。二人暮らしはもう限界ぎりぎりであった。妹が今回来てくれて、そのことを今さらながら認識した。
 母が生きていたときも、最後の数か月は癌が進行し寝たきりとなってしまい、今と同じく父の世話まで家のことはすべて我が一人で担当していたわけだ。が、母が何もできなくなってもまだ意識は死ぬ日迄はっきりしていたから、父とのことで困ったときや、トラブったときも何につけ母に話し相談もできた。悩みや苦しいことも母にこぼせば解消できた。どんな状態になっても母がここにいてくれるだけで我が家は相変わらず三人家族であった。

 母がいなくなって父の二人暮らし、家族は二人になってしまい、剣呑狷介な男同士二人が互いに一対一で向き合うことになるとどこにも逃げ場がなくなった。喧嘩のような状態になっても仲に入って諫める者は誰もいない。ともかく手のかかる面倒な父と終日くらしていると、気の休まるときはなく、父を殺してこの家に火をつけて我も自殺しようと何度も考えた。
 そうした屈託と鬱屈を抱えて母の死から我慢の一年が何とか過ぎ、唯一の肉親である妹がほぼ一年ぶりに実家に帰省して来た。母の納骨のとき以来である。

 一昨日の妹が来た日、遅い昼食は親子三人で食事に出向き、回転寿司、夕飯は、妹が栗ご飯をつくってくれた。その晩は、父を寝かしつけた後、二人で遅くまであれこれ話してかなり吞んだ。
 昨日は早朝から我は本回収の仕事があり、2、3時間しか眠れずしんどかったが、それでも妹と二人で、午前中は母の遺した衣服の整理をした。
 母が死んで一年が過ぎても、母のものは何一つ我一人では処分できず、母の衣類などは手つかずのまま山積みであったのだ。が、誰も着る者もいないし、女物は我は良し悪しもわからず分別できないので、まずは妹に判断を仰ごうと思ってそのままにしてあった。
 生前、あちこちのバザーなどに出向いては中古衣類をやたら買いあさった母の衣類はボーダイな量であり、とても今回はその一部しか分別処理できなかったが、それでもゴミ袋の大袋で、まず四つ袋詰めできた。我が家はほんの少しだけ風通しが良くなった。※それでも母が生前好んで着ていたという見れば母を思い出す服はどうしても捨てられなかった。妹はぽかすか拘りなく何でも捨てたがったが。

 その日の夕方は、ケアマネと11月から父が新たにショートで通うことになる介護施設の担当者も来て、妹も交えてカンファレンスがあり、父の今後についても相談した。
 そして今日は、朝食後、まず今度施設に出す何種もの契約書類など妹が全部書き込んでくれた。その間、我は晴れたこともあり、溜まりに溜まった洗濯ものをひたすら洗っては、妹が干してくれた。そして午後、妹に和菓子などの詰め合わせをおみやげに持たせて、一時半頃駅まで車で送って彼女は羽田へ、九州へと戻って行った。そう、もう今は、妹にとってはこの家で暮らしていた時間よりも嫁ぎ先での生活が長いのである。彼女にとっての家も家族も今はもう九州なのだった。

 妹が来たからといって、ウチのことは全部任せられるわけではない。料理にしろ何がどこにあるのか手順も何もわからないし、父の世話だって一切合切お任せして我は楽できるわけではない。
 しかし、彼女がいるだけで、我は実に安逸な気分に、ゆったりした心休まる安心した気持ちになれた。こんな気分は久方ぶりであった。いかに父との二人暮らしが重圧であったかはっきりわかった。常に緊張と不安が我に圧し掛かっていたのだ。
 夕方の時間、毎度の注文本の梱包、発送に追われているときも、我一人だと、父がいるときは、下の部屋の父のことが気にかかって何か落ち着かない。それが妹が来ていて、下の部屋で父と一緒にいるだけで、我は心静かに作業に専念できた。

 そしてこの二日間、父の下の世話も妹に手順を全部教えたので、今朝がたは、我が起きたときは既に、もう彼女が紙パンツを交換してくれ父の着替えまで済ませてくれていて実に助かった。我以外に、家族が誰かいればこうして「分担」して父の世話も任せられるのだとつくづく思った。
 我と父以外にもう一人家族がいること、それだけでこんなに心安らかになれるのかと深く思い知った今回の妹の上京だった。
 妹のおかげで、我はリフレッシュできた。妹がいるときの安逸な気分は母がまだ元気に生きていたとき以来だ。そして今思う。家族とは、三人の単位から始まるものなのだと。一対一の二人暮らしでは、それは家族とは呼べないのだ。
 
 父は間もなく死ぬだろう。この家に残る我一人での暮らしは淋しく辛いものになることは間違いない。孤独に苦しむだろう。しかし、我一人ならば、自分のペースで、自分のことだけやれば良い。今のような父との二人暮らしの「軋轢」、常に父のことを考えねばならぬ緊張と不安に始終囚われることはもうないのだ。

コメント

_ トムロ ― 2017/10/27 10時35分20秒

 所感
 「老々介護」の典型ですね
。私も最後は母を見取りました。それより7年前に父親が肺炎で3日で死去しました。
 両者とも私自身が「介護と福祉、医療」の現場を渡り歩いたりケースワーカーをしていたため「現場のウソ」は大体わかります。
 一つは福祉、医療、教育ほど金がものをいう世界はなく、ここ20年で「民間活力導入」の叫び以降顕著になっています。
金のない奴は要は自分のおむつは自分で変えろという事なのでしょうな。
 私に場合父は3日で肺炎をこじらせ死亡したのですが最後酸素吸入度が75%に落ちました。その時医師は「どうしますか」と必ず聞いてきます。要するに「安楽死」の勧めなのですよ。75%とというのは肺にほとんど酸素が言っていないという事です。私は生前の父親から聞いている通り「おねがいします」と答えました。すると医者は「ホット」したようなかをして事務的にシュミレーターのスイッチを切ります。
 わたしのいえは3兄弟で私が長男でさらに医療経験があるため弟たちは「合意」してくれました。
 母親は5年前に肺に水がたまるガンで(名前は忘れた)ある日突然電話で「はあはあ」言いながら話してきたので「変だと」思い急いで実家へいき「入院」させました結果は「ガン」であり「余命半年から3か月」と医師に言われました。
 病名は知らせず本人は「家に帰りたい」というもので帰宅させ私が面倒を見ることになりました。弟たちは仕事や気力の面で全く当てにできず。また介護経験もないことから「兄貴頼む」という事になりベットの横に布団を引いて24時間常時介護の体制を取りました。昼夜の逆転も出てきました。
 私自身が定年退職して再雇用しなかったことカミさんを当てにしなかったこと(カミさんは食事係にさせ夜間は完全に別室で寝起きさせ直接かかわらせなかったこと、障害者の娘には言い含め問題があればこの実家に連絡を入れることで皆了解させました)
 母親の様態を見ていると正直言って「あまり長くはないな」と思い入院中の病院でのカンファレンスも私の職歴を話すと急に和やかになり医者も「おためごかし」を言わず正直な見解を言い出します。
 思ったより病気の進行が早くなる、3か月は持たない、認知症が急激に出る。最後は緊急搬送で病院で引き取る。その間は在宅にて入院に準じた医療体制を取る。
 その間御子息は死亡するにあたってのそれまでどのような死に方がいいのか本人未だ意識がはっきりしている間「本人確認」をしてくれ、それが条件付けだという事ですべて了解しました。入院中のベット拘束はやむを得ないとことらから同意しました。
 向こうは「親族に医療関係者がいると非常に助かる」なんて言ってましたが。弟たちにもこの条件で飲ませました。本人たちはこの場合何もできないのでね。まあこれがかいつまんで言う我が家の介護記録ですが、母は忌の際呼吸が苦しく在宅で「モルヒネ」を大量投与しましたがそれでも収まりつつ自己の対応と自分に対する仕打ちを恨みつつ苦しみながら「死んで」いきました。最後は苦しくて苦しくて「モルヒネ」をひったくるようにして服薬していました。映画に出てくる「シャブ中毒患者」のようですたね。緊急搬送したときはすでに意識混濁状態でした。入院後3日くらいで途中でシュミレーターの機械を止めたという事です。以上話飛びましたが。

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