イラクの今を知るライブイベントが12日午後に~河辺のW・サルーンにて ― 2017年11月02日 22時43分51秒
老々介護の行きつく先は ― 2017年11月04日 20時57分13秒
★慌ただしい一週間の報告を
先月10月はやたら雨ばかり降り続き、おまけに急に寒くなり木枯らし一号まで早くも吹き荒れた。このまま曇天模様が続き秋らしい秋がないまま一気に冬になってしまうのかと案じられたが、11月に入ってからは晴れて穏やかな秋本番と思える爽やかな日がやっと続くようになった。
昨日の3日、文化の日は、陽射しも強く外にいると熱射病になるかと思うほど暑くて、我は国会前に行っていて卒倒しそうだった。
今日も朝から晴れたものの湿度は低く、吹く風はひんやりとしてまさに爽快な秋日和であった。
一年で一番好きな季節、望む気候はこの季節の今であり、諸般の事情で心身疲れ果てた我にも誰かが、「まだ生きていていいんだよ」と諭してくれているように慰安とも思えた。このところずっとできずに溜まっていた洗濯ものを一気に洗って庭先に干した。
が、午後からしだいに曇りがちとなってきたかと思うと、夕方5時頃、強い北西からの木枯らしのような突風が吹き、ザーと一瞬また雨が降った。慌てて洗濯もの取り込んだが、今日は湿度も低かったのでほぼみな乾いていた。
その夕立のような通り雨もすぐに上がり、今は風もなく秋の夜は静かにふけていく。雨の後はまたさらに寒くなり、夜からは薪ストーブを炊いている。
久々にブログを書く。11月も今日で4日、週末となってしまった。慌ただしい一週間だった。
今、我が父は、ショートでお泊りに行ってくれて不在で、我は家に一人、ようやく落ち着いた気分で机に向かっている。どうやら熱も出ず施設で落ち着いてくれているようだ。
父が風邪なのか軽い肺炎なのかわからないが、またこのところ熱が出、まず先週の土曜日から二泊三日の予定でお泊りに行ったデイサービスから、熱出したので、と日曜の午前に連絡があり、すぐに帰されてきてしまった。施設でも家でも38度ちょっとあった。
そして月、火と家でともかく安静にさせたら、熱もしだいに下がったので、不安もあったものの今月から別の施設に変えて新規通うことになったデイサービスへ、水~木と一泊で行ってもらい、幸いにして父は無事に戻ってきた。
が、その間、息子である我のほうが、1日の水曜の夜から父の風邪が伝染ったものか、それとも食あたりでもしたのか、何度も吐いて体調を崩し寝込んでしまった。
父の看病しながら確かに何か風邪っぽい感じはしていた。1日の夜、父もいないのでウイスキーのお湯割り呑みながらブログ書き出したら、頭痛が激しくなり起きてられずアップもできずに早々に布団に入った。
しかし、横になったものの今度は胃がもたれムカムカして気持ち悪くて、どうにも寝付かれず、吐き気がして仕方なく起きてトイレで吐いた。
普通は吐いて胃の中のものを出してしまえば、スッキリして楽になるものだが、何故か今回は、吐いてからまた横になってもムカムカは収まらず、しだいにまた気持ち悪くなり、慌てて起きだしてはまた吐き、そんなことを5回繰り返して、胃の中のものなどほとんど何もなく胃液だけしか出ないのに吐き気だけは続き心底疲れ果てた。
最後は下痢もし身体の中のものを全て外に出してからようやく落ち着いて眠りにつけた。が、最初は寒くてなかなか眠れず夜着の他にもう一枚着込んで何とか寝た。もう明け方近かったかと思う。
父はいないのだから、そのまま父が戻る夕方までゆっくり眠っていたかったが、朝八時頃になるといつも通り外で犬が鳴き、散歩を求めて騒ぎ出したので、仕方なくフラフラ状態だったが、ごく簡単に散歩済ませて、それからまた寝直した。それからはようやく深く熟睡もでき、昼過ぎに起きたら体調は回復していた。
夢も見て、起きる直前の夢の中では亡き母が久々に出て来た。いつも夢の中で会う母は、癌で痩せ衰えた姿ではなく、元気な頃、健康な姿が多いのだが、何故か晩年の、寝たきりとなる直前の痩せてきた頃、それでもまだ自力で歩いて病院通いしていた頃の姿で、しかも出かけるときの格好をしていて、何か不安そうな面持ちで、立って我のほうを見ていた。何か言いたそうであったが、そこで夢は覚めた。
夢の中では泣かなかったが、起きて今見た母の出てきた夢を反芻し、ああ、母は我らのことをあの世でも心配しているのだなあと、思ったら涙が出て来てしばらく止まらなかった。
吐き気が止まらず、何回もひたすら吐いたことで、食中毒かとも考えた。父の方は大丈夫なのかと案じられた。というのも我は、その吐いた晩は遅くに、父が前日朝に食べ残したサンドイッチの残りを食べてから吐いたので、もしそれが原因ならば父もまた同様かもと心配した。施設で吐いたりまた熱出していないか。
幸い父は何ともなくその二日の木曜の夕方、無事に帰ってきてくれてほっとした。しかし、その晩は、我も体調すぐれず、まだ一日何も食べる気にもなれず、風邪のような症状もあり何とか父に晩飯だけつくって食べさせ早く寝かしつけ、我も早々に床に就いた。
そして昨日、11月3日、文化の日。体調は元に戻ったわけではなかったが、憲法公布の日に合わせて国会を取り囲む集会があり、我は当日朝まで参加を迷っていたが、体調もすぐれないまま朝から大慌てで父に朝食つくって摂らせて、我は出かける支度して11時半には家を出た。
というのは、当日、開会前1時からのプレコンサートに出られる中川五郎氏に11/23の「共謀コンサート」のチラシを手渡そうと思いつき、やはり今のような情勢だからこそ、一人でも参加者として行かねばと「やむにやまれず護憲魂」でかけつけたのだ。※この集会の報告は別掲で。
集会は猛暑となったこともあり、体調ももう一つの我は疲れて午後3時草々に国会前を後にして、ついでに別件で人と会い渡す用事もあり、九段下まで出、一時間ほど話して大急ぎで家に戻った。家に残して来た父のことも心配だったから。
午後6時過ぎ帰ってこれたが、案の定、父は昼用に食べるように言って出しておいたドラヤキ類は一切手つかずのまま、何も食べず飲まずでコタツでぼんやりしていた。訊けば、一日寝ていたと言う。
で、少しして熱を測ってみると、38度台と高い。またか!である。我が出かけたのがいけなかったのか。
そして夕飯の柔らかく煮たうどんも熱のせいか食べるのもしんどそうで、叱咤激励し何とか食べさせてから寝る支度しベッドに寝かしつけ眠ったのを確認してから我もまた倒れ込むように寝た。無理して出かけたこともあったが、まだ自らの体調も戻らぬまま病人の世話をしないとならないのが本当にしんどかった。
母はもう夢に出てこなかったが、眠るまであれこれ考えてしまった。
よく老夫婦二人暮らしとか、老姉妹で暮らしていて、二人とも姿が見えないと近所の人たちが思っていたら、二人して室内で死んでいたという事件がたまにある。
つまり病弱だったり高齢だったりの「病人」を介護している側もまた高齢であり、病弱だったりすると、介護する側が倒れ臥してしまえば、介護される側も何もできないが故、誰かに助けを求める通報すらできず、二人とも死んでしまうのである。
父は90過ぎ、息子である我も還暦となれば、これもまた老老介護であり、我がもし突然倒れて動けなくなったり意識がなくなれば、父は果たして我を助けるため何かしてくれるだろうか。父はできるだろうか。
最悪の場合、父も転倒し骨折、助けを求めても起き上がれず、息子も高熱などで寝込んでしまえば、親子そろって誰にも助けてもらえずに気づかれず二人して死後発見というケースも考えられる。
今回も、父も熱出して容態が案じられるとき、息子も体調崩して寝込んでしまい、二人して危ういところであった。ああ、こういう事態を案じて母はあの世から心配して夢に出てきたんだなあと嘆息するしかなかった。
父は今日土曜から、またデイサービスのショートで一泊のお泊りの予定であった。昨晩は、またしても38度台の発熱があり、薬飲ませてすぐに寝かせたが、お休みして病院に連れて行くかとも考えていた。
が、今朝は幸いにして平熱に下がっていて、本人も行けるというので、また向うで熱が上がって帰される可能性も高かったが、ともかく送り出した。今日は一日、いつ携帯が鳴りその介護施設から連絡あるかとびくびくしていた。
幸いにして、父は今のところ熱も上がらず体調も落ち着いているようなので、お泊りしてくれるようだ。で、こうして久々にブログを書いている。明日は無事何事もなく帰って来ると思いたい。
先のことはわからない。あれこれどうしたら良いものかと悩んでも仕方ない。ともかく日々健康に留意してやっていくしかない。これは愚痴ではなく、事実をありのまま書いた。
ただ、長生きすればするぶん、共に暮らす者共々さらに老いて、介護の負担はさらに増えていくことだけは間違いない。
長生きは、お目出度い、有難いことではある。が、生かすも殺すも介護する側の状況、体調次第なのだと今さらながら思い知った。
年寄りと暮らすこと、そして介護する我が身も老いていくとはこういうことだったのだ。
先月10月はやたら雨ばかり降り続き、おまけに急に寒くなり木枯らし一号まで早くも吹き荒れた。このまま曇天模様が続き秋らしい秋がないまま一気に冬になってしまうのかと案じられたが、11月に入ってからは晴れて穏やかな秋本番と思える爽やかな日がやっと続くようになった。
昨日の3日、文化の日は、陽射しも強く外にいると熱射病になるかと思うほど暑くて、我は国会前に行っていて卒倒しそうだった。
今日も朝から晴れたものの湿度は低く、吹く風はひんやりとしてまさに爽快な秋日和であった。
一年で一番好きな季節、望む気候はこの季節の今であり、諸般の事情で心身疲れ果てた我にも誰かが、「まだ生きていていいんだよ」と諭してくれているように慰安とも思えた。このところずっとできずに溜まっていた洗濯ものを一気に洗って庭先に干した。
が、午後からしだいに曇りがちとなってきたかと思うと、夕方5時頃、強い北西からの木枯らしのような突風が吹き、ザーと一瞬また雨が降った。慌てて洗濯もの取り込んだが、今日は湿度も低かったのでほぼみな乾いていた。
その夕立のような通り雨もすぐに上がり、今は風もなく秋の夜は静かにふけていく。雨の後はまたさらに寒くなり、夜からは薪ストーブを炊いている。
久々にブログを書く。11月も今日で4日、週末となってしまった。慌ただしい一週間だった。
今、我が父は、ショートでお泊りに行ってくれて不在で、我は家に一人、ようやく落ち着いた気分で机に向かっている。どうやら熱も出ず施設で落ち着いてくれているようだ。
父が風邪なのか軽い肺炎なのかわからないが、またこのところ熱が出、まず先週の土曜日から二泊三日の予定でお泊りに行ったデイサービスから、熱出したので、と日曜の午前に連絡があり、すぐに帰されてきてしまった。施設でも家でも38度ちょっとあった。
そして月、火と家でともかく安静にさせたら、熱もしだいに下がったので、不安もあったものの今月から別の施設に変えて新規通うことになったデイサービスへ、水~木と一泊で行ってもらい、幸いにして父は無事に戻ってきた。
が、その間、息子である我のほうが、1日の水曜の夜から父の風邪が伝染ったものか、それとも食あたりでもしたのか、何度も吐いて体調を崩し寝込んでしまった。
父の看病しながら確かに何か風邪っぽい感じはしていた。1日の夜、父もいないのでウイスキーのお湯割り呑みながらブログ書き出したら、頭痛が激しくなり起きてられずアップもできずに早々に布団に入った。
しかし、横になったものの今度は胃がもたれムカムカして気持ち悪くて、どうにも寝付かれず、吐き気がして仕方なく起きてトイレで吐いた。
普通は吐いて胃の中のものを出してしまえば、スッキリして楽になるものだが、何故か今回は、吐いてからまた横になってもムカムカは収まらず、しだいにまた気持ち悪くなり、慌てて起きだしてはまた吐き、そんなことを5回繰り返して、胃の中のものなどほとんど何もなく胃液だけしか出ないのに吐き気だけは続き心底疲れ果てた。
最後は下痢もし身体の中のものを全て外に出してからようやく落ち着いて眠りにつけた。が、最初は寒くてなかなか眠れず夜着の他にもう一枚着込んで何とか寝た。もう明け方近かったかと思う。
父はいないのだから、そのまま父が戻る夕方までゆっくり眠っていたかったが、朝八時頃になるといつも通り外で犬が鳴き、散歩を求めて騒ぎ出したので、仕方なくフラフラ状態だったが、ごく簡単に散歩済ませて、それからまた寝直した。それからはようやく深く熟睡もでき、昼過ぎに起きたら体調は回復していた。
夢も見て、起きる直前の夢の中では亡き母が久々に出て来た。いつも夢の中で会う母は、癌で痩せ衰えた姿ではなく、元気な頃、健康な姿が多いのだが、何故か晩年の、寝たきりとなる直前の痩せてきた頃、それでもまだ自力で歩いて病院通いしていた頃の姿で、しかも出かけるときの格好をしていて、何か不安そうな面持ちで、立って我のほうを見ていた。何か言いたそうであったが、そこで夢は覚めた。
夢の中では泣かなかったが、起きて今見た母の出てきた夢を反芻し、ああ、母は我らのことをあの世でも心配しているのだなあと、思ったら涙が出て来てしばらく止まらなかった。
吐き気が止まらず、何回もひたすら吐いたことで、食中毒かとも考えた。父の方は大丈夫なのかと案じられた。というのも我は、その吐いた晩は遅くに、父が前日朝に食べ残したサンドイッチの残りを食べてから吐いたので、もしそれが原因ならば父もまた同様かもと心配した。施設で吐いたりまた熱出していないか。
幸い父は何ともなくその二日の木曜の夕方、無事に帰ってきてくれてほっとした。しかし、その晩は、我も体調すぐれず、まだ一日何も食べる気にもなれず、風邪のような症状もあり何とか父に晩飯だけつくって食べさせ早く寝かしつけ、我も早々に床に就いた。
そして昨日、11月3日、文化の日。体調は元に戻ったわけではなかったが、憲法公布の日に合わせて国会を取り囲む集会があり、我は当日朝まで参加を迷っていたが、体調もすぐれないまま朝から大慌てで父に朝食つくって摂らせて、我は出かける支度して11時半には家を出た。
というのは、当日、開会前1時からのプレコンサートに出られる中川五郎氏に11/23の「共謀コンサート」のチラシを手渡そうと思いつき、やはり今のような情勢だからこそ、一人でも参加者として行かねばと「やむにやまれず護憲魂」でかけつけたのだ。※この集会の報告は別掲で。
集会は猛暑となったこともあり、体調ももう一つの我は疲れて午後3時草々に国会前を後にして、ついでに別件で人と会い渡す用事もあり、九段下まで出、一時間ほど話して大急ぎで家に戻った。家に残して来た父のことも心配だったから。
午後6時過ぎ帰ってこれたが、案の定、父は昼用に食べるように言って出しておいたドラヤキ類は一切手つかずのまま、何も食べず飲まずでコタツでぼんやりしていた。訊けば、一日寝ていたと言う。
で、少しして熱を測ってみると、38度台と高い。またか!である。我が出かけたのがいけなかったのか。
そして夕飯の柔らかく煮たうどんも熱のせいか食べるのもしんどそうで、叱咤激励し何とか食べさせてから寝る支度しベッドに寝かしつけ眠ったのを確認してから我もまた倒れ込むように寝た。無理して出かけたこともあったが、まだ自らの体調も戻らぬまま病人の世話をしないとならないのが本当にしんどかった。
母はもう夢に出てこなかったが、眠るまであれこれ考えてしまった。
よく老夫婦二人暮らしとか、老姉妹で暮らしていて、二人とも姿が見えないと近所の人たちが思っていたら、二人して室内で死んでいたという事件がたまにある。
つまり病弱だったり高齢だったりの「病人」を介護している側もまた高齢であり、病弱だったりすると、介護する側が倒れ臥してしまえば、介護される側も何もできないが故、誰かに助けを求める通報すらできず、二人とも死んでしまうのである。
父は90過ぎ、息子である我も還暦となれば、これもまた老老介護であり、我がもし突然倒れて動けなくなったり意識がなくなれば、父は果たして我を助けるため何かしてくれるだろうか。父はできるだろうか。
最悪の場合、父も転倒し骨折、助けを求めても起き上がれず、息子も高熱などで寝込んでしまえば、親子そろって誰にも助けてもらえずに気づかれず二人して死後発見というケースも考えられる。
今回も、父も熱出して容態が案じられるとき、息子も体調崩して寝込んでしまい、二人して危ういところであった。ああ、こういう事態を案じて母はあの世から心配して夢に出てきたんだなあと嘆息するしかなかった。
父は今日土曜から、またデイサービスのショートで一泊のお泊りの予定であった。昨晩は、またしても38度台の発熱があり、薬飲ませてすぐに寝かせたが、お休みして病院に連れて行くかとも考えていた。
が、今朝は幸いにして平熱に下がっていて、本人も行けるというので、また向うで熱が上がって帰される可能性も高かったが、ともかく送り出した。今日は一日、いつ携帯が鳴りその介護施設から連絡あるかとびくびくしていた。
幸いにして、父は今のところ熱も上がらず体調も落ち着いているようなので、お泊りしてくれるようだ。で、こうして久々にブログを書いている。明日は無事何事もなく帰って来ると思いたい。
先のことはわからない。あれこれどうしたら良いものかと悩んでも仕方ない。ともかく日々健康に留意してやっていくしかない。これは愚痴ではなく、事実をありのまま書いた。
ただ、長生きすればするぶん、共に暮らす者共々さらに老いて、介護の負担はさらに増えていくことだけは間違いない。
長生きは、お目出度い、有難いことではある。が、生かすも殺すも介護する側の状況、体調次第なのだと今さらながら思い知った。
年寄りと暮らすこと、そして介護する我が身も老いていくとはこういうことだったのだ。
NO!トランプと言える国、ただ歓迎する国 ― 2017年11月07日 23時42分08秒
★シンゾーもドナルドもうんざり、静かな夜を返せ、だ。
この数日、米軍横田基地周辺はともかく騒がしかった。
基地の周りは、辺野古もかくやと思えるほどものものしい警備と検問が敷かれ、基地上空は、ひっきりなしにヘリコプターやプロペラ機が飛び交い、夜などサーチライトを下に向け、地上を照らすまでして警戒するなど、トランプ大統領初来日で、我の住む基地の街はとんだ騒動に見舞われた。
そのトランプ氏は、横田基地に専用機で降りたち、また横田から韓国へ向かったとのことだが、日本では歓迎ムード一色で、反トランプの抗議活動などあったとしても一切報じられないのに、隣国ではかなり激しい「NO!トランプ」を訴える抗議集会があったと先ほどテレビで報じられていた。
大統領自らが、北朝鮮のトップを名指し「狂人」とか「ロケットマン」と罵り挑発するトランプの外交姿勢は、いたずらに緊張を高めるだけであり、じっさいにもし軍事衝突が起きた場合、まっさきに攻撃される当事者・韓国の民衆としては、とてもトランプを歓迎する気にはなれないのももっともかと思える。
ならば、韓国同様、地続きでないにせよこの日本も最も近い「隣国」として、アメリカ本土よりもはるかに直接の紛争当事国となるはずなのに、相も変わらず軍事的圧力をかけ「攻撃」すら排除しないトランプ氏を全面的に支持すると宣う安倍晋三とこの国の民衆はとことんノンキというか、お気楽な状況認識だと言わざるえない。
株価は記録的に上がり続け、東京五輪も三年後に迫り、「好景気」にわくこの国は、軍事衝突なんて絶対起こるはずもないと官民挙げて「安全神話」を信じているのであろう。
もし起きたとしてもアメリカがこの国を守ってくれるはずだと。
人は、常にモノゴトは明るい面しか見ようとしないし、危険なことや嫌なことはそもそも考えようともしない。先のことをあれこれ考えて不安になるよりは、何事も絶対「安全安心」と思ってたほうが、人生は楽しいし前向きになれる。
が、現実は現実のはなしとして、韓国民衆が抱く「不安」のように、いつまた軍事衝突が起こり、全面的国家間の紛争、戦争へと発展していくかもしれない。かつて「平和ボケ」と日本人を揶揄する言葉があったが、今の日本人こそこの実感なき好景気と平和がいつまでも続くと信じ込んでいるのではないか。
北朝鮮にせよ、中国にせよ、一たび有事が起きても日本にはアメリカという後ろ盾があるから安心、何も心配いらないと考えて果たして良いのだろうか。アメリカファースト、何よりまず自国優先を標榜するトランプ氏が、本国アメリカからは遠い極東まで駆けつけて日本を守り助けてくれると真に受けて考えて良いのだろうか。
逆に、この国は、アメリカ本土に対しての防御、防波堤としての役割でしかなく、軍事的衝突、紛争はあくまでも極東でだけで止めたいと考えてもおかしくない。日本にとって沖縄が捨て石だったように、アメリカにとって日本は極東の安定のための捨て石かもしれない。
そもそも日米軍事同盟は対等な関係のものかどうか考えてみればわかる。日米地位協定だって対等のものではない。アメリカに命じられれば何でも唯唯諾諾従うが、それはアメリカは「ボス」であり、日本は子分だからで、どこの世界でも上司は部下を常に守ってくれるとは限らないではないか。
ならば軍事衝突、戦争に繋がるような危険な挑発、瀬戸際外交に日本こそ紛争当事国になるからと警鐘を鳴らし、トランプ氏に強く抗議すべきではなかったか。北の繰り返す挑発行為に、真っ向から目くじら立て、さらにまた挑発し煽り立てるトランプ大統領。これが口喧嘩レベルで留まっていれば良いが、やがて行きつく先は、どちらか先はわからないが軍事行動となっては全てが遅い。
国民性の違いもあろうかと思うが、トランプ大統領を歓迎しない意向も示す韓国民衆の方が我には真っ当に思えた。軍事衝突は起きないにこしたことはないが、真剣に考えもしない今の日本人はとことんお気楽、脳天気だと言わざるえない。
この数日、米軍横田基地周辺はともかく騒がしかった。
基地の周りは、辺野古もかくやと思えるほどものものしい警備と検問が敷かれ、基地上空は、ひっきりなしにヘリコプターやプロペラ機が飛び交い、夜などサーチライトを下に向け、地上を照らすまでして警戒するなど、トランプ大統領初来日で、我の住む基地の街はとんだ騒動に見舞われた。
そのトランプ氏は、横田基地に専用機で降りたち、また横田から韓国へ向かったとのことだが、日本では歓迎ムード一色で、反トランプの抗議活動などあったとしても一切報じられないのに、隣国ではかなり激しい「NO!トランプ」を訴える抗議集会があったと先ほどテレビで報じられていた。
大統領自らが、北朝鮮のトップを名指し「狂人」とか「ロケットマン」と罵り挑発するトランプの外交姿勢は、いたずらに緊張を高めるだけであり、じっさいにもし軍事衝突が起きた場合、まっさきに攻撃される当事者・韓国の民衆としては、とてもトランプを歓迎する気にはなれないのももっともかと思える。
ならば、韓国同様、地続きでないにせよこの日本も最も近い「隣国」として、アメリカ本土よりもはるかに直接の紛争当事国となるはずなのに、相も変わらず軍事的圧力をかけ「攻撃」すら排除しないトランプ氏を全面的に支持すると宣う安倍晋三とこの国の民衆はとことんノンキというか、お気楽な状況認識だと言わざるえない。
株価は記録的に上がり続け、東京五輪も三年後に迫り、「好景気」にわくこの国は、軍事衝突なんて絶対起こるはずもないと官民挙げて「安全神話」を信じているのであろう。
もし起きたとしてもアメリカがこの国を守ってくれるはずだと。
人は、常にモノゴトは明るい面しか見ようとしないし、危険なことや嫌なことはそもそも考えようともしない。先のことをあれこれ考えて不安になるよりは、何事も絶対「安全安心」と思ってたほうが、人生は楽しいし前向きになれる。
が、現実は現実のはなしとして、韓国民衆が抱く「不安」のように、いつまた軍事衝突が起こり、全面的国家間の紛争、戦争へと発展していくかもしれない。かつて「平和ボケ」と日本人を揶揄する言葉があったが、今の日本人こそこの実感なき好景気と平和がいつまでも続くと信じ込んでいるのではないか。
北朝鮮にせよ、中国にせよ、一たび有事が起きても日本にはアメリカという後ろ盾があるから安心、何も心配いらないと考えて果たして良いのだろうか。アメリカファースト、何よりまず自国優先を標榜するトランプ氏が、本国アメリカからは遠い極東まで駆けつけて日本を守り助けてくれると真に受けて考えて良いのだろうか。
逆に、この国は、アメリカ本土に対しての防御、防波堤としての役割でしかなく、軍事的衝突、紛争はあくまでも極東でだけで止めたいと考えてもおかしくない。日本にとって沖縄が捨て石だったように、アメリカにとって日本は極東の安定のための捨て石かもしれない。
そもそも日米軍事同盟は対等な関係のものかどうか考えてみればわかる。日米地位協定だって対等のものではない。アメリカに命じられれば何でも唯唯諾諾従うが、それはアメリカは「ボス」であり、日本は子分だからで、どこの世界でも上司は部下を常に守ってくれるとは限らないではないか。
ならば軍事衝突、戦争に繋がるような危険な挑発、瀬戸際外交に日本こそ紛争当事国になるからと警鐘を鳴らし、トランプ氏に強く抗議すべきではなかったか。北の繰り返す挑発行為に、真っ向から目くじら立て、さらにまた挑発し煽り立てるトランプ大統領。これが口喧嘩レベルで留まっていれば良いが、やがて行きつく先は、どちらか先はわからないが軍事行動となっては全てが遅い。
国民性の違いもあろうかと思うが、トランプ大統領を歓迎しない意向も示す韓国民衆の方が我には真っ当に思えた。軍事衝突は起きないにこしたことはないが、真剣に考えもしない今の日本人はとことんお気楽、脳天気だと言わざるえない。
男の一人暮らしの行く末は・・・ ― 2017年11月09日 21時47分13秒
★落葉の季節に思う
今日は朝から雲一つない快晴で、爽やかな秋の一日だった。
が、午後からはまた木枯らしが吹き荒れて寒くなった。日毎に気温も下がってきて、早くも庭のケヤキの落葉が始まった。また落葉の始末に頭痛める季節がやってきた。
どんな時代になろうと、何が起きようと季節だけは毎年春夏秋冬繰り返す。拙宅は、狭い庭にも関わらず、一本のイチョウの大木と、ケヤキの高木があるので、毎年晩秋になると落葉の始末に大わらわとなる。
若い頃、愛読した橋本治のエッセイに、一戸建てとアパートやマンションの生活の違いについてふれてあった。マンションなどでは、生活とは室内だけで済むものが、戸建てとなると庭も含めて「外」までも含まれるとあって、そのとき我は子供だったから、ふ~む、そういうものかとただ読み流してしまったが、今、つくづくその通りだと得心する。
そう、マンションやアパートでの自らの敷地、管理せねばならないのは、当然のようにドアを開けて入る「室内」だけだ。建物の入り口や通路などは共有・共用費等は払うのだろうが、掃除などしないで済む。
が、ウチのように一軒家だと、管理すべき部分は、室内のみならず、まず庭は当然であり、ついでに庭先の道路までも含まれる。
つまり、我家の植栽の枝や落葉が、庭先、つまり家の前の道路に散らばれば、ウチが片付けねばならないし、ほったらかしにすればご近所様が許してくれない。必ず非難叱責を受けるし、ご近所の庭先にまでウチの木々から落葉が飛べば、皆さん文句言いながら早朝から掃き清めるに大忙しとなる。※いっそ住宅地にある、そんな大木など切られる運命にあるべき、という論議は今はさておく。
我のように、老いて手のかかる父親を抱えて、一人で家事から介護全般せねばならぬ身だと、正直、庭先までとても手が回らない。室内だってもう何がどこにあるのかしっちゃかめっちゃか、散乱し何も片付かないゴミ屋敷と化してしまっているのに、とても庭までも維持管理なんてできやしない。
母が元気で生きていた頃は、鉢植えに花を植えたり、伸びた植栽はこまめに剪定したりと、花好き、植木好きの母はやっていたが、今は水やりだって忘れることが常で、ずいぶん枯らしてしまった。
我はもともと花や植木の類、植物などには関心なく、父がいなくなれば、もっと庭仕事に精出そうという気もなく、せいぜい親たちが遺した植栽は、形見として処分せずに残せたらとだけ願うしだいだ。
ただ、一人暮らしの我もやがてもっと老いて、手入れというほどのこともできなくなれば、木々はさらに鬱蒼としてくるだろうし、室内の山積したガラクタ類も悩みの種だが、庭もまた大きな「負の遺産」となってくることだろう。
これからの落葉の季節、またご近所の婆さんたちの罵声と怒声を覚悟しながら、こまめに時間あれば必死に庭だけでなく庭先の道路を早朝から掃いて落葉をかき集めなくてはならない。例年のことながら憂鬱きわまりない。
以前は、我家は親子三人でその「処理」にあたっていたのだ。今は、あの世に旅立った母と動けなくなってしまった父の分まで、我一人で担当せねばならない。そして季節が繰り返すたびそれは続いていく。
と、ここまでは長い「前書き」で、本意のことはここからとなる。
今、我が家のある住宅地の一角は、戦後、復員してきたり東京に出て来た人たち、新たに家庭を築きベビーブームをあてこんで、昭和20年代後半から30年代にかけて山林原野?を切り開いて分譲されたものだ。元々は今も福生で代々酒造りをやっている大地主の土地だった。
一区画ほぼ50坪程度で切り売りして、そこに、我が親たちの世代が土地を求めて来て、新たに家を建て、子育てを始めたのだ。だから昔は、ご近所の子供達は皆同世代、同級生ばかりであった。
それが、約半世紀が過ぎ、代も変わり、今も我のように親の家にずっと住み続けている「子」もいるが、ずいぶん住人の顔ぶれも変わってしまった。そして最近目立つのは空き地と空き家である。
今、この町内では二軒、つい先日まであった民家が壊されて更地となってその家のあった敷地は黒い土をさらしている。「売り地」と幟も出ているところもあるので、やがてそこに分割して二軒新築が建ち、また若い子育て世代が住み着くかもしれない。
さておき、気にかかるのは、その空き地となった場所にあった家に住んでいた人である。
どちらも一人暮らしの男性だったと思うが、一人は子や孫もあったはずの老人で、子たちは一緒に住んでなくずっと一人だったようだ。認知症だと誰かから以前に聞いた記憶はあるし、亡くなったと聞かないからおそらく特養のような施設に入れられて不在となり、古い家でもあったので、家人が壊してしまったのだろう。そこに戻って子どもたちが家を新築するのか、それとも土地を売却したのか知るところではない。
もう一軒は、確か我とほぼ同世代の独身中年男が一人で暮らしていた家で、母から聞いた記憶に間違いなければ、その家の親たちは相次いで亡くなり、息子が一人暮らししていたと思われる。我も同様だが、平日でもよく犬の散歩で見かけたので、勤め人ではなかったようだ。あるいは親の遺産のようなもので生活していたのかもしれない。
けっきょく、その古い家ごと土地を売り払い、彼はどこかの安いマンションにでも移ったのであろうか。先日、近くのスーパーで彼を見かけたので、何か訳あって遠くへ引っ越したわけではないと思われた。
青梅線とはいえ都心への便が良いウチの街は今住宅ブームに沸いているから、古家はともかく、土地を売れば千万の単位になるはずだ。さすれば、男一人ならば、贅沢しなければ死ぬまで生活費の目途は立つ。
そのまま一人で古い家を維持してそこに住み続けたり、新たに家を建て替えることでなく、庭もある親たちの遺した家ごと土地を売り払えば、一人ならばその金で残りの人生分は生きてゆけるのだろう。
そしてこの近所を見渡せば、そうした彼のような我と近しい世代の独身男性がたくさんいることに気がつく。
離婚した者もいるが、多くは真面目な勤め人なのに、何故か生涯結婚の機会がなく、そのまま親が遺した、子供の頃からの家に住み続けているのだ。老親がまだ健在の者もいるが、昔なじみの顔も名前も知る者だけでもそうした独身中年、初老となる男が四人もいる。我も入れれば五人か。
おそらく我らは年代的に、今さら結婚の機会に出遭うとは思えないから、このまま一人でその昔から住み続けている家で、一人で老いて死に向き合っていく。
今はまだ体も動き、元気で一人でも生活が続けられるが、やがてさらに老い病み衰え、ときに呆けてきたらどうなるのであろうか。
やはり、定年後のこともあろうが、ゆくゆくは、その今住む家の土地を売り、マンション暮らしになるのではないか。そして住み慣れたこの町で暮らしていくように思える。
どこそかで、自殺願望の女性たちをネットで知り合い騙してアパートに招き入れては何人も殺していたという異常な事件が起きた。そして事件に結びついたのはまず異常な悪臭がその犯人の男の部屋からしたからだと報じられていた。それは「死臭」なのだが、今の人はそれがそうだとすぐにわからない。嗅いだことがないから仕方ないが。
我は二度嗅いだことがある。近くのアパートと古い戸建て長屋の一室で、そこに住んでいた独身男性の老人が孤独死していたのだ。そのどちらの人もよく見かけたり母の知り合いでもあったから、名前も知っていた。
だが、一人暮らしであったため、見かけないと思っていたら室内で何らかの理由で死んでしまい、死後ずいぶん経ってから「発見」されたのだ。その臭いこそ、まさに悪臭であり、大きな動物=蛋白質が腐敗した腐乱臭ほど不快な嫌な臭いはありえない。一度嗅いでそれを知れば、すぐそれは「死臭」だと判別できる。
一人暮らしだとそうして孤独死する可能性が高い。そしてそれは我の問題にもなろう。これだけ様々なネットワークが発達して便利な時代のはずなのに、人はさらに孤立し孤独に死んでいくのは何故なのか。
さらに付言すれば、一つ不思議なことがある。世に男女の数はさほど違いはないはずなのに、どうしてこの近所に住む独身中年は、全員男性なのであろうか。女性は皆結婚できていると思えない。あるいは某中東の国の如く、一人の男性が何人も女性を囲いハーレムのようにしているはずもない。なのに孤独に暮らし、孤独死するのは何故か男ばかりなのである。女性の孤独死も当然あるはずだが、知る限り死後何日もたって「孤死」しているのが発見されるのは決まって男なのである。
世に「女性問題」は多々俎上に挙げられている。女故の差別や格差が問題とされている。が、真の根深い問題は、結婚しない、結婚できない男の問題、老いてゆく独身男性、その行き着く先の孤独死ではないのか。
あの死臭は二度と嗅ぎたくないし、嗅がせたくない。
今日は朝から雲一つない快晴で、爽やかな秋の一日だった。
が、午後からはまた木枯らしが吹き荒れて寒くなった。日毎に気温も下がってきて、早くも庭のケヤキの落葉が始まった。また落葉の始末に頭痛める季節がやってきた。
どんな時代になろうと、何が起きようと季節だけは毎年春夏秋冬繰り返す。拙宅は、狭い庭にも関わらず、一本のイチョウの大木と、ケヤキの高木があるので、毎年晩秋になると落葉の始末に大わらわとなる。
若い頃、愛読した橋本治のエッセイに、一戸建てとアパートやマンションの生活の違いについてふれてあった。マンションなどでは、生活とは室内だけで済むものが、戸建てとなると庭も含めて「外」までも含まれるとあって、そのとき我は子供だったから、ふ~む、そういうものかとただ読み流してしまったが、今、つくづくその通りだと得心する。
そう、マンションやアパートでの自らの敷地、管理せねばならないのは、当然のようにドアを開けて入る「室内」だけだ。建物の入り口や通路などは共有・共用費等は払うのだろうが、掃除などしないで済む。
が、ウチのように一軒家だと、管理すべき部分は、室内のみならず、まず庭は当然であり、ついでに庭先の道路までも含まれる。
つまり、我家の植栽の枝や落葉が、庭先、つまり家の前の道路に散らばれば、ウチが片付けねばならないし、ほったらかしにすればご近所様が許してくれない。必ず非難叱責を受けるし、ご近所の庭先にまでウチの木々から落葉が飛べば、皆さん文句言いながら早朝から掃き清めるに大忙しとなる。※いっそ住宅地にある、そんな大木など切られる運命にあるべき、という論議は今はさておく。
我のように、老いて手のかかる父親を抱えて、一人で家事から介護全般せねばならぬ身だと、正直、庭先までとても手が回らない。室内だってもう何がどこにあるのかしっちゃかめっちゃか、散乱し何も片付かないゴミ屋敷と化してしまっているのに、とても庭までも維持管理なんてできやしない。
母が元気で生きていた頃は、鉢植えに花を植えたり、伸びた植栽はこまめに剪定したりと、花好き、植木好きの母はやっていたが、今は水やりだって忘れることが常で、ずいぶん枯らしてしまった。
我はもともと花や植木の類、植物などには関心なく、父がいなくなれば、もっと庭仕事に精出そうという気もなく、せいぜい親たちが遺した植栽は、形見として処分せずに残せたらとだけ願うしだいだ。
ただ、一人暮らしの我もやがてもっと老いて、手入れというほどのこともできなくなれば、木々はさらに鬱蒼としてくるだろうし、室内の山積したガラクタ類も悩みの種だが、庭もまた大きな「負の遺産」となってくることだろう。
これからの落葉の季節、またご近所の婆さんたちの罵声と怒声を覚悟しながら、こまめに時間あれば必死に庭だけでなく庭先の道路を早朝から掃いて落葉をかき集めなくてはならない。例年のことながら憂鬱きわまりない。
以前は、我家は親子三人でその「処理」にあたっていたのだ。今は、あの世に旅立った母と動けなくなってしまった父の分まで、我一人で担当せねばならない。そして季節が繰り返すたびそれは続いていく。
と、ここまでは長い「前書き」で、本意のことはここからとなる。
今、我が家のある住宅地の一角は、戦後、復員してきたり東京に出て来た人たち、新たに家庭を築きベビーブームをあてこんで、昭和20年代後半から30年代にかけて山林原野?を切り開いて分譲されたものだ。元々は今も福生で代々酒造りをやっている大地主の土地だった。
一区画ほぼ50坪程度で切り売りして、そこに、我が親たちの世代が土地を求めて来て、新たに家を建て、子育てを始めたのだ。だから昔は、ご近所の子供達は皆同世代、同級生ばかりであった。
それが、約半世紀が過ぎ、代も変わり、今も我のように親の家にずっと住み続けている「子」もいるが、ずいぶん住人の顔ぶれも変わってしまった。そして最近目立つのは空き地と空き家である。
今、この町内では二軒、つい先日まであった民家が壊されて更地となってその家のあった敷地は黒い土をさらしている。「売り地」と幟も出ているところもあるので、やがてそこに分割して二軒新築が建ち、また若い子育て世代が住み着くかもしれない。
さておき、気にかかるのは、その空き地となった場所にあった家に住んでいた人である。
どちらも一人暮らしの男性だったと思うが、一人は子や孫もあったはずの老人で、子たちは一緒に住んでなくずっと一人だったようだ。認知症だと誰かから以前に聞いた記憶はあるし、亡くなったと聞かないからおそらく特養のような施設に入れられて不在となり、古い家でもあったので、家人が壊してしまったのだろう。そこに戻って子どもたちが家を新築するのか、それとも土地を売却したのか知るところではない。
もう一軒は、確か我とほぼ同世代の独身中年男が一人で暮らしていた家で、母から聞いた記憶に間違いなければ、その家の親たちは相次いで亡くなり、息子が一人暮らししていたと思われる。我も同様だが、平日でもよく犬の散歩で見かけたので、勤め人ではなかったようだ。あるいは親の遺産のようなもので生活していたのかもしれない。
けっきょく、その古い家ごと土地を売り払い、彼はどこかの安いマンションにでも移ったのであろうか。先日、近くのスーパーで彼を見かけたので、何か訳あって遠くへ引っ越したわけではないと思われた。
青梅線とはいえ都心への便が良いウチの街は今住宅ブームに沸いているから、古家はともかく、土地を売れば千万の単位になるはずだ。さすれば、男一人ならば、贅沢しなければ死ぬまで生活費の目途は立つ。
そのまま一人で古い家を維持してそこに住み続けたり、新たに家を建て替えることでなく、庭もある親たちの遺した家ごと土地を売り払えば、一人ならばその金で残りの人生分は生きてゆけるのだろう。
そしてこの近所を見渡せば、そうした彼のような我と近しい世代の独身男性がたくさんいることに気がつく。
離婚した者もいるが、多くは真面目な勤め人なのに、何故か生涯結婚の機会がなく、そのまま親が遺した、子供の頃からの家に住み続けているのだ。老親がまだ健在の者もいるが、昔なじみの顔も名前も知る者だけでもそうした独身中年、初老となる男が四人もいる。我も入れれば五人か。
おそらく我らは年代的に、今さら結婚の機会に出遭うとは思えないから、このまま一人でその昔から住み続けている家で、一人で老いて死に向き合っていく。
今はまだ体も動き、元気で一人でも生活が続けられるが、やがてさらに老い病み衰え、ときに呆けてきたらどうなるのであろうか。
やはり、定年後のこともあろうが、ゆくゆくは、その今住む家の土地を売り、マンション暮らしになるのではないか。そして住み慣れたこの町で暮らしていくように思える。
どこそかで、自殺願望の女性たちをネットで知り合い騙してアパートに招き入れては何人も殺していたという異常な事件が起きた。そして事件に結びついたのはまず異常な悪臭がその犯人の男の部屋からしたからだと報じられていた。それは「死臭」なのだが、今の人はそれがそうだとすぐにわからない。嗅いだことがないから仕方ないが。
我は二度嗅いだことがある。近くのアパートと古い戸建て長屋の一室で、そこに住んでいた独身男性の老人が孤独死していたのだ。そのどちらの人もよく見かけたり母の知り合いでもあったから、名前も知っていた。
だが、一人暮らしであったため、見かけないと思っていたら室内で何らかの理由で死んでしまい、死後ずいぶん経ってから「発見」されたのだ。その臭いこそ、まさに悪臭であり、大きな動物=蛋白質が腐敗した腐乱臭ほど不快な嫌な臭いはありえない。一度嗅いでそれを知れば、すぐそれは「死臭」だと判別できる。
一人暮らしだとそうして孤独死する可能性が高い。そしてそれは我の問題にもなろう。これだけ様々なネットワークが発達して便利な時代のはずなのに、人はさらに孤立し孤独に死んでいくのは何故なのか。
さらに付言すれば、一つ不思議なことがある。世に男女の数はさほど違いはないはずなのに、どうしてこの近所に住む独身中年は、全員男性なのであろうか。女性は皆結婚できていると思えない。あるいは某中東の国の如く、一人の男性が何人も女性を囲いハーレムのようにしているはずもない。なのに孤独に暮らし、孤独死するのは何故か男ばかりなのである。女性の孤独死も当然あるはずだが、知る限り死後何日もたって「孤死」しているのが発見されるのは決まって男なのである。
世に「女性問題」は多々俎上に挙げられている。女故の差別や格差が問題とされている。が、真の根深い問題は、結婚しない、結婚できない男の問題、老いてゆく独身男性、その行き着く先の孤独死ではないのか。
あの死臭は二度と嗅ぎたくないし、嗅がせたくない。
11/12.鈴木翁二の新刊に関連したイベントが青山であります。 ― 2017年11月10日 03時26分38秒
東奔西走の一日~青梅から青山まで ― 2017年11月12日 23時12分57秒
★求められてこそ人生だと。
我としてはめったにない慌ただしい一日だった。こんな日もある。
今日は、昼過ぎから出て、まず青梅のライブハウス、W・サルーンでのアラブの行商人的シンガーのトーク&ライブ公演が3時からあり、それが終わらないうちに、5時過ぎの上り電車に乗り、我街の駅を素通りして都心方面へ。吉祥寺から渋谷へ出、さらに銀座線で表参道で降り青山のビリケンギャラリーという店に行ってきた。
my師匠、鈴木翁二さんのライブイベントがあり、毎度のことながら一昨日夜、突然のメールが届き、復刊マンガ本の発売記念のイベントがあり上京するとの連絡。今回は携帯もつなからず、状況がよくわからないまま今日7時半までに、ハーモニカホルダーを持って来いとの「指令」であった。
先だって彼が来られたのは、別の新刊の発売記念のイベントで6月の頭だったか。まだ健在だったのみ亭のやっちゃんに頼み込んで、急きょ店でライブさせてもらったのだ。
そのときは、今回の話など全く出ず寝耳に水という感じだったが、若い時に出会い、我を今に導いてくれた恩師と仰ぐ人からの連絡ならば、有難く常にどんなときでも応じなければならない。
当初の今日の予定は、最愛の水野美里店長から誘われたアラブの楽器ウードなども駆使する異色シンガー相沢さんのライブをゆっくり楽しむ予定だったのが、翁二さんの予定が後から入り、けっきょく青梅には残念ながら長くのんびりといられなかった。
が、反戦と平和を訴える、良い真面目なシンガーと今回知り合うことができ、来年のどこかで、かけこみ亭界隈でも「共謀」コンサートの一環として、お招きする段取りができたことは良かった。
そして我が鈴木翁二さんも、予想外にしっかりした本格的ライブであって、突然知らされ呼ばれたわけだが、多少でもお役に立てたこととそのライブの席に参加できてとても嬉しく有難いと思った。じっさい今回は、彼自らのギターを自宅から店に送って臨んだライブであり、いつもより乗りとテンションが高く、声も前回より大きく出ていて嬉しい驚きであり大いに感心させられた。
実は、昨日は父をショートステイに送り出したらどっと疲れが出て、体調崩して午後から晩飯も食べずにひたすら寝込んでしまっていた。頭痛もし腰痛やら体中がだるくてしんどかったが、風邪的症状はなく、下痢もしたので前回の「不調」がまた出たのかと不安であった。
果たして今日は青梅と都心青山とのWライブに行けるかと、あれこれ考えながらひたすら悪夢にうなされ眠り続けていた。幸い、今朝になったら不調は収まり、気力も戻っていた。
それでも東奔西走というべきか、東京の西から東へギターや機材も抱えて移動するとそれだけでまた疲労困憊、翁二さんのライブ後に、彼のファンの方たちとの打ち上げもあったのだが、店の前までご一緒したものの、これでアルコールが入るとまた意識失い大変な失態を起こすと本能が告げていたので辞去して、表参道から原宿まで歩いて新宿周りで帰ってきた。
今日は行きも帰りも特快に乗れて連絡が良く、神が味方してくれた思いがした。青梅の美里店長にも11/23のチラシを手渡し、店に置かせてもらえたし、キツキツの進行だったけど、ライブイベント開始直前には、会場のギャラリーにも辿りつけたし、二つの良いライブに参加出来、まあ、かなりへたばったけれど、上々の一日となったかと思う。大変でも満足している。そう、こんな一日もあるのだ。求められてこそ人生だとつくづく思う。
今はともかく疲れた。画像とかはまた後々アップさせていくつもりだ。
我としてはめったにない慌ただしい一日だった。こんな日もある。
今日は、昼過ぎから出て、まず青梅のライブハウス、W・サルーンでのアラブの行商人的シンガーのトーク&ライブ公演が3時からあり、それが終わらないうちに、5時過ぎの上り電車に乗り、我街の駅を素通りして都心方面へ。吉祥寺から渋谷へ出、さらに銀座線で表参道で降り青山のビリケンギャラリーという店に行ってきた。
my師匠、鈴木翁二さんのライブイベントがあり、毎度のことながら一昨日夜、突然のメールが届き、復刊マンガ本の発売記念のイベントがあり上京するとの連絡。今回は携帯もつなからず、状況がよくわからないまま今日7時半までに、ハーモニカホルダーを持って来いとの「指令」であった。
先だって彼が来られたのは、別の新刊の発売記念のイベントで6月の頭だったか。まだ健在だったのみ亭のやっちゃんに頼み込んで、急きょ店でライブさせてもらったのだ。
そのときは、今回の話など全く出ず寝耳に水という感じだったが、若い時に出会い、我を今に導いてくれた恩師と仰ぐ人からの連絡ならば、有難く常にどんなときでも応じなければならない。
当初の今日の予定は、最愛の水野美里店長から誘われたアラブの楽器ウードなども駆使する異色シンガー相沢さんのライブをゆっくり楽しむ予定だったのが、翁二さんの予定が後から入り、けっきょく青梅には残念ながら長くのんびりといられなかった。
が、反戦と平和を訴える、良い真面目なシンガーと今回知り合うことができ、来年のどこかで、かけこみ亭界隈でも「共謀」コンサートの一環として、お招きする段取りができたことは良かった。
そして我が鈴木翁二さんも、予想外にしっかりした本格的ライブであって、突然知らされ呼ばれたわけだが、多少でもお役に立てたこととそのライブの席に参加できてとても嬉しく有難いと思った。じっさい今回は、彼自らのギターを自宅から店に送って臨んだライブであり、いつもより乗りとテンションが高く、声も前回より大きく出ていて嬉しい驚きであり大いに感心させられた。
実は、昨日は父をショートステイに送り出したらどっと疲れが出て、体調崩して午後から晩飯も食べずにひたすら寝込んでしまっていた。頭痛もし腰痛やら体中がだるくてしんどかったが、風邪的症状はなく、下痢もしたので前回の「不調」がまた出たのかと不安であった。
果たして今日は青梅と都心青山とのWライブに行けるかと、あれこれ考えながらひたすら悪夢にうなされ眠り続けていた。幸い、今朝になったら不調は収まり、気力も戻っていた。
それでも東奔西走というべきか、東京の西から東へギターや機材も抱えて移動するとそれだけでまた疲労困憊、翁二さんのライブ後に、彼のファンの方たちとの打ち上げもあったのだが、店の前までご一緒したものの、これでアルコールが入るとまた意識失い大変な失態を起こすと本能が告げていたので辞去して、表参道から原宿まで歩いて新宿周りで帰ってきた。
今日は行きも帰りも特快に乗れて連絡が良く、神が味方してくれた思いがした。青梅の美里店長にも11/23のチラシを手渡し、店に置かせてもらえたし、キツキツの進行だったけど、ライブイベント開始直前には、会場のギャラリーにも辿りつけたし、二つの良いライブに参加出来、まあ、かなりへたばったけれど、上々の一日となったかと思う。大変でも満足している。そう、こんな一日もあるのだ。求められてこそ人生だとつくづく思う。
今はともかく疲れた。画像とかはまた後々アップさせていくつもりだ。
イラクに見る、アメリカの戦争がもたらすもの ― 2017年11月13日 23時41分09秒
★イラク通のシンガーソングライターと出会った日
というわけで、11/12日の午後、青梅線河辺駅前のライブカフェ「W・サルーン」でのトーク&ライブイベント「遠きをたずね、足元を知る~争いに埋もれない唄とイラクの絵画~」へまず行ってきた。
あのブッシュが3.11の同時多発テロ以後、一方的に仕掛けたイラク戦争の際に、人間の盾として現地イラクに滞在していたシンガー相沢恭行氏のトークと歌のイベントである。
戦争が起きる前、フセインの独裁政権時代からのイラクを知る彼が、民族楽器で現地のうたも披露しつつ、彼のこれまでの「活動」を語り、持参したイラクのアーチストによる絵画も展示販売するという、いわば、唄うアラブの行商人という立ち位置の方であった。
ただ、そうしたアートを売ることも含め、実際のインフラ整備だけでなく、人道支援としての物品販売、つまり現地の人々だけでなく人間には常にどんな大変なときでもアート、うたや芸術が必要だということを強く実感させる説得力が彼の話とうたには確かにあった。
また一人非常にまじめな良いシンガーと出会えた。願わくば、また連絡とりあって、「共謀コンサート」とも連動させて、実際の戦争、それもアメリカが仕掛ける現代の戦争を「体験」した人として、戦争が何をもたらすのか、かけこみ亭その他でも大いに語り歌ってもらいたいと思う。その場をコーデュネートすることこそ我の役割だと任じて。
というわけで、11/12日の午後、青梅線河辺駅前のライブカフェ「W・サルーン」でのトーク&ライブイベント「遠きをたずね、足元を知る~争いに埋もれない唄とイラクの絵画~」へまず行ってきた。
あのブッシュが3.11の同時多発テロ以後、一方的に仕掛けたイラク戦争の際に、人間の盾として現地イラクに滞在していたシンガー相沢恭行氏のトークと歌のイベントである。
戦争が起きる前、フセインの独裁政権時代からのイラクを知る彼が、民族楽器で現地のうたも披露しつつ、彼のこれまでの「活動」を語り、持参したイラクのアーチストによる絵画も展示販売するという、いわば、唄うアラブの行商人という立ち位置の方であった。
ただ、そうしたアートを売ることも含め、実際のインフラ整備だけでなく、人道支援としての物品販売、つまり現地の人々だけでなく人間には常にどんな大変なときでもアート、うたや芸術が必要だということを強く実感させる説得力が彼の話とうたには確かにあった。
また一人非常にまじめな良いシンガーと出会えた。願わくば、また連絡とりあって、「共謀コンサート」とも連動させて、実際の戦争、それもアメリカが仕掛ける現代の戦争を「体験」した人として、戦争が何をもたらすのか、かけこみ亭その他でも大いに語り歌ってもらいたいと思う。その場をコーデュネートすることこそ我の役割だと任じて。
アラブ音楽では楽器の女王ウード ― 2017年11月14日 23時29分05秒
青山ビリケンギャラリーでの鈴木翁二 ― 2017年11月14日 23時38分34秒
さようなら我が愛車、ほんとうに長い間ご苦労さん ― 2017年11月17日 08時02分54秒
★10年以上乗り続けて来たスバル・サンバー、ついに廃車に
翁二さんの先日のライブイベントのことも追記したいのだが、あれこれ状況が慌ただしく、落ち着いてパソコンに向かえないでいる。
実は、先だって当ブログで書き記したように、エンジンの調子が悪かったマイカー、長年乗って来た軽のスバル、ワゴンタイプの車が、車検に出したところやはり修理も難しいと言われてしまい、泣く泣く廃車にすることに。
今日の午後、近くにある、いつも車検や修理、メンテをお願いしていた修理工場の人が引き取りに来る。
個人的には古本稼業を始めたとき、本がたくさん積めるようにこのタイプを選び、じっさい荷重ぎりぎりどころかタイヤが潰れる寸前まで本を載せて山梨の倉庫やらあちこち行った思い出がつまった車なので、本心では廃車にしたくない。
が、もうとことん乗り潰したという思いもあり、もっと大事に大切にしてやればという悔いもあるけれど、これもまたそういう運命だとドライに考えるしかない。
何しろ先に書いたように、中央道で走行中に何度もエンストするようでは、怖くて高速道は走れない。昨今、高速道路内での停車した車での人身事故が多発しているときを思えば、まあ我は幸いにして運が良かった、神のご加護があってこそと今つくづく思う。
むろんエンジンをオーバーホールすれば何とかなるとは言われたが、次の車検も含めて20万はかかると聞けば、やはり我だけでなく誰もが躊躇うはずだ。
エンジンを直したとして他も全体的に経年疲労からの不具合も出てくるはずだろうしあまり長く乗り続けられないならば廃車をお願いするしかなかった。
思えば、この車で二度の人身事故をしでかし、最初のときは、頭を痛打させた相手の女児を危うく死亡させるところであった。事故当初は、果たして生還できるか何日もわからず我は眠れぬ日を幾夜も過ごし、真夜中その病院へ行き病室の前の廊下でひたすら無事を祈り続けた。
幸いにしてまさに皆の願いもかない、手術は成功し意識も戻り、その後は、ご家族の方々との示談交渉にはずいぶん時間はかかったものの、今ではその子は立派な娘さんとして二十歳近くになるかと思う。
もしその子を死亡させていたら、保険には入っていたとしても我が人生は破滅し、この家も売ってどこか別の街で隠れるように暮らすしかなかったかと思える。
元より何もかも車が悪いわけではなく、全てはこの我、運転する持ち主が迂闊かつ運転も荒いのが悪いわけで、車としてはとんだ持ち主に買われたことに違いない。
そんな無理させ続けた持ち主に対してずいぶんこの車は尽くしてくれたと今にして思う。よく今まで不具合なく走り続けてくれた。いちばん遠くは、三重県津市までライブイベントに犬たち乗せて行ったことすらある。そして近年はひたすら山梨県峡北の山里へ、行けば増冨まで標高千メートルの上り下りを繰り返し走らさせられたのだ。
実は、ボディも傷だらけになってきたので、我としては、今回の車検の際に、傷補修の専用パテやらクリーナーを通販で買い求めて、今さらだがもっと手をかけてやろう、綺麗にしてやろうと考えていたところだったのだ。不具合が出てきたからこそ、しっかり手入れせねばと思っていた矢先、廃車勧告を受けてしまったわけで、ブルー用のそうした補修剤は無駄になってしまった。実に皮肉であるが、我の場合常に万事こうした後手後手となり結局後悔するはめとなるのだ。
元々は、父が前立腺がんで入院手術して、その術後の通院のために我は免許取り、主にこの車で父を乗せ国立まで何度も通い、そして母の癌再発に対して、湯治のため古民家を手に入れたこともあり山梨へ毎月行くことになり、重たい本や雑誌も満載にして行き来しとうとう乗り潰してしまったわけだ。
クルマもまた道具だと考えれば、まさに使い尽くして処分に至りこれも本望かもしれないと考える。しかし、モノにもまた命があるならば、もっともっと大事にしてもう少し使い続けてやりたかったという悔いが残る。
車は何も言わないし、処分されることで我を恨むことはないだろうが、なんとも申し訳ないような、かわいそうな、すまない気分で気持ちはブルーになっている。
庭がもっと広くて我に金があらば、たとえ動かなくてもこの家にずっと置いていたかったとマジに思うが、これもまた仕方ない。そういう潮時、これも運命なのだ。
けっきょく、ウチにクルマはなくなってしまったわけだが、長年懇意にしている、その自動車工場の主人の計らいで、代車は今も借り続けてとりあえず移動は困ることはない。そして、彼が中古市場のオークションで、同タイプの軽のワゴン車を今探してくれているので、年内には新しいマイカーがみつかるかと期待している。
我は車には元々まったく興味も関心もなく、色も含めて好き嫌いは何もない。要するに無事安全に走れて荷物もたくさん積めれば、そして値段もあまり高くなければどんな車種でもかまわない。しかし、やはり今回廃車してしまったスバルのサンバーに似たタイプのものならばと密かに希望している。あら詩句我が家に来たクルマは、今度こそ大事に、丁寧に運転し日々の手入れも怠らずやってあげようと思っている。
翁二さんの先日のライブイベントのことも追記したいのだが、あれこれ状況が慌ただしく、落ち着いてパソコンに向かえないでいる。
実は、先だって当ブログで書き記したように、エンジンの調子が悪かったマイカー、長年乗って来た軽のスバル、ワゴンタイプの車が、車検に出したところやはり修理も難しいと言われてしまい、泣く泣く廃車にすることに。
今日の午後、近くにある、いつも車検や修理、メンテをお願いしていた修理工場の人が引き取りに来る。
個人的には古本稼業を始めたとき、本がたくさん積めるようにこのタイプを選び、じっさい荷重ぎりぎりどころかタイヤが潰れる寸前まで本を載せて山梨の倉庫やらあちこち行った思い出がつまった車なので、本心では廃車にしたくない。
が、もうとことん乗り潰したという思いもあり、もっと大事に大切にしてやればという悔いもあるけれど、これもまたそういう運命だとドライに考えるしかない。
何しろ先に書いたように、中央道で走行中に何度もエンストするようでは、怖くて高速道は走れない。昨今、高速道路内での停車した車での人身事故が多発しているときを思えば、まあ我は幸いにして運が良かった、神のご加護があってこそと今つくづく思う。
むろんエンジンをオーバーホールすれば何とかなるとは言われたが、次の車検も含めて20万はかかると聞けば、やはり我だけでなく誰もが躊躇うはずだ。
エンジンを直したとして他も全体的に経年疲労からの不具合も出てくるはずだろうしあまり長く乗り続けられないならば廃車をお願いするしかなかった。
思えば、この車で二度の人身事故をしでかし、最初のときは、頭を痛打させた相手の女児を危うく死亡させるところであった。事故当初は、果たして生還できるか何日もわからず我は眠れぬ日を幾夜も過ごし、真夜中その病院へ行き病室の前の廊下でひたすら無事を祈り続けた。
幸いにしてまさに皆の願いもかない、手術は成功し意識も戻り、その後は、ご家族の方々との示談交渉にはずいぶん時間はかかったものの、今ではその子は立派な娘さんとして二十歳近くになるかと思う。
もしその子を死亡させていたら、保険には入っていたとしても我が人生は破滅し、この家も売ってどこか別の街で隠れるように暮らすしかなかったかと思える。
元より何もかも車が悪いわけではなく、全てはこの我、運転する持ち主が迂闊かつ運転も荒いのが悪いわけで、車としてはとんだ持ち主に買われたことに違いない。
そんな無理させ続けた持ち主に対してずいぶんこの車は尽くしてくれたと今にして思う。よく今まで不具合なく走り続けてくれた。いちばん遠くは、三重県津市までライブイベントに犬たち乗せて行ったことすらある。そして近年はひたすら山梨県峡北の山里へ、行けば増冨まで標高千メートルの上り下りを繰り返し走らさせられたのだ。
実は、ボディも傷だらけになってきたので、我としては、今回の車検の際に、傷補修の専用パテやらクリーナーを通販で買い求めて、今さらだがもっと手をかけてやろう、綺麗にしてやろうと考えていたところだったのだ。不具合が出てきたからこそ、しっかり手入れせねばと思っていた矢先、廃車勧告を受けてしまったわけで、ブルー用のそうした補修剤は無駄になってしまった。実に皮肉であるが、我の場合常に万事こうした後手後手となり結局後悔するはめとなるのだ。
元々は、父が前立腺がんで入院手術して、その術後の通院のために我は免許取り、主にこの車で父を乗せ国立まで何度も通い、そして母の癌再発に対して、湯治のため古民家を手に入れたこともあり山梨へ毎月行くことになり、重たい本や雑誌も満載にして行き来しとうとう乗り潰してしまったわけだ。
クルマもまた道具だと考えれば、まさに使い尽くして処分に至りこれも本望かもしれないと考える。しかし、モノにもまた命があるならば、もっともっと大事にしてもう少し使い続けてやりたかったという悔いが残る。
車は何も言わないし、処分されることで我を恨むことはないだろうが、なんとも申し訳ないような、かわいそうな、すまない気分で気持ちはブルーになっている。
庭がもっと広くて我に金があらば、たとえ動かなくてもこの家にずっと置いていたかったとマジに思うが、これもまた仕方ない。そういう潮時、これも運命なのだ。
けっきょく、ウチにクルマはなくなってしまったわけだが、長年懇意にしている、その自動車工場の主人の計らいで、代車は今も借り続けてとりあえず移動は困ることはない。そして、彼が中古市場のオークションで、同タイプの軽のワゴン車を今探してくれているので、年内には新しいマイカーがみつかるかと期待している。
我は車には元々まったく興味も関心もなく、色も含めて好き嫌いは何もない。要するに無事安全に走れて荷物もたくさん積めれば、そして値段もあまり高くなければどんな車種でもかまわない。しかし、やはり今回廃車してしまったスバルのサンバーに似たタイプのものならばと密かに希望している。あら詩句我が家に来たクルマは、今度こそ大事に、丁寧に運転し日々の手入れも怠らずやってあげようと思っている。
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