老々介護の行きつく先は2017年11月04日 20時57分13秒

★慌ただしい一週間の報告を

 先月10月はやたら雨ばかり降り続き、おまけに急に寒くなり木枯らし一号まで早くも吹き荒れた。このまま曇天模様が続き秋らしい秋がないまま一気に冬になってしまうのかと案じられたが、11月に入ってからは晴れて穏やかな秋本番と思える爽やかな日がやっと続くようになった。
 昨日の3日、文化の日は、陽射しも強く外にいると熱射病になるかと思うほど暑くて、我は国会前に行っていて卒倒しそうだった。
 今日も朝から晴れたものの湿度は低く、吹く風はひんやりとしてまさに爽快な秋日和であった。

 一年で一番好きな季節、望む気候はこの季節の今であり、諸般の事情で心身疲れ果てた我にも誰かが、「まだ生きていていいんだよ」と諭してくれているように慰安とも思えた。このところずっとできずに溜まっていた洗濯ものを一気に洗って庭先に干した。
 が、午後からしだいに曇りがちとなってきたかと思うと、夕方5時頃、強い北西からの木枯らしのような突風が吹き、ザーと一瞬また雨が降った。慌てて洗濯もの取り込んだが、今日は湿度も低かったのでほぼみな乾いていた。
 その夕立のような通り雨もすぐに上がり、今は風もなく秋の夜は静かにふけていく。雨の後はまたさらに寒くなり、夜からは薪ストーブを炊いている。

 久々にブログを書く。11月も今日で4日、週末となってしまった。慌ただしい一週間だった。
 今、我が父は、ショートでお泊りに行ってくれて不在で、我は家に一人、ようやく落ち着いた気分で机に向かっている。どうやら熱も出ず施設で落ち着いてくれているようだ。

 父が風邪なのか軽い肺炎なのかわからないが、またこのところ熱が出、まず先週の土曜日から二泊三日の予定でお泊りに行ったデイサービスから、熱出したので、と日曜の午前に連絡があり、すぐに帰されてきてしまった。施設でも家でも38度ちょっとあった。
 そして月、火と家でともかく安静にさせたら、熱もしだいに下がったので、不安もあったものの今月から別の施設に変えて新規通うことになったデイサービスへ、水~木と一泊で行ってもらい、幸いにして父は無事に戻ってきた。
 が、その間、息子である我のほうが、1日の水曜の夜から父の風邪が伝染ったものか、それとも食あたりでもしたのか、何度も吐いて体調を崩し寝込んでしまった。

 父の看病しながら確かに何か風邪っぽい感じはしていた。1日の夜、父もいないのでウイスキーのお湯割り呑みながらブログ書き出したら、頭痛が激しくなり起きてられずアップもできずに早々に布団に入った。
 しかし、横になったものの今度は胃がもたれムカムカして気持ち悪くて、どうにも寝付かれず、吐き気がして仕方なく起きてトイレで吐いた。
 普通は吐いて胃の中のものを出してしまえば、スッキリして楽になるものだが、何故か今回は、吐いてからまた横になってもムカムカは収まらず、しだいにまた気持ち悪くなり、慌てて起きだしてはまた吐き、そんなことを5回繰り返して、胃の中のものなどほとんど何もなく胃液だけしか出ないのに吐き気だけは続き心底疲れ果てた。

 最後は下痢もし身体の中のものを全て外に出してからようやく落ち着いて眠りにつけた。が、最初は寒くてなかなか眠れず夜着の他にもう一枚着込んで何とか寝た。もう明け方近かったかと思う。
 父はいないのだから、そのまま父が戻る夕方までゆっくり眠っていたかったが、朝八時頃になるといつも通り外で犬が鳴き、散歩を求めて騒ぎ出したので、仕方なくフラフラ状態だったが、ごく簡単に散歩済ませて、それからまた寝直した。それからはようやく深く熟睡もでき、昼過ぎに起きたら体調は回復していた。

 夢も見て、起きる直前の夢の中では亡き母が久々に出て来た。いつも夢の中で会う母は、癌で痩せ衰えた姿ではなく、元気な頃、健康な姿が多いのだが、何故か晩年の、寝たきりとなる直前の痩せてきた頃、それでもまだ自力で歩いて病院通いしていた頃の姿で、しかも出かけるときの格好をしていて、何か不安そうな面持ちで、立って我のほうを見ていた。何か言いたそうであったが、そこで夢は覚めた。
 夢の中では泣かなかったが、起きて今見た母の出てきた夢を反芻し、ああ、母は我らのことをあの世でも心配しているのだなあと、思ったら涙が出て来てしばらく止まらなかった。

 吐き気が止まらず、何回もひたすら吐いたことで、食中毒かとも考えた。父の方は大丈夫なのかと案じられた。というのも我は、その吐いた晩は遅くに、父が前日朝に食べ残したサンドイッチの残りを食べてから吐いたので、もしそれが原因ならば父もまた同様かもと心配した。施設で吐いたりまた熱出していないか。
 幸い父は何ともなくその二日の木曜の夕方、無事に帰ってきてくれてほっとした。しかし、その晩は、我も体調すぐれず、まだ一日何も食べる気にもなれず、風邪のような症状もあり何とか父に晩飯だけつくって食べさせ早く寝かしつけ、我も早々に床に就いた。

 そして昨日、11月3日、文化の日。体調は元に戻ったわけではなかったが、憲法公布の日に合わせて国会を取り囲む集会があり、我は当日朝まで参加を迷っていたが、体調もすぐれないまま朝から大慌てで父に朝食つくって摂らせて、我は出かける支度して11時半には家を出た。
 というのは、当日、開会前1時からのプレコンサートに出られる中川五郎氏に11/23の「共謀コンサート」のチラシを手渡そうと思いつき、やはり今のような情勢だからこそ、一人でも参加者として行かねばと「やむにやまれず護憲魂」でかけつけたのだ。※この集会の報告は別掲で。

 集会は猛暑となったこともあり、体調ももう一つの我は疲れて午後3時草々に国会前を後にして、ついでに別件で人と会い渡す用事もあり、九段下まで出、一時間ほど話して大急ぎで家に戻った。家に残して来た父のことも心配だったから。 
 午後6時過ぎ帰ってこれたが、案の定、父は昼用に食べるように言って出しておいたドラヤキ類は一切手つかずのまま、何も食べず飲まずでコタツでぼんやりしていた。訊けば、一日寝ていたと言う。
 で、少しして熱を測ってみると、38度台と高い。またか!である。我が出かけたのがいけなかったのか。
 そして夕飯の柔らかく煮たうどんも熱のせいか食べるのもしんどそうで、叱咤激励し何とか食べさせてから寝る支度しベッドに寝かしつけ眠ったのを確認してから我もまた倒れ込むように寝た。無理して出かけたこともあったが、まだ自らの体調も戻らぬまま病人の世話をしないとならないのが本当にしんどかった。

 母はもう夢に出てこなかったが、眠るまであれこれ考えてしまった。
 よく老夫婦二人暮らしとか、老姉妹で暮らしていて、二人とも姿が見えないと近所の人たちが思っていたら、二人して室内で死んでいたという事件がたまにある。
 つまり病弱だったり高齢だったりの「病人」を介護している側もまた高齢であり、病弱だったりすると、介護する側が倒れ臥してしまえば、介護される側も何もできないが故、誰かに助けを求める通報すらできず、二人とも死んでしまうのである。
 父は90過ぎ、息子である我も還暦となれば、これもまた老老介護であり、我がもし突然倒れて動けなくなったり意識がなくなれば、父は果たして我を助けるため何かしてくれるだろうか。父はできるだろうか。
 最悪の場合、父も転倒し骨折、助けを求めても起き上がれず、息子も高熱などで寝込んでしまえば、親子そろって誰にも助けてもらえずに気づかれず二人して死後発見というケースも考えられる。
 今回も、父も熱出して容態が案じられるとき、息子も体調崩して寝込んでしまい、二人して危ういところであった。ああ、こういう事態を案じて母はあの世から心配して夢に出てきたんだなあと嘆息するしかなかった。

 父は今日土曜から、またデイサービスのショートで一泊のお泊りの予定であった。昨晩は、またしても38度台の発熱があり、薬飲ませてすぐに寝かせたが、お休みして病院に連れて行くかとも考えていた。
 が、今朝は幸いにして平熱に下がっていて、本人も行けるというので、また向うで熱が上がって帰される可能性も高かったが、ともかく送り出した。今日は一日、いつ携帯が鳴りその介護施設から連絡あるかとびくびくしていた。
 幸いにして、父は今のところ熱も上がらず体調も落ち着いているようなので、お泊りしてくれるようだ。で、こうして久々にブログを書いている。明日は無事何事もなく帰って来ると思いたい。

 先のことはわからない。あれこれどうしたら良いものかと悩んでも仕方ない。ともかく日々健康に留意してやっていくしかない。これは愚痴ではなく、事実をありのまま書いた。
 ただ、長生きすればするぶん、共に暮らす者共々さらに老いて、介護の負担はさらに増えていくことだけは間違いない。
 長生きは、お目出度い、有難いことではある。が、生かすも殺すも介護する側の状況、体調次第なのだと今さらながら思い知った。
 年寄りと暮らすこと、そして介護する我が身も老いていくとはこういうことだったのだ。