「平成」も終わりのときが見えてきて2017年12月01日 23時55分40秒

★「元号」について考える

 月日だけは慌ただしく日々過ぎてゆく。時間だけは確実に過ぎゆく。
 12月となった。今年もいよいよ残すところ一か月だけとなった。

 前回も書いたが、父の体調が良いうちに、腰据えて「我が事」「家のこと」に取り組み進めねばならない。が、今日は父が家にいた日だが、父が「発狂」して、その応対というか「世話」に追われて、終日ほとんど何もできなかった。
 発狂といっても、今日が何日、何曜なのかわからなくなり、カレンダー付きのデジタル時計を見せても理解できず、当人は、自ら常に持参している予定を記してある手帳を見ては、12月15日だとか、22日だとか言いはって理解しない。※金曜は訪問看護士が来る日だが、その先の予定と今日とが混濁して判別できないのだ。
 訪看の事務所やケアマネ他、九州の娘の家まであちこちに電話かけたり、聴いて説明うけてもそのときは納得したようでもまたすぐにわからなくなったりと、一日中大騒ぎして、寝かしつけるまでコーフンかつ混乱していたからだ。

 おまけにこのところ、睡眠中の失禁がひどくなり、家にいると毎朝彼のベッドは世界地図である。夜中に一時間かけて吸収シートを丹念に敷いても結局、紙パンツから溢れ出し下着もパジャマもシーツもそのシートに至るまで全部濡らしてしまう。父がいると毎朝洗濯機を回している。どうやら介護施設でも同様のようだ。向うで洗濯してくれたものの濡れた衣類を返されてくる。
 今日はおまけに曇りで小雨も降ったので、ちっとも乾かず、今晩のだけでなく明日のお泊りに持っていくパジャマも含めて洗濯物が乾かないままだ。どうしたものか。こうした父の「世話」中心に、慌ただしくこの一年が過ぎていったのだ。
 
 さて、毎度の長ったらしい「前置き」はともかく、表題に記したことについて書く。
 天皇の退位に向けた日程も出て、「平成」も終わりが見えて来た。
 これで元号も変わるわけだが、天皇制と元号は当然密接に関わり、天皇制についても我の考えを記すべきだと考えるが、長くなるので今回は「天皇制」についてはふれない。むろんのこと、国民平等の立場から我は否定的立場にあるのだが。何故皇室子女に国民は「~様」と付けて呼ばねばならないのか。

 昭和や平成などの「元号」は、西暦との二重表記であるから面倒かつ無意味であるという意見も強くある。じっさい、我も西暦だけのほうが、今年は平成何年だっけと、書類に書くとき迷い考えたりしないで済むから、簡便かとも思う。
 しかし、文化的、庶民風俗的観点からすると、こうした元号による分別はある意味大きな意味があるかと思える。
 明治生まれの祖父母を持ち、大正生まれの父を持ち、昭和の戦後30年代生まれの我はそう思う。

 単なる1900~という数字だけではせいぜい60年代、70年代とかの10年ごとの年代区切りしかできやしない。それはそれで意味は大きくあるけれど、日本人にとって、大正生まれとか、昭和ヒトケタとか、平成生まれとかいう「分け方」と元号による「区切り」はそれなりにイメージ的にわかりやすく通用しやすい。これは何歳生まれか問う干支とかに近しい感覚ではないのか。

 平成の次が何になるか、天皇退位、新天皇即位に向けて、早くも選定作業も始まっていると報じられている。新しい元号に特に興味も関心もないけれど、一概に「天皇制反対」というだけでなく、新元号も含めて、我は元号による時代区分はあっても然るべきかと考えている。
 長くなったので、この件についてもう一回書く。そうそう、明治の代には年寄りを揶揄して指すのに「天保老人」という言葉があったのだ。ご存知か。

いよいよ辛酸佳境に入ったか2017年12月04日 22時31分29秒

★疲れ果て、明日から腰据えて

 今日は終日、父が家にいる日だった。このところまた便秘気味で、便が出ないと当然食欲もなく、食べさせるのに一苦労するので、昨晩は眠る前に、アローゼンという下剤のような、排便促す粉薬を飲ませた。
 そしたら、今日昼前に紙パンツの中にかなりの量出ていて、そのときはトイレで紙パンツなど一式交換、お尻も綺麗にしてやって無事処理終わらせた。
 が、その後夕方、また二度目の排便があり、我は二階で仕事していたら異臭がしてきて下に降りたら、父が自分のベッドの上で、ウンコまみれになっている。
 夕方ひと眠り自室のベッドで仮眠させていたら、また追加の排便があり、父は自らベッド上で紙パンツを脱ぎ捨て履き替えようとしたものの持て余しシーツも毛布もそして自ら手も足も体中ウンコまみれとなったのだ。
 叱りつけても仕方なく、裸にさせ抱きかかえ風呂場に連れて行き、シャワーかけながらお湯はって、風呂の中で身体を洗い、全部着替えさせた。幸い風邪ひかずにすんだかと思うが、もう我の方が風邪気味だったこともありこの騒動で心底疲れ果てた。また今日もシーツからパジャマからおまけに毛布まで全部洗濯である。替えがあるのか。

 小便漏らす程度ならまだしもこんな風に、大便までもベッド上でこねくりまわすようになれば、もうこの家で我一人で面倒見ることはできない。もう一回こんなことがあれば、迷うことなく特養なり施設に預けると覚悟を決めた。
 そんなでブログ、まだ書き続けた途中のものや書きたいことも多々あるけれど、もう限界。すべては明日、父をショートステイに送り出してからだ。ここまでボケが進めば、まさに辛酸佳境に入るとはこのことであろう。人間とは、老いて死に臨むとはこういうことなのだろうか。

どこまで続くぬかるみぞ2017年12月05日 23時19分26秒

★明日ケアマネと父のことを相談する

 今日は、父をショートステイに送り出したあと、どっと疲れが出てひたすら眠って夕方近くに起きた。といっても洗濯もの干したり庭先の落葉を掃いたり、明け方からやるべきことは済ませてからだが。
 昨日のブログを書いてアップした後も、何か下の部屋で物音がするので気になって降りたら、父のベッドはもぬけのカラである。
 既にパジャマに着替えさせ、お漏らししないよう紙パンツのパットも何重にもセットもしベッドに入れて、布団かけて、おやすみなさいと言葉を交わして電気も消し寝かしつけたはずなのに、だ。

 外へ出たのか!と慌てて玄関を見たが、靴とかはそのままで戸に鍵もかかっている。ならば、と家の中を探したら、台所の横の廊下、猫たちが出入りする、少しだけ隙間を開けてある窓のところで、父はごそごそ何やらしていた。
 訊けば、猫の戸が開いているか、猫が入って来れるか確認しに起きたのだと言う。我が家は、基本、猫は放し飼いにしているので、24時間猫が出入りできるよう、その窓は猫一匹分の隙間が空いている。それをいちいち閉めたりしたことはない。何でそれを心配しにやっと寝かしつけたのにまた起きだしたのか。
 また、これは徘徊が始まったのか、と怒髪天突き、嫌がる父を抱きかかえてまたベッドに連れて行き、布団かけて、もう起きだしても父の自室から出られないようドアに鍵もかけて、我は不安と怒り心頭、自分のベッドに入ったもののコーフンしてなかなか寝付けなかった。
 ベッド上の大便騒動もだが、寝かしつけた後も徘徊まで始まれば、息子一人では深夜も不眠不休で様子見せねばならず、とても体力が持たない。
 じっさい、このところずっと 風邪気味で、喉も痛く微熱もあるのだが、辛くても父が家にいればおちおち昼寝もできやしない。風邪薬でも吞んで、二三日安静にしていれば快癒するかと思うが、我一人ではとてもその余裕がない。
 けっきょく、今朝起こしたらまたもや父のベッド上は、紙パンツからあふれ出た小便の世界地図で、糞便のシーツや毛布に加えてまたさらにシーツやパジャマを朝から洗うことになった。
 このところ、父が家にいるとき、我家で一晩過ごし寝て起きた後は、必ずベッドには大失禁で、洗濯に追われてさすがにうんざりしている。

 介護のコツとして、父のちんちん、つまり男性器自体を小さめのパッドでくるめば、吸収力が増す、外には漏れないと、介護の現場で働いている我が妹から教わった。それで、今は、紙パンツの中に、まず一晩5回以上用と記してある巨大な吸収パッドも入れ、さらにちんちんをそうして紙パッドでさらに巻いている。
 最初は、それで何とか外に漏れださずに収まっていた。が、彼が寝かしつけた後も起きだしたり、何度も寝がえりうったりすると、その巻いたパッドが外れるのか、またシーツはぐっしょり世界地図となる。
 けっきょく、昨晩もまた起きだして室内で徘徊したため、巻いたパッドも元の木阿弥、またもやベッドで壮大なお漏らしとなった。じっさい、朝起こして紙パンツ類を交換してやると、ものすごい量の小便がパッド、紙パンツに吸収されている。5キロぐらいあるかと思う。
 父は、日中ももう自らトイレで排便の習慣はなくなってしまい、基本的に昼夜終日履かせている紙パンツの中に大小便は垂れ流しなのだが、それでも昼間は意識あるせいか、それほど漏れてはいない。
 それが眠ってしまうと、昼寝でも同じく下のバルブが全開となるらしく、小便の蛇口は開け放しとなって、これほど大量に小便は出るのかと驚くほどの量が垂れ流しとなる。
 我思うに、どれほど何重にパッドを入れようが、その漏れ出る小便の量が多すぎて、紙パンツ類では吸収は不可能なのではないのか。
 紙パンツ式ではなく、紙オムツに変えて、まずそれで中に紙パッドを入れて、さらにその上にカバーとして紙パンツをさらに履かせて、三重、四重にしたらどうかと考えている。実際昨晩はそうしてオムツの上に、紙パンツを穿かせて寝かしつけた。がそれからまた起きだして徘徊してしまったため、その策は失敗に終わった。

 いずれにせよ、もうあと何年もないのである。新年が来れば、昔で言う、数えでなら父は95歳になる。百歳近いのだ。長く生きてせいぜい1~2年かと思う。死ぬときは意外にあっという間に、あっけなく死ぬものだと母のときの経験からわかっている。
 が、我一人で、毎朝毎晩、洗濯とシーツ交換、ベッドのセッティングに追われているとさすがに心が倦み疲れてくる。もうすぐそこに終わりがあるのはわかってはいても、いいかげんにしてくれと思う。
 ベッド上での大小便の垂れ流しに加えて、徘徊症状も出れば、そろそろ潮時かとも思う。我自身がもう限界に近づいて来た。が、どのようにして父を施設に入れるか、当人をどう理解させ納得させるか、ケアマネとも相談するが、あと少しの辛抱だとも思う反面、昔の軍歌の一節、どこまで続く泥濘ぞ、という気持ちでいる。

父のこと、これからのこと2017年12月06日 22時15分21秒

★前回の続きを
 
 父と我のことでいろいろご心配おかけして申し訳なく思う。そして実に情けなく恥ずかしいとも正直思う次第だ。
 が、今日、父がショートステイから戻る前に、担当のケアマネが来て、ぶっちゃけ現状を説明し、ならば来年からは順次お泊りの連続日を増やして、そのまま特養へと移行すべくプランを立てるということで話はついた。
 なので、父に何か異変や新たな深刻な事態が起きないかぎり、たぶんもうこうした愚痴めいたことは記さずに済むかと思う。

 今、その父を寝かしつけ、紙パンツの中に紙オムツとパッドを入れて、ちんちんももちろん巻いて、五重にセットしたので、明日の朝こそはベッド上まで小便が漏れ出す事態は回避できるかと期待している。といっても、こうして息子が苦労してお漏らし回避のセットしてもまた父が夜中に起きだし、うろうろ室内徘徊でもすればまたセットはずれてしまい万全の対策は水の泡となる。

 何が辛いって、毎朝小便で濡れたシーツやパジャマを洗い干しては、夜はまたベッドに吸水シートを両面テープで四枚貼り付け、その上にきちんとシーツを敷きなおして、何重にもまた紙パンツを履かせて父のお漏らしに備えて新たにセットをし直すことだ。
 毎日毎朝毎晩、失禁したシーツ類を洗濯してはまた夜には新たにベッドメーキングする。セッティングだけで一時間は必ずかかる。でもそれは一晩しかもたずまた毎日同じことを繰り返さねばならない。実に無意味で虚しい。まあ、ウンチが出てベッド上で、紙パンツからそのパッドを引き出してシーツから毛布までウンコまみれにされるよりは小便だけならまだ被害は少ないが。

 そして今こうした事態になって気がついたことがある。今、父は一週ごとに、二泊三日と一泊二日の週、それと一泊二日と一泊二日の週、という具合に、週末と週半ばにそれぞれ別の介護施設に通い預かってもらっているわけだが、行ってる間は、確かに我は楽でき、時間的にも自由にはなれているはずだが、我の負担はあまり軽減されていない。
 というのは、施設に行く日も朝起こして着替えさせ、朝食作り食べさせて薬や荷物一式まとめて連絡帳に状態記して、送り出すわけだが、ベッドから起こして送り出す玄関先までは、最低でも毎回2時間は常に要する。
 また、夕方施設から戻ってきた父を迎え入れ、まず着替えさせ、夕飯食べさせるわけだが、就眠に際しコタツから抱きかかえて洗面所で入れ歯洗ったり寝間着に着替えさせ紙パンツセットして寝かしつけるまでもやはり一時間以上時間はとられる。

  今日ケアマネ氏に状況説明するためカレンダー見て改めて確認してみたら、我は父が施設に行く日も行かない日も関係なく毎週、夜は5日から4日、そうした父の世話をし、朝もまた同様に4~5日、起こして着替えさせ食事の世話しているのである。
 けっこうデイサービスやショートステイに通っていると思っていたが、じっさいのところは、週のうち四日、五日の晩は父は家にいたのである。そしてその夜ごと大小便をしては翌朝また我は洗濯に追われるということを繰り返し続けていたのだ。これでは心身ともにへたばってくる。もういいかげんにしてくれ、である。
 今日、担当ケアマネと相談して出た方向としては、こうして一泊二日とかの短いショートステイを繰り返すのではなく、もっとロングで、例えば、土曜朝から水曜夕方まで連続で預かってもらうような日程を組むように調整していくということで、すぐさま来年一月からは難しいが、介護保険の点数との兼ね合いも見て、利用枠いっぱい使えるようまずできるだけその方向でプランをたててもらえることになった。

 繰り返し書いて来たが、我としては、できるだけ最後の日まで父を、母の時と同じようにこの家でしかと看取りたいという気持ちは強くあったし、父の方もそう希望していたけれど、今のように呆けと老衰がさらに進み、まず下の世話、糞便のほうまで手がかかるようになれば、息子一人ではもうとても面倒見きれない。これが我に妻子があったり、近くに子息、つまり我の兄弟姉妹がいて、交互に父の世話に来てくれるならまだしもだが、ともかく我だけでやってるのだからついに限界が来た。さすがに我もギブアップ宣言した。
 幸い父が今通っている二つの施設のうち、一つは正式な特養ホームでもあるので、このままさらに呆けと老衰が進めば、自然にそっちに段階的に移行することもできるかと思う。つまり父としては、自ら気づかないまま特養で介護されその最後のときを迎えるということだ。

 まあ、そんな悠長なことを予測したりする以前に、我が父はもう年齢的、肉体的には瀕死の状態、いつお迎えが来てもおかしくない歳なのだから、まずはこの冬を無事に風邪などひかずに越せるかどうかを案ずるべきであろう。
 彼にとって妻である、我の母が死んで二年目の正月が間もなく来る。まずはこの正月を迎えて、さらに次はこの冬を風邪などで入院せず無事に乗り切ってまた新たな春が迎えられるかどうかだ。

 イエスが説いたごとく、汝明日のことを思い煩うなかれであろう。だが、人は誰にとってもそのつらい「現実」を受け容れたうえで、乗り越えて行かねばならない。大事なのはその「意思」だと思う。
 それこそが、「ウイシャル・オーバーカム」のオーバーカムという意味なのではないか。小池都知事の好きな言葉、アウフーベン、「止揚」とも近しいのではないのか。人が生きるとはそういうことではなかろうか。

山梨県の地元スーパー「やまと」倒産、店舗閉鎖の報に。2017年12月07日 21時37分08秒

★辺境の地方では買い物は死活問題、生活に壊滅的打撃を与える事態を憂う。

 おそらく全国のどこの地方でもヨーカドーやイオンなど大企業が経営する全国規模で展開しているチェーンのスーパーではなく、もっと地元に密着した生鮮食品中心のスーパーマーケットは存在しているかと思う。
 山梨県、それも峡北地区、韮崎や北杜市を中心に店舗展開しているのは、「やまと」という名のチェーンのスーパーで、我は北杜市須玉に倉庫兼用した古い民家を縁あって得てからは、その店を山梨へ行く都度愛用していた。
 愛用というのは正しくない。そこしかないので嫌でも頻繁に利用していたのだ。

 今は、北杜市という巨大な市に統合吸収されてしまったが、旧須玉町には、今現在、我が知る限り生鮮食品を扱っているスーパーは清里に向かう街道近くのその「やまと」一軒だけで、他は、コンビニはインター近くなどに点在はしているが、その町には何か買い物に行くとしても商店と呼べる店は、そのスーパー以外一軒もないのである。
 かつての商店街と思われる道はあるが、食堂が一軒あるだけで、あとはいつも半分シャッターが下りてやってるのかわからない酒屋とか、ぱっとしない衣料品店はあるようだが、八百屋も魚屋も生鮮食料品を扱う店は皆無なのである。少し離れたところには、肉屋はあるけれど、もしその町で、パン、牛乳、肉、魚、野菜、さらに惣菜なども一度に買おうとしたらヤマトしかなかった。
 といっても、我の古民家はインター出口からまたさらに山を上っていく山里にあるから、そこまで車でも20分近くかかる。
 けっきょく、我はその須玉のヤマトを利用するか、さもないときは、インターは一つ手前の韮崎で降りて、そこで買い物していくのが常になっていた。韮崎はまだ駅前にかなり繁華な商店街も残っているし、やまとの韮崎店以外にも大きなスーパー、量販店もあり、様々な個人商店も残っている。JAがやっている「よってけし」という名の大きな野菜・果物直売センターもある。
 須玉で降りると買い物したくてもやまとしかないのも困るわけで、やや時間に余裕あるときは、このところはほぼ韮崎で高速道を降りて、あちこちで買い物して、その山里へ向かうのが常になっていた。

 当初、その古民家を紹介され下見に行ったとき、前所有者の方や近所の人たちに、この辺りの住人はどこで食料品を買ってるのかと訊いたら、皆、麓まで下りて、そのスーパーやまとであれこれまとめて買い込むのだと言う。
 お隣の老婦人は一人暮らしで車もないようだけれど、持ってる人と誘い合わせて、やまとまで買い出しに行くと話していた。

 それぐらいその山里では、当然のことながら辺りには商店は一軒もなく、食料品を求めるにはマイカーか本数の少ないコミュニティパスで麓まで下りて、何であれ「やまと」でまとめて買い出しするしかなかったのだ。
 そんな他に生鮮食品を扱う商店が一軒もない須玉の町からも、スーパーやまと自体がなくなってしまう、という記事が、ネット上のニュースサイトで報じられていて、まさに寝耳に水、我は正直愕然とした。
http://www.msn.com/ja-jp/money/news/%e9%a3%9f%e5%93%81%e3%82%b9%e3%83%bc%e3%83%91%e3%83%bc%e3%80%8c%e3%82%84%e3%81%be%e3%81%a8%e3%80%8d%e5%b1%b1%e6%a2%a8%e7%9c%8c%e5%86%85%e5%85%a8%ef%bc%99%e5%ba%97%e8%88%97%e5%96%b6%e6%a5%ad%e5%8f%96%e3%82%8a%e3%82%84%e3%82%81/ar-BBGkD03?ocid=TSHDHP#page=2

 営業不振で、山梨県内全9店舗営業取りやめ、だと報じられている。確かに、韮崎などでは、もっとおしゃれで品揃えの良い、ヨーカドーなど都心とまったく変わらない大きなスーパーも確かにある。
 が、都心から地方に行く者としては、逆に地元産の食材や地元メーカーの食品を多く扱っていたやまとのほうが有難く、行って買い物する楽しみがあった。東京と同じ食品しか並んでいないスーパーに、我はそもそも興味はなかった。
 その意味で、やまとという地元スーパーは、垢ぬけない感じはしたけれど、そこでしか買えない食材も多々あって、その「存在」は有難かったし、あまりこのところは利用してなかったのが本当のところだが、気持ちは「愛用」していたのだ。何しろそこしか須玉町民には買い物の術がないのだから、いつまでも存在しているものと信じていた。まさかそのやまとが倒産してなくなろうとは。

 我は今後も韮崎インターで降りて、野菜や果物類は、須玉へ向かう途中の「よってけし」で買い求めるのは変わらないが、やまとがなくなってしまえば、その地に行く楽しみがかなり減ってしまったことは否めない。
 峡北という山梨県でも北部の山奥といっていい地域なのに、やまとには何故か海産物が充実していて、最初は驚かされた。地図で調べてみると、その地は東京より静岡県焼津に近いわけで、南アルプスを越えて太平洋の魚介類が入って来る地域でもあったのだ。

 それにしてもやまとがある他の地区、韮崎や長坂は、まだ生鮮品を扱う地元商店や他にもスーパーがあるから何とかなるかとも思うけれど、須玉の住民は今後はいったいどこで買い物すれば良いのだろうか。いちいち韮崎まで30分以上時間かけて買い出しに出ないとならないのではないか。
 思うに、そのスーパーやまとが出店したことにより、須玉の商店街はさびれ衰退し消滅してしまったのかもしれない。そしてそのスーパーさえ営業不振で消えてしまえば、その町に残るのは、街道筋のコンビニだけなのである。そこで買えるものは、牛乳やパン、弁当類は何とかなるだろう。しかし、生野菜や魚肉など生鮮食材は手に入らない。

 お読みの皆さんには何も関係ない一地方、山梨県峡北地域の話である。ヒトゴトと思われる方がほとんどであろう。が、これは過疎と高齢化に悩む一辺境地方だけの問題だろうか。
 いや、都心にいても車がなければ郊外の大型スーパーに行くこともできず、老人は近所のコンビニで弁当や出来上がった総菜類を買うしかないのではないのか。
 今住んでる町から生鮮食品を扱う身近な商店、小規模のスーパーが消えていく。残るはコンビニだけとなっていく。これは都市部、田舎を問わず21世紀の日本の大きな問題でありその対策は緊急の課題だと我は考える。
 いくらAmazonが成長し扱う品数が増え全国ほぼどこへで配達してくれたとしても「生もの」までは扱わず、お急ぎ便でも配達してくれないのだから。車を持たない人、足の不自由な人、老いた人たちはいったいどこで買い物したら良いのだろう。

認知症という「狂人」と暮らすこと2017年12月08日 23時17分10秒

★自分の忍耐と寛容さが試されている。
 
 この二日、老父はずっと家にいたので、我は手と目が離せず、全く何もできなかった。もう一回だけ親父のことを書く。

 某超大国の大統領も「狂人」だと我は思うが、頭のオカシイ人と共に何かするのはほんとうにシンドイ、辛く苦しい。まして生活を共にしているとこちらまで発狂しそうになってくる。
 認知症は病気だとわかってはいる。が、共に暮らす者として、この人は頭がオカシイ、狂っているとしか思えない。そうした言動にもうとことんうんざりである。堪忍袋の緒もキレる。それが我の実の父であるだけに子としては本当に困惑し自己嫌悪にも襲われ苦しくてたまらない。我が父はキチガイだと思う。

 朝方は、今日が何月何日何曜日だとわかっている答えが返って来ても、少しすると失念し、こちらに今日は何日だと聞いてきて、それを教えても納得もしないし、またすぐに忘れる。そしてそのことを何度も何度も教えてくれと騒ぎ、教えてもまたすぐに忘れて、わからない、困った!と騒ぎ立てる。
 食事を作って出しても、ひたすら時計と予定が記してあるカレンダーばかりきょときょと目がいって、自らのスケジュールが記してある日記帳を開いたり、飯など落ち着いてまったく食べやしない。

 けっきょく父は家にいると、終日そうしてカレンダーや時計を眺めて、今日は何日なのかと騒ぎ、挙句に、もう一年以上週末ごと通っているデイサービスの「なごみえん」のこともわからなくなり、「なごみって何だ!?ワシはわからない!」と、その存在自体がわからなくなって騒ぎ出す、このところの毎度の質問が飛び出て来た。
 もう我が説明しても納得しないのはわかっているから、その施設に電話をかけさせ、当人が、「そちらは何なんですか ?私はそこに行ってるんですか?」という質問を執拗に電話口に出た人に訊いていた。

 おまけに我が午後、立川の歯医者に出かけて留守にして父を放擲してたのがいけなかったのだが、帰ってみると、そうした毎度の混乱妄動状態だけでなく、コタツに座っていた父自体が何やら小便臭い。
 慌てて立ち上がらせてみると、座ってた座椅子まで履いてた紙パンツから染み出た小便でズボンも何もかもぐっしょり濡れている。
 慌てて、当人を抱きかかえトイレに連れて行き全て交換したが、毎度のことながら、紙パンツはまだいい、まだ大丈夫だと交換を嫌がり抗う。外まで漏れ出ているのだからしっかり濡れてしまっていてもケチで頭がおかしいから、モッタイナイと思うのだ。
 たぶん、介護施設に預けられている間は、向うでは様々なワークや行事もあり、それで当人にも刺激があるからこれほどボケはしないのかと思う。彼としては対応に精いっぱいで疲れて夜もぐっすり眠るのではないか。
 家にいると、昼寝させると夜中に徘徊するので、日中は起こしていると、ひたすら今日は何日だ?と時計見てカレンダー見ては騒ぎ、見てもわからないようで、またこちらに執拗に問いかけてきてともかくウルサイ。かといってほったらかしにすると何を勝手に突発的にしでかすかわからず目も離せない。
 記憶が続かず、理解力もない彼にとって、何度ていねいに説明してもまた少しするとすぐに忘れて不安になり騒ぎ出す。その不安は、ほっておくとまた別な方向に向かい、何をしでかすかわからない。
 かつて父がまっとうな人間だった頃を知る者として、今の父は、正気のときもあるけれど、もはやこれは完全にキチガイになってしまったとしか思えないときが多々ある。
 今晩は、夕方、もう何もわからなくなっても仕方ないのだから、ともかく飯を食えと夕飯の支度して食べさせようとしたら、当人曰く、これはや食か!?朝飯か!?と何度も訊いて来て、彼は「今」が朝なのか夜なのかも混乱しているのだと判明した次第。
 そうしたわけのわからなくなってしまった人と生活を共にするのは本当に忍耐力が求められる。頼むから教えてくれよう、と懇願されれば教える。が、説明してもまたすぐに忘れて同じ質問を何度も執拗に繰り返し、我がつくって出した食事も無視して食べてくれないのである。となるとついキレてしまう。
 父が完全に発狂なり呆けてしまえば、我は心おきなく安心して父をそうした介護施設、医療施設に入れられる。問題は彼はまっとうなときもあり、まだ人間の顔を見せるときがあるから困るのである。
 では、人間として扱うと、記憶が続かないだけでなくまったく奇矯なトンチンカンなことを言い出し、その不規則発言は我を怒らせ苛立たせさらに、徘徊だけでなく電機や火の元も含めて危なくて目と手が離せない。
 父が家にいる日は、朝から晩まで、食事から下の世話まで一人息子は付きっ切りとならざるえない。よって父が起きている間、寝かしつけるまではブログさえ書けやしない。
 父のこれからについての方針は前回書いた。可哀想に思うところもあるが、我は狂人には人権などないと考えるから、非情だけれどもまずは御身大事で、やっていこうと決めた。でないとこちらまで発狂するか先に死んでしまう。
 我をつくり育ててくれた大恩ある父だけれど、今のような姿になってしまえばもはや人間ではない、キチガイだという前提で、応対し扱っていくしかない。
 人は長生きすれば老いて衰弱し脳もまたこうしてダメになることも父と暮らしてしかと理解した。我の母もその母である祖母も、死ぬまでボケはしない人だったから、こういう晩年の姿がある「現実」は初めて知ったのだ。
 我もまたこんな風に死ぬのか、それとも呆けずに冷徹深刻にその死の訪れを迎えるのか。母と父はその最期の姿でもって我に、人生の一番大切なことを教えてくれているのだ。

まずは今年を乗り切って2017年12月09日 22時47分57秒

★父のいない静かな夜に

 この週末、何とか父はショートステイでお泊りに行ってくれた。着替えからパジャマ、紙パンツと交換パッドまで大荷物をまとめて父を送り出しようやくほっとした。
 雨上がりの今朝は今年一番の冷え込みで、明け方庭先の道路の落葉を掃いたときは、路面の一部は氷の粒が残っていた。
 晴れたものの我は寒気が強くして、喉も痛く鼻水も滴り落ち、昼食後仮眠したら何とか寒気は収まり体調は戻って来た。昨日夕方、立川の歯医者からの帰り雨に降られてまた風邪がぶり返したのかもしれない。それに、このところ庭木の落葉掃きで、早朝いち早く、まだ夜が明ける頃起きては、両隣の家の前に散った我家の木々の落葉を掃き集めていて、さすがに睡眠不足と疲れでバテてきたのだ。

 結局、予定していた外出も控えて、今日はひたすら家の片付けに専念した。父が家にいてもそれはできなくはないが、常に父のことに気づかい、腰据えて何であれ取り組めない。
 父が不在の日、それも介護施設に泊まりの、夜まで終日いない日だけが今の我にとって安らぎのひと時である。ようやく自分のことにだけ専念できる。
 今回は、父は二泊三日で預けた週なので、戻るのは月曜の夕刻となる。ならば、我は明日から山梨へ行ってこようかと考えている。もう年内はこれで最後となろうし、先に書いたスーパーやまとのことも気になっている。
 のんびり温泉につかってる時間などないかと思うが、向うでもやるべき作業が多々あり、たまには行って手入れしないと無人の空き家とみなされてまた泥棒に入られる。
 体調ももう一つだし、向うはこちらよりさらに寒くもしかしたら雪も降るかもしれない。無理はしないしできないが、すべて自ら関わりをもったことなので放擲することはできない。少しでもやるべきことをきちんとしていくだけだ。

 今の我が家にはもう年末の大掃除もクリスマスも新年を迎えて正月も何もないけれど、少しでもできることを進めて、来年につなげたいと願う。
 父があとどのぐらい生きるかはわからないし考えても仕方ない。すべきことはその手のかかる老いた父を抱えて、その中で生活を少しでもきちんと戻して、我が人生を今さらながら再構築していけるようやっていくだけだ。
 時間はあっという間に過ぎてしまう。下手すれば来年も今のまま何もできずにさらに泥沼の中で身動きとれない状況かもしれない。そうならないためにも一つ一つ一日一日今できるすべきことをやって、少しでも良くなるよう人生を進めていくだけだ。

風邪が本格化しないように2017年12月12日 21時14分51秒

★やはり山梨は寒かった。

 というわけで、この日~月と一泊二日で山梨へ行ってきた。今回は一人ではなく、水戸から長年の友人を招いて、二人がかりで腰据えて向うの倉庫と化した古民家とウチの庭も片づけたり掃除することができた。
 今年の落葉もほぼ終わり、ようやく早朝からの落葉掃きからも解放される。
 が、向うが当然のことながら晴れた日中でも薄氷が張っているほど寒かったこともあり、風邪気味だった体調は、疲れと共に悪化し、我は今日は咳や鼻水、それに微熱も出たようだ。
 それでも父も家にいる日で、朝から家の用事は目白押しで、何とか午前中、溜まった洗濯ものは洗って干すことができたが、父に昼食つくって食べさせ、食べるの見届けてから、買い物に出たりしたら注文本の梱包、発送だけで夕刻となってしまった。

 体調も悪く、身体はしんどくともかく横になり仮眠したくて溜まらなかったが、何とか本だけ発送終えて犬の散歩も簡単に済ませて一時間ほど服着たままベッドで横になった。ともかく寒気がして、起きていられなかった。
 そしたら脱水状態だったのか、セットした目覚ましで起きようとしたら両足がつって、ものすごい痛みで起き上がることもできず、しばらくうんうん唸ってその痛みが過ぎ去るのを待つしかなかった。
 これは、酒をたくさん飲んで眠ってしまった朝や深夜にも起きたことがあるが、体内の水分が不足すると起きるのだと九州の妹から教えられたので風邪で脱水状態だったのだろう。そういえば、寝る前に喉乾いた気がしたが、どうせ短時間横になるだけだからと、そのまま服のまま寝てしまったのだ。
 必死で何とか起きだして、洗面所でがぶがぶ水を飲み、トイレで座って用足して何とか人心地ついた。そしてふらふらながら父をトイレに連れて行き、気になっていた紙パンツのパッドを交換してやり、それから自転車で近くのスーパーで弁当やおかず買ってきて、温めたりご飯を柔らかくして父に食べさせ今これを記している。

 父も今晩はやや体温が高く、食事前に測ったら限りなく37度に近い。たぶん寝る前は7度超しているかと思う。
 このまま父も風邪に至らず、明日は予定通りショートステイに行ってくれたなら、我は明日は安心して心おきなく眠って体を休める。が、父も風邪で発熱してしまえば、我は自分が熱でふらふらでも父の看病しないとならない。そうなれば、最悪の場合、我も入院、父も入院もしくは介護施設へ預けるということになろう。
何とか父を早く寝かせて、明日は無事に施設に行ってもらいたいし、我もできるだけ長く眠って風邪がこれ以上悪化しないよう体調戻したい。さあ、どうなるか。
 老々介護はほんとうに綱渡りだと今さらながら思った次第。

日々青息吐息、まさに薄氷踏む思いで2017年12月13日 20時41分51秒

★慌ただしく一日一日、一週間が一月が、そして一年が過ぎていく

 おかげさまで、何とか父は無事ショートステイに送り出すことができた。昨晩は微熱気味だったが、いろいろビタミン剤を飲ませて早く寝かせたのが効を奏したか、幸いにして今朝は熱はなく、バカは相変わらずだが、ともかく施設に連れて預けられた。
 それから家のことと自分の仕事に精出して、夕方疲れて昼寝したくも思ったが、時間的にその余裕もなく、結局今日なすべきことは最大限できるだけ成し終えて、今ほっとやや酔っぱらって一息ついている。

 それにしてもまさに青息吐息、父に風邪はまだ伝染らず、今日明日と一泊二日で施設に無事預けられたので、今ようやく今日の予定は成し終えることができた。繰り返しになるが、父が在宅の日は、自分のことも家のことも全く何もできない。何をしでかすかわからず常に目と手が離せないから、犬の散歩すらゆっくり思うようにできないほどだ。
 かといって父が早く死んで、一切もうその世話をしないですむことを望んでいるかというと、その辺は微妙で、今は父が生きている、そしてこの家に基本的にいるということを前提に我が人生は設定されているので、その先については何とも想定できない。

 じっさい、父無しで、我一人で今後の人生とこの家を抱えて、たった一人で残りの人生をやっていくことはまだ何も考えられない。
 それはとてもつなく自由かもしれないが、逆にとてつもなく孤独で不自由のようにも思える。我は一人では生きていけない。いや、やってはいけるけれど、おそらくすぐに死んでしまうのではないか。
 何故なら、父が施設へ行って家にいない日は、我は、気がつけば夕方までコーヒーなど飲み物類は飲んでるが、主食はほとんど何も食べず、自らのためには何一つ作りもしないからだ。犬たちには餌をつくって与えるが、はたと気づけば、自分は朝から何も食べていないことによく思い至る。
 腹も空かないことはないが、自分一人のために何か作る気力もないし、そもそも自分のことはどうでもいい。その辺のお菓子類をつまんでそれで済ませてしまうし、作るとしてもインスタントラーメン程度ならまだしも後はすべて何であれ面倒くさい。飯炊けば何日も残るだろうし、一回一人分だけ炊くなんて面倒くさくてバカらしい。
 我は料理作るのは苦ではないが、それは他人がいてこそであって、誰かのため、他人のためにならならどんなことだって苦にしないが、自分のためには何一つしないし飯もつくらない。自分のためには何一つしたくない。そんな無意味なことはない。

 そういう意味で、面倒な手のかかる父がいてこそ、我の人生は動き、嫌でも飯を作ったり洗濯したり介助もするわけで、その人がいないのならば、果たして我は我一人の身のために自らそうした「生活」を営むのか全く自信がない。今の感じではたぶん何一つやらないのではないか。
 誰も来なければ掃除もしないし、飯もつくらないし何も食べない。思えば我は元よりこの我が人生に対してずっとネグレクトしていて、それでも何とかやってこれたのは、そんな我でも求め請われ、そこに役割があったからだ。つまり今なら「父」という存在があってこそ、我は対社会的に嫌でもがんばって何とか対応してやっているのである。

 世に性同一性障害とかいう「病気」があるのだそうだ。そのもって生まれた自らの性に違和感を感じその性で生きていくのが苦痛でならず、別のもう一つの性のほうが本当の自分だと思うらしい。そして、その自ら任ずる「本来の性」のほうに人生を合わせるべく、日常生活も肉体すら変えることを望むのだと。
 ならば、我はそういうふうに自分の性も含め人生をきちんととらえられ向き合える人はある意味幸福だと思う。

 我の場合は、「人生同一障害」というべき、自ら一人だけではどこにも居場所がなく、居心地の悪さをずっと常に感じていて、本当の自分の性と同じく、「本当の自分」がどこかにあるような気もするが、いつだって現実はとことん最低で、自己嫌悪の挙句は自己否定するしかなくどこにも自分の居場所は今も昔も対社会的にはない。
 謙遜ではなくほんとうに誰とでもうまくやっていけないし、誰にも愛されない。少しは親しくなったとしても女も男も皆やがては我から去っていく。幸いにしてそうした我を見捨てず愛し見捨てずとことん付き合ってくれたのは、我が父と母だけなわけで、その母は既に亡く、そして最後の一人は、もう呆けて半ば狂人と化した父だけのわけで、その人がいなくなれば、我は果たして一人で何をよすがに生きていくべきか。その不安が強くある。

 むろんこんな我にも友人知人は多くなくも有難くもいる。多少は気にもとめてくれる女友達も何人かいる。が、その女性たちと我の人生は関わることはないし、むろん同性はまして交わるこほとんど何もない。皆それぞれの大変な人生がそこにあるだけなのだ。
 つまるところ我は残りの人生をたった一人で抱えて何とか維持していかねばならない。だが、我は我が人生にそもそも何も関心がない。いや、そもそも愛してないからきちんと関われない。どうしてもきちんとすることができやしない。そもそも自分のことがどうにも好きではない。長年付き合ってきたが、もはやとことん愛想が尽きている。
 気がつけば相変わらずバカでどうしようもない自分がそこに呆然と佇んでいる。

 幸い我は、多少なりとも信仰を持ち、そんな我をも生かし見守ってくれている有難き「神」の存在を信ずるから、自死することはないけれど、自分の罪と罰についてはもうとことんうんざりするほどわかりきっている。
 我がまだ生き、残りの人生があるならば、それは償い以外の何物でもなく、まさに自堕落野放図に生きて来た、愚かな人生の自業自得の結果なのだと思う。

 人生は誰にとっても公平なものだとつくづく思う。我は就職もせず十分好き勝手に生き、したい放題して、傍若無人に多くの人を傷つけ、さんざん苦しませてきた。そして今、老いて結果として自ら身動きとれなくなり、まさに青息吐息、四苦八苦の状態に陥って、つくづくああそうだったのか、と気がつく。これだから今こうなったのだと。
 後悔しているか、悔やんでいるか。いや、人生がもう一度やり直せたらと願う人にはまだ救いがある。我は、もう一度やり直すチャンスを与えられたとしてもまた必ず同じ失敗をしでかす「自信」がある。それぐらいどうしようもないダメなのである。

 だが、絶望はしない。諦めない。このどうしようもない人生の行きつく先には何があるか、ある意味、カタギの人たちへの復讐の念も込めて、どうしようもない「見本」としてとことん生き延びてやる。
 我が人生は屈辱以外何ものでもない。ならばこそ、それみたことか、と嘲り罵倒する者たちに対しても、何としても一日でも長く生きて行かねばならぬと思う。その意味でも我が人生は自分のためではない。

 まあ、どうしょうもない人生だけれど、とことん生きて行かねばならない。何故なら、周りを見れば、まだ死ぬべきでない善き人が、嫌でも無慈悲に死んでいる。ならばこそ、我もまたその日が来るまではおいそれとカンタンに死んではならないのではないか。
 人は死ぬときは嫌でもお構いなしに必ず死ぬのだから。

「共謀コンサート」来年は、まず2月24日、第三回目を。2017年12月14日 06時07分44秒

次回は、よしこさんとみほこんの顔合わせで
★先のコンサートで配布した次回告知のチラシ、転載します。

 さておき、何はともあれまだ我は生きているし、生きて行かねばならないのだから、ともかくまず今できること、すべきことを少しづつでもやっていくしかない。
 そして、その日、そのときに備えていくことだ。

 すべてが国家と大企業に管理、収奪されてしまった時代だけれども、だからこそ自由と個人尊厳という「希望の灯」を灯し続けねばならない。
 街は変わり人も変わり時代はただ過ぎてゆく。が、時代がどれほど移り変わっても、そのときどき必死に生きていた人たちの思い、その意思は、後の世までも大事に語り継がねばならないのではないのか。
 我も含め、人は弱く愚かで過ちを繰り返す。だからこそ広島の被爆者、サーロー節子さんのノーベル平和賞受賞式での講演が我々の心を打つ。※以下抜粋で。
 
米国が最初の核兵器を私の暮らす広島の街に落としたとき、私は13歳でした。私はその朝のことを覚えています。

 8時15分、私は目をくらます青白い閃光(せんこう)を見ました。私は、宙に浮く感じがしたのを覚えています。静寂と暗闇の中で意識が戻ったとき、私は、自分が壊れた建物の下で身動きがとれなくなっていることに気がつきました。私は死に直面していることがわかりました。
 私の同級生たちが「お母さん、助けて。神様、助けてください」と、かすれる声で叫んでいるのが聞こえ始めました。

 そのとき突然、私の左肩を触る手があることに気がつきました。その人は「あきらめるな! (がれきを)押し続けろ! 蹴り続けろ! あなたを助けてあげるから。あの隙間から光が入ってくるのが見えるだろう? そこに向かって、なるべく早く、はって行きなさい」と言うのです。私がそこからはい出てみると、崩壊した建物は燃えていました。その建物の中にいた私の同級生のほとんどは、生きたまま焼き殺されていきました。私の周囲全体にはひどい、想像を超えた廃虚がありました。
http://blog.livedoor.jp/sagittariun/archives/5624775.html

 そう、できること、すべきことは、どんな最悪の状況下であろうとも、あきらめずに(がれきを)押し続け、蹴り続けていくこと、なのである。そしてその先に光が見えてくる。我々はそこに向かって這い進むしかない。
 そして人類は人類に何をしたのか、核兵器とは、戦争とはいったいどういうものでどういう結果をもたらすのか、今こそ、戦争が忍び寄る今の時代だからこそ語り合い語り継ぐべきではないのか。

 まだできる、すべきことがある。がれきを押し続け、蹴り続けていく。無念の思いで死んでいった歴史に名も残さない人たちのためにも。そして未来を生きる子どもたちのためにも。