地獄はそこかしこ、ならば・・・2017年12月21日 21時25分49秒

★極楽もまた

 父が家にいると全く何もできやしない。ストレスで命縮めていると思う。言われたことは守らないししないが、余計なことはせっせっとやってくれて、その後始末に息子はキレまくりである。
 わけのわからない人がわけのわからないことをする。本当に目が離せない。後始末に追われてへとへととなる。

 この木金は、父が終日家にいる日なので、まさに気の休まるときはない。何とか週末まで体調持たせて、土日月とショートステイでお泊りしてくれれば、我は一息つけやっと腰据えて自分のこと、家のことができる。

 こうした「介護」の実情と実態、苦労話のようなものがこのところ拙ブログで多くなってしまった。そしてそのことで読まれた皆様からご心配頂いているし、いろいろご感想やご意見を、当ブログの「コメント」では少ないものの、御葉書や直に会った時に頂いている。全くもって情けなく申し訳ないと思う。そのことについて御礼も含めて少し記しておきたい。

 音楽仲間の友人に、たぶん我と同世代でやはり先年その母を亡くされ、今は残された父親と二人暮らしの我と似た環境の人がいる。
 その人から会ったとき、言われたのだが、親の介護のことやその苦労、大変さは皆どこも同じなのだから、あちこちに書いてあるしそんなのは貴ブログで読みたくないし読まれないだろう。それよりもっとマスダしか書けないこと、ユニークなことやフォーク論のようなことをもっといっぱい書いてほしい、と。
 確かにそうだと思う。自分だって親父がウンコ漏らして後始末が大変だったとかそんな尾籠な話は書くのも憚れるしだいいち読みたくない。もっと書きたいこと、書くべきことがいっぱいある。それを書くべきであろう。しかし、それはけっきょく介護話に優先されて日の目をみないでいる。

 が、それなのに何故そんなに親とのこと、介護に苦労している話を書くのかと言えば、まず何よりそのことを「吐き出す」必要があり、どこかにその溜まったストレスを排出しないことにはほんと発狂するか、自分も倒れるかストレスのあまり父を殺してこの家に火をつけ我も自殺するしかないからだ。
 恥ずかしい話、我にはこうした介護の愚痴を聞いてもらえる、甘えられる友はいない。昔なら精神を病んでいた友から深夜にかかってくる電話で、彼の話を聴きつつ我が事も話したりもできたが、今はその友も既に亡く、もはや誰からも電話はかかってこない。
 メールで女友達に、あれこれ長いメール綴って送ればうんざりされるだけだろうし、母も喪い、妻も子もない我はそうした介護のストレスを発散する場も話して聴いてくれる人も一人もいない。
 我にはこのブログしかなく、父を寝かしつけ、あるいは施設に送り出し、ほっと一息ついたとき、我が内に溜まったものを吐き出せる場所はここしかないのだ。

 そしてプロの書き手や、これで商売にしていくらかでもお金が入る物書きならば、「自分のこと」はさておき、エンターテイメントに徹して読み手の求めることだけ書くのだろうしそうすべきだが、そもそもこのブログはそうではない。書き手が書きたいことを書き、読み手が読みたいとき、読みたい記事内容を読むだけの関係なのである。それでいい。
 我も親のことなどではなく真に書きたいこと、書くべきことは山ほどある。しかし、そこに至るためにもまず溜まりに溜まった父とのストレス、その固まりをどかさないことには次に移れない。プロの物書きは、そんなことは臆面も出さず、読み手のためだけを思い、面白おかしく興味深いことを書けるのだろうが、我はそれはできない。

 申しわけないが、まずは喫緊の溜まったことから吐き出していかないとますますストレスが溜まってやがてはもっと危険なカタチで「爆発」してしまう。そう、介護疲れで、介護していた側の者が、老親を、あるいは愛した連れ添いを、突発的感情から制御できず殺してしまう事件があとを絶たない。
 今の我マスダがそうした事件を起こさないでいるのは、幸いにしてこのブログという場があり、そこでしょうもない「愚痴」をこぼしては鬱屈する屈託を発散しているからだと願わくばどうかご理解頂きたい。

 それにしても思うのだが、「地獄」というのはどこにでもある、そこかしこにあるのだなあということだ。そして今の現状も含めて、全て因果応報、愚かな我が自ら招いた結果だということだ。
 人は必ず、そのツケを払う時が来ると、若いときにあった誰か年上の人に言われた気がするが、今我は、好き勝手に生きて来たツケを払い続けている。
 そしてそれが終わればもっと楽に、自由になれるのかといえば、おそらくそんなことは全くなく、今よりももっと孤独で辛く淋しい暖房のない冬の夜のような人生が待っているのだと思う。その覚悟もできていないが。
 今はともかく今を、日々をやりすごすだけで精一杯で、あまりに長生きしすぎて頭がおかしく、ほぼ何もわからなくってしまった父と共に、一日一日無事終わらせていくだけだ。そしてそれをひたすら繰り返していけば一年は終わり季節はまた移ろい、新たな季節もまたやってくる。

 じっさい地獄はそこかしこにある。が、朝から晴れて穏やかな朝など来れば、ああ、まだ我は(父も含め)、我らは生きてここに在る。有難いことだと思うし、昔の人が冷えた身体で温かい風呂に入ったとき思わず「極楽、極楽」とつぶやいたように、そんなささやかな幸せ、極楽もそこかしこに、日々の中にあるのだと思える。

 うんざりするようなことばかりの世の中で、しかもうんざりする様な事ばかり書いてしまい申し訳ないと心から思うが、それもまた父が生きている間だけの話であるので、どうかもう少しご容赦頂ければ幸いである。我としてもできるだけ介護話の愚痴は控えるようにして、「事実経過」だけ報告するように努めるつもりだ。
 そう、大変じゃいない人生なんてどこにもないのだから。

コメント

_ サクラブルー ― 2017/12/22 14時36分22秒

ときに気が狂いそうになる自分。書くことで、そういう自分と向き合う増坊さんに共感するし、その姿が凛々しくて少し眩しい。たしかにうんざりすることばかりで、歌を口ずさむことぐらいしかできない。

_ ふく助 ― 2017/12/28 18時32分31秒

直面していることと向き合っていることが、フォークソングだと思う。
介護の歌があって良い。
ハワイのホレホレ節だって日々の当たり前のことを歌った歌だ。
堂々とマスダさんの今の暮らしを紡いでください。

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