抵抗の歌の歴史・完全版 12/23日、必見必聴!2017年12月18日 23時30分10秒

館野公一
★フォークソングに関心ある方、必見のイベントです。

・12月23日(土)抵抗の歌の歴史・完全版@かけこみ亭

 昨年の一橋大・鵜飼さん講座、今年5月の公民館、7月のgieeに続く
4回目のプレゼンです。内外のプロテストソングの音源を聞きながら
「抵抗の歌」の歴史を辿ります。ライブではありませんが、何曲か
生歌で歌います。これまでは時間の関係で、歌の1番だけとか、ワン
フレーズのみ聞いていただいてましたが「歌は全部聞くもの」という
ご意見で、今回、完全版を企画しました。音源はフルコーラスを聞い
ていただきます。所要時間は約3時間、このためちょっと早めの6時
スタートです。プレゼンと歌:館野公一
 
 6:00pm 資料代500円+オーダー

 谷保かけこみ亭 南武線谷保駅北口徒歩3分 TEL042-574-3602
 http://www.asahi-net.or.jp/~yi7k-ttn/kakekomi/


 ↑上記は、このところずっと共に反戦・護憲をテーマにしたコンサートに関わって頂いている、我が敬愛するフォークシンガー館野公一さんのメルマガからの転載であるが、ぜひこの企画、フォークソングに関心ある方、自らもうたっている方は、アマプロ問わず必見必聴だと思うのでご参加頂きたい。たぶんこれが最終の回となるだろうし。

 思えば、我は1970年代前半、中学に入った頃から深夜放送で日本の「フォーク」と出会い、以後約半世紀近くもそうしたうたを聴いて来た。一時期は、洋楽に浮気したりもしたし、今のJ・ポップなるものには何の関心も知識もないけれど、未だその当時のフォークシンガーたちと親交もあり、彼らのライブを企画したり、このところは僭越にも自らも少しだけ唄わせてもらったりもしている。
 そして昔からずっと考え続けて来たことは、うたって何だろう?いったい何をうたにすれば良いのか、うたはどうあるべきか、ということだ。
 むろんそんなことはいくら考えてもおいそれと答えなんか出やしない。が、最近ようやく自らも人前で歌う機会を得たからこそ、少しだけ、そう、ほんの少しだけれど、おぼろげにわかってきた。

 例えば、ヒトから請われ誘われたりして出かけた先で様々なシンガーのうたを観たり聴いたりする。そしていつも思うのは、昔から長年唄い続けているベテランは当然として、今の若い人はギターも歌も実に達者で堂々としていて大したものだということだ。拙さなどまったくない。みんな良い高いギターを持っている。
 しかし、ではそれで良しと言えるかといえば、我には常に不満というか物足りない点がある。いくらそのときは、大したものだと感心したとしても、終わって一歩店の外に出、家に戻ってから思い出してみると、彼は、いったい何を、どんなうたを唄っていたのか全く思い出せない人が多々いる。
 つまりそのライブの瞬間はともかく後になると心に何も残っていない。いくらギターが達者で、うたが上手くてもそれではダメなのである。ましてそれでチャージとって音楽活動を続けていくのならば、それでは早晩行きづまる。では、何がいけないのだろうか。

 要するに、その人は、うたとは何か、唄うこととはどういうことか、何をうたにすべきかがよくわかっていないのである。
 難しく言えば、唄うということの内的必然性がはっきり認識されていないのだ。※むろん、仲間内や音楽サークル等で皆で楽しく集い唄うのを楽しむ方々はそんなことは無関係の話であろう。問題としているのは、自ら人前に出て不特定多数の聴衆を前にして唄おうという意思を持つ人についてのことだ。

 むろん、ヒトが何を唄おうが何をうたにしようがそれはまったくの自由で、反戦とか護憲とか訴えるテーマがなければならないなんてヤボなことは言わない。人の数だけうたがあって当然だと考える。
 しかし、つまるところ、うたとは何かよくわかっていないし考えたことすらないようだから、唄い手としてのシャープさに欠け、その歌はピントが甘いのだと我は考える。

 まあ、ラジオやテレビで気に入ったフォークソングを耳にしその憧れのシンガーの曲をコピーしやがては自らも楽曲をつくり自ら唄ったり音楽活動を始める道筋は誰もが同じだろうからそれも仕方ないとも思う。
 この何十年もそうした音楽を聴き関わり続けて来た者でも「うたとは何か、何を唄うべきか」と問われたら一言では言えないし、答えに窮してしまう
 が、今の我は、はっきりは言えないけれど、うたの良し悪し、本物か本物ではないかははっきりわかるようになった。そして、当然の如く良いうたを唄っている人、本物のうたを唄ってる人は、その人間も善い人で本物だということだ。
 というのは、うたとはテクニック以前にスピリチュアルなもので、その人の内面を曝け出す。小手先だけのテクニックではボーカル教室やギターを習って上達してもごまかしようがない。そこに人間性が嫌でも出てしまう。ならば、どうしようもないのであろうか。そこに出口はないのだろうか。
 いや、そうではない。うたとは何かまだわからなくても、うたはどこから来たかは学ぶこと、知ることはできる。そして学ぶことで人は何を唄にして唄ってきたか、その「本質」が見えてくる。

 館野公一さんは、すぐれたフォークシンガーであると同時に、斯界きっての学究派古川豪や田中研二らとも近しく、そうした研究家肌の流れを汲み自らもトピカルソング、時事ネタソングである「バラッド」、彼曰く「語り歌」を意識的に歌い続けて来た。そして今回、大学の先生に請われてこうした「音楽講座」を担当しあちこちで好評を博して来た。

 実は、この我ももう10年近く前に、両国フォークロアセンターで、僭越にも同様の「フォークソングの歴史をたどる」講座的イベントを数回、主宰の国崎さんの許しを得てやらせてもらった。
 が、我は元よりその知識も浅く、後から来た世代でもあり、自らはその頃は音楽活動もしていなかったので、思うように語ることも表現することもできず、けっきょくそのフォーク史をたどる「講座」は数回で頓挫して、雲散霧消してしまった。まさに厚顔の至りで恥ずかしい思い出だ。
 それに比べてこの館野さんのこの企画は実にしっかりした素晴らしいもので、先にも拝聴してそれなりの知識を持っていると自負していた我さえも新たに大いに勉強になり知識を得ること大であった。
 
 表題に「抵抗の歌の歴史」とあるが、そう、うたとは元々その時々の民衆の抵抗のうた、プロテストソングだったのである。もちろん、喜怒哀楽をうたうのが歌なのだから、愛の歌、ラブソングだって歌だ。
 ただ、嬉しい、楽しいことを歌うことよりも、鬱屈や屈託、孤独や怒り、そして何かに抗議し立ち向かうためにこそがうたの「本質」なのではないかと我は考えている。何故なら、楽しいとき、嬉しいときは、ヒトはうたなどうたわなくても構わないのである。
 本来歌とは苦しい労働や抑圧された環境の中で生まれ育まれ、唄い継がれ聴く人々の心に届き残っていくものだと我は考えるし、そうでないうたは残念ながら世に残らない。

 この企画、音楽好き、うたの好きな人はもちろんのこと、少しでも自らもうたったり、うたに関心のある方はぜひぜひご参加頂きたい。もちろんこれだけで歌とは何かなんてわかりはしないだろう。が、うたがどこからきて、どこへ向かうか、ではなく、向かうべきか、はっきり見えてくることは間違いない。
 ぜひ多くの方のご参加を。

コメント

_ ふく助 ― 2017/12/20 21時49分37秒

もう10年になるんすか

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

名前:
メールアドレス:
URL:
コメント:

トラックバック

このエントリのトラックバックURL: http://masdart.asablo.jp/blog/2017/12/23/8751136/tb

※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。