この一年も世界が、日本が、平安無事、平和でありますように。2018年01月01日 08時01分18秒

★新たな年の幕開けに祈る。
 
 新しい年、2018年、平成30年が来た。
 我が事も祈りはしたが、それよりもこの世界が、地球全体が無事であるよう、今年も核兵器を用いるような戦禍が起きないことをただただ祈ろう。
 私的には、もう何も望まないし求めない。ただただ我、この身と、共に暮らす老いた父とがまず無事で一日でも長く生き永らえることを祈り願う。
 しかし、先のことは何一つわからない。全ては神の意思、天の計らいなのだから、起こる事、起きてしまったことは抗わずにただ受け容れていくしかない。
 このとことん弱く愚かで迷う者が、この歳までともかく生かされ大きな病や事故に遭うこともなく何とか生きてこれただけでも大きな奇跡、僥倖だと今にしてつくづく思う。
 まずそのことに感謝して、少しでも悔い改めすべてをきちんとさせて生き直したい。

 思うに、この世にあるすべてのモノ、物は、自分の物ではない。自然も含めてヒトはそれをとりあえず預かり使用しているに過ぎない。お金も含めて自分の物、自分だけのモノなんて何一つない。ならばある意味どうすることもできやしない。一時得たとしてもまたすぐに奪われ失くしてしまうこともままある。
 ただ、もし、その中でも「自分のもの」として確かに少しでも思い通りになるものがあるとしたら、それはこの我が身と我が人生だけであって、それだけは各自付与されどのように勝手に使おうとも許されている。

 しかしそれすらも成すべきことの「役割」は人それぞれ異なりこの世に生を受けた時から定められている。
 我は今まで、旧約聖書中の「ヨナ書」のヨナの如くに、その天からの声に耳を貸さず、果たすべき努めから逃げて囚われ、大きな魚の腹の中に長い間いたようなものだった。
 今、還暦を迎えてようやくその魚から吐き出され、陸に上がった気がしている。ならば、我もまたニネヴェの町に行かねばならないし、そこですべきこと、果たす役割があると気づく。

 これから残りの人生、あとどれだけあるのかわからないが、少しでもきちんと丁寧に、確実に、まず自らにもだが、誰に対しても誠実でありたいと強く願う。
 人の人生なんて、一夜にして与えられ奪われる、本の束の間の夢、うたたねのようなものだ。ならばこそその覚悟で、一瞬一瞬そのひと時、一日を大事に思い慈しみ、丁寧に、感謝して生きて行かねばならない。
 
 これまでも拙ブログの読者の方々をはじめ、多くの関わり持った方々にはご迷惑とご心配を多々おかけしてきた。我は根本のところが迂闊でバカだから、また過ちを繰り返すかもしれないが、どうかご容赦願いたい。そのうえで、誰にとっても求められる、少しでも人の役に立つ者になりたいと願う。
 ※本年も我の毎度のだらしなさ、考えなしの行動、失言から人を傷つけ呆れさせ怒らしてしまうことがまたあるかもしれない。どうかバカのなすこと故ご寛恕願いたいと思うが、そもそもそれで縁が切れる人とはそこまでの関係でしかなかったのだと今は思うしかない。

 この歪んでしまった世界が、少しでもまっとうに、人々が自分のことばかりではなく互いに思いやり助け合う、違いを許し認め合う社会になるよう、我にできること、すべきことをやっていく。
 こんな我に求める者がいるならば我はそれに全力できちんと応えていく。人は人のために生きてこそ人、ならば国家も他国のためにあってこそ国家なのである。何故なら我々は同時代に一つしかない、しかもかなり疲弊して来た地球に生きているのだから。
 大変な時代がやってくる。人も国も助け合わねばならない。これが我が新年に思い誓ったことだ。

新年に誓う2018年01月02日 11時13分52秒

★今年はまず音楽のスキルを高めていきたい。

 新しい年が来た。2018年、平成30年。改めて当ブログの読み手の皆様に、明けましておめでとうございます、本年もヨロシクお願いします!と大きな声で申し上げたい。
 去年も大変かつ辛いことが多々あったけれど、何とか老いた父と共に苦難の時をもやり過ごして一年乗り切れた。
 今年もまたさらに辛いことや大変な事態が待ち構えているかと覚悟もするが、先のことは考えず憂うことなくともかく一日一日、今日を、「今」を一生懸命、丁寧に慈しみ、感謝しつつ生きていきたい。
 先のことは誰も何もわからないし、あれこれ考え心配しても仕方ない。まずは誰もが死なずに、無事で元気で、世界は平安のうちに今年も過ぎていくことを祈るだけだ。

 新年にあたっての希望や期待などはそれ以上はなにもないけれど、我が事においては、ひそかに期することはある。むろんあれこれ懸案のこと、家の中の片付けやら本や紙ゴミ類の整理などは当然の責務であり何も今さら誓い人に告げるまでもない。
 我は今、音楽に関わらず自らの非力さを痛感するところ大で、還暦を迎えて今さらだが、もっともつと勉強し直さねばと考え続けている。
 中でも音楽は、もっとギターが上手になりたいとか思うは当然として、音楽のこと、知識やPAなど音響・録音技能全般、もっとわかるよう、きちんとできるようにならねばと今さらながら強く思う。

 元より我は譜面も読めないし書けないし、ピアノも弾けない。ミキサーもうまく扱えない。しかし、それではいろいろ何かと不便でライブの場ではいつも困惑している。頭の中では、こうしたいとか、ここがおかしいとは感覚的には思い、わかってはいても、それを言葉にしてきちんと理論的に説明できないことには人にはうまく伝わらない。
 ここは、ちゃらら~んとやってねとか、もう少し深い音、固い音にしてとか言っても、そうした感覚的表現ではやはり曖昧過ぎてダメなのである。
 ならば、自らが技能的にやってみせるとか、譜面に起こして示すとか、業界の言葉できちんと説明していくとか、より技能をアップさせる、今の言葉でいうならばスキルを高めていくしかない。
 そうした音楽全般の能力をアップさせない限り、いつまでたっても素人の域であり、それは持ち味だとしても、他者に対した場合説得力を持たないからダメなのである。

 還暦にあたって、60歳という年齢は、昔ならもう引退の歳であり、今さら何か新たになんて考えず孫たちに囲まれてのんびりと過ごし妻と温泉旅行したり悠々自適の日々となるのが世間的なのであろう。
 が、無年金かつ独身という修羅の道を選んだ者は、死ぬその日まで何とか必死に食いつないで生活を維持しつつその中で自らの表現活動を模索して行かねばならない。永久に楽な時は来ないと覚悟すべしだ。
 ならばこそ、今さらだが、還暦もまた巡り巡ってゼロからのスタートという気持ちで、自分の能力を高めていくしかない。そしてまだ今ならきっとそれはできるという前向きな気持ちで今はいる。
 
 まず、自分のダメさ、弱さをきちんと認めて、その「どうしようもなさ」ときちんと向き合い、少しでもマシになるよう、出来なかったことができるように、努力していく。それは全てにわたって何事も同様に。
 もうモノとして足りないものは何もない。パソコンもプリンタもギターや楽器も、機材もそして車も新たに手に入れた。全ては揃って手元にある。
 今年もまた新たな出会いや素晴らしい仲間、新たな家族が増えることを期待し願う。これ以上哀しみや苦しみが続かないようにと。
 さあ、もういっぺん、日が暮れる前に。世界が闇に包まれる前に、自分がやるべき、できることを少しでも少しづづでもやっていこう。まだできることがある。そしてできなかったことも少しづつできるようになっていく。

人は食べられるうちは安心だ。2018年01月03日 22時37分05秒

★正月三日目に「死」を思う

 新年早々不吉な縁起でもないことかもしれないが、人の死について書く。
 元旦、二日と風もなく晴れて穏やかな過ごしやすい正月だった。が、一転して今日は晴れても一日中北風が吹き荒れて、体感温度は低い三日となった。これで正月も終わる。

 昨日は東京に住む唯一の肉親、我にとって甥っ子、父にとって外孫である我の妹の長男が午後来て、慌ただしくお節料理やお雑煮を食べてまた仕事に戻って行った。
 彼は、アニメ会社でコーディネーターのような仕事をしていて、九州から上京後もう勤めて10年以上たつので今やバリバリの中堅社員でともかく超大忙氏なのである。

 三人兄弟の長男なのだが、弟たちは一昨年去年と先に結婚し、彼はテレビのアニメ受け持ってたりしてあまりに忙しくアニメキャラと結婚したようなものでともかく出会いの機会も時間もまったくなく未だ独身。
 下の弟たちはガテン系で、それなりに職場で青春を謳歌していたのだろうと推測するが、甥っ子はアニメ好き、ということは我に近しいオタク系らしく女性との付き合いも不器用そうで、映画「男はつらいよ」でいう、寅さんと光男のような関係にややなって来ていて、叔父さんとしては彼のことが少し心配なのだ。我のように独身のまま歳とってほしくはない。そのことは亡き我が母、彼にとって祖母の最期の心配事でもあった。

 せっかくの正月休みでもお節など作る人も食べるところもないだろうと、我はネットで三段重ねの出来合いのお節セットを取り寄せして迎えたのだが、そんなであまりのんびりもできなかったようだ。まあ、それでも我が父も孫が来てくれたので喜んだようだし、とりあえず唯一の親戚が来てくれたので今年も何とか正月を迎えられたのだ。
 彼が来なければ、我と父の二人だけなら何一つ正月の準備もする気も起きなかっただろう。それどころか大掃除以前に、部屋の片づけだっていつも通りのまま一切掃除もせず年を越していたかと思う。その意味で人が来ること、迎え入れるための支度をするということこそ大きな意味があると知る。
 でないと我がセルフネグレクトの度合いがまたひどくなって、もう何一つきちんと片付けもする気がなくなって、ますます人生の質は悪化し停滞と混乱をきたしていくかと思う。ごくたまに、ふた月にいっぺん程度でもその甥っ子が顔出すことで、我は彼のために部屋を掃除したり何か料理を作ったり好きなものを買い物したり、かろうじて迎える準備を整えるのだ。

 さておき、それで何とかごく簡単なお雑煮をつくった。甥っ子の母である我が妹からは、彼に食べさせてやるよう丸餅とかス先に届いていたし、今回は地元農協のお歳暮で鶏肉の鍋材料セットも来た。それをベースにお雑煮つくり、父にも食べさせた。
 餅が喉に詰まることも心配したが、ときおり咽込み咳しつつも、彼は実によくお雑煮を、餅をたくさん食べた。やはり昔の人だから、餅はごちそうだという感覚もあって、久しぶりの餅が嬉しかったようだ。何しろウチでは正月以外は餅など食べやしないし買うこともない。妹や親戚関係から餅は届くので、まさに年に一度の機会なのだ。

 ふだんは毎食時ごと食べさせるのに苦労する父が感心過ぎるほど食べてくれたので、我としてはこの正月ほっと安堵している。これだけしっかり食べられるのならばまだ当分生きるのではと思えてきた。この調子で餅を定期的に食事に加えれば、体重も増えるかもしれない。ならば体力も尽くだろうし、オツムの方はともかくも体力的には今年も持ちこたえられるかもと。

 前にも書いたかと思うが、我は痩せることに対して強い恐怖心と抵抗感があって、デブが良いとか憧れはしないまでも、痩せることは死に繋がると常に危惧している。特に老人が、痩せていくことは危険信号以外の何物でもないと考える。
 というのは、何人も父母世代の人たち、老人の葬儀に出向き、その棺の中の死に顔を見て知ったことだが、死んだ人は皆誰も彼もまず骨と皮になっているのである。そこに我が知る生前の元気な頃の面影はほとんどない。死に行く者は皆誰もが、完全に生気を失って生命エネルギーを出尽くした挙句死んでいくのだとわかったからだ。

 我が母もまたそうであった。大腸に転移した癌ということもあったが、一昨年の春先からじょじょに食べられなくなり食べても下痢が続いたりして、まさに最後は骨と皮になって衰弱死的に生命エネルギーが枯渇して死んでいったのだ。
 盟友高田渡の死を唄った中川五郎氏のうたの歌詞の一節に、その顔はギリシアの哲学者のよう、という渡氏の死に顔を表した一節があったと記憶するが、確かに死に行く者は皆一様に頬がこけて目はくぼみ誰もが哲学者的な風貌となって棺の中にいる。
 先だって亡くなったのみ亭のマスターもまた同様で、端正だった甘いナイスガイがさらに彫りが深く鋭いほどに痩せてしまっていた。

 むろん事故死とか脳溢血、心筋梗塞などの突発的、突然の死はこの範囲ではないのは言うまでもない。が、たいていの死は、老いとそれに伴って癌などの病気との相乗作用で訪れるものであり、癌の最後は痩せ衰えるほどその身を蝕むのが常だから、誰もが痩せ衰えて最後はまさに精根尽き果てて死んでいく。よって人は痩せてきたら危ない、死の危険信号だと言うのである。
 ということは、裏返せば、いくら年とってていてもある程度の体重があるうちは、多少太っているぐらいならば、すぐには死なないし死ねないといことになる。我はまだ血色良く太っていて病死の人には会ったことはないし、人は生命エネルギーが体内にあるうちはおいそれとカンタンには死ねないのである。

 かくいう我も、一昨年から去年の春先までは、母の介護疲れと心労と不規則な生活が重なって、かなり体重が落ちて自分でもマズイと思うほどだった。我の場合、うんと若い時は50キロ台半ばだったから、それでも良いはずだけれど、さすがに60キロを切りそうになったときは不安になった。会う人ごとに痩せた痩せたと言われてご心配かけてしまった。
 一時期は太って、70キロ近くまであった身が、この歳で10代~20代の頃に戻るのはやはり尋常ではない。何しろ筋力がないからそうなるとフラフラで体力も続かないし無理もきかなくなる。やはり脂肪は、身体にとって電池のような蓄えであり、まさにエネルギーの源なのだと知った。
 まあ、今は甘党になって、あんこ系の和菓子やチョコレート菓子を自ら買って食べたりもしているので、また気がつけばデブになっているかもしれないけれど。※それはそれで太ると体が重くてすぐ体力がなくなってこれも辛いのである。

 まあ、何であれヒトは食べられているうちは安心、大丈夫であり、食べられなくなって痩せてきたらやばいのだと、経験から学んだこの真理は揺るがない。幸いにして我が父は今はまだ食べられていて、昔に比べればだいぶ痩せてはしまったものの、まだまだこれなら大丈夫だろうとこの新年に思った。有難くも餅効果である。ただそれだけのことなんだけどね。
 皆様もダイエットなどせずにしっかり食べて太り気味でいてください。人は死ぬときは嫌でも食べられなくなり痩せ衰えていくのだから。食べられるときにしっかり食べろ!!である。

中川五郎新年会20182018年01月06日 23時26分12秒

★二年ぶりに顔出して来た話

 スゴイライブでした。御大ますます油がのてます。後ほど画像で報告します。ちょっとせがらしうて時間が今ないので

年明け初めての雨の夜に2018年01月08日 21時08分45秒

★新しい車で山梨へ行ってきた。

 1月8日の祝日の月曜である。外は雨が降っている。が、雪になるほど今晩は冷え込んでいない。新年初の雨である。からからに乾いた喉と大地に潤いあれ、だ。

 実は、昨日から一泊二日で、昨年暮れ新たにウチに来た中古のワゴン車、スズキのバーモスで、初めて山梨の倉庫兼古民家へと友人である社員氏を招き共に行ってきた。
 父はむろんショートステイで施設に土曜の朝から預かってもらってのことだ。その土曜6日は、東横線学芸大学で、敬愛する中川五郎氏の「新年会」ライブがあり、我も誘われて顔出して撮影など記録してきた。
 それについては、これから画像中心に拙ブログで報告・アップしていく予定でいる。が、まずは、今日のこと、新しい車で山梨へ行ってきた報告をしておきたい。

 やは中古とはいえ、手入れの行き届いた今度の車はまさに快適で何の不安もなく、まさにすべるように、流れるように高速道路をひた走り、行きも帰りも問題なく走れることが確認できた。おまけにガソリンの減りも前のスバルのサンバーより少なかったこともわかった。これで20万円は実にお得な買い物だと同行の友人も大いに感心していた。
 我マスダは本当に、ダメでだらしなくよって常にトラブルに遭い失敗失態起こして苦労するが、幸いにしてそれを補うかのように、こうして友人知人がいつも救いの手を差し伸べてくれて、それで何とか助けてもらい人生が続いていくのである。

 もっとまっとうかつ平穏無事の人生を乞い願うけれども、他人に話せば卒倒してしまうようなことを繰り返しつつも幸いにして死なずに生かされまだ生きているのだから、せめてこの程度の僥倖、助けや救いがなければ行き詰まりやりきれずに自殺してしまう。
 前の不調起こしてた車で、高速道内で何度もエンスト起こし、危うく事故死するところから始まり、今また新たな快適な車が格安で手に入ったこともまた全ては神の計らい、恵みであり導きであるのだとつくづく思う。ならばこそ生かされたこの命、深く感謝して、我が使命、我でしかできない 成すべきことを一つ一つ成し遂げていくだけだ。恩には恩で返さねばならない。

 さておき、実は今回山梨へ行くにはとても大きな目的があった。拙宅に溜まっていた古本古雑誌も積んで運んだが、それよりも向うに置いてある冬用のラジアルタイヤと、今この車に付いている一般車道用タイヤとを交換せねばならず、そのために雪が降る前に向かったのだ。
 このスズキのバーモスと前のサンバーとは、当然ながら車のタイヤのサイズも同じであって、昨年の春に取り替えた冬用タイヤを、山梨の古民家に置いて来てあったため、この冬、本格的に雪が降る前にどうしても山梨へ出向き早く今のタイヤとチェンジする必要があったのだ。

 交換しないことには、山梨で一度でも雪が降り、道路が凍ってしまうと東京から普通タイヤのままでは行けなくなってしまう。雪が降っていなくても我が古民家は標高が高い山里にあるから、少しでも雪が降ってしまうば、日陰の道は雪解け水が溶けて流れたものが朝晩は凍ったままで道は常にアイスバーン状態なのである。
 そんなところをラジアルタイヤでない車で入ると、スピンして危険極まりないだけでなく、登った坂の下にあるその古民家は、着いたとしても道が滑って車は出せなくなってしまう。そのまま春まで向うにいるわけにもいないわけで、何とかできるだけ早く雪が降る前にタイヤ交換せねばとずっと気持ちは焦っていたのだ。これは北国に住む人ならよくご理解頂けるかと思う。

 で、五郎氏のライブの後、気持ちも高揚してろくに眠れず睡眠不足気味ではあったが、友人を招き、日曜朝から、荷物積み込んで昼前に犬たちも乗せて人間男2人、犬雌2で、バーモスで圏央道秋川から入って山梨へ向かった次第。
 昨日は、荷物下ろすだけで疲れて夕方になって暗くなってしまったので、今朝は早く起き、二人でジャッキかませて車を持ち上げて、朝7時からタイヤ交換作業に専念した。

 新しい車はいろいろ勝手が違い、当初はかなり戸惑い時間もかかったが、何とか2時間かからず全部冬用ラジアルタイヤに交換がなった。今日は、朝からどんより曇り空で、向うは寒く今にも雪が降って来そうで、タイヤ交換が間に合うか焦った。そして何とかぎりぎり雨が降り出す前にラジアルタイヤ交換は終えられてほっとした。
 ただ、昨日から荷物積み込むのに中腰になったことや、車の下に潜り込んでジャッキを噛ます位置探したりとかなり無理して動いたらまた腰痛が再発して、運転はともかく歩くのも辛くなってしまった。

 今日は向うではタイヤ交換以外は何もせず、昼前に出て、帰り途に開始の名取温泉という源泉かけ流しの銭湯に入って、半露天風呂で一時間ばかしお湯の中で仮眠してやっと痛みも軽くなり無事帰ることができた。
 そして雨の中、中央道で戻って来た。まあ、今日は気温も高く、向うは雪となったのかはわからないが、ともかくやっとタイヤも冬用に替えたので何も心配なくこの冬も向うに行くことができる。今晩は枕高くして眠る事がてきる。いずれにせよ、一人ではこうした作業は危険かつ大変でできるはずもなく、昔ながら学生時代からの友が来てくれてのことだ。まったく有難いことである。

 人生はこうして一つひとつでもやるべきけんあんのことを処理対応し片付けていくことだと新年であるし今つくづく思う。世間的、政治状況的には今年も大変かつ苦難の歳になるかと思うが、我個人においては今順調に、少しづつでも進んでいる。この調子で、今年こそ念願のこと、けんあんのことを果たしたいと強く願う。

 まだまだできる、やるべきことがある。きっとそれはできる。がんばろう。

新年そうそう慌ただしく忙しくて2018年01月10日 23時59分10秒

★落ち着いてブログも書けないでいる。

 新しい年も始まり気がつけば早や10日過ぎてしまっている。すぐに月半ば、そして月末になるだろうし、そうこうしているうちに2月はあっという間に過ぎ行き、何だかんだ言ってるうちに3月に、また今年も春が来るだろう。
 年明けから体調は相変わらずだが、ともかくやるべきことがいっぱいで、正月もだが、新年気分なんてかけらもない。毎度のこと父の介護と洗濯や犬猫の世話などの家事と金の工面に追われている。

 昨日、今日と父はショートステイに行ってくれて我の時間はあったのだが、山梨で買ってきた野菜などをお世話になったご近所の人たちに「お返し」として配りに行ったり、遅れた年賀状をやっと発送したり父が通っているデイサービス事業所への溜まった利用料をかき集め支払ったりもうともかく忙しかった。
 パソコンに向かう時間はなくはなかったのだが、今、我は古本商売のほうに本腰入れねばならず、そのためにAmazonで価格を検索してマーケットプレイスに出品したりと、そうした作業に追われていてとても落ち着いてのんびりブログに取り組めないでいた。
 
 ここで書いても仕方ないことだし、実のところ恥ずかしく情けないことだと思いもするのだが、去年から我が家の家計は赤字続きで、もはやどうにもやっていけない。父の少ない年金だけではどうにも生活がやりくりできないのだ。
 父の年金は月に16万ほどで、それが二か月分まとまって偶数月に振り込まれる。が、今、父の介護保険料と通っている介護施設利用料、さらに訪問診療、訪問看護、デイケアなどの医療費だけで毎月10万円近くかかってしまい、残りの額では、もろもろの税金や光熱費だけで消えてしまい、食費などに回す金がない。

 むろん、我が、もっとカタギの務め人で、ちゃんと月月の定収があれば、父の年金の範囲内で、たぶん何とか回せるかもしれない。が、我は在宅のフリーターのようなもので、Amazonで出品しているネット古書店から得る収入はほんの数万円ほどしかなくしかもバラつきあるし、ほんの小遣い銭程度にしかならない。仕方なくこのところ我の乏しい貯金を毎月取り崩して何とか補填してやりくりしている次第だ。
 以前、母が生きていた頃はまだそれでも親たちの年金だけでこの家は何とかまわっていた。それは母の年金が少ないけれどきちんと入って来ていて、夫婦合わせれば何とかなっていたことと、父のお泊りなどの介護サービスも今ほど利用していなかったので、出費は押さえられていたからだ。

 それが母が逝き、父の年金内だけでやっていってみると、父を週のうち三泊程度預けると、宿泊自体の利用料は一割負担だから大したことはなくても、食費などは実費だから、行けば一泊でも何千円もかかってしまう。
 一泊預けるだけでも、行った日の昼食、、おやつ、夕食、そして翌日の朝食、昼食、おやつと、一食800円だとしても、四千円近くかかってしまう。これは、もう少し年金が少なければ、補助がきくのだとそうだが、市役所にかけあったところ、「オタクは多いから無理」と断じられ、月に16万ほどの年金のどこが多いのかと憤ったものの、せいぜい紙パンツ代は市の補助で一割負担ですんでいるのでそれに甘んじている。それだって正規で買って支払えば、毎月1万円近く下の世話の処理にかかるわけなのだ。

 今月は、前のところが高額すぎたので少し安い、11月から通い始めたM苑という施設に、支払う利用料が二か月分溜まってしまい、来月分として別分けしておいた分の年金から出して支払った。二か月合わせて5万7千円~。もう来月分用の年金は、先にもいろいろ取り崩して使っているので、もうあと数万しか残っていない。
 果たしてあと一か月強の間、来月の年金が振り込まれる2月15日までいったい我家はどう生活して行けばよいものか。

 幸いにしてお米は九州の妹のところからとか他にも頂いた分がたくさんあるので、食費だけは買い置きした缶詰やら乾麺類で、何とか事足りるかと思う。ただ問題は電気代で、ようやく東電はやめてガス系会社のそれに乗り替えたものの、今は父がいる日はほぼ終日エアコンはつけっぱなしなので、また3万にもなるのではないかと危惧している。※去年は東電に最高一月で4万超すバカ高い原発関係費含む電気代を支払わさせらせられた。
 その九州の妹からも、兄ちゃん、父の世話は大変やろうからと、先夏に数十万家計支援のカンパを頂いた。ただそれもじょじょに取り崩して使ってしまい、もうあと数万ほどだ。
 我がどこかバイト仕事に出ればいくらかは定収が入り、生活は安定するのだが、父の体調もあるし、今のような父が週のうち何日かショートステイに通うようなスケジュールではなかなか勤めに出ることは難しい。何しろ急に体調崩すときもあるし、何しろ行く日と帰る日は、送迎の時間は家にいないとならず、そんな不定期なバイトはやはりネット古書店程度しかありえない。

 我が手っ取り早くできる金稼ぎの方法は、ネット古書店しか今はないわけで、いきおい今は時間あるときは、パソコン向かい、手元にある本がネットで売れるものか検索に余念がない。しかもそこもアマゾンの手数料が先日一方的に上げられてしまったので、ピンハネ代が多く、売れてもあまり実にならないのである。しかし、それしか今は手はないのだから、申し訳ないが、ブログは後回しにして今は必死に商売に励むしかない。

 株価は年明け後も連日高値を更新して、世間はバブル期並みの好景気感に湧いている。が、そんなのどこ吹く風の年金生活者、低所得者はたくさんいるかと思う。
 物価はこのところ上がり続け、税金も介護保険料も上がる一方だ。出る金ばかり増えて、もう正直やつていけない。
 
♪お前この世に何しに来たか、税や利息を払うため。こんな浮世に生まれて来たが我が身の不運と・・・諦めない!!!

館野公一「語り歌の継承」60回目!2018年01月13日 17時59分55秒

☆2018年1月13日(土)語り歌の継承@かけこみ亭 館野公一
★記念すべき60回目は、五十嵐正史をゲストに迎えて
 
☆2018年1月13日(土)語り歌の継承@かけこみ亭 館野公一

今の「時代」を、どう「うた」にしていくか2018年01月14日 22時28分57秒

記念すべき60回目のゲストは、ソウルブラザーズの五十嵐さん
★館野公一氏の「語り歌」ライブから「時代」を考えた晩

どうやら改めてまた風邪?ひいたのか2018年01月16日 21時50分16秒

★体調悪いので手短に

 まったく情けなく書くことも憚れるが、先週末のかけこみ亭でのライブ以後、また風邪を改めてひいたようで、この数日苦しい思いをしている。
 実は、昨年、秋から我はずっと風邪気味で、先だっての共謀コンサートの折、来てくれて久しぶりに会った旧い友からも「お前は風邪ひいていないときはないじゃないか」とお叱りを受けたぐらい咳や淡が出る状態が続いている。

 12月のみほこん企画の三鷹でのコンサートも咳止め薬を吞んで何とか出向いたし、年明けの中川五郎新年会も、咳がまた出そうだったので、終わったら早々にいち早く辞去させてもらった。
 昨年秋から数ヵ月もそんな不調が続き全然治らないので、もしかしたらこれは結核とか無熱性肺炎ではないのかとさすがに不安になり、病院に行こうと思っていた矢先、今は風邪らしい風邪の症状が出た。
 鼻水がポタポタ垂れて止まらないし、咳も出、淡もからみ熱はさほどでないが、ふらふらして身体もだるくしんどい。おそらくかけこみ亭でまた今季の風邪をもらったようだ。そんなでブログも夜書けず、父を寝かしつけたら続いてすぐに我も倒れ込むように寝てしまっている。このところ「さわり」とか書けずにいる。申し訳ない。どうしたものか。

 ただ、我は昔から気管が弱く、これは父型の負の遺産的体質で、疲れたり無理すると咳が出て止まらなく呼吸困難になるという傾向がある。
 母が死ぬ前の頃は寝ずの介護でかなり無理していたが、その頃はもうそういう「体質」も忘れるほど状況は切迫していて、そんな状態は幸い起きなかったが、このところ父の介護に追われるようになってきてから、疲れがたまるとまた止まらない咳に苦しむようになってきた。
 薬で抑えたり、要するに暖かくして無理せず安静にしていれば収まるものなのだが、父の世話が第一だと、そんなのんびり身体を休めるわけにもいかない。父を施設に預け、いっとき介護から解放されたとしても、本の発送やらその日のうちにやるべき「仕事」も多々あって、なかなか横になってのんびりと休むこともままならない。
 おまけに昨日から横田基地周辺はオスプレイが何機も連なって朝夕飛来して来てその重低音の爆音に不調の我は精神的にも発狂しそうである。落ちるのなら早いとこ、我が頭の上に墜落してほしいと本気で願う。

 そんなで、今日は注文本の発送と、友人に送るものだけまとめて発送して犬たちの散歩を終えてから夕刻、ほんのひととき横になり仮眠とってようやく咳は今収まっている。まあ、今は夕飯で、ストーブつけて日本酒熱燗にしてかなり吞んで身体を温めたこともあるが、咳も鼻水も収まってこれを記している。
 父は幸いにして、風邪?は今のところ伝染らず、バカは相変わらずだとしても介護施設に今日も行ってくれて大いに我は助かっている。父不在なのだからもっと腰据えて、けんあんのことを進めていこうと思うのだが、夜起きているとまた咳が出始め止まらなくなりそうなので、書きかけのブログは気にかかるものの、読み手の方々には申し訳ないと思いつつ眠れる時は早く少しでも長く眠って休むしかない。
 この風邪以後も咳や淡が収まらなければ、近く本格的に医者にかかり精密検査受けることにした。元より体力無しのところにこんな容態では無理もできず、この先何一つきちんとしたことはできやしない。皆にご心配ご迷惑をおかけするだけだ。

 今年の我の、還暦からの課題は、残りの人生にこれ以上無理や負荷かけぬよう、体調をもっと整えて自愛していくことだ。いわば身体を自ら調整し、残りの人生のためにチューンアップしていくということだ。今さらスポーツジムに通おうとかトレーニングなんかしようとは思わないが、もう少し体調を常に整え管理して慢性的咳等「病気」常態の今の体質から抜け出なければならない。
 それができなければ我に「老後」などないだろう。おそらく父を看取れば、息子もまた後を追いやがて衰弱死してしまうだけだ。

 中川五郎氏のように老いてますますパワフルになろうなんて考えないが、この慢性的咳等の風邪気味体質から何としても早く脱却して健やかに、フツーの健康的老人になりたいと心から願う。こんな体質では唄うことも人と集い何か共にすることすら難しくなってしまう。ブログだって書きたいことが思うように書く時間すらとれない。

 いったん咳が出始めれば止まらなくなり苦しくて何一つできなくなる。咳止めの薬飲むとかアルコールで紛らしからだを休めるしかない。となるともう何もできないままにその日そのときは終わってしまう。しかし、もうそんな悠長な時間は我にはない。願わくば根本的に体質を変えられたらとただ祈るしかない。

 と、今また咳が出始め、鼻水もまたポタポタ垂れ始めて来たので、ここまでだけ書いてともかく早く寝るしかない。焦り苛立つ気持ちは強いが、全てはまた明日ということで。
 体調が悪いと、正直もうダメだ、ダメかもしれないと思うけれども、いや、まだこれでは死ねない、死んでなるものかとも思う。
 おそらく何も何一つできないまま人はなし崩し的に死んでいくのだろうが、これで死ぬのはあまりに情けないではないか。果たせなかった思いだけ残して何一つ成し得ずに死ぬのはあまりに情けない。
 ならば、辛くシンドイ状況だけど、だからこそここから何としても這い上がらねばと苦しい息しながら胸をさすって我は思う。何とかここから立ち直らねばと。
 これで死んでなるものかと。

オスプレイが飛び交う雨の午後に考えたこと2018年01月17日 23時48分15秒

★自己責任論ですむこととすまないこと

 風邪は相変わらずというか、咳だけでなく頭痛もしてきて本格化してきた。今日も父をショートで預けて不在なので、とことん静養につとめられるはずなのだが、早朝から本の用事があり、雨降る前に終わったから良かったが、市内走り回ってけっこう疲れた。
 午後から食事もろくにとらずにともかく横になりうつらうつらしていると、このところまた横田基地に飛来してきている米軍機オスプレイが、八王子方面からひっきりなしに飛んできて、浅い眠りは妨げられてしまった。

 オスプレイの「騒音」について、体感した人は想像もできないと思うが、通常のヘリコプターとは異なり、二つのプロペラが複合化して重低音で鳴り響き、ものすごい振動で我家の窓はビリビリ鳴り震えるほど衝撃がある。
 通常は、たいてい一機が来ると、後を追うようにして少し間をおいてもう一機、というように二機続いてやってくる。
 それが今日は、降りそぼる曇天の雨の中、一定の間隔をおいては次から次へとバラバラバラと八王子側滝山丘陵を越えて飛んでくる。その数、きちんと数えていないが、10機近かったのではないか。
 オスプレイはこれまでも何回も横田基地に飛来してはいるが、これほどいっぺんにまとまって飛んできて「集結」したのは我の記憶にない。

 正直、ほんとうに心身疲弊した。風邪で体調がすぐれないということもあるが、オスプレイの騒音だけは、何十年間も通常の飛行機の爆音に慣れた我でも耐えきれない。音が大きくてうるさいだけでなく、その重低音での「振動」がヒトの体感に悪影響を与える。
 オスプレイが飛んでくるときは、まず空が何となく騒がしく「平穏」「平静」でなくなるからすぐわかる。まだ遠くから姿がみえないうちに、何か空が騒がしくなってきたかと思っていると、遠く向うからバラバラと特有のプロペラ音が聞こえ出し。そのうちあの不気味な特有の姿がはっきり見えてきたかと思うと、不快な振動と共に、我家の、我の頭上を通り過ぎていく。その通り過ぎた後こそすごく大きな通過音が残る。

 横田基地への飛行ルート直下のこの町のこの場所に暮らし始めて半世紀過ぎたかと思うが、かつては北爆の頃は、B52など戦闘機の爆音がかなり激しく昼夜なく飛来し大いに悩まされたが、それは音が単に大きいだけで、ある意味慣れることもできたと思える。
 しかし、このオスプレイだけは、音の大きさよりも非常に不快な重低音で、その特有の振動こそがヒトの心身に不快な悪影響を与えるように思える。そこに当然ながら墜落等事故率ナンバーワンという欠陥機としての不安も重なる。
 それがここ横田基地に何機も近く常駐配備されることが決まっている。ということは、この不快な耐えられないような状況が常態化することになる。

 今日、ひっきりなしに次から次へと八王子側から飛来してくるオスプレイに思ったのは、もしこれが日常的な事態になるのならば、もうここには住めないな、ということだった。とても心身が、特に精神的に我はもう耐えられないと思った。
 これが勤め人で、日中は家にいないのならば、夜間は特別の事態でない限り飛ぶことはないはずだから、この町で暮らしていけるだろう。が、我のように基本在宅で、居職の暮らしをしている者は、今日のようにひっきりなしに一定の間隔で、次々とオスプレイが頭上を飛び交うようになったら精神衛生上的疲弊してやがては頭がおかしくなってしまう。おそらくこれだけは慣れることはないと断言する。

 正直、まいったなあというのが今の気持ちで、安倍自民政権が今後も続く限り、ますます日米関係は強化され、ここ首都東京にある米軍横田基地がなくなるどころか、基地機能は強化されオスプレイは常駐しこの状態が常態となつていくのだろう。政権が代わり、きちんとアメリカに申し入れし、米軍基地縮小と配備撤回が成されない限りこの状況は21世紀中葉となっても続いていくのだろう。いや、戦争など有事の事態が発生すればここ横田は最前線の指令基地となるのだから、さらに騒音被害は増していく。
 何とかならないかという思いと、残念だが、ならば我のほうが移転、引っ越しという方策をとるしかないのかという迷いで今日は心が揺れた。

 俗に昨今は、「自己責任論」が流行りである。沖縄の普天間基地周辺の住民に対してもだが、そんな危険なところに住むのがワルイなどと、本来被害者である側が、世間から批判されたり非難されてしまう。つまりそれもまた「自己責任」なのだから抗議とか文句等言うな、嫌なら自分でそこから立ち去れ、ば良いのだと。
 ある意味、それも一理なくはないとは思う。ここ横田基地の飛行ルート直下の我が家も、そんなウルサイところに越して来たのがそもそも悪いのである。

 経緯を語れば、今から約50年以上も前、当時高円寺に住んでいた我家は、とある理由から急な引っ越しを余儀なくされ、大急ぎで我が父がここ青梅線昭島近辺に土地を求めた。理由はカンタンで、父は米軍立川基地に勤めていた関係上、通勤に便利で日当たりの良い分譲地を求めたのだった。
 が、我の父である故当然バカだった父は、その場所が、横田基地の飛行ルート直下にあたることは気づかなかったのである。下見に来たときはちょうど休日かなんかで飛行機も飛んでいなかったと述懐していたが、自分が基地関係の仕事に就き、さんざん全国の米軍基地のことも熟知していたのにも関わらず、愚かにもその「場所」の欠点に思い至らなかったのだ。
 
 まさに父のその愚かさ、迂闊な選択によって図らずともそんな米軍機の騒音公害に悩む場所に暮らすはめとなった。しかし、近所の人たちの中にも父同様、ここに居を構えたのは、そうした「事実」「状況」を理解し覚悟して住み始めたという人は少なく、当時は、ベトナム戦争も本格化する前の話であり、米軍機の爆音被害はさほどでもなく、多くの人はともかく安くて上下水道も完備した駅にも近く利便なここにあまり何も考えずに移り住んできたのだった。
 そして今、オスプレイが横田基地に常駐配備されることになり、それに抗議もし、何とか撤回を願う運動をしている者として思うのは、「自己責任論」というのは、本質的にモノゴトの本質を、きちんと捉えていないのではないかということだ。

 むろん最初はそこに自己責任はあろうし問われる場合もある。しかし、モノゴトはそれだけで未来永劫済むものではなく、時間的経緯もあるし、普天間のように、戦後米軍基地が出来たことにより住民が周辺に追われてそこに住むことにならざる得なかったという「事実経緯」がある。
 同様に、人は先のことはわからないのである。そのときの判断が正しいとか、深く考えずにそうしたとか、そう選んだとしてもそれを未来に渡って「自己責任」で済ませてはならないのではないのか。

 我は結婚していない身で、言うのも無理あるかもしれないが、結婚した時はやさしくて良いダンナ、妻だったとしても長い結婚生活で変質し、問題ある人格に変貌してしまうことだってあろう。そのときに、そんな人と結婚したのだからと、自己責任だと批判したり切り捨ててしまうのは、その根源のところ、問題の本質をないがしろにしていることのはずだ。
 同様に、どんなことであれ、その「結果」だけを見て、そこに当時者の当初からの「自己責任」を問うのは間違っていると我は思う。
 人は変わるし状況も変化していく。確かに根源のところに常に「自己責任」というものは念頭に置かねばとも思うが、それだけで一括りにして、その当事者だけに責任を負わせるのは大きな間違いである。

 誰だってそんな場所に好きで選んで住みたいと願う者はいない。大変な場所だと気がついたとしても人は、そこでの生活もある故、簡単に引っ越しなどできないものなのだ。そうした細部や経緯も深く考え知った上で、野次馬的人たちは、当事者をとやかく言うべきであろう。
 まあ、今の時代、水に落ちた犬を打つが如く、他人様をとやかく批判し貶すのは流行りであり、まあ古今東西、昔から人の世の常なのかもしれないが。

 とにもかくにも我がまだ生き、ここに在るかぎり、オスプレイも含めた生きていくための面倒ごとは続いていく。悩みは尽きない。