友達のトモダチはトモダチなのか2018年02月07日 20時11分04秒

★初フェイスブック雑考~友達百人出来るかな

 う~む、である。
 天網恢恢疎にして漏らさず、という言葉があるが、フェイスブックなるものの「元締め」、というのは、コンビュータのAⅠのようなものが管理・処理しているのか定かでないけれど、ともかくびっくらこいた。感心を通り越して感嘆し怖くなった。

 既にフェイスブックに算入されている方はご存知のことだろうが、この「サービス」を利用するには、まず自らの個人情報を入れて「アカウント」をとらねばならない。
 向うが求めてくるのは、最終学歴としてどこの学校をいつ出たか、学科は何か、いつ在籍したか、仕事は何なのか、どこに住んでいるかとか、過去のこと全般諸々の個人情報で、それを詳しく記せば、するほどかつて関係し関連した可能性ある人間が次々と「知り合いかも」と画像付きで表示されてくる。

 我マスダは、フェイスブックは、そうして小学校時代の同級生から別れた彼女まで連絡あったりすると先に聞いていたから、そんなことはトンデモナイ!と思い、個人情報を最初に提供するに際し、できるだけテキトーに大ざっぱに書いて送っておいた。

 我は高校時代、いろいろあって不登校にもなりその頃のことは思い出したくもない。消したい忘れたい過去である。もし、小中も含めてその頃の同級生から「友達申請」とかあったら正直困る。
 世の中にはそんな風にして「過去」と繋がり今またその頃の人たちと懐かしく向き合いたいと願う人もいるのだと思うが、我は過去の自分も含め、昔のことは一切否定したいし、懐かしいとか振り返りたいとは全く思わない。

 ♪あのとき君は若かった、という出だしのGSの歌があるけれど、ならばこう唄いたい。
 ♪あのとき僕はバカだった。今でも少しバカだけど。君を傷つけバカだった。許してほしいバカだから~、である。

 その頃のことは、ふと懐かしく思い返すとしても、当時の人たちと今また連絡取り合っていったい何をするというのであろうか。過ぎた過去、過ちは取り消せないし、お互い若気の至りだったと水に流そうとか言うのであろうか。
 そもそもこんなネット上のサービスがなければ、人は過ぎた日の人と再会したり今また連絡とろうなんてできないし思うはずもないのだ。そうした人間関係は、正直ウザいし我には必要ない。
 大事なのは今とこれからだけだ。過去から逃れたい。

 経緯は記したが、ある意味やむにやまれず仕方なく始めることになったフェイスブック、さっそく次々と我の「知り合いかも」しれない人たちが我に表示されてきた。
 とうぜん音楽関係の、我もそのステージを見たり会ったりした人もけっこういる。が、こちらは知っていても向うはたぶん知らないだろうし、たとえ向うが知っていても我は「友達申請」など自らする気は一切ないので、ほったらかしにしていた。

 が、流してざっと見ていたら、その中に、ごく親しくしている友人、我の大学時代からの親友で、拙ブログでもよく記す、茨城県笠間に住んでいて我が古本業の仕事を、山梨へ行くとき等いつも手伝ってもらっている「社員氏」の弟が出て来たのには驚いた。
 埼玉県の生協に勤めているその弟とは一度しか会ったことはなく、「社員氏」からたまに動向は聴いてはいても友達でも何でもない。そもそも大学も違う。親友の弟だという関係でしかない。
 だいいち「社員氏」じたい、大学は中退、今はパソコンもないし、ガラケーしか持たず、とうぜんフェイスブックなどまったく無関心無関係の人なのだ。なのに、我がフェイスブック始めた途端、その彼の弟が「知り合いかも」と出て来た。いったい何で!???どうして、その関係が知れたのか。びっくり仰天とはこのこと、まさに天を仰いだ。

 確かにその人とは「知り合い」なのである。が、天網の「天」、つまり神様ならばお見通しでも、そんなごく個人的人間関係がどうしてフェイスブックという私企業に即露呈したのか。
 ということは、他の表示され出て来た人たちも同様に我は気がついていないだけで、その程度の何かしら我と「関係」はしかとあるのかもしれない。恐るべしはフェイスブック、だと思った。
 インターネットとは「天網」ではないはずなのに、確かにコンピュータが管理・把握するネット、=網によって、こんな微細な人間関係でさえも即座に結びつけてしまう。まさに疎でなく密にして漏らさないのである。これは本当に怖いことではないか。

 また、千人単位で「友達」を持っている人を「友達承認」すると、その人の「トモダチ」が同様に、また「知り合いかも」と大量に表示されてくる。見ると、同じ大学関係の人たちならば知っている顔ぶれもなくはないが、それ以外でも、あの人とこの人が結びついて「トモダチ」なのかとこちらにもわかってしまい、おやっとさせられることもある。
 むろんそうした「関係開示」も了解のうえでこのサービスを皆さんやっているのだろうが、我としては、ただただ、う~む、である。それが良いことなのか、果たして便利な然るべきことなのか、今はまだよく判断できない。利とリスクにおいての話。

 昔、タモリのやってた番組だったか、トモダチのトモダチはトモダチ、皆でつなごうトモダチの輪、というフレーズがあったと記憶するが、まさにこのフェイスブックがやろうとしていることは、そのトモダチの連鎖なのだと気がつく。これを考え始めたザッカ―バーグ氏だったか、まさに画期的、天才だと思える。
 こうしたネット上のサービスで、人と人とが繋がりカンタンに結びつくことは実に素晴らしい。が、ヘンクツな我は、そんな風にしていともカンタに「トモダチ」になることはまったく望んでいないし、「友達」とはまず会って何回か酒を酌み交わしあれこれ話し、互いに胸襟を開き時間かけて結果としてなっていくものだと考えているので、やはり抵抗がある。
 むろん、既に現実世界で友達であり、よく知っている方から「申請」の連絡あらば、喜んで「承認」しよう。それは人として当然のことだ。しかし、今はまだ会ったことがないとか、まだよく知らない方からの申請は躊躇するし、自らそうした、向うはこちらをよく知らない方に「申請」することは今もこれからもないと思う。

 我の基本はブログであることは変わらないが、人の持つ時間は限りがあり変わらないわけで、フェイスブックをもチェックせねばならなくなり、昨日などはともかく時間がなく昼寝もできないだけでなく拙ブログさえ、FBに時間とられた余波でアップできなかった。
 人はそんなに人と繋がり「友達」を増やしたいのか。我はどうなのか自問する。

 子どものうたで、「友達百人出来るかな」とかいう歌があった。もし、トモダチ百人で出かけたり皆で一緒に何かするなんて、考えただけでおぞましくうんざりする。
 妻や恋人が1人であるように、準じて友達もせいぜい数人規模で良いのではないのか。
 そういう我には、妻も恋人もいないのだが・・・ 幸い得難い友達は男女問わず現実世界で数人いる。そして我が求め日々語らい常に助けを求める方は「天」にいる。
 我はインターネットよりもそちらの網の中にいたいと願う。

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