初フェイスブック雑考・続き2018年02月08日 21時50分22秒

★まずは、自分の人生を生きていく。

 と、いうわけで、あれこれしょうもない、ヘンクツなことを書いて来たが、しだいにフェイスブックなるものの仕組みとその世界がわかってきた。これはこれで皆がはまり、参加しているの理由もわかってきた。
 まさに21世紀の伝達ツール、それに尽きよう。ブログなどよりはるかに即時性と双方向性、広がりをもっていることに気づかされた。ただただ感心させられた。しかし、我はやはり距離置いて、軸足はこのブログでやっていこうと改めて決意した。

 フェイスブック、我の「友達」は今10人である。申請があったので、許可して常にその人たちの動向は、こちらに連絡されてくる。
 彼らが何か書いたりすれば、表示に現れるので、こちらが確認すればそれは即読める。ふ~ん、風邪ひいて大変なのかとか、何に反応し、どこで何をしてたのかとかも、その人がアップすれば居ながらにして画像も映像も含めて我は知ることができる。
 それに対して、何らかの反応なり、コメントを送ることもできるし、そうして親しい「友達」とはより深く、常に緊密・濃密な関係が結べるというわけだ。むろん、こちらも同様に「動向」をアップさせていけば、その友達は見てくれて、それなりに拍手やいいね、とか感想を返してくれるだろう。それは素晴らしく便利な他者と「繋がっている」感覚だ。

 思い返せば、我はブログという発信の場と出会い、かれこれ10年以上たつ。我は、「呟く」ことは基本的にできないし、心の内、腹の中に溜まったことなど、どうしても外に出したいこと、世に向けて「宣伝告知」したいことはブログでやってきた。
 しかし、それは、そもそも我マスダという人間と、ブログに書いた「そのこと」に関心ある人が意識して気づいて、向うから見て、来てくれないと繋がらないし伝わらない。
 また、読んでくれたとしても、それをまたトラックバック的に転送してもらわない限りその情報は広がっていかない。むろん、コメントなど返すこともできるけれど、あくまでも一方向からのものでしかなく、その手応え、反応は、我がアクセス時に表示される順位だけで、いったい何人、誰が読んでくれたのか皆目定かでない。
 しかも一度世にアップして公開してしまったブログ内容は、そのブログサイトを自ら終わらせるか運営会社が閉じない限り、永遠に?誰でも目にすることができる。これもまたある意味問題だ。
 自ら大昔に書いたことに対して、突然今頃になって問い合わせや指摘を受けて驚き、読み返しては恥じ入ることもままある。かといってどんどん古い順に自動的に消えてしまうのでは、バックアップもとっていないので少し悲しいし雲散霧消は虚しくなることだろう。

 フェイスブックの素晴らしい点は、あくまでも「友達」となった者たちの枠の中で、あらゆる情報、連絡が気軽にできることに尽きよう。今、我も入っている「林ヨシオクラブ」はさらに「非公開」グループだから、申請すれば誰でも参加できなくはないが、誰でもすぐ見れるわけではない。それはなかなかよくできている仕組みだと感心する。
 あくまでも仲間内だけで情報を共有できる。万全のセキュリティなど不可能だろうが、ブログのように外から偶然目にして、いちゃもんつけてきたりする人や、こちらを批判するコメントなどに頭痛めることはまずないだろう。
 フェイスブックとは、基本そうした「友達」関係を結んだ仲間内だけの情報共有、伝達の場で、そのツールだったのだ。それもならば安心度は違うだろう。
 しかも「友達」の「友達」もまた繋がっていくから、我がブログで記して宣伝しているコンサートやイベント、集会の情報なども近しい仲間内ゆえ「拡散」していくはずだ。
 まして関心のある人、好きな芸能人、著名人と友達になっていれば、彼らの動向は、たちまち手に取るようにわかる。イベントなどもうっかり見落とすことはないだろう。チェックさえ始終怠らなければ。
 
 良いことばかりだと思う。しかし、繰り返すになるが、やはり我は距離を置きチェックするのもできるだけ控えるつもりだ。そしてあくまでも思うところや近況など世に「発信」したいことは、ブログの場で多くても日に一度の間隔でやっていきたい。
 見る人が見て読んでくれて、また、偶然誰かの目に留まればそれで良しとしたいし、そういう「関係」こそ好ましいと思っている。そこに「責任」は無いに近しいではないか。
 
 何かの打ち合わせなどで、たまに年下の人と会い、一緒に飲食を共にしたりする。が、ある人は、我と会い同席しているのにも関わらず、ちょくちょくスマホを取り出しては、我のことはそっちのけで、そのチェックや書き込みに忙しい。
 当初は、理由がわからず何か仕事関係で切羽詰まって常に確認や連絡とらねばならないのかと思っていた。が、今はわかる。その人は「友達」が百人規模の人だったから、その友達の動向チェックやフォローに忙しく、我と会っている間も、フェイスブックのほうに気をとられていたのである。

 フェイスブックを始めて、日々何かを書き込み画像を上げていると、それに対して反応返してくれる人のも見ないとならなくなるし、また同様に拍手やいいね!、コメントを返さねばならなくもなるはずだ。それがここの礼儀だしトモダチということなのだろう。当然そうすべきである。
 しかし我は正直面倒くさいと思ってしまう。ならばフェイスブックはあくまでも情報伝達の場としてだけ利用していこうと思っている。

 我はそうしたこまめにフェイスブックを時間あらばチェックする人たちや日々かなりの時間、スマホに向き合っている人たちのことをとやかく言う気はまったくない。が、その人自身の実人生はどこにあるのかと思ってしまう。心配にさえなる。もし世界からスマホが消え、使えなくなったら生きていけるのかと。

 人は「友達」という他者、外の世界と常に繋がり向き合う以前に、まずはもっと身近な、ごく親しい近しい人としっかり向き合うべきではないのか。我には妻も子もないので今は老父や犬たちしかいないが、そういう身近な大事な愛する人とだ。
 そして何よりもまず、「自分」というもっとも大切な人ともっともっと向き合い繋がっていくべきではないか。そう、我が今いちばん友達になりたい、繋がりたいのはこの自分、我が身なのだ。

 ずっと投げ出しほったらかしにしてきたこの人生、何とか再構築して手を加えて、自分の人生をまず生き直していく。そのためにもまず自分と繋がらなければならない。

 我のフェイスブックで「友達」となって頂いた方には申し訳ないが、友達だからこそまたきちんと連絡なりするつもりなので、日々のコメントなり感想を送り合うことは控えさせて頂きたい。我はあくまでもイベントなどの情報宣伝告知としてだけ用いていくので。どうかご理解ご容赦頂きたい。

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