人が生まれ、生きていく意味と役割2018年02月16日 07時16分22秒

★我が父、曾祖父、ひい爺さんとなる。

 我、マス坊には子はないが、我が妹には息子が三人いる。その三人の兄弟のうち、長男は30過ぎて未婚だが、下の二人は先年相次いで結婚し、一番下の弟はまだ二十代前半だと思うが、昨日男の子が産まれたと妹からメールが届いた。母子ともに健康だとある。
 これで、我が父にひ孫ができたわけで、妹は祖母に、父は曾祖父となったということだ。長生きすれば当然子をもった者はやがてはそうなる道筋ではあるが。

 我は嬉しいとか何とも思わないが、母の遺影には報告した。その良い知らせを生きている母にできなかったのは残念だが、母の遺伝子、母が生きていた証はこうして子々孫々しっかりと受け継がれているのだと思った。写真の微笑む母の顔見て少しほろりとした。
 我の立場、呼び名がどうなるかなんて考えもしないが、妹が祖母、おばあちゃんになるなんてまったく信じられないし実感もない。しかし、もし我に子があれば、当然我もまた祖父に、お祖父ちゃんと呼ばれる状況になっていても当然なのだとはたと気づき、驚き感慨深く思った。
 結婚し子をつくり既に孫がいる方にとってはそんなことはごく当たり前の自然の成り行きで何も驚くことはないのだろうけれど。

 人はこうして嫌でも真の老人へとその立場も呼び名も変わっていくのだとようやく気づく。子や孫はいなくとも近くやがて我も老い果て、見かけだけで年下の者から「お爺さん」と呼ばれることだろう。「おっさん」と呼ばれるのは抵抗はないが、ジジイとか爺さんと呼びかけられるのは嫌な辛い気がする。
 しかしそれこそが時が過ぎて人が年をとるということであり、避けられないことならば受け容れるしかないのだと思う。何ともやるせないが。

 今の時代、我のように結婚しない、結婚しても子がいない、できない、つくらない人もたくさんいる。ならばそうした人は何のために生まれ生きているのかと我は他者にではなくまず自らによく自問する。
 むろんこの世に生を受けたならばとことん嫌でも死ぬ日が来るまでしっかり生きて行かねばならないことは言うまでもない。しかし生物学的には、生命とはただ子孫を残すためだけ、つまり遺伝子を遺し、また次の世代にそれを繋ぐためだけに生まれてくる。
 もし人もそうならば、子をつくらない、子孫を残さない者はいったい何のために生きているのだろうか。ただ単に貴重な資源や時間を「消費」するだけではないのか。そこにどんな意味と役割があるのか。

 その答えはカンタンには出てこないが、少なくとも何一つ社会的には成さず功なくとも自らの子孫を残した者はその生物学的役割は果たしたと胸を張れるのではないか。我は子がないがゆえそんなことをよく思う。
 別に羨ましいとは思わないが、周りを見回すと友人知人の多くが結婚し子や孫もいることに不意に気づき不思議に思えるときがある。あんなハチャメチャな人なのに、みんな何だかんだ言ってもしっかりしてたんだなあと。

 敬愛した故色川武大氏も書いていたと思うが、子を作らなかった者は、どうしても人との接し方がよくわからず自らの若い時のままで困ると。子や孫がいる人は、年下の人と接する時など、自らの子との「距離」でその人を測れる。この男は偉そうにしているが、俺の息子と同い年ではないか、とか。子がいない者は、そうした「距離計」がないから、常に若い時と同じ見方で人と付き合うしかない。
 考えて見れば、今人気のAKBにしろ雑誌やテレビに出てくるアイドル達は年齢的に見れば皆我の孫世代なのである。しかし、我はそうした距離計がないから、今も彼女たちには、現代用語で言うところの「萌える」こともできる。年甲斐もなく好きだった昔のアイドルとまったく同様に見ている。それは良いことか悪いことかわからない。

 ただ何であれ、子育てという経験がない者は、やはりそのときどきの若者の嗜好や流行に疎いから当然のこと我のように世間知らずの時代遅れとなってしまう。まさに非常識かもしれない。そう、子を作る、子を育てるとはもう一度その人生を生き直すということに他ならないと誰かが書いていた。
 つまるところ我は自分の人生だけでも持て余してしっかりきちんとまだ生きていない。故に結婚も子もできなかったのだと思えなくもない。

 ただそうした者でも子孫を残す以外にもその存在意義、役割は何かしっかりあるはずだし、そう思いたい。人は家庭的動物である前に社会的動物だと信じたいしその存在によって少しでも社会に何か良いことで関わり報いたいと願う。子どもが社会の宝であるのならば、親でない者もまた社会の宝でなくてはならないではないか。
 そう、この世に無意味なことや無価値なもの者は何もない。全ては風に吹かれ、すぐに消えていくようなものだとしても、そこに起こり在るからには何かしらの意味と役割は必ずきっとある。

 我が父も戦地に赴き九死に一生を得て帰国し遅い結婚だったが、妻子を持ち、今またひ孫にも恵まれた。どれほど呆けて周囲に迷惑かけ続けてもこれもまた僥倖、神の恵み、その計らいなのだと思いたい。
 どんな人生であろうとそこに生きていること、生まれて来たことには意味と価値がある。そう信じてやっていくしかない。ダメはダメなりに、バカはバカなりに。
 我の役割は何か自問しながら。

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