何でそんなに「友達」を増やしたいのか2018年02月18日 23時39分04秒

★フェイスブック、始めたしまったことの悔やみ

 何であれ一度始めてしまったこと、それも公的に他者を巻き込んでのことは、なかなか簡単には終わらせられない。モノならば、購入したものが気に入らないとか、問題あれば返品なり、処分なり自分勝手にできよう。が、人とのこと、「人間関係」は、相手があることゆえ、勝手にこちらから一方的に破棄や関係を断ち切ることは難しい。

 諸事情あってずっとためらっていたフェイスブックなるSNSのシステムに我も加わった。今もまだよく使い方はわからないことばかりだが、我と「友達」関係を結んだ人からは一方的に、その人の書いたり発信した「情報」が届くので、ああこういうものなのかとだんだん仕組みは見えて来た。
 みんなこうして、日常生活の中で、あったことや思った事、感じたこと等を気軽に、画像もつけてその友達関係を結んだ仲間たちに同報メール的に発信しているのである。
 我もまた同様に、そうした日々思った事やあった出来事などを、気軽に我がフェイスブックに書きこめば、それらは広く我が「友達」にいっせいに届けることができるのだ。
 そしてそれを見た人からは、コメントや「いいね!」や「拍手」のようなもの等何らかの反応もあるし、誰が見てくれたのかさえも判明してしまう。

 そんな風にして、ときには一度も会った事のない、海外にいる人とでも「友達」になれば、双方向で繋がっていける。それは確かに便利かつ画期的な情報連絡のツールだ。個々にメールの役割も果たしている。
 が、我は今、正直日々後悔している。便利さ以前に、我が日常はこれを始めたことによりかき乱され、使い方が下手なのがいけないのだが、我が乏しい時間さえも奪われて、ますます忙しく、せがらしくなってしまったからだ。

 言うまでもなく、フェイスブックの特徴は、まず友達申請を交わし、友達関係を結んだ人と、ごく簡単に様々な情報のやりとりができる。確かに、直によく知っている人の動向や何を思いどうされたかが当人が投稿すれば、こちらがチェックすればいつでもすぐわかるのは便利だし有難いとも思う。
 が、一度「友達」関係を承認してしまうと、どこの誰だかよくわからない人でも同様にそうした「情報」がこちらに届くようになる。特にスマホの場合、友達であっても我にとって関心外の投稿がこちらがチェックせずとも次々表示されてきて、他人の私的日常が覗き見できるような興趣はなくはないけれど、うーむ、こういうものなのかとうんざり気味の複雑な気持ちになっている。
 そして我もまたそうして好き勝手なことを書けば同様に我が友達間にはそれが届いてしまうわけで、我と同様に煩瑣に思う人もいるのではないかと考える。

 我にとっては、書くという行為、それを発信するのは、「投稿」という気軽かつツイッター的な短いものではなく、やはり当ブログのような「随筆」、コラム的なある程度の分量を要する。
 何故かと考えるに、まさに今もだが、我にとって書く行為とは考えると同義であり、まさに書きながら考えて書いているからだ。なので、フェイスブック的少ない容量で、書けることは少ないし、いったん書きだせば読み手が臆するような長さになってしまうだろう。それだけの容量が一気にアップできるのか定かではないが、先人に訊いたら、長いと誰も気軽に読まないから皆短く書くのだと教えられた。な~るほど。

 そんな風に何であれ誰でも気軽に投稿して、また誰でも気軽に反応を返したり書き込んだりするのがフェイスブックだったのだ。そしてそうして人は他者と自分は繋がっている実感を持つのだろう。確かに誰が読んでくれたのかも判別できるならば。

 気がつけば我が「友達」のリストはいつの間にか15名になっている。むろんその人から申請があり、我が承認したからだが、我自ら求めた人はいない。ほとんど皆、現実の世界でもよく知る人だったから、拒む理由はなかったし、当初よくシステムがわからない頃は請われれば誰でも「承認」しようと思っていた。
 が、今も申請中のまま未承認の人も6名ほどいて、どうしたものかと憂鬱でならない。その気がないのだからさっさと削除してよいのだろうか。

 先に自分のフェイスブックに、我は友達申請に関し方針としてこう書いた。
1.直の友達、つまり現実の友達は当然すぐに許可する。
2.その友達を通して申請があった人、我が直に知らない人でも、まず直の友達に連絡した上で、どんな方か確認した上で許可する。=友達の友達のこと。
3.それ以上先の友達、つまり友達の友達の友達の申請は原則として許可しない。
 そして今の15人、いや16人の友達リストが出来た。そのうちの二人は、友達の友達で、まったく会ったこともない。

 それで今、未承認のままの人でも友達の友達である人もいるのだが、実はもうそうした友達の友達の人は承認はやめようかと考えている。まず直の友達にいちいち確認とるのも面倒だし、このままだと時間と共に増え続けていくことは間違いない。友達の友達、会ったことのない無関係の人の動向や日常まで知らされるのは正直煩わしい。これ以上乏しい時間を失いたくない。
 なので先に表明した方針は撤回して、いま現在友達になった方はそのままで、今後は直の友達以外は一切承認しない基本方向でいこうと決めた。それでも今後も我が生きている限り増え続けていくことだろう。まあ、これはとても便利な役立つことだから良しとしよう。何事もやり方次第だろう。

 それにしても・・・我がもっとも頭をひねるのは、こんな我に友達申請してくる、直の友達でない方である。いったいどのようなお気持ちなのか。そもそも我は始めたばかりで、まだ何も投稿していないし、まったくの無名で、基本情報もろくに明かしていないのだ。そんな人とどうして友達関係になろうと考えるのであろうか。
 外国人も二人いて、一人は、画像見る限りムスリムの女の子で、たぶん東南アジアの子だろう。おそらく日本語はできないようだ。またもう一人は、英米人と名前から判断できる男性で、その人も英語しかできないようだ。
 そんな人たちが途中に我の直の友達がいるとしても、このマス坊に何ゆえに友達承認を求めるのか。まったく理解に苦しむ。友達の友達の日本人もだが、人はそんな風にしてまったく未知の人でも友達にして数をともかく増やしたいのであろうか。
 確かに芸能人とか著名人でもない、一般人の方でも友達の数が百人どころか千人単位の人もいて驚かされるが、いま十数人で早くも困惑気味の我としては、その数だけ聞いて卒倒してしまう。

 では、我は友達がほしくないかと問われればもちろん友達は欲しいし、友達よりも恋人が、永遠の伴侶が欲しいと告白もする。が、それはリアルな、現実世界のニンゲンであり、架空ではないけれど、会った事もないしこれから会うとも思えない、共通する趣味も世界観も違う方とは友達になれないし、なりたくもない。そういう人と友達承認し合い友達になったとしてもそれは友達ではないと断ずる。全く無意味だし、そういう人との繋がりで我は我が時間を奪われたくないと切に願う。

 ただ、では現実の友達、かねてより既に「友達」「知人」である人しか承認しないのならば、フェイスブックの意味があまりない、というご意見もあろう。じっさい、会ったことはなくとも我のことをどこかで知り、その場を通して「友達」になりたいと希望される方ももしかしたらいるかもしれない。
 ならば、まずは我と直の友になってほしいと思う。それは、じっさいに会わなくてもかまわない。このブログでもいいし、読んだ感想なりご意見等、送ってもらい我にじっさいに連絡をとってくれれば、それは「友達」だと考えて然るべきだと思う。

 たかがフェイスブックに何でこんなに我は拘るのか、と自問する。それは、もうバーチャルな関係、仮想現実にはとことんうんざりしているからだ。残り少ない人生、曖昧なものは極力排除して、真に実態のある、本物、本当のものとだけ我は関わっていきたい。もう残された時間は決して多くないのだから。

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