弥生三月に入りました。今後のコンサートの予定など2018年03月01日 21時02分44秒

一昨年の「一潮忌」コンサートのフィナーレ再掲
★善き仲間たちに支えられ助けられて

 俗に二月は逃げると言われるが、元より日数が少ないこともあるけれど、あっという間に終わってしまい気がつけば今日から春三月、弥生である。
 朝は夜来の雨が残り、午後からは晴れて暖かくなったが、春の嵐のような強風が今も吹き荒れている。が、久しぶりにストーブなど暖房いれずに今も薄着ですんでいる。
 天気予報によると、今月はこのまま暖かい日が続くとのことで、異常に厳しい寒さが続いたこの冬もようやく終わった感慨がわく。教会報では、四旬節も過ぎればイースター、復活祭となる。
 一時期はかなり心配し憂いたが、何とか老いた父も病んだ犬も無事にこの厳冬を越すことができたのだ。ただただ神に感謝である。

 なかなか家のことや自分のことは進まないし片づかないが、先月24日の「共謀」コンサートも多くの人たちに支えられて、大好評のうちに終わったので、家の皆も無事で良いイベントも終えられたのならば、すべて良しとすべきかと思う。
 この非力な自分、性格も破綻した無能力者が、企画し関わった一つのイベントをとにもかくにも無事終わらせることができ、おまけに好評頂いたならば、それはすべて多くの得難い仲間たちのお力、助けによるものなのだとつくづく思う。
 場のかけこみ亭と、参加ミュージシャンたち、そして来られた旧知の友人知人たちのおかげで、何とか我はやり遂げられ、そしてまた次へと進むことができるのだ。自分で言うのもおこがましいが、こんな僥倖、我は幸せ者であり有難いことではないか。

 そしてこれからの予定だが、まずは今月は、青森が生んだフォークシンガー高坂一潮追悼のイベントが、25日の日曜にある。
 早いもので七回忌となるそうで、一昨年の回は、シバ、よしだよしこ、斉藤哲夫、一潮さんの前妻、井上オハナバンド、と亡き人と縁ある超豪華メンバーが揃い、大変な盛り上がりのコンサートとなった。

 今年も年明けの中川五郎新年会ライブの折に、五郎御大から、今年は、3/25日の一潮さんのコンサート参加するのでヨロシク、とお言葉かけられ、ならばコンサート形式で、また我も関わらねばと考えていたら、今回は、通常のコンサートではないと、かけこみ亭のぼけまる氏は言う。

 彼曰く、コンサートだけという形式にはしたくなく、もっとシミジミと一潮さんを偲ぶ集いにしたいとのことで、『映像とか観ながら、飲み食いしながら、唄いたいヒトは 唄ったり、、、ゆる~く、「一潮さん」をツマミに集まりませんか??』という呼びかけで、シンガーたちに連絡したとのこと。そして幸いにして全国を駆け回る超お忙氏、中川五郎氏はその日は偶然空いていて、今年の参加となったということらしい。
 ただ、むろんのこと、五郎御大も来られるのならば、がっつりライブも当然あるだろうし、今回は、そこに五十嵐正史とソウルブラザーズも参加、他にもシンガーが出る予定なので、故人の映像も流すが、唄あり、語りあり、飲食いしながらのゆる~い集いになるかと思う。

 以下そのイベントの詳細を載せると

★吞み食い、唄い、映像観ながら・・・ 高坂一潮さん7回忌イベント
 2011年3月29日に旅立って7年・・・

 ・参加シンガー:中川五郎 五十嵐正史とソウルブラザーズ、志万田さをり他
 ・日時: 2018年3月25日(日) 午後6時頃から
 ・参加費:カンパ制
 ・会場:谷保かけこみ亭 国立市富士見台1-17-12 S&Sビル地階 問:042-574-3602

 一潮さんを知らない方こそ、ぜひご参加ください。青森が生んだ不遇の天才シンガーの全体像が、彼を知る歌い手たちにより、見え伝わる機会になるかと思う。
 高坂一潮という良いうたをたくさん遺した素晴らしいシンガーがいたことを、どうか一人でも多くの音楽好きの方々に知ってほしい願う。

「共謀」コンサート番外編「笑えるうたが聴きたいぜっ!」コンサートは4/8日2018年03月02日 00時51分58秒

★出演者ほぼ出そろいました。

 ・護憲と反戦平和のための「共謀」コンサート番外編『こんな時代だからこそ笑えるうたが聴きたいぜっ!~うたの可能性を求めて』、略して「笑えるうたコンサート」

 ・日時:2018年4月8日(日) 午後5時半開場 6時開演※予定

 ・出演:なにわのてつ こと 藤縄てつや
     弱つよむ
     藤しんいちろう
     元気いいぞう
 
     槙篤
     ぼけまる
     志万田さをり
     館野公一

 ・場所:谷保かけこみ亭 
 ・参加費:投げ銭制※予定

 太平洋を挟んで、裸の王様たちが、核ミサイルのボタンをもてあそびながら、互いに俺の核のほうが大きいとか威嚇し合う時代です。
 そのただ中に置かれた日本という国、護憲と反戦、平和を訴えることも大事だと考えますが、無力感に苛まれる人も多いかもしれません。
 ならば、そんな時代だからこそ「笑えるうたが聴きたいぜっ!」という方々のために、笑えるうた、面白いうた満載のコンサートを企画しました。どんな時代であろうとも「うた」は人を元気づけ力を与えるものです。ましてそれが楽しい笑えるうたならば。

 詳細、チラシなどは後ほどアップしますが、まずは出演者中心にお知らせしました。

4/8の「笑えるうたコンサート」簡易チラシつくりました2018年03月04日 17時17分06秒

★簡単なものですが、メインの四人を並べてみました。

ブログの場で近況と思うところを少し2018年03月08日 21時15分09秒

★齢60にして「いいね!」を知り得て考える

 久々にこのブログを書く。ちょっと間が空いたのでご心配おかけしたかもしれない。
 先月からフェイスブックなるものを始めて、ようやくその仕組みや、どういうものなのかほぼわかってきた。そして皆がこれにハマる理由や、「友達」を増やそうとする心境もわかってきた。
 だからといって、そっちに夢中になっていて、このブログが疎かになったというわけではない。ただ、新たなツールができて、そちらもチェックせねばならなくなって、まだうまくバランスがとれない感じで、何とも名状しがたい気分でいる。
 それにしてもフェイスブックとは至れり尽くせりで良くできたシステムだと感心している。先に愚痴こぼしたメッセンジャーでの連絡も時間は少しかかったが相手方と繋がり、こちらの用件は無事達せた。

 むろん、先にも書いたが、我は基本ブログだけで何も問題ないし、今後もこのブログを軸足にして何ごともやっていく方針は変わらない。フェイスブックの方は、活用するとしても個人的なことは一切書くつもりはなく、あくまでもイベントや世に知ってもらいたい公的「情報」発信の場としてだけ用いていくつもりでいる。

 他の人のフェイスブックから、「友達」になっていると、その方の「日常」や「出来事」、「考えたこと」などが当方にも届く。関心なくもないし、いちいち連絡を個々にとらなくても、あの人は今こうしているのか、風邪ひいたのかとか状況がわかることは有難いことだとも思える。
 が、友達の友達で会った事もない人だと、興味深い時もなくはないが、我にとってはまったくほぼ不要かつどうでもいいことであって、そこまでお付き合いしている時間はない。我もまた、そうした「ごく私的日常」をフェイスブックに、日記やツイッター的に書きこむと、我が「友達」たちに、嫌でも届いてしまうわけで、それはご迷惑であろうし、我としても望むところではない。
 むろん向うがこちらに関心なければ、読みもしないのかと思うが、我としては、私的なことは、このブログだけで十分であり、だいいち、書くときはご覧の如く常に一定の長さを伴うものだから、フェイスブックの尺には合わないはずだ。

 ブログがやはり良いと思うのは、そもそも我マスダのことに関心があり、向うから訪れない限り、何を書こうが読まれることはないわけだから、その関係は正しいものだと考える。勝手に書いたものを勝手に読みたい方が読むのだから。
 これからも読みたい方にだけ読んでもらえればと思い、我の日常から日々考えたことや、企画した催し等、宣伝告知も含めて、アップしていくつもりでいる。

 さて、「近況」だが、先週末からずっと父が家にいて、我は精神的にもまいっていた。父はこのところ週末は、ほぼ二泊三日で、施設に預けお泊りさせ不在故、我は、ライブや山梨に行ったり自分の時間が持てるようになっているのだが、先の土日月は、その介護施設のほうが、ノロウィルスだか蔓延して、通っていた人たちが皆吐いたり熱出して倒れたとかで、施設の職員がウチにやって来て、利用の「自粛」を要請され、自宅待機となってしまったのだ。
 で、先週は金、土、日、月と四日間ずっと父は家にいて心底まいった。キレて殺しそうにもなったが、何とか持ちこたえ、介護の合間見てはコンサートのフライヤーだけは何とか拵えて、大慌てでかけこみ亭に持って行ったりと、ブログ書く時間などとてもなかった。
 そして今週半ばの別の施設へのお泊りは問題なく行ってくれて、我はやっと体を休め、自分のことに専念できた。今夕、父は戻ってきて今は家にいるけれど、今ようやく久しぶりにこうしてブログ書いている次第。

 で、実はこれは前書きで、これから父を寝かしつけてから「本題」に向かいたい。

 フェイスブックなどでは、自分が投稿した記事や画像に、「友達」から「いいね!」という評価的反応が届く。以前から、この世には「いいね!乞食」とかいう言葉もあると聞いて、仕組みも何もフェイスブック未経験のよくわからない我は、訝しく思っていたが、自分も「いいね!」を頂いて、なるほどこういうことかと得心した。
 ただ我の場合は、まだ「友達」が16名程度だから、「いいね!」の数もたかが知れている。それでも確かに、友達から「いいね!」と好意的反応が届くと嬉しくはなる。逆に、それがほとんどつかない記事は、失望に近い気持ちにもなる。
 ならば、「いいね!」をたくさん欲しいと願う人の気持ちも実によく理解も出来る。そのためには当然まず「友達」の数も増やさねばならないし、よって見ず知らずの者にも「申請」が来るのであろうか。

 そう、確かに人間には、他者から認められたい、評価されたいという願望があるのである。「承認願望」とか「承認欲求」とか呼ばれるその願いは、こんな我にもあることに気づく。
 それに囚われて、いかに「いいね!」の数を増やすかに夢中になる人や、ユーチューブなどでアクセス数、ヒット数を上げるためには、何だってしでかすバカ者たちは後をたたないと聞く。そうした心理は、フェイスブックを自らも初めてみてようやく理解納得できた。

 我の場合は、そもそもブログしかやってなかったし、このブログには基本、読み手からの反応=コメント等はまずないから、そんなことはほとんど気にはしなかった。
 ただこのブログは、ランキングは日々こちらには知らされる。つまり、読み手の数というべきか、書いた記事になのか、現時点、その日ごとのアクセス数なのかわからないが、毎日その「順位」は変動する。
 始めた当初の順位は、百数十位は当たり前で、願わくば百位以内に入れたらなあと漠然と考えていた。それがいつしか、長く続けたこともあろうが、このところは常に70位前後で、更新しないでいるとそれが徐々に下がっていくこともわかった。
 つまり、更新すれば読み手は常にいてアクセスするが、間が空くと誰もアクセスしなくなるということだと思える。ちなみに今日は間が空いていたにしては高くて57位である。昨日は84位であった。

 そして当然のこと、やはり順位が高いときは我も嬉しい。今までで一番高かったのは、40台の半ばで、何の記事かは失念したが、それだけ多くの人に読まれた証だと思うので、にんまりした。
 が、逆に渾身の思いで書いたのに、存外順位は上がるどころか下がっていると、まあ、失望しつつこうしたものかと思い、たいていは我が身辺雑記のときが多いので、マスダのことなど誰も関心持たないのだなあと納得もしていた。

 それが先日のこと、何と20位という数字が表示され目を疑った。システムのミス、何かの間違いかと思ったが、しばらくは30台、40台という順位が続いていたので、一気にそのときはアクセス数が高くて、その後も余波が続いていたのであろう。
 で、何の記事で20位がついたかと言うと、亡くなった俳優、大杉漣についての私的思い出のようなことを書いたときで、何故その記事のときだけ20位となるほどアクセスがあったか不思議でならなかった。

 が、先日某女友達と話して謎は氷解した。彼女が、自らのフェイスブック上で、我のブログのその記事から漣氏と高田渡との関係の部分を「抜粋」して転載し、このブログのアドレスも載せてくれていたからだった。
 彼女のフェイスブックは友達の数も何百人もいるしフォロワーなる人の数もものすごい。一たび、彼女のフェイスブックに一部でも我がブログの記事が紹介されたとたん、このブログにまで、たくさんの方がアクセスしてくれたので、驚異の20位という高い順位がついたのであった。

 考えてみれば、もう上には19人しかいないのである。おそらくそれは著名人やタレントさんのブログであろう。無名の一市民のブログがその方たちに伍して高いアクセス数が付いたのは光栄であるが、我としては正直困惑した。勝手に転載、紹介されたことはまったくかまわない。
 もちろん一人でも多くの方に読まれるのは嬉しい。が、根が天邪鬼にできているからか、従来の読者だけで十分であって、あまり一見さんに読まれるのは怖い気もしている。せいぜい70位前後で満足しているのだ。
 むろん書くからには誰に読まれようが気にしないしどこに転載されても構わない覚悟もできている。が、まず読み手との関係において、どこの誰かとは想定はしていなくても、かねてよりいつも読んでくれている方を思い、その人に向けてこちらは書いているのである。
 それは幻想かもしれないとも思う。しかし、従来の「読み手」が何人かはわからないけれど、きっといてくれるのだと信ずる。また、マスダはしょうもないこと書いてるなあと呆れつつも、お付き合いして下さる方へ向けてこれからも書き続けていきたい。

 そう、「いいね!」はこのブログにはつかないし、何の反応も評価も届きはしない。かろうじてランキングが上下するだけだが、その順位が変動する分、どこかの誰かは、必ず読んでくれているのだと思い、励まされ書き続けている。

 敬愛する山口瞳先生は、死ぬまで毎週、自らのコラム「男性自身」を週刊誌で書き続け、氏の日常と日々の思いを発信し続けていた。嗤われるかもしれないが、このブログは、勝手に先生に倣い、我マス坊の「男性自身」であり、かのコラムのようなつもりで書いている。
 目にみえる「いいね!」などはいらない。ただ、たまにでもいいから読み手も読み続けていて欲しいと願う。その人に向けて我は書き続けていく。そこに「あなた」という誰かがいると想定して書いている。

また新しい春を迎えて2018年03月10日 05時50分53秒

一昨年の春のひととき。猫のキャラコは、その秋、事故死、犬のブラ彦も昨春死んだ。
★過ぎた昔はいつだって懐かしいが

 人はいつだって今を、その与えられた生を、そして残された生を、精いっぱいともかく生きていくしかないわけだが、過ぎた昔が恋しく思うことがこのところよくある。

 特に夢の中で、亡き母も犬たちも出てきて家族皆でどこか旅行先に行っている楽しい夢を見て、目覚めたときなど、寝床の中で、ああ、もうそんな日々、あの頃は二度と戻らないのだと思い至り、深い感慨に襲われることが多い。
 泣くこともあるが、それよりも母もかつて共に過ごした犬たちもいない、身動きの取れない「今」という辛い「現実」にはたと気づき、絶望的な気分に襲われる。過ぎた昔がほんとうに良かったのか楽しかったのか、そのときはそう思っていたのかはわからない。
 その頃もそうした「現実」にうんざりしていたような記憶もあるけれど、ともかく昔は、皆自由に動けて今よりははるかに何でもできた。少なくとも年に一度は家族皆でマイカーで、犬も連れて海や山へ旅行に出れた。
 今のように介護保険代、その施設利用料などで金が吹き飛ぶことなどなかったから、父母の年金だけで十分事足りて我が家ははるかに裕福であった。
 そういう日々、我家のそうした時代が懐かしいと思うのは、もう今はそのすべてが戻らないからだろう。特に死んでしまった者たちは二度と帰らない。

 去年の春三月、梅花の頃は老い衰えてもまだこの世にいた黒い老犬ブラ彦も既にいない。骸は庭先の冷たい土の下に埋まっている。その上には一本の小さな枇杷の木が植わっている。
 父は老いぼれてもまだこの世にいるが、もう自力ではほとんど歩けなくなり、ときに今日の日時さえもわからなくなり繰り返し我に問い大声上げて騒ぐこともままある。もう何もわからなくなってしまったのだ。

 先日、父に留守番を頼み、我は立川の歯医者に行き、夕刻大慌てで戻ってきたら、父はコタツでうとうと居眠りしていて、「今帰ったよ」と起こしたら、父は寝ぼけていたこともあるが、真顔で「おっかさんは?どこ、帰って来た?」と問われて返答に窮した。呆けた父の中では、我が母、彼の妻が死んでしまったこともわからなくなってしまい、まだ「あの頃」のままなのであった。
 父の問いに窮して、「何をバカなことを・・・」と口ごもりつつ涙が溢れ出てきていたたまれなくなり、犬たちを連れ慌てて夕方の散歩に出た。涙を堪えながら顔をくしゃくしゃにして犬連れて歩く初老の男を見て道行く人は不審に思っただろうがそんなことはもうどうでもよかった。
 これが「現実」。それでも父も逝き、そのすべてが過去になれば、父がいた「あの頃」が懐かしく良かったと思えるのであろうか。

 つまるところ人生とは、人が生きていくとは、こうして失っていくことに尽きるのだと気づく。かつて持っていた幸福な日々も、時間も物も何もかも失って、最後はこの肉体、身一つすら失って何も無くなってすべてが終わる。
 考えてみれば、自分も無から生まれ、身一つでこの世に出て来たのだった。だから生々流転、また元の無に戻るのは必然であった。
 ただ人間だからそこに哀しみが伴う。失うこと、別れ離れることの痛苦が残る。だが、それこそが生きていくことの本質なのだから、堪え受け容れていくしかない。
 そのうえでこの辛い現実、どうしようもない人生を少しでも良くなるよう、その中で喜びを見出し楽しみ、味わい、少しでも良いものにしていかねばならない。

 過去は戻らない。過ぎた日々は帰らない。辛い現実だけは確実に目の前に横たわっている。それをどう乗り越えていくか。
 山城ヒロジさんが言っていたように、辛く大変だからこそ楽しく面白がってやっていかねば何だって続かないのだと思う。
 惜別の哀しみは哀しみとして、ことさらに嘆くことなく、いま在るもの、まだ世にある者たちを大事にし慈しみ生きていく。そう、それしかない。それが人生というものなのだと。

慌ただしく月日は過ぎ去っていく2018年03月11日 16時34分17秒

★七年目の3.11、あの日とあの頃を思い返せば

 人生には、誰にも分岐点、分かれ道となる日、時期がある。
 我にとっては、今やっていることに至るきっかけ、そもそも出発点となったのが、2005年4月の高田渡の死とその直後に催された仲間のフォークシンガーたちによる「お別れ会」であり、その日、小金井公会堂に行かなければ、今の自分はないと断言する。
 そのことは、先の大杉漣氏急死の時のブログにも書いたけれど、次いで大きな分岐点となったのは、3.11の大震災と、その年の大阪春一番、そしてその直後に出かけ目にした福島県いわきの浜の津波による壊滅的「惨状」であった。

 7年前の今日、3月11日も東京地方は晴れて暖かいおだやかな春の日で、我は、完成間近の増改築中であった拙宅南側の台所の床材を、友人である「社員氏」を招いて、塗料を塗る作業中であった。
 3時前、突然、今まで体験したことのない大きな揺れが我家を襲い、慌てて外に飛び出したかと記憶する。揺れはその直後、ほぼ同規模の余震が起き、父は裏の部屋で昼寝でもしていたかと思うが、様子を窺ったが、幸い我が家では特に被害などはなかった。その後も何度か余震は続いたかと思う。
 ただテレビをつけたら、巨大津波が次々と東北沿岸を襲い町が吞みこまれていく様子が映し出され、夜になるとあちこちで火災も起きていて、これは大変な事態だと思い知らされた。
 友人は、電車も動かないかったので、その晩は拙宅に泊まり、次の日都内のアパートに何とか苦労して戻り、数日後、実家のある茨城県水戸方面に車でかなり苦労して行ってきたと後から聞いた。
 
 ちょうどそのとき母は、一回目の癌の手術の直後で、立川の病院に入院中だった。あまりの揺れに、母曰く、また高熱が出て身体が震えたのかと思ったと言っていたことを思い出す。
 前年の秋から続いていた食事もとれずに急激な体重減少と、死相があらわれるほど不調の原因は、腹部にできた癌により大腸が癒着したことからだと判明し、その癌の部位と癒着した腸管をかなりの長さで摘出したすぐ後だったのだ。
 手術は幸いにして成功し、母の体調を悪化させた癒着した癌部位を取り除いたら奇跡的回復が見られ、母は一か月もしないで退院できたのだった。
 あの日、立川の病院からの帰り道、隣に母を乗せた車のフロントから見た夕焼けの風景、雲の形とかは今でもはっきり目に浮かぶ。当初は手術も難しいと言われもしていたのでまさに九死に一生を得た気がした。

 ただ癌というものは厄介なもので、美空ひばりも清志郎も同様に、一度は癒えて「復活」したかと思う間もなくまた再発するもののようで、俗に、手術後○年の生存率は○○%とか語られる如く、3年ほどするとまた再発することが多い。そうなると今度は治療は難しくなるようで、母もまた2015年に再発が認められ、どうしたものか迷ううちに肥大してきて、けっきょく再度の抗癌剤も他の治療もできないまま一気に衰弱は進み2016年9月頭に、この家で、まさに骨と皮のように痩せ衰え我が手の内で天に旅立ったことはその全経緯を当ブログで詳しく記して来た。

 まあ、今思うと、本来は2011年の大震災の頃に、とうに死んでもおかしくないような状態だったのが、それから約5年、手術後約4年間はまったく病気になる前と同様にまで回復し、再び元の生活が送れるようにまで「治った」のだから、有難い「おまけ」の日々を頂いたことになる。
 ただ悔やまれるのは、それが「仮」の命、母の人生の「おまけ」だと気がつかなかったことで、そのことがわかっていたならばもっと日々一日一日を大切に慈しみ、母との暮らしを丁寧に味わうように家族皆で生きたと思うが、残念ながら相変わらず我は些末なことで父とケンカに明け暮れたりと、結果として無為に費やしてしまったことだ。
 しかし今いくら悔やんでも全ては遅いし、そのことで自らをどれほど責め苛んでも我が命すら削るばかりであの世の母をまた心配させるだけだから、もう考えないことにしている。まさに後悔先立たずだ。先にわかれば誰だって字のごとく「後悔」などしないのである。

 そしてその年の5月の大型連休に、我はそんな退院したばかりの母を家に残し留守居を任せて、その年も例年の如く大阪へ、毎年恒例のコンサート、祝春一番へ行ったのだった。※その頃は、母は衰弱していても父は頑健で、オツムはやや呆けてても母の監視と指示の元、家のことは何でも任せられたのである。
 だが、このブログでかつて記したように、その春一番の会場で主宰者福岡風太と大ケンカし、スタッフから出入り禁止となって、最後まで観ないで会期半ばで東京に戻って来た。理由はカンタンで、その年から突然、このコンサートは規制が厳しくなり一切の録画録音、撮影厳禁とされた。我は彼らに従わず、ライブの模様を録音したり写真に撮っていたため出入り禁止になったのだった。

 手短に記せば、春一番コンサートというのは、福岡風太という男が主宰となり1970年代から始まり、我はその頃も何度か参加している者だが、2000年代に復活後は風太と阿部登こと阿部ちゃんの二枚看板で運営していた。この二人は、風太が剛なら阿部ちゃんは柔というような感じで、まさに車輪の両輪、ときに狷介で頑固で暴走気味の風太という人物を阿部ちゃんが包み込みフォローするようにして、ゆるやかに、したたかに、かつ昔から変わらずに、このきわめてユニークなフォークソングの伝説的イベントは長年続いていたのだと思える。
 それが阿部ちゃんが急逝し、風太一人ワンマンの春一番になったとたん、それまであった、まあ、ええんやないの、といったユルイ雰囲気は一変し、録画録音一切厳禁という方針は徹底され、観客にそれを従わせる方針になったのだった。

 まあ、阿部ちゃんが生きていた頃から風太は、ビデオを回している者にはかなりうるさく文句言いに来たり、目を光らせてはいた。音楽はその場で楽しめという彼の言い分もわかるし、今のようにすぐにユーチューブなどに当日の模様がアップされてしまう状況を苦々しく思っていたのもよく知っていたしわからなくもない。
 が、我は、70年代半ばから、このコンサートをずっと記録しその様子を宣伝も意味も込めてブログなどで記してアップして来たわけで、その長い関係においても突然の方針転換、規制には納得がいかなかった。
全てにおいてやさしい阿部ちゃんはそうしたことにも寛容な人だったから、彼が生きていたうちは録画録音一切厳禁を徹底できなかった風太は、彼の死後、全権掌握したことでかねてからの思いを徹底させてきたのである。

 そして会場には、昔の春一の頃にはまだ生まれてもいなかったような若いスタッフがステージを録画録音していない観客はいないか目を光らせ歩き回るようになり、カメラ撮影すら制するようになった。若い彼らはまるでナチスのSSのように我には思えた。
 結局、彼らに従わず撮影など続けたため我は拘束されて楽屋に連れていかれて撮った写真と録音はそのスタッフのリーダーに全部消され、もう二度とここには入れない、「出入り禁止」ということで、チケットにそう大書されてカメラもやっと返されて会場を後にした。あの風太が警察呼ぶぞ!と口にしたのは特筆しておく。

 以後、その年、2011年以降、我は春一番には行っていないので、今はどうなっているのか全く知らないしもはや関心もない。ただ多くのシンガーからも、阿部ちゃんが亡くなってからの春一は変わってしまったとよく聞いたし、風太のやり方に対しても異論があるという話も耳にした。
 しかし、春一は元々風太のイベントであり、我は今、何も思うところも望むものは何も無い。ただ気がつけば、我もまた彼の影響と薫陶を受けて規模はささやかだが、いつしか同様のことを企画し同様の立場にあると思えるのだから、彼もまた我にとって恩人には違いない。彼のようにはしないという反面教師でもある。

 そして、その直後、我は会場で知り合ったバンド、マーガレットズロースの平井君のお誘いに乗り、震災からまだ数か月しかたっていない福島県いわき市での復興支援イベントに参加した。彼が企画したツアーバスで行き、現地で中川五郎氏らと合流したのだった。
 思えばそれも、毎年恒例の春一番を途中で締め出され、そのやるせなさと憤懣が我をそのツアーにかきたてたことは間違いない。
 コンサート自体は、地元のライブハウスを舞台に何十組もの全国から集まった同志のミュージシャン、シンガー総出演で、素晴らしいものであった。そして、その合間に昼間皆でバスで向かって目にした、いわきの浜の大津波での壊滅的惨状こそ、まさに言葉もなく、現実とは思えない光景であった。

 これまで戦後の焼け跡の風景とか、阪神淡路の大震災の状況は、写真やテレビの映像では限りなく見て理解もしていたつもりでいた。が、じっさいにその場に立ち、津波により見渡す限りの破壊され尽した荒涼たる風景を目にして、我の中で何かが変わった。
 こんなことは失礼だが、行って見れたことは有難いことであった。人々の営み、生活、暮らしがあった街並み、家々がまさに破壊尽くされていた。破滅というのはこうも簡単にしかも一瞬で起きてしまうことを初めて理解できた。
 そこにあって当たり前だと思っていた、これからもずっと続くと思っていた幸福な日々は、いとも簡単に一瞬にして奪われ消えてしまったのだ。そして七年、「復興」が進んだ今でも、決して元には何一つ戻っていないのである。

 その2011年から7年。そのとき一度は生きながらえた母も既にこの世にはなく、大震災の直後に、犠牲者たちの後を追うように高坂一潮さんも亡くなり、歳月だけは確実に過ぎていく。
 鏡に映る我の頭は、気がつけばだいぶ白髪ばかりとなった。こんなに爺むさくなったのかと先日まじまじと鏡見て驚かされた。あの頃はまだ黒々としていたはずなのに。
 
 死んでいった者たちの無念を思う。が、生きている者もまた、まだ生きているが故悔いと自責の苦しみの中に今もあるのである。そうでない者はその今ある幸福に気づけと言いたい。
 そんな一瞬にして崩れてしまう砂上の楼閣のような「幸福」だからこそ、日々人は大切に、慈しみ、丁寧に誠実に生きねばならないのだと今にしてわかる。そう、大きな波が来て、さらわれるまで。

 そしてこれからも我はあの日とあの頃を、毎年この季節になると同じ苦いような思いで振り返るのだ。この世に生ある限り。

ようやく携帯をスマホに替えた話2018年03月13日 21時31分41秒

★まったく書くのも恥ずかしいが

 先に、ずっと長年使い続けていたauの携帯電話を失くしたことは書いた。それから探し続けていたのだが、未だ出てこない。家の中のどこかにあると思えるのだが・・・
 いつまでも携帯がないままというわけにもいかず、昨日やっと駅前のauショップに出向き、同じ電話番号のスマホを手に入れた。
 自分でもいったい何をやってるのかと思うが、モノを失くしたり、すぐにどこか見つからなくなるのは毎度のことで、これはそういう「病気」の一種だと諦め受け容れていくしかない。
 じっさい、このブログでもデジカメから昨年夏の小銭入れまで、いったい何回あれこれ失くしたこと、みつからないモノの話を書いてるのであろうか。本当に情けなく恥ずかしい。が、すべて書いてしまったことであり、素知らぬ顔で何事もなかったことにはできやしない。正直に何事も書いていくと我は誓ったではないか。

 元よりバカで、迂闊で、忘れっぽいこともある。酔っぱらったり気が緩んでいるからそういうことが起きるともいえる。が、特に一昨年母を亡くしてからは、もう何もかもわからなく何でも見えなくなってしまったようで、今手元にあり今使っていたものでも即紛失してしまう。
 たいていはまた出てくるのだが、「そこ」にあるのが目に入らなくなって、ただ徒に探したり焦るばかりで、何でもすぐに失くしては、なくなるとすぐには出てこない。毎日何かしら探し物ばかりしている。
 今は何だって何かしらの「病気」や「障害」だと診断される時代だから、たぶんこれは我の元からの気質、性質であると同時に、視力が衰えたことに加えて、最愛の母の死というショックで脳に衝撃を受けてそれが悪化したのだと思うしかない。
 ※以来、家の中は今も散乱し尽くしてしっちゃかめっちゃかだし、探し続けてもあまりにモノが溢れいっぱいなので、おいそれカンタンに出て来るとはしだいに思えなくなった。

 その携帯電話だって、家の中でかけたのは間違いないし、かけた相手に着信も確認したので、時間もわかる。が、それを家の中のどこかに、あるいは持って犬の散歩に出、ごく近所で落としたか、ともかく絶対にすぐそこいらで失くしたのは確かなのである。
 が、家中もう三か月近く探し続けてもみつからないし、このまま使ってもいないのに使用料に毎月何千円も払い続けるのもバカらしい故、ならば今度はスマホにとついに決断したのだ。

 なくなったのは確か去年の12月半ば頃。紛失した当初、友人に相談したらば、電話会社に電話すれば、位置情報からどこにあるかすぐわかるとご教示頂いた。確かに、今はGPS機能のようなものが携帯電話自体にあるので、探索も可能なのだと知った。
 しかし、我の携帯は、メール機能さえ付けてなく、しかも失くした時は、電池の消耗を考えて電源を切っていたので、auに探索のお願いしたものの、それでは位置情報も何も不明なので手の打ちようがないと言われてしまった。
 仕方なく、そのうちきっと出てくるだろうと思いながら我家の中を時間あれば探し続けて間もなく三か月、さすがにもうこれではいかんと日毎に思うようになってきた。

 諦めたわけではないが、やはり携帯電話が使えないというのは不便でならないし、第一、我のその番号にかけてくる人こそ一番困ることであろう。メールアドレスをご存知の方ならばメールでやりとりはできるが、携帯番号しか知らない方も多々いるはずで、もしかしたら何度かけても不通なのでマスダの身に何か起きたかとご心配おかけしているかもしれない。
 だいいち、コンサート等の問い合わせには、その携帯番号を載せているのだから、繋がらなければ意味ないのである。

 実は、我はスマホは既に格安のそれを持っていて、それでメールのやり取りはできている。パソコンのメルアドと同じなので、出先でも届くメールはチェックできるし、指先で時間はかかるが、メールも送信できる。
 が、昔ながらのその失くした携帯電話は持っていたので、そのスマホには、電話機能はつけてなかった。あくまでも電話は携帯で、メールなどネット機能は、格安スマホでと使い分けていた。
 なので携帯がなくなっても電話の代わりに外出先でも待ち合わせなどのときはそのスマホのメールでやりとりしてたけど、やはりメンドイ。
 それでついに、auショップに出向き事情を話して、未だ見つからない携帯の代わりに一番安いスマホを手に入れて来た。予想した通り、今まで使っていた携帯電話の使用料よりそのスマホのほうが断然安い。
 何しろ通話は5分以内ならば、固定であろうともかけほうだいで、通話料はかからないプランにしてもらった。また、家の宅電のほうも今回はすべてauにまとめることにして、そちらもだいぶ安くなりそうだ。

 これまでは、NTTの「フレッツ光」なるもので、我家は電話からテレビまで全部繋いでいたのだが、今はauも光のサービスをやっていて、通信の切り替え作業はあるのだそうだが、NTTから切り替えればスマホも連動してさらに安くなるのだと言う。
 またこれまではプロバイダの料金は、別途プロバイダ会社へと、我の場合は、このブログサービスの大元である「AsahiNet」に支払っていたのが、プロバイダ会社はそのままに、auで全部込みで使えることになった。
 最終的にどれぐらい安くなるのかはまだきちんと申し込みもしていないし使って確認もできていないので定かではないが、今まで、固定電話やテレビにNTT、ネットのプロバイダ会社、そして携帯電話だけau、とそれぞれ三者個別に支払うと総額で二万近くにもなっていたのが、この一年間は割引サービス期間でもあるので、半額程度に収まりそうだ。今、緊縮財政の我が家ではともかく支出削減が最大の課題で、介護保険のサービスや食費は削れないわけで、せいぜいこまめに電気消すぐらいしか手はなかったので大いに助かろう。

 と、新しいスマホを手に入れて、auの担当者に、失くした携帯にこれまでかかってきた履歴をこのスマホに入れてほしいと頼んだ。が、携帯からスマホへはそうした移行はできないのと、そうした紛失中の誰かがかけてきた通信履歴すらも個人情報だから、電話会社でも開示できないし知ることはできないとやんわりと断られてしまった。
 ということは、その携帯電話に入っていた電話番号などは、知ることも確認することもできないわけで、また一から新たに個別に連絡をとるしかないのだと思い知らされた。ならば、前から持っていたスマホに電話機能をつければ良かったんだと気がついたが、もうすべてau一社に統一して今後はやっていくことにしてしまったのだから後の祭りである。
 いずれにせよ、その未だみつからない携帯電話がひょんなところから出てくることをただ待ち望むしかない。さすれば、アドレス帳から友人知人の電話番号も判明するはずだ。果たしていつになることやら、出てくるのか。

 それにしてもこの世の中、なんてめんどくさいことか! 昨日はスマホに替えるだけであれこれ2時間も説明訊き、手続きにいろいろ契約記して、やっとのこと家に戻ったらばそれだけで疲れ果てて寝込んでしまった。

 というわけで、我はスマホを二台持つことになった。が、いつまたどちらか失くすか今から不安でたまらない。
 そうそう、マスダのその携帯番号は、090-8175-8479 でーす。

まさに天網恢恢疎にして漏らさず、か。前2018年03月18日 13時32分56秒

★安倍晋三の悪運もついに尽きるか
 
 ブログの更新が空いてしまい申し訳ない。
 ちょっと体調が悪かったりいろいろ雑事に追われて落ち着いてパソコンに向かえなかった。どこにいようがスマホからでも書き込むことはできるのだけれど、キーボード操作でないゆえ変換にやたら時間かかったり面倒でならない。何よりツイッター的な分量ならばそれでもかまわないのだろうが、我が書くときはそんな手短に収まらない。
 で、できるだけ簡単に近況と今思うことを記したい。

 もう一週間前ぐらい経つかもしれないが、右手が朝起きた時から痺れて強張り痛くて今もまだよく動かせない。当然指先でキーボードのキーを叩くのも難儀している。
 軽い脳梗塞でもと考えたが、痺れというか痛みを伴っているのは、右上腕の肘ぐらいまでで筋肉も張って痛い。手指もこうばって動かしにくいのは、筋肉痛に近い。金づちなど降り下ろして、大工仕事を激しくした後とかスコップで雪搔きしたときに一番近い。
 が、朝起きたときなのである。眠りながら我は夢遊病者のように、起きだして何か作業しているとは思えない。呆けた父ならば、先日も真夜中にベッドから起きだし徘徊して、捕まえ押さえつけてもコーフンして再び寝かしつけるのに苦労する。しかし、朝起きるとそのことはまったく覚えていないのである。
 息子は還暦でもまだそこまでボケていないはずだし、老々親子が二人して深夜ハイカイしてたらこれはもう笑えぬギャグであろう。老いた二人がわけのわからないことを真夜中それぞれやっていて、朝起きると二人とも何も記憶にないのだとしたら。

 では何で右腕がそんなに痺れるほど痛いのであろうか。単なる寝違えたにしては疲労感、こり様は尋常でない。ただ脳梗塞だと足とか右半身の他にも痺れがでると聞くが、今回はそんなことはない。全く原因はわからない。歳とるとこうした不可思議なことが起こるのだろうか。
 仕方なくともかく力の入らぬ右手を、風呂でマッサージしたりブラブラ振り回しながらながら何とか作業している。まあ、我は元々は左利きだったので、食事などで右手が使えなくてもさほど困りはしないが、やはりギターは通常のを用いているので、右手がこんなでは弾けないではないか。そう、両手で作業しないとならないことが片麻痺になると困難だと知った。
 まいったが、何とか一週間ぐらいしてきたらまだ痛いがほぼ元に戻ってきたので今やっとブログ書きだしたところだ。しかしピッチはまだ全然前のスピードとは程遠い。前ならばここまでの分量ならば5分もかからないのが、30分もかかってしまった。

 さて、昨日17日は、かけこみ亭での館野さんの「語り歌の継承」コンサートがあり、ゲストも興味深い方だったので、渡し物がてらそれも抱えてかなり遅れて出向いた。
 そして例によって、体調すぐれぬところに良いコンサートでつい浮かれてアルコールも入ったので、酩酊し時間も忘れ、駅まで行ったものの忘れ物に気がつき戻ったりしてたら南武線終電を逃してしまい、けっきょく「お泊り」させてもらった。
 以前ならば、そのまま歩いてウチまで一晩かけて帰ったりもしたが、春とはいえまだ深夜はかなり冷え込んでいたし、残っていた店関係者のお言葉に甘えて、床にマット敷いて頂き熟睡できた。風邪もひかないですんだ。
 それで朝6時過ぎの電車に乗って立川に出、無事戻ってこれたという次第。ひさびさの早朝の電車での朝帰りであった。戦争法成立の時に国会前から帰ってきたとき以来だと思う。
 
 さて今国会が騒がしく大揺れである。件の森友学園関連で財務省による公文書「改ざん」問題で、安倍一強・最凶内閣は総辞職間近かと報じられている。連日国会前には、大勢怒りの大衆が集まり、かつて戦争法案成立阻止を願い集結した頃の熱気が戻って来たようだ。この動きは大歓迎したい。我もかつてのように身軽に動ける状況、体調ならば国会前に何としても出向きたい。

 古言にあるように、天網恢恢疎にして漏らさずだなあ、とこのところつくづく思う。「てんもうかいかい そにしてもらさず」とは、今の人は読み方も意味もわからないかもしれないので簡単に記せば、天のあみは、密ではなく荒いように思えるが、決してそんなことはなく、絶対に漏らすことはないということを言っている。では何を漏らさないのであろうか。
 ネット上の辞書にもこう説明されている。

天が張りめぐらした網は広く、目が粗いようだが、悪人・悪事は決して取り逃がさないということ。天道は厳正であり、悪は早晩罰を受けるということで、悪事を戒める言葉。▽「恢恢」は広く大きいさま。

 この正月、安倍首相は妻と二人で都内で映画『鎌倉ものがたり・ディスティニー』を観覧し、豪勢な食事をホテル堪能し今年もまた「我が世の春」を謳歌したことは、新聞の首相動静で報じられていた。
 昨年の衆院選にもまた完勝でき、今年はいよいよ念願の「憲法改正」の発議に向けて動きだす、ついにそのときが来たと誓い新たにしたことだろう。
 それからわずか三か月で今のような政権自体を揺るがす事態が起きようとは夢にも思わないでいたことは間違いない。
 政治の世界は一寸先は闇だと昔からよく言われていたが、政治に限らず先のことは誰もまったく予想がつかない。

 このまま問題の「改ざん」その全ては、一官僚、佐川が勝手にやったことだと、私人となった佐川氏を「サガワが、サガワが」と呼び捨てしにして責任を彼に被せて麻生財務大臣が逃げ切るのか。「適材適所」の人材がこんな法律に反する事件を起こしたのだとしたらそれだけで任命責任が彼にも首相にもあるのではないのか。
 憲法改正どころか、安倍総裁の再選も難しくなったとマスメディアは報じているが、果たしてそうなるかどうか、現時点では何ともわからないし、安易に期待してはならないと思う。

 長くなってきたのと、さすがに右手も痺れてきたので、この続きは後ほど書くとしたい。

まさに天網恢恢疎にして漏らさず、か。後2018年03月20日 21時15分22秒

★まさに、せまじきものは宮仕え、であろうか

 古今東西、時の権力者の意向に逆らって左遷させられたり馘首されたものは数限りなくいる。
 古代中国でも王や皇帝の逆鱗にふれ遠方の地に飛ばされた者の悲哀をうたった古詩がいっぱいあるごとく、今日でも某トランプ政権を見るように大統領と意見や見解が異なるだけで更迭させられてしまう者は次から次へと後を絶たない。

 つまるところ強大な権力者の周りには、良いことも悪いこともただ唯唯諾諾と奴隷のように従う「手下」しか残れない。そしてその状況の中で出世と身の安泰を望むならば、上司である彼ら権力側のご意向をしかとくみとり「忖度」しないとならない。
 それは「気配り」とかの次元ではない。おべっかであり、へつらいであり、阿諛追従であり、つまるところ盲従である。やがて当然の結果としてその組織、集団は腐敗し疲弊し破滅へと至る。それは国家であれ会社組織でもまったく同様である。

 それにしても今回のような犯罪事件と呼ぶべき国会に提出された決裁文書の書き換え、公文書の改竄は何故行われたのであろうか。そしてこの事件に関して誰もが感じている「いや~な感じ」はどこから来るのであろうか。
 おそらく真相は解明されないままこのままサガワ氏が独断でやったとして、彼ら官僚が刑事罰に問われてうやむやにされ時が過ぎ忘れ去られてしまうのではと危惧しつつ我は予想している。
 もし、安倍夫妻側からの森友学園に特別の配慮をなすよう行政機関への指示書の類が出てくればまた状況は一転するだろうが、そうした「依頼」はあくまでも口頭で、嫌でも「忖度」せねばならないよう仕向けられて行政は動いたはずで、安倍政権の「意向」は見え隠れはしても決定的な「証拠」はまず出てこない。
 昔から政治家の起こす事件は、「秘書が勝手にやった」と「記憶にございません」で「終結」するのが常だが、今回も一部の財務省職員が「勝手にやったこと」、で誰一人納得せずとも幕を下ろすのではないか。

 思うにこんな異常な事態、民主主義の根幹を揺るがすような事件が起きるのは、安倍一強政権の驕りからくる「権力の私物化」はもちろんのこと、半世紀以上にわたる自民党政権による政、財、官の一体化という歪んだ日本政治の構図があるからだ。
 公務員である官僚=役人たちが「公僕」であることは言うまでもないが、国民に選ばれ信託された政治家たちもまた同様のはずなのである。が、彼らは、国民の側に向き合うことはなく、多額の政治献金を出す大企業の言いなりであり、役人たち、行政側は、その政治家の顔色を窺うしかない。
 一時期、政・財・官の癒着が問題となったが、我に言わせれば政財官は、癒着どころか自民党を中心にした「一体」のものであって、高級官僚は自民党の政治家に成りあがり、各種業界団体は自民党議員を輩出し、官僚はやがて関わった業界へと天下りしてまたしこたま甘い汁を吸う。そして自民党は電力会社の言いなりで原発再稼働進めるように財界のための政治に邁進していく。

 これが国民に選ばれた政治家や公僕である役人のすることかと思うが、彼ら権力者、日本の支配層は、あまりに自民党が長く政権にあったためこの盤石の構図を変える気はまったくなかった。
 そもそも役人たち行政と政治家たち立法府は、対等の関係のはずなのである。政治家なんて落選したらばただの人であり、米国のようにひんぱんに二大政党間で政権交代が行われれば、なにもときの政権政党の言うことに従う必要はまったくない。
 いくら森友、家計学園に特別な便宜をはかってくれ、彼らは俺たち夫婦のトモダチだから、と安倍夫妻がもちかけてきても財務省、文科省側は断固としてそれは国益に反する行為で「犯罪」になりますからと断れば良いのである。
 それができない、しないどころか「忖度」せざるえなかったのは、2014年に安倍政権下で、「内閣人事局」なるものが出来たからだ。官邸主導で人事を一元化するとの名目で、幹部人事はすべてときの政権側に握られ、官僚たちは生殺与奪を思えば、国家国民こと以前に常に官邸の顔色を窺いおもねる「イエスマン」へと成り下がってしまったのである。
 だから自分たちが森友学園側のためにやっていることは国益に反する「犯罪」行為だと信念ある真面目な職員は、苦悩し体調を崩しあげくに自殺するという悲劇も起きる。

 それなのに、あくまでも安倍晋三や麻生太郎ら政権側は、知らぬ存ぜぬ、関わっていない、サガワがサガワが勝手にやったと言い張り、無責任を通すから国民の誰もがものすごく「いや~な感じ」を受けるのである。
 ならば仮に、一部の職員が独断でやったことだとしても、そこに監督責任、任命責任をみとめまずは麻生財務大臣が自ら辞職すべきではないのか。あるいは罷免すべきではないか。
 昨秋の総選挙も「国難突破」と言いつつ森友・家計問題での「安倍難突破」のため成されたと言われていた。今回の決済文書改ざん事件でその選挙自体の有効性が問われているのだから、総辞職して国会を解散し真に国民に自らの罪の有無を問いてみたらどうであろうか。国民が首相の説明で納得していればまた今回も大勝するはずではないか。

 いずれにせよ宮仕えとは嫌~なものだとつくづく思う。時の政権、最高権力者に気にいられようとして犯罪行為承知でやったのに、いざそれが露呈したとたん罪を被され捨てさられてしまうのだから。まあ、それは 首相夫妻の盟友であった籠池夫妻も同様の気持ちかと想像する。まさに権力者とは非情かつ冷徹なものだと嘆息するしかない。

明後日25日は、高坂一潮さん七回忌イベント、かけこみ亭で6時頃から。2018年03月23日 19時36分09秒

彼の遺した四枚のアルバムのうちの一枚
★一潮さんを知る人も知らない方もどうかお気軽にご参加を

 高坂一潮(こうさかいっちょう)という、青森が生んだ不世出の素晴らしいシンガーを聴いたことがある人どころか、いたことすら知る者ももはや少ないかもしれない。
 2011年の大震災の直後に彼も多くの東北の名も無き人々と共に旅立ち、そして既に七年過ぎた。彼はその前から何年も意識不明の昏睡状態であったのだから、その時点で既に過去の人であった。
 繰り返しになるけれど、我マスタば生前の一潮さんとはたった一回しか面識はなく、こんな人がどこにいたのか!と驚き深い印象をもった。そしていっぺんにファンになった。
 そしてその後、中川五郎御大から、一潮さんが倒れて意識不明のままだと知らされ、彼の名曲「だびよんの鳥」を皆で唄いながら何とか回復を祈り続けた。
 が、そうした思いもかなわずついに長い闘病の末逝って既に七年。何とも時の過ぎるのは早いものだとただただ嘆息せざるえない。
 
 ただ、幸いにも縁あってここ谷保のかけこみ亭では、毎年彼の命日の辺りには、彼を知るミュージシャンや音楽仲間、ファンたちが集い、時にコンサート形式で、あるいはただしみじみ彼の映像や遺したうたを聴きながら亡き人を静かに偲ぶという追悼イベントが続いている。
 一昨年の時は、かなり盛大に、生前の彼と親交のあったミュージシャンたち、ケニー井上、よしだよしこ、シバ、斉藤哲夫らが勢ぞろいし、別れた元妻の方もかけつけて、盛大盛況に催された。
 そして今年は、どういう形式になるのかは幕を開けてみないとわからないが、御大中川五郎を中心に、五十嵐正史とソウルブラザーズ他、一潮さんと親しかったシンガーも来られて、彼のことを語り彼の唄をうたい、遺された映像などを観ながらこの不遇かつ素晴らしい天才シンガーソングライターについてその思いをそれぞれのスタイルで表現してくれるはずである。

 例によってかけこみ亭らしく、特に今回はぼけさんの意向で、あまりしばりなくゆる~くやりたいとのことで、プログラムも未定で料金もカンパ制だし、いったいどういうイベントになるのか我は関知していないが、間違いなく面白く楽しい、そして亡き人の素晴らしさ、偉大さが今もはっきり確認できる集いになると信ずる。
 どうぞまだ一潮という歌い手を知らない方こそお越し頂きたい。そしてかつてこんな素晴らしいシンガーがいたことと、かれの遺したうたの数々をどうか知って覚えて、また次の世へと語り継いでもらいたい。
 歌の作り手、歌い手は死んでやがて忘れられてしまっても、その遺したうたが今も唄われている限り、その歌い手は生きているのだと我は信ずる。
 高坂一潮、永遠なれ!