また犬の話2018年04月25日 07時37分14秒

★おトラさん、また弱ってきてこちらも弱ったこと。

 久しぶりの雨の水曜日。外は雨が音立てて降っている。

 我、マス坊は西多摩の片隅で、今は老いた父と犬猫たちと暮らしている。たまに近くのフリースペース「かけこみ亭」でコンサートの企画などに関わったり気晴らしにライブに顔出したりはするけれど、基本は家にこもって、ネット通販での注文本の発送や同居している者たちの世話に明け暮れている。
 自分でもつくづく思うが、ごくごく小さな生活をしている。今はもう誰とも会わないし誰も訪れる者もいない。父の介護と犬猫の世話だけで月日がただ過ぎていく。
 それでも山梨県の奥地の山里に倉庫として古民家を先年手に入れられたので、今は気晴らしもかねて月に一度は出かけては気分転換している。向うには良い温泉がいくつもあるので、そこに浸かって日頃の憂さを晴らしリフレッシュするのが今は唯一の楽しみだ。

 その山梨県の地元スーパー「やまと」で、去年の年明けだったと記憶するが、市の出した飼主募集中の甲斐犬のポスターを見た。
 どうやら迷子になってその飼い主もみつからず、地元の動物ボランティアに今は引き取られたもののこのままでは処分されてしまうとのことだった。
 我は何も考えないので、ならばとすぐに市に連絡してその犬と会いほとんど何の手続きもなくウチに連れて来た。
 中年の甲斐犬系雑種のメスで、常に困っているか泣きそうな情けない顔していて頭にふれるとビクッと身体をすくめることから飼い主に始終ぶたれたりしてあまり可愛がられず挙句に捨てられたのだと想像できた。近くの動物病院に連れて行き登録もしたが、年齢は貼り紙にあったように定かではないが10歳は行っていないとだろうとのことだった。
 当初はやや太り気味だったが、元気で何の問題もなく散歩に行きともかくよく食べてくれた。
 名前は、基地の米兵がショッピングモールで彼女を見て、「オー!タイガー」と指さしたので、「おトラさん」と呼ぶことにした。確かに犬には珍しいキャラコ柄、茶の地に黒の縞模様なのである。
 
 が、昨年の秋口から何故か外に出していると夜など夜鳴きしたり吠えて騒ぎ出し、こちらとしても頭悩ますようになってきた。散歩に行ってもしばらくするとまた啼いて騒ぐ。近所の人からも苦情が出た。
 動物病院に連れて行っても特に異常はみつからなかったが、そのうち足腰が萎えてきて散歩の途中にへたり込みついには自力で歩けなくなってしまった。
 医者の診断では、老化と栄養不良で衰弱しているとのことで、犬用の漢方薬出してもらいひたすら栄養歩ものを食べさせたら何とかまた自力で歩けるようになり我は安堵した。
 そしてこの冬はずっと家の中で暖かくして過ごし、夜中も何度か抱きかかえて外に連れ出して排便などさせて、それなりに手も金もかかったが、まあこれも縁であり仕方ないと覚悟した。
 要するに彼女、おトラさんは苦労してきた老犬であり、年齢は定かではないけれど、あまり大事にされなかったこともあり老いて衰弱してきたのと呆けも出て来たと推測された。

 苦労したぶん、基本贅沢は言わずに何でも常に良く食べてくれてこちらも安心していたのだが、このところしだいしだいに食が細くなり、食べさせるのに手がかかるようになってきていた。そして昨日はついに何やっても食べなくなり、口元までもっていっても口に入れても吞みこまない。夜もう一度与えたら少しは食べたもののまた面倒な事態に入って来たと思えてきた。
 それでもまだ散歩はゆっくりでも自力で歩け、本人も行く意思があるし、体重はさほど落ちていないので一気に寝たきりにはならないと思える。
 食べないのも一時期の気の迷いなら幸いだが、歳相応の変化なのだとしたられもまた仕方あるまい。何しろ年齢は不肖だから何もわからないが、実はかなり高齢なのかもしれないし、それもまた動物本人の意思であろう。無理強いして吐いても仕方ないわけで、人も犬猫も最期は食べられなくなって痩せ衰えて逝くのである。
 もう何度もそうした死に向かう世話はしてきたから、おトラさんもそういう時期に入って来たならばそれもまた仕方ないとも思える。が、じっさいそれはまたかなり手のかかる精神的にも参る事態であり、昨年の今ごろやはり老いた愛犬ブラ彦を送った者としては、このままトラさんの衰弱が進んでいくとしたらまたか、といううんざりする気持ちも正直ある。

 しかしこの世の全ては縁であり、あまり人間から愛されなかった不遇な犬もその最後はこの家で、愛され世話されて死んで行くのだとすればやっとそこで帳尻も合うのではないか。
 山梨から彼女を連れて来たことを我はちっとも後悔していない。その命を少しでも長く生き永らえさせ、安逸な晩年を送ることをさせてやれたなら、それは間違いなく「良いこと」であろう。
 つくづくこの世は「出会い」だと思える。そのスーパーやまとも先だって経営不振で突然の閉店廃業してしまったわけで、その店がなければ、今ではなくそのときでなければ、この犬と知り合うことはなかったのだから。ならばそれもまた奇縁であり、ある意味必然であったと思うしかない。

 野生動物はともかく、こうしたペットは飼主なしで生きていられない。その幸不幸も飼い主次第なのである。ならば、その出会いこそ我の使命だと思うし、まったく何も見返りはないけれど、彼女が得られなかった分の愛情を返さねばならないのだと思う。
 公共の場所で誰かが勝手にゴミを投げ捨てる。そしてその当事者でない人がそのゴミを拾い集めきちんとゴミ箱に捨てていく。そうして社会は回っていく。ならば哀れなそのままでは処分されてしまう犬がいたとすれば、もしそのときそれを引き取り飼う余裕あれば、その者はそうするしかないではないか。

 まあこれからもおトラさんには金と手がかかるかと思う。がそれはそれで仕方ない。父もだが、面倒見なければならない者がいることはそれはそれで幸福なのである。真の不幸は、そうした相手すらいないことだと我は思う。