まだまだできる、やり直せると思いたい2018年06月01日 07時55分49秒

★6月に入りました。近況と思うところを少し。

 久々に朝からカラッと晴れた。夜来のひんやりとした冷たい風が吹く。が、陽射しは強い初夏の朝である。今日は暑くなると予報は言っている。梅雨入りはもう少し先らしい。

 今日から6月。先月5月はいろいろ不慮の出来事もあって、心騒いで忙しいわけでもないのに、何もできず終わってしまった。カレンダーを剥がしては毎度のことだがこうして月日だけが、ただ過ぎていくのを忸怩たる思いでみつめている。

 拙ブログ何でも正直に記すとしてきてはいるが、我が事はともかく、関わる人のプライバシーのようなものもあって、何でも自由に書けるわけでもなくどうしたものかと迷いこのところ筆が進まなかった。
 実は、この数日、また一人で雨の中、山梨の古民家、これからは「庵」と呼ぶ――へ行ってきた。
 父を施設に預けて、我は犬たちと一人で水曜の夜から二泊三日で出かけて、昨日の夕方、父が戻る少し前に帰って来た。
 天気は雨もよいで悪かったが30日は丸々一日、向うにいられたので、久々にのんびりゆっくり心静かに過ごすことができ、自分と向き合えた。
 朝から鳥の囀りと枕の下を流れる川の流れの音がしない「静けさ」の中で、片付けや古民家の手入れ、掃除をしつつ「これからのこと」を考えていた。
 夕刻に、さらに山奥の「増冨の湯」に浸かりに行き、湯治場の温い湯の中で、雨の音を聴きながらうつらうつらしていた。おかけでリフレッシュできた。

 向うへ行くと、いや行く途中もだが、亡き母とのことを嫌でも思い出す。そして悔恨、痛恨の思いにまた囚われる。
 人は皆誰もが必ず死ぬ。そして我もこのまま何もできずに間もなく死ぬという思いに苛まれる。
 手がけるライブ企画などがあるときは、嫌でもそうした下準備や連絡手配に追われるので、自らのことは何もできなくともあまり何も考えないで済む。
 が、このところ次の予定もなく、誰とも会わずに一人で、ときに父とだけ向き合っていると、また心は倦み疲れ鬱々としてくる。ましてとっちらかった足の踏み場のないこの家にいると、亡き友がよく口にしていた「暗澹たる気持ち」になってくる。
 が、幸いにして、我には山梨に「もう一つの別の場所」があるので、行き詰った現実から逃げ出し、誰一人いないところで気持ちを切り替えられる。実に有難い、恵み、分不相応の幸福だと思う。
 その「庵」は本来古民家だからかなり広いはずなのだが、今はもう古本、クズ本が一杯で、倉庫と化し、方丈記ではないが、狭い庵と化してしまった。元々古い家なので、運び込み積み上げて本の重みで畳もところどころ沈んできている。外の土壁は、しっくいが剥落して次第に廃屋化してきている。
 まだ雨漏りはしていないが、手を入れないと取り返しのつかないこととなる。家はいかに補修、日々手入れをしていくかが課題である。前回来たのは大型連休の頭で、一か月あいだが空いただけで、庭の雑草はものすごく伸びてしまって廃屋感がすごかった。
 我が人生も同様で、年とるとあちこち老朽化し、傷みだしやがては突発的に倒れることもままある。

 我は今60で、平均年齢ならばまだ20年の余生、余命があるとされるが、脳梗塞、心筋梗塞などで倒れれば、即死、もしくは寝たきりとなろうし、癌などで数年で死ぬかもしれない。筋力も衰え血管も詰まり、血もドロドロになってきていると自覚する。そう、思いは若い頃と変わらねど、身体は間違いなく老人のそれとなってきた。
 死は身近な友として我が傍らにある。
 ならばこそ、どうするか。このまま酔っぱらって日々自堕落に寝起きして何もできずに死ぬという生き方もある。好き勝手なことだけしてまさにキリギリス的な享楽的な生き方だ。
 が、先のこと、死後のことはともかくも、我はまだ世間的なこと、世間一般人が成すことは何一つしていないし、母と父を看取り送るだけで我が人生を終えるのではあまりに意味がない。
 先日のラジオ深夜便で、麿赤児氏がインタビューで語っていたが、人は「この世に生まれてきたことだってすごい才能だ」とすれば、我もまたその才能を生かすべきではないのか。

 そう、人生に手を入れて、まだまだできる、やり直せると思いたい。今さらだが、全てはここからだと。
 成すべきことをし終えれば、清志郎や高田渡のように五十代で死んだってちっとも惜しくはない。が、我はまだ何一つしていない。モノばかり増えてしっかり溜め込み、何でも持っているけれど、まだそれをちっとも活かしていない。そして負債ばかり溜まってしまった。

 これからは少しでもそれを解消していく。そして返していく。様々な恩義と神の恵みに感謝していく。まだまだできる。我に成すべきことがある。鬱々としてはいられない。全てはここから、今からだ。
 
 父をそろそろ起こして、トイレへ連れて行きオムツ換えて朝飯を食べさせる。
 冷たい風が吹き込む爽やかな晴れた朝、新しい季節が来た。今日もがんばろう。

みんな違って、みんなダメ2018年06月03日 23時50分21秒

★みんな誰かのお荷物だ。

 今日は日曜で、誰も来なかったが、このところ父がいる日も、いない日も、父のことで行政や福祉の側の人が、今後のことについてウチに「相談」しに来て慌ただしい。もはや通所ではなく介護施設に全面的に入所させる話である。
 要するに、このままだとこの我、暴力バカ息子は、その父を殴り殺してしまう怖れがあり、そうなれば彼らにも責が及ぶという心配や思惑もそこにはあるのだろう。
 我としては父が承諾するならば望むところ、という気持ちで何も異論も反論もないのだが、時に夜根際など悲嘆にくれ泣きながら家にいたい、おいてくれと懇願する父を見る時、言葉巧みに父を「説得」する彼らに何故か名状しがたい怒りのようなものも正直わいてくる。
 今後のことについてはどう進むか、また新たな展開もあるかもしれないし、施設に入れた時の経済的な問題もあり、先行きは今はまだ判然としない。
 ただ、我としてはもう今は何も望まないし何も考えないし、父が家にいるその数日を、ただじっと堪えて感情を押し殺してやり過ごしていくだけだ。そう、ある意味、もうすべてどうでもいい。全てはなるようにしかならないのだから。そしてそのときはただ受け容れていくだけの話だ。
 
 さておきそんなこんなで、落ち込んでいるわけでも鬱々としてしるわけではないのだが、このところ誰とも会わずただ家にいて、毎晩ヤフオクとか覗きながらモノとだけ関わっていると、誰にも会いたくないし誰とも関わりたくなくなってくる。フェイスブックすらもう何ヵ月もチェックしていない。
 つくづく自分は、本来の気質は実に内向的な、人間嫌いでそもそも一人でいることが好きなのだと気づく。そうした気質の者が、多勢の人前に出て「公演」のようなことに携わっていたのだからまさに分不相応、場違い、不適格であったと今つくづく思える。
 むろん誘われたり請われ、そこに我の「役割」や成すべきこと、その必然性があればいくらだって何だってできることはやるつもりでいるのは変わらない。ただ今は、次のことは何も決めてなく、特に責任がある先の「用件」は何も無いと、こうまで我は「引きこもり」になるのかと感心さえしている。

 さて、先月末の休日のこと、八王子の河川敷で、毎度恒例のフリーライブイベントがあった。企画に携わっている方が来られてお誘い受けて当初は今年も参加する予定でいた。
 が、父とのこともあって今は気分が内向して、大勢の人がいるとところに行くのは何か気が進まず、せっかくのお誘いを反故にしてしまった。毎度のこと我は身勝手だとつくづく思うが、行けば刺激受け、顔見知りの人たちとも再会できたはずでもどうにも仕方ない。
 
 そのイベントのタイトル、というか、基本的コンセプト、イベントの趣旨というかテーマは、「みんな違って、みんないい」だったと記憶する。
 そう、その通りだと思うし、何事にもそうあるべきだと我も強く共感する。
 が、根が天邪鬼でネガティブ思考の者としては、みんな違うのは当然だとして、「みんな良い」かは、やや疑問に思う。
 もし我にテーマをつけさせてもらえたらば、こうするはずだ。「みんな違って、みんなダメ」と。
 「みんな良い」というのは表向きの、ポジィティブな面であり、晴れの日がそうであるように、まずは正しい。が、天候に曇りや雨の日があるがごとく、それを全面的、一概に「良い」とは我はどうしても首肯できない。
 逆に、「みんなダメ」としたほうが、我は居心地がよいが、それは屈折しているか。「みんな悪い」と言っているわけではない。ただ「ダメ」なのである。
 我が考えとしては、人は皆誰もがそれぞれダメな部分、どうしようもない咎や罪、エゴを抱えていて、ときにそれに苦悶し向き合い、悩み倦みなおも抱えつつ生きているのだと信ずる。
 そして誰もがその「ダメ」さ、それぞれの「ダメ」ときちんと向き合い、お互いに許容し認め合って生きていくのが正しい社会であり生き方のように思える。それこそが「みんな良い」社会とよべるのではないか。

 「みんな誰かのヒーローだ」というコピーというか、キャッチフレーズを先日新聞で目にした。なかなかうまいことを言っている。そう、それもまた正しい。その「存在」が意識的、無意識的に誰か見知らぬ誰かさえも元気にし、励まし勇気づけていることは確かにある。そうヒーローとはスポーツ新聞の中だけの話ではない。
 が、我としては、ならば、こうネガティブに言いたい。「みんな誰かのお荷物だ」と。
 今、老いた父という「お荷物」を抱えて、その重さに押し潰されそうになっている者として思うのは、だからそんな「お荷物」はなくなってしまえば良いというのではない。
 逆に、人は皆誰もがやがては「お荷物」になってしまうのだからこそ、それを予め認めて自覚し受け容れていく社会でなくてはならないということだ。

 その「お荷物」は家族、家庭内だけで背負うことは難しい。日本人は誰かの世話になること、厄介者になることを極力嫌い、寝たきりになるぐらいならば、ピンピンころりと死にたいと願い、誰もがそう口にしている。
 そういう生き方、いや、死に方は確かにあるし、我も憧れる気持ちもなくはないが、誰もが電池の切れたオモチャのように突然終わるわけではない。逆に我が父母のようにじょじょに衰弱して、しだいしだいに何もできなくなって動けなくなり、何もわからなくなって緩慢に死んでいく場合のほうがはるかに多いと信ずる。
 一億総活躍社会なんて絶対に不可能な話で、可能性としては一億総お荷物社会と言うほうが現実味があろう。
 つまり長生きすれば誰もが寝たきりになり癌や認知症となり、自ら一人では何もできなく、わからなくなって「お荷物」と化す。
 だからこそそうした「現実」を、この社会全体が認識して、政治主導で国家全体で「お荷物」を負う社会をつくらねばならない。そして老いも若きも人は誰もがいつかは「お荷物」と化すときちんと認識、自覚せねばならないはずだ。
 そもそも消費税導入の時の「理由」はそうした福祉に充てるという目的であったはずだ。もし、福祉が充実して国家がその「お荷物」の面倒を一切見てくれるというならば、どれほど高額の税負担を強いられても国民は誰一人文句も異論もないかと思う。
 が、逆に少ない年金の支給遅らされ、過労死寸前までサービス残業を強いられ、何であれ全ては自己責任だと突き放される社会や政治では誰も「お荷物」を負いたくないし、お荷物になれない。しかし現実は誰もがやがてはお荷物と化し、この国には誰も背負うことのない「お荷物」が溢れていく。

 誰だって誰かの「お荷物」にはなりたくないし、誰だってその「お荷物」を背負いたくはない。しかし、我はまたこうも思う。本来は国家が責任もってお荷物を負うべきが前提だとしても、そうでないとしたら、人は誰もが多かれ少なかれそれぞれの「お荷物」を負うべきだと。
 何故ならば、自らもまたそうした「荷物」になるからで、負わなかった者は、やがて晩年、「お荷物」と化したとき、やはり誰も追わないのではないか。
 と、書いて、ならばお前は、老いたとき、お前を背負ってくれる者がいるのか、それを期待しているのかと問われると言葉に窮す。そもそも家族のない我が「お荷物」と化したとき、我を背負う者がいるはずがないのである。
 そう、だからこそ我は叫ぶ。「みんな誰かのお荷物だ!」と。社会全体で背負う仕組みを願い期待して。

マス坊の「商売考」~モノの値段と価値を考える・序2018年06月05日 21時15分18秒

★ヤフオク!を通して見えて来た裏経済的「商売」事情。

 日中は汗たらして動き回っているのに、夜間や早朝はひんやりとして涼しい。暑いんだか寒いんだか自分でもよくわからない。風邪気味なのか今、鼻水垂らして下着姿でこれを書いている。
 かのヤフオク!を初めて一か月となる。何を落札したのかは順次報告しているのだが、いろいろ慌ただしくてまだアップが遅れている。
 が、再発CDから始まって古いハーモニカ、そしてジャンク扱いのレコードといちおうまずはジャンルを絞って何度も入札を繰り返しうまく落とせたものもあるし、あまりの高騰に正気に返り断念したこともたたある。
 ただ、この新しい商売の世界を知って、大いに学び得るところがあり我が商売にも希望の光が見えて来た。そう、「こんな売り方ができるのか!」「こんなものでも売れるのか!」という驚きであり、Amazonマーケットプレイスの狭い制約世界しか知らなかった者にはまさに「目から鱗」であった。
 商売とはそもそも限りなく自由なもので、売り手は何をどう、どんな値段つけていかようにも勝手に売って良いはずなのである。
 むろん買い手は一円でも安く良い条件で良いモノを買いたいと願う。それは軋轢ではなく、その「かけひき」こそが商売そのものであり、それは商人上がりのトランプ大統領が言う「ディールdeal=取引」であり、売り手と買い手の双方が納得するのであれば何も問題は一切ない。※国際政治の世界もある意味、商業的取引であるのは認めがたいが現実であり、北朝鮮との取引もうまく成功することを我は期待している。

 話を戻すと、我は世界的巨大ショッピングサイトAmazonの庇を借りて、この10年、その店先で古本類を出店というか「出品」させてもらっていた。
 が、この大家さんは、集客力はものすごくあるのは良いけれど、顧客保護からの観点から様々な制約があり、何でもかんでも自由に好き勝手に売ることはできない。そしてさらに難点は、そこで売れた場合、販売価格の約半分もマージンとして持ってかれてしまう。
 しかも本などの場合は、現行本などは1円本ばかりとなってしまい、売れて儲けが出る本を探すのにも苦労するという状況は悪化するばかりであった。
 のんき者の我も働けど働けどと、これでは・・・とじっと手のひらを見るという気持ちになってきていたところだった。だから個人出品者は激減し、他を見回しても大規模古書店とか人手も含めて経済的基礎体力ある出店者しかいなくなってしまった。
 ひと頃、セドリでお小遣い稼ぎなどを説く指南本が出ていたが、とても素人がブックオフなど回ってもそんなふうに儲けが出る本など安易に手に入るはずがない。仕入れも含めて、商売――ものを売って稼ぐということは甘いものではないのである。
 だが、我にとっては新しいヤフオクという世界、そこでまだ「売り手」として参入はしていないが、垣間見ただけでもAmazonよりはるかに自由に何でも売りに出せていた。それが売れるか売れないかはともかくとして。

 また、何より素晴らしいことはサイト側のピンハネ、「手数料」という名目の搾取がないことで、ヤフオクの場合、あくまでも当事者間の取引としてヤフーは一切関わらないということが素晴らしい。
 だからそこでは、えっ、こんなものまで、売っていいの!!?とびっくりするものがびっくりするような売り方をされて出ている。

 Amazonでは見本盤や非売品は絶対に中古ですら規制があって出品できないが、ここではそもそも規格品、既製品以外の手作り私物でさえ売りに出してもかまわない。だから掛け軸や硯のような骨董古物だけでなく、誰の筆になるのか定かでない怪しい絵画もあるし、生き物だってさすがに犬猫などはいないようだが、盆栽などの観葉植物から熱帯魚など水生動物類まで売りに出さされている。
 誰かがかつてラジオからエアーチェックしたと思しきアイドルのライブのカセットテープまで何本かまとめて出ていて、おいおい、著作権はどうなってんだ、と思わず突っ込みたくなってしまった。

 昔、我が春一番コンサート関連で大阪の天王寺近辺、西成のドヤ街をぶらついていたとき、朝など浮浪者?たちが拾い集めたものを持ち寄ったものを路上に並べている市を見かけたが、まさにそういう感覚で、完全なガラクタから掘り出しものまで細かくチェックしていれば出くわすのが、このヤフオク!の世界なのであった。
 Amazonのそれが官製の市場とすれば、ヤフオクはまさに自由市場、戦後の闇市であり、その値も競り合いでいかようにも決まる。競り、オークションというものに何か漠然とした悪しきイメージがあった我だが、ここならば、Amazonで売りあぐねて、処分するしかなかったものでも売り方しだいでいかようにも売れると強く鼓舞された。

 というわけで、「商売」に関する私的思考をつれづれなるままに書いて行こうと思う。

常にダメであり続けること2018年06月07日 23時09分47秒

★正直にあからさまに書く

 このところなかなかブログが更新できない。忙しいわけでも何かトラブったわけでもなく、鬱々と落ち込んでいるわけでもない。
 ただ、心がどうにも落ちつかず、腰据えて頭スッキリさせて書くところまで至らない。理由はただ一つ、人生がどうにも行き詰ってしまいあれもこれもとやるべきこと山積で、パニック障害起こしてしまったのだ。

 時間ばかり過ぎていくのに何もできないまま一日一日が過ぎて月も替わり季節は進み、今年もどんどん終わりに近づいていく。
 今年こそ、今月こそ、今日から今からと心機一転、誓うのだけれど結局ほとんど何もできずまたさらに「けんあんの事」は増えていく。
 父がお泊りに行っている間に、何とか生活を維持してきちんとしていこうといつも思うのに、何故かほとんど何もできずまた父は帰って来てしまいその世話に追われていく。
 つまるところ我は、医師の診断を仰いだわけではないが、昨今言われている「大人のADHD」であり、怠け者だという以前に、常に失くしものと探しものに追われて、今何をしているのか、何をまずしないとならないのか混乱してわからなくなりそれだけで疲れ果ててしまう。

 思えば子供の時から何度教科書や日々使う教材を失くしたり忘れたりして、近くの文具店や教科書を扱う本屋に慌てて駆けこんだことか。うっかり者とかそそっかしいとか以前に、子供心に何か自分はヘンだと薄々感じていたしそうしたことでさんざん叱られ周囲から侮られて不登校にもなった。
 ただ大人になって、若い時はそうした「多動性」は、腰が軽く外交的要素でもあるので、どこにでも行き何でも手を出しそれはそれで面白おかしく楽しく暮らしていた。むろんそこには「生活」はない。あるのはあくまで非日常である。まさにキリギリス的遊興人生で会った。

 が、先年老親が病み衰弱してきて、嫌でも我がその生活の維持を担当せざるえなくなった。料理や洗濯などは元々嫌いではないし、趣味的関心は昔からあったからできなくはないが、それも誰か他者があってこそのことで、自分一人だけならできるだけ手はかけたくない。また、母が生きていた時は、司令塔かつ相談役として生活全般のことは母に頼って来た。母は寝たきりとなり何もかも我が担当してきたわけだが、我家の根幹、生活の総元締めは母であった。
 寝たきりの病床でも様々な支払い手続きのことや季節ごとの衣替え的なこと等母はあれこれ指示して、我は半ばうんざりしつつも従い、そう、この家は何とか維持し回転していたのだった。
 その母が、亡き後のことをさんざん案じながらも逝き去り、既に二年近く経つ。
 半世紀以上共に暮らし、離れたいる時も常に傍らにいて我のことを常に心配してくれた人が突然消えてしまうと、そのショックのあまり我は半年以上もPTSD的症状から鬱になり何もかも気力や関心を失くしてしまった。
 その余波が続いてこうなってしまったのかわからないが、このところ我が家は家の中も外もまさにゴミ屋敷と化して足の踏み場がなくなってしまった。片づける時間がないのではない。これでも時間見つけては父のいないときせっせと少しづつ片づけている。
 が、賽の河原の石積みか、神話に出てくる牛小屋の掃除のごとくまさに切りがなくちっとも片づかない。要するにモノがそもそも多すぎるのである。広い家なのにモノに埋もれて身動きとれなくなってしまった。

 元より我は何が大事なのか要不要の判断が乏しく、それは事においても優先順位がわからないのと同じく世間の人のようにきちんと対処できない。普通の人は即捨てられるものでも捨てられないし、親譲りのモッタイナイ精神かと思っていたが、どうやら整理整頓の根本のところが欠けているように思える。
 昨日も今日も父が不在だったので、台所や玄関先をけんめいに掃除していた。特に今、ヤフオクを初めてしまったので、安く落札して届いたレコードの箱がいくつもあって、しかもそれはきちんとしたサイズに入ってないのでともかく場所とっている。
 中の緩衝材をどかして、LP、EPのサイズに合った段ボール箱に詰め替えているのだが、つくづくいったいオレはまた何してるのか!としだいにうんざりしてきた。いったいこのレコードの山、新たにどこに収納するのか。

 何であれ欲しかったモノが幸いにしてうまく落札できた時は嬉しい。が、冷静になってみると、それは今すぐ何が何でもどうしても必要なものではないのである。欲しいものと必要なものは違う。
 それは偶然安くみつけて、欲しいな、ずっと欲しかったものだ、あるといいなあという程度のものであって、生活必需品ではない。
 かつて落語など芸能をさして某落語家が自嘲気味に「あたしらの商売は、あってもなくてもよいようなもの、ではなく、そもそもなくてもなくてもよいようなもの」と語っているのを目にしたが、まさに古いレコードなど場所とるばかりで、我の残り少ない人生をおもうとき、なくてもなくても構わないもの、どころか、自らこうしてオークションに出して減らす側なのであった。バカだからつい浮かれて、果たして聴く機会があるかどうかもわからないのに今また新たに「名盤」をまた集め始めてしまったのだ。いったい今さら何やっているのか!

 そうこうしているうちに夕方になって父が施設からもどっ来てしまい、とっちらかった玄関先や台所もそのままで夕飯や買い物など父のための家事をやらねばならない。いろいろ火を通さねばならない鍋や早く調理しないと痛むものもいっぱいで頭が痛い。
 父を自室のベッドで休ませている間に犬連れて近くのスーパーに気分転換に出かけた。が、その途中、心臓がドキドキしてきて息ができなくなり苦しくて動けなくなった。パニック障害だと思った。まさにあれもこれもと頭がいっぱいで身体と心がエンスト起こしてしまったようだ。
 ああ、辛いなあ、どうして自分はこうダメなのかと毎度の気分に襲われたが、缶チューハイを買い流し込んだらアルコールの力で少しは気分は楽になった。

 実はこのところそうした鬱気分になるとひたすら缶ビール類、それも高アルコール度のものを選んで夜は毎晩必ず吞み続けている。特に父がいる時は缶数がかさむ。
 吞んでしまえば酩酊気味となり気分は楽にはなるが、けっきょくぼーとしてきて眠くなり、「明日こそ」の思いで寝てしまい結局何もできずに一日が終わって月日が過ぎていく。
 常に毎朝、毎日今日こそは、との思いで一日が始まるが、何も成果上がらず何も片づかず、いや、逆にさらにモノは増え続けうんざりし自分でも呆れ果て何もしていないのに疲れ果て酔っぱらってその日は終わる。そんなことの繰り返し。
 もうダメかもしれないと思い、まだやり直せる、ここから少しでも、まず一つでも進めていこうとも決意する。そうした「思い」は繰り返し拙ブログに記して来た。

 ADHDは薬では治らない。病気というよりそういう気質、傾向が強くあるだけのことだから、とにもかくにもそういう自分をあるがまま認めて肯定するしかない。そのうえで対処法を探る。しかし、当事者としてはやはりそれは容認も肯定もできない。何とかせねばと強く思う。頑張らねばと毎年毎月今年こそ、今月今週、今日こそと日々誓う。が、ダメだからやはりできない。そして結果として鬱に陥っていく。

 しかし、これを書こうと決意したのは、ふと亡き色川武大のことを思ったからだ。個人的知己は得なかったが、最愛の作家で強く影響受けた。我にとって今も昔も「ダメの先人」として彼の遺した言葉と文学は我の救いとなっている。
 基本、自らは何事もきちんとできない生活無能者として、社会の落ちこぼれを自認し誰にも優しくすべてを受け容れていった生き方こそ我の指針になるのではないか。
 むろんそうした破綻型人生の人にも太宰治がそうであったように妻や愛人など彼を最期まで支え診る人が傍らにいた。
 思えば我にとっては母だけが我を愛し常に思ってくれて我の心の指針、支えであった。今の我は船長を失った船のようなもので、難波船のごとくただふらふらと漂っている。
 そう、誰も我を愛してくれないからこそ、まず我こそが自分を愛さねばならない。こんなどうしようもないダメ人生だが、ダメはダメとして、ダメはダメなりに生きていかねばならない。このまま自堕落に生きていけば早晩自死しなくとも身体はボロボロで倒れてしまうだろう。
 それですぐさま死ねればまだしも、けっきょく唯一の肉親、遠き九州にいる妹に迷惑かけることになる。それは不本意であり望むところではない。いったいどうすれば良いのだろう。

 我のような者を受け容れてくれる人も世間も社会もないとして、ならばこそ何より健康に留意して、まず今の状況=難波船を係留して無人島でも地に足つけてそこで一人でやっていくしかない。
 時間があるとき我はその島から手紙を瓶に詰めて海に流していく。それは救助を求めてではない。そこでそういう人生があったという「報告」である。それがこのブログだ。

 常にダメであり続けること、そういう特異な人生もあったっていい。当人としてはどうにも受け入れ難いが。そう、これもどうしようもない。無理もない、のである。情けなく恥ずかしくダメだけれどこの人生は自分だけのものだからこれ以上投げ出さず付き合っていくしかない。

マス坊の「商売考」~モノの値段と価値を考える・12018年06月08日 07時42分40秒

★「商売」はもともと直接取引ではなかったのか

 昨今、地産地消とか、手作り、顔が見える販売、といったキーワードがあちこちで喧伝されている。
 それはつまるところ大資本、大企業による大量生産品を全国規模で流通させ大量に販売するという志向の真逆であり、ミニマムな経済と呼べるのではないか。
 今、自分でもヤフオク!の世界を覗いて、まずは入札していくつかの品を落札入手して思うのは、個々には売り手と買い手との「直接取引があるという今さらながらの驚きであった。
 人類の歴史を思うとき、おそらく最初の商売、交易は、世界のどこでも物々交換であったのは間違いない。例えば翡翠の石を手に入れやすいところに住む者が、それを魚や毛皮と交換したり矢じりや土器づくりに熟練した者は、その品を元手に食物を他者から得ていたと想像しても間違いではないだろう。まだ「金」がない時代は。
 それが貨幣ができてからは、やがて流通専門の人、モノを仕入れて販売する人、商人が登場してくる。そして成功した商人は金持となりときに巨大な権力さえも手にするようにもなる。
 実のところ「国家」というものを動かし牛耳っているのも世界どこでも大企業大資本家たちであり、彼らはより私腹を肥やさんがため経費削減を目論見、労働者からより搾取すべく、嘘にまみれた「働き方改革」なるものを政治家に指示し、残業代を撤廃したりより過労死容認の社会へこの国を変えようとしている。 
 政治家は国民に信託されているはずだから、本来は国民のための政治をすべきところ、何故大企業の言いなりとなるかと言えば、それは多額の企業献金を貰っているからで、故に原発事業もフクシマの惨事があろうと永遠に続き、これからも全国で老朽化した原発も稼働させていく。それもこれも全て全国民のほんの数パーセントの大金持ちたちの意向によっである。財界の手先が自民党であり、かつてときの総理を「財界の男妾」と揶揄した人もいたが、今やこの国は政財官の一体化で動いていることは、森友家計疑惑を見るまでもない。

 ただ、そうした悪しき商人、大企業、大資本家とは別にインターネットの普及は、生産者も含めた売り手と買い手、つまり消費者の距離を縮めてきているのではないか。
 ネットというと通販というイメージが強いが、このところヤフオクにしろメルカリにしろ、元々商人ではない個人が、手元にある身近なもの、入手したもの、手作りの品を専門サイトを通して希望者に直接販売する流れが大きくなってきた。
 それと、コミケなどの同人誌ブームは、同人誌製作者とファンという個人間で巨額の金が動いている。おそらくそうした場で動いた金は、税務署も関知していないし把握できないものだからGDPなど表の数字には出てこない、ある意味「裏経済」として大きな数字だと我は想像している。

近況追記2018年06月10日 19時46分40秒

★父がまた体調崩して

 前回「近況」というべきか、このところの我が心境、現況を包み隠さず書いた。いろいろご心配おかけし申し訳なく思う反面、励ましやご忠言のお言葉も頂き大変有難く、かつ恥じ入る気持ちにもなった。
 今、外は台風が来ているからか、また雨が昨日から断続的に降り続いている。今もしとしとと。でもややひんやりとして冷たい雨だ。

 一昨日、金曜は今年最高の暑さとなって、冷房が必要な汗ばむ陽気となった。
 父は終日在宅で、訪問看護士が来る日に当たっていた。起きたのが遅く、朝食も遅れたので午後のその訪看さんが帰ってから昼飯を、と考えていた。
 このところまた大便が溜まっていて、腹も張っているとのことで、訪看さんが父に浣腸して溜まった便はかなり出してくれた。
 が、その後、父は疲れたと言いだし横になることを欲しけっきょく昼飯食べずに自室で服のまま眠ってしまった。
 我も何か体調がもう一つで、睡眠不足気味であったので、ならばと二階で横になったら、短時間で起きられずついかなり深く眠ってしまい目覚めたらもう外は暗かった。

 慌てて父を起こして晩飯の支度にとりかかろうとしたら、父はフラフラすると言い、熱を測ったら7度6分ほどある。何回か確認のため測り直すとヤフオクの自動入札の如く、その都度高い数値が出て、38度台にもなってしまう。その割には意識はあり、高熱以外風邪的な症状はみられない。
 訪看さんの事務所、訪問看護ステーションの携帯に連絡して状態を説明したら、今日は暑いのにずいぶん着込んでいたから、きっと熱中症だと言われ、慌てて来ている服を薄着に替えて水分たくさん摂らせたりして様子見た。
 犬の散歩のとき近くのドラッグストアでアイスクリームと凍ったバックドリンクも買ってきて、夕飯前だがともかく与えた。
 冷房もいれて、扇風機も回した。いったん体温は下がったと思ったら今度はまた反転上昇し、38度のときは、ガタガタ震え出し寒いと訴えるのでまた扇風機切って服着せたりあたふたしてしまった。
 けっきょく、熱は何度測り直しても落ち着いた数字が出ず、体温計は何度もエラー表示か出たりして、今彼は何度あるのかよくわからない。
 けっきょく医師から前に出してもらっていた、高熱の時用の薬、痛み止め兼熱さましのカロナールという錠剤を、かけうどんを少し食べさせてから吞ませて冷房入れてふとんしっかりかけて寝かしつけた。
 夜中も何度も様子見に行ったりして、我はその晩は深く眠ることはできなかった。明け方、測り直したときは、ほぼ平熱に下がってはいたが・・・
 
 思うに、年寄りは自ら暑いか寒いかよくわからないだけでなく、体温調節もできないのである。金曜の午後、昼飯も食べずに暑い部屋で寝かしつけたから脱水症状を起こして発熱したのはまず間違いない。やはり昼飯食べさせてしっかり水分摂らせるべきであった。
 が、どうも原因はそれだけではないようで、昨日土曜日、朝起こした時は平熱だったので、安心してショートステイにお泊りに行かせる準備していたら、測り直すと37度台前後している。
 行っても大丈夫だと思うが、向うでまた熱が出たら、我は呼ばれて引き取りに行かねばならない。朝から微熱があるときは、夜はもっと高い熱となることが常のことだ。
 仕方なく、施設に電話入れて迎えを断り、幸い近くのかかりつけ診療所は土曜日でも午前はやっていたので、父を車で連れて行った。

 受診した医師も、拙宅に二週に一度訪問診察にきてくれる顔なじみの医師で、肺のレントゲンを撮り、血液検査と心電図もとり、診察してもらったが、また肺炎起こしての熱かどうもよくわからない。レントゲン写真も父がまっすぐ立てないので、ピンボケ気味であった。
 とりあえず、抗生剤を出してもらい、家に連れて帰り朝は食べなかったので、昼は柔らかく煮直したご飯を食べさせ薬飲ませてまた寝かせた。
 今日は幸いまだ37度台の熱は出ていないが、どうにも体温が安定しないと言うか、はっきり確定できず困惑するばかりだ。今の体温計は、選挙でいう「出口調査」のようなもので、早くピピッと鳴って数字が出るのは、きちんと図ったのではなく体調からの予測値なのである。
 その体調が自ら暑いか寒いかすらよくわからず体温調節もできないから、電子体温計としては混乱して数字が図る度に違ったり、エラー表示を繰り返す。困った事態である。

 実は父はこの土日月と二泊三日でお泊りの予定だったから、我は教会と国会前の集会へ行くことを考えていた。が、けっきょくすべてご破算で今こうして飯が炊けるまでとりあえず近況を記している。
 明日は父はデイサービスに行けるだろうか。行ってくれないと本当になにもできやしない。

父のいぬ間に、精力的に2018年06月12日 22時13分10秒

★また一つ、薄氷を踏みつつ歩を進めて

 ようやく雨は上がったと思ったら、今日は午後また夕立のような雨が降り、干したものはまた濡れてしまった。明日こそは洗濯日和とのことで期待するしかない。

 さて、父は熱は下がり、薬飲み続けているせいもあるのかもしれないが、何とかまた今日から二泊三日でお泊りに行ってくれた。やれやれである。
 先週金曜から四日連続で家にいられると心身とことん疲弊した。熱があって寝てばかりなら手はかからないが、少し元気になると起きだして来て家事に参入してくるから目が離せないし手に負えない。何度もキレそうになったが今回は病人でもあり自制しこの山場を無事乗り越えられた。
 誤嚥性肺炎からの初期症状による発熱なのかわからないが、吞みこむ力、噛む力は日々衰えていくのは間違いないのだから、やはり口から自らとる食事はそろそろ限界かもしれない。
 流動食のようなものを我がつくり、付ききりで食べさせていけば良いのだろうが、そこまでやる時間的余裕と気力が我にあるかどうかだ。
 何せよ、進行性の癌のような病気はないとはいっても、間もなく九十代半ばともなれば、いつ何時お迎えが来てもおかしくないわけで、今回も窮地をまずは乗り越えられたと思うが、先のことはまったくわからない。
 しかし、逆に今回の一件で、我は気持ちが改まる思いをしたことも事実で、父と家にいてもアルコール類は飲まずに、そうした気分にならずに過ごせたのは良かったと思う。

 さあ、この数日、書きかけのブログも含めて精力的に溜まったことを片づけていくつもりだ。ヤフオクの件も書き足すので、お時間のある方は過去の拙ブログも目を通して頂けると有難い。
 ともかく父のいぬ間に、自分のことを少しでも一つでも進めていく。

死に行く者と新しい命と2018年06月14日 21時43分28秒

★また子猫が生まれて睡眠不足

 自縄自縛という言葉がある。我、マス坊のやっていることはまさに自ら自らを面倒な方向へ、大変な状況に追い込んでいくことを望まず?期せずしてやり続けているように自分でも思う。

 去年の正月明け、山梨県須玉のスーパーやまとのレジに、飼主を探している迷子犬の貼り紙を見た。飼主がみつからないので、このままだと最終的には保健所で殺処分になる可能性もあった。誰か新しく買ってくれる人も求めていた。
 それは雌の甲斐犬で、年齢不詳だが、もうあまり若くなくないが10歳には満たないだろうと推定されていた。
 その頃、ウチには、齢18才にもなる雄の雑種、黒い老犬ブラ彦がいて、だいぶ衰弱してきて死期も近いと覚悟していた。他にも雌の、はるかに若いベルコという雑種もいたのだが、ブラにとっても、ベルコにとっても新しい犬が来ることは良いことかと考え、その貼り紙を見て迷うことなく何も考えずに市役所に電話して後日その犬を貰い受けた。犬には珍しい縞模様だったので、おトラさんと名付けた。
 
 その経緯も含めその甲斐犬については当ブログで何回か書いたが、あまり前の飼い主には可愛がられず、常にぶたれたり虐待を受けていたようで、結局捨てられて保護されたという感じでなかなか我にも慣れなかった。
 ウチに来た年、ブラ彦がまだ生きていた頃は元気で、三匹で付かず離れず共に散歩もできていたし大して手がかからなかったのだけど、ブラが春先に死んで、その年の冬になってから急に弱り出しあまり歩けなくなり外の小屋に繋いでいると夜鳴きし吠えて騒ぐのでこちらは大いに手を焼く事態となった。

 来た時から、人に慣れず愛想もなく覇気のない犬で困惑したが、散歩の途中にへたり込み、歩けなくなり、結局、かかりつけの動物病院に連れていく羽目となった。
 診断は、特にどこか悪いわけではないが、高齢からの呆けと衰弱だろうと言われ、薬だけで一万円もする犬用漢方の錠剤を出してもらった。一時期は、胴にホルダーつけて我が持ち上げて歩くほど動けなかったが、毎晩家に入れて栄養あるものを与えて薬飲ませていたら何とか持ち直し、今は相変わらず元気はないものの、散歩も長距離でなければ問題なく歩けるようになった。
 しかし、以後その犬は家に入ることを好み、外の小屋に繋ぐと鳴いて騒ぐので、夜間などご近所の手前、室内に入れないとならない。が、大小便がしたくなると、自ら外に行きたいと騒ぐので、我はその都度、深夜早朝でも少しでもトラさんが鳴きだすと起きて抱きかかえて外に出さねばならない。そんなでこちらは常に睡眠不足気味だし、家にいれておくと長い時間の外出も難しい。ともかく手がかかる。
 おまけにこのところは食も以前より細くなり、吞みこみがわるいのか、食べ物をポトポト口の端から落とすので、小さくしたものをスプーンで口の中に入れて落とさないよう養ってやっている。※犬の口は、人や猫のように平らではないので、口に咥えても尖っている口先の横の隙間から吞みこむまで距離があり、そこから落としてしまうのだ。
 父といいこの犬といい、何と介護に手がかかることか。

 父はニンゲンで、しかも我を生み育ててくれた人だから、介護を厭う理由はない。共に暮らす家族として責任も生じている。
 が、トラさんはふとした縁で、あまり後先のこと考えずに貰い受けて来たわけで、何で我が介護し医療費も払わねばならないのかとも思う。 
 また、何度も夜鳴きして鳴き騒いだり、父を送り出す日の朝など大忙しの時に外に行きたいと騒ぎたすと本当にイライラする。思わずぶっ叩いて叱りつけて大人しくさせようとも思う。が、この犬は元々可愛がられずに常に前の飼い主から殴られて育ってきたのだと思い直し、殴りつけたいのをぐっと堪えている。

 結局、父のこともおトラさんのことも自らが招いた種であり、奇縁であり何かの計らいであり、成すべき試練なのだと思うしかない。
 何よりもトラさんは、今この家に来て今ようやく心満ちた思いがしているのではないか。あのまま山梨で保健所で殺されていたら何と不遇で哀れな犬の人生ではなかったか。
 少しでも犬に生まれて良かったなアと思える余生を送ってやりたいと思う。前は尻尾をふることなどなかったが、このところは機嫌良いときなのか、ときには我に尻尾ふって甘えるそぶりもやっと見せるようになってきた。
 手がかかる犬程かわいいなんてことはないが、犬好きとしては甲斐犬は飼ってみたい犬でもあったし、巨大な爪など古来の山犬の特徴を強く残す犬の原種として愛嬌はなくともこれはこれで可愛いと思っている。

 と、そうして手がかかる老人と老犬を抱えて相変わらずの睡眠不足気味のところに、また今年も黒ちんが子猫を生んでさらに我が家は面倒なことになった。もう一回記す。

続・死に行く者と新しい命と2018年06月16日 10時59分15秒

★子猫も何もかももうすべてどうでもいい。

 それは一昨年のことかと思っていたが、母が死んだのが一昨年2016年だったので、そのまた前の年となる。
 我が家に、黒いとても小さい子猫が、自らやってきた。

 その年、2015年の秋口だったか、ウチにいた「キャラコ」という名の雌猫がすぐ近所で事故死した。
 ずっと野良で、縁あってウチで飼う羽目となった猫だったが、元野良だけあってとても人懐こく、物おじせず、見知らぬ人にも抱かれたり触られて甘えて喉を鳴らし、近所の人にも愛されて餌をもらい、その家の前の道で寝ていて走って来た車にはねられたのか死んでいるのを発見された。
 あまりに警戒心がない猫だったので、いつかはこうなるかもと案じていたが、最悪の事態が起きた。そのことも拙ブログで書いた記憶がある。無頼庵に来られた方は、二階にも上がってきて愛想ふりまいていたのでご存知かもしれない。
 その後、我はその不遇な猫のことでしばらく鬱々していた。可哀想なキャラコのことを思うと涙が止まらなかった。

 と、そしたらば、それからさほど間もなく、この近所界隈に、黒い子猫が出没して、その姿を見かけるようになった。手のひらに乗るぐらい小さいのに、親からはぐれた野良なのか、人間を見ると逃げて絶対に捕まらない。
 ドライフードを置いておくと食べたようだが、ともかく人にはまったくなつかない。我も捕まえようとしたが諦めていた。
 そしたら、ある日の午後、その子猫は開けていた玄関から家の中に入って来て、台所の土間にしかけておいたネズミ捕りシートにひっかかって騒いでいたのを発見した。
 我はそのシートごと暴れて騒ぐ子猫を捕まえて、そのまま無理やり剥がして、我家の一番奥の部屋、父母の寝室に投げ込んで鍵かけた。

 それからしばらく子猫はずっと積み上げた布団や衣類の中に隠れていたが、餌や水を置いておくと食べはじめ、トイレもつくってやり、少しづつ人間にも慣れていつしかその部屋から出しても逃げずに家に居つくようになった。
 まるで、どこからかキャラコが死んだと聞きつけ、定数減となったのを知って我家へやってきたようなタイミングであった。それまで近くでそんな子猫は見かけなかったし、どこから来たのかもわからない。猫の世界はまったく謎である。

 その金目の雌の黒猫は、黒ちんといつしか呼ばれ我家の一員となった。そして一年後、妊娠して子どもを産んだようだったが、そのときは初産で、しかも身体が小さいので死産であった。
 そして去年の5月27日、彼女は拙宅二階の無頼庵に置いた箱の中で雄雌二匹の子猫を生んだ。その猫たちの画像も上げたし、顛末も書いたかと記憶する。

 いまも不思議でならないのだが、その子猫たちは二か月後、ちょうど可愛く育ちやんちゃな盛りに、猫ドアから外の世界に遊びに出かける年頃になったら、ある日忽然と行方不明になってしまったのだ。
 母猫もけんめいに探しまわったが、どこにもみつからず、まさに神隠しのように、消えてしまった。我もご近所界隈の猫好きの人たちに訊いてまわったが、誰も知らないと言う。
 あまりに可愛いので、見かけた人に連れ去らわれたと思うしかないが、二匹いっぺんというのはどうにも理解に苦しむ。ともかく子猫はいなくなってしまい、その後何日も黒ちんの子どもを探し呼ぶ哀しげな声はずっと続いていた。
 この子猫たちとは、たった二か月の付き合いでしかなかったが、突然の失踪はやはりショックで、我が心に深い傷跡を残した。それからしばらくの間、夢の中でも子猫たちが帰って来た夢を見た。
 
 そして今年の春また彼女は妊娠し三度目の出産をしたのである。
 この記事を読んで、何で避妊手術をしないのかと訝り憤る人も世間にはいるかと思う。が、余計なお世話である。前回の子猫の時も一匹は貰い手がついていたし、猫過ぎの父としても一匹は手元に残したいと切望していた。
 そもそも身体が小さく、無事産んでも二匹だけの子猫を前回突然失った黒ちんには何としてももう一度子どもを産ませてから避妊は検討するつもりでいたのだ。

 もう一回だけ続きます。

続・続・死に行く者と新しい命と2018年06月17日 13時28分16秒

★そして・・・子猫がまた今年もやってきた。

 黒ちんが今年もお腹が大きくなってきたことは気づいていた。また今年も春子である。
 去年の子どもたちが生まれたのが5月27日のことで、それは二階の広間にソファの上においた箱の中で産んだ。
 そしてその子たちはやんちゃ盛りで突如忽然として二匹一緒に「失踪」したことも記して来た。

 今年は、昨年のその「災難」から学んだのか、母黒猫は、大きいお腹かかえたままいつしか姿を見せなくなり、しばらくして現れた時はお腹はぺったんこで、どこかで隠れて子を産んだことが想像された。
 この猫は野良上がりで元々身体も小さくかつて流産したこともあり、果たして無事どこかで子どもを産んで育てているのかなかなかはっきり確信がもてないでいた。
 ただ食欲はすごくあり、食べ終わるとすぐに姿を消す。そしてあるとき二階の今は納戸、物置と化している小部屋の中へ、積み上げた本類やガラクタの中へ入っていくのを確認した。そしてそこから出てくることも。

 拙宅に来られた方ならご存知かと思うが、我家は玄関を入ると二階へ上がる階段があり、二階はほぼ二十畳ほどの広間になっている。踊り場のスペースの左手にトイレなど水回りがあり、その右奥に細長い我の作業場、今これを記しているパソコン机が置いてある。
 間仕切りやドアはなにもなく、ほぼ全部吹き抜けの通り抜けられる廊下兼板の間になっている。しかしどこも本が平積みになりレコードの箱が点在してまさに足の踏み場がない有様となっている。
 が、唯一三畳ほどのガラス戸で仕切られた小部屋もあり、今現在はそこも物置として今現在すぐ用いない機材や本、雑誌などを「とりあえず」投げ込んでいた。
 しかもその手前には、昨年亡くなったのみ亭やっちゃんのとこから運んできた古雑誌などが箱詰めにしたまま我の背の高さ上まで積み上げてある。早くきちんと整理して棚に入れて、「のみ亭文庫」として公開しようと考えてはいるが、あれから一年近く経つのに何も手つかずのままだ。我が家無頼庵は今はもう惨憺たる有様なのである。

 母黒猫はそうした箱や本の山をうまくかいくぐり、そのまた奥の三畳ほどの物置部屋に入っていく。果たして中に子猫はいるのだろうか。
 耳を澄ませて子猫の鳴き声がしないかと注意しても物音は何もしない。死産したのにまだそこに通い詰めているのではないか。
 いたずらに小部屋に押し入り子どもがいるかガサゴソ探したりすれば母猫はまたパニック起こして子供がいたとしてもさらに隠してもう帰ってこなくなるかもしれない。ともかく様子を見るしかなかった。
 そうして半信半疑というか、子猫を産んだことは間違いないはずだが、その存在を確認できないまま早や夏の声を聴く季節となった。

 と、先だって、6月11日月曜の早朝のこと。父が発熱してショートステイを何日化休んでいた最中、我も父のことか゛きにかかり浅い眠りの中にいたら、午前3時頃、そののみ亭の箱が積み上げてある踊り場が何か騒がしい。
 ごそごそドカドカ何かが動き回っている。またネズミでも出て騒いでいるのかと起きて覗きに行ったらば、黒い毛長のものがちょろちょろ走り回っている。黒ちん母さんと思ったがやや小さい。それは慌てて広間へと逃げていく。
 広間のほうを見たら黒母さんは横になってそこに寝ている。ということは子猫だ!と気づいた。しかし何匹いるのかわからない。
 ただはっきりしたのは、やはり子猫はその小部屋で生まれ育ち、ついに大きくなってきて母の後を追って自ら出てきたことは間違いない。母乳だけで立派に育ち一人でじゃれ回るほどの大きさになっていたのである。
 そして朝になりはつきり確認したらば、子猫は二匹いて、しかももうかなりデカくなっていた。どちらも真っ黒で、一匹はチンチラのように毛が長くモフモフしている。もう一匹は母猫と目の色が違うだけで瓜二つである。
 ただ人間を見るのは初めてだから、怖れをなしてこちらが現れるとすぐに逃げてソファの下や物陰に隠れてしまう。とても捕まえることはできやしない。まあ、彼らにすれば「進撃の巨人」の巨人ほどに我は大きいのだから大いに恐怖するのも仕方ない。
 母黒猫がウチに来た時も当初は何ヵ月もまったく慣れず、父母の寝室に閉じ込めて餌与えて少しづつ慣らしてやっと我家の猫となったのだ。親が人間を怖れないのを見れば子どもたちもやがてはニンゲンは怖くないと学ぶことだろう。


 そしてそれから約二週間が過ぎた。今ようやく我が近づいても慌てて逃げ去ることは少なくなってきて、母猫にくっついてオッパイ吸っているときなど持ち上げて性別を確認したらどうやら二匹とも雌らしい。
 毛長のモフモフのほうが気が良く、のんびりしているが、もう一匹は慎重派というか神経質でなかなか今も簡単には捕まえられない。
 
 当たり前のことだが、子猫は可愛い。が、子猫軍団・母親付きは、ともかくやんちゃで騒がしく、いつどこに現れるかわからない。野生の猿の群れの如く、我の寝室のベッドの上を寝場所にすることもあって、シーツの上でオシッコしたりベッドの下で糞したのか臭くてたまらない。しかも先日は死んだトカゲの死骸まで散乱していて仰天した。
 積み上げた本の山は崩すし、我がいるきは姿消しているのに眠ったとたん現れて我の足にじゃれて噛みついたり、マッハのスピードで我の上を走って追いかけっこをしたりと、もうやりたい放題で、我の睡眠不足は慢性化している。
 そこに加えて老犬おトラさんも早朝起こして抱きかかえて外に出して排尿させないと家の中でしてしまうし、老いた父と犬と子猫たちの世話に追われて彼らに振り回されて気が休まるときもない。
 父が施設に行って不在でも犬と子猫たちだけで手いっぱいという状況が続いている。

 しかしこうした状態もいつまで続くかそれは誰にもわからない。いつまた子猫は忽然と姿を消すかもしれないし、犬も父もその命が終えるときが突然来るかもしれない。
 ならばもう今はあれこれもう何も考えないし何も悩まない。何が起ころうとかまわない。今はもうすべてがどうでもいいという気分でいる。
 どうでもいいというのは、ネグレクトし放擲してのことではない。
 Dylan的に言えば、Don't Think Twice, It's All Rightであり、ビートルズならば、レット・イット・ビーである。

 この世は死に行く者とまた新たな命がクロスして行き交っている。彼らは我の前を通り過ぎ行くだけだ。我はただ彼らのために日々できることをただしていくだけだ。そう、もうどうでもいい。何か起ころうとかまわない。そう、あるがままに だ。