みんな違って、みんなダメ2018年06月03日 23時50分21秒

★みんな誰かのお荷物だ。

 今日は日曜で、誰も来なかったが、このところ父がいる日も、いない日も、父のことで行政や福祉の側の人が、今後のことについてウチに「相談」しに来て慌ただしい。もはや通所ではなく介護施設に全面的に入所させる話である。
 要するに、このままだとこの我、暴力バカ息子は、その父を殴り殺してしまう怖れがあり、そうなれば彼らにも責が及ぶという心配や思惑もそこにはあるのだろう。
 我としては父が承諾するならば望むところ、という気持ちで何も異論も反論もないのだが、時に夜根際など悲嘆にくれ泣きながら家にいたい、おいてくれと懇願する父を見る時、言葉巧みに父を「説得」する彼らに何故か名状しがたい怒りのようなものも正直わいてくる。
 今後のことについてはどう進むか、また新たな展開もあるかもしれないし、施設に入れた時の経済的な問題もあり、先行きは今はまだ判然としない。
 ただ、我としてはもう今は何も望まないし何も考えないし、父が家にいるその数日を、ただじっと堪えて感情を押し殺してやり過ごしていくだけだ。そう、ある意味、もうすべてどうでもいい。全てはなるようにしかならないのだから。そしてそのときはただ受け容れていくだけの話だ。
 
 さておきそんなこんなで、落ち込んでいるわけでも鬱々としてしるわけではないのだが、このところ誰とも会わずただ家にいて、毎晩ヤフオクとか覗きながらモノとだけ関わっていると、誰にも会いたくないし誰とも関わりたくなくなってくる。フェイスブックすらもう何ヵ月もチェックしていない。
 つくづく自分は、本来の気質は実に内向的な、人間嫌いでそもそも一人でいることが好きなのだと気づく。そうした気質の者が、多勢の人前に出て「公演」のようなことに携わっていたのだからまさに分不相応、場違い、不適格であったと今つくづく思える。
 むろん誘われたり請われ、そこに我の「役割」や成すべきこと、その必然性があればいくらだって何だってできることはやるつもりでいるのは変わらない。ただ今は、次のことは何も決めてなく、特に責任がある先の「用件」は何も無いと、こうまで我は「引きこもり」になるのかと感心さえしている。

 さて、先月末の休日のこと、八王子の河川敷で、毎度恒例のフリーライブイベントがあった。企画に携わっている方が来られてお誘い受けて当初は今年も参加する予定でいた。
 が、父とのこともあって今は気分が内向して、大勢の人がいるとところに行くのは何か気が進まず、せっかくのお誘いを反故にしてしまった。毎度のこと我は身勝手だとつくづく思うが、行けば刺激受け、顔見知りの人たちとも再会できたはずでもどうにも仕方ない。
 
 そのイベントのタイトル、というか、基本的コンセプト、イベントの趣旨というかテーマは、「みんな違って、みんないい」だったと記憶する。
 そう、その通りだと思うし、何事にもそうあるべきだと我も強く共感する。
 が、根が天邪鬼でネガティブ思考の者としては、みんな違うのは当然だとして、「みんな良い」かは、やや疑問に思う。
 もし我にテーマをつけさせてもらえたらば、こうするはずだ。「みんな違って、みんなダメ」と。
 「みんな良い」というのは表向きの、ポジィティブな面であり、晴れの日がそうであるように、まずは正しい。が、天候に曇りや雨の日があるがごとく、それを全面的、一概に「良い」とは我はどうしても首肯できない。
 逆に、「みんなダメ」としたほうが、我は居心地がよいが、それは屈折しているか。「みんな悪い」と言っているわけではない。ただ「ダメ」なのである。
 我が考えとしては、人は皆誰もがそれぞれダメな部分、どうしようもない咎や罪、エゴを抱えていて、ときにそれに苦悶し向き合い、悩み倦みなおも抱えつつ生きているのだと信ずる。
 そして誰もがその「ダメ」さ、それぞれの「ダメ」ときちんと向き合い、お互いに許容し認め合って生きていくのが正しい社会であり生き方のように思える。それこそが「みんな良い」社会とよべるのではないか。

 「みんな誰かのヒーローだ」というコピーというか、キャッチフレーズを先日新聞で目にした。なかなかうまいことを言っている。そう、それもまた正しい。その「存在」が意識的、無意識的に誰か見知らぬ誰かさえも元気にし、励まし勇気づけていることは確かにある。そうヒーローとはスポーツ新聞の中だけの話ではない。
 が、我としては、ならば、こうネガティブに言いたい。「みんな誰かのお荷物だ」と。
 今、老いた父という「お荷物」を抱えて、その重さに押し潰されそうになっている者として思うのは、だからそんな「お荷物」はなくなってしまえば良いというのではない。
 逆に、人は皆誰もがやがては「お荷物」になってしまうのだからこそ、それを予め認めて自覚し受け容れていく社会でなくてはならないということだ。

 その「お荷物」は家族、家庭内だけで背負うことは難しい。日本人は誰かの世話になること、厄介者になることを極力嫌い、寝たきりになるぐらいならば、ピンピンころりと死にたいと願い、誰もがそう口にしている。
 そういう生き方、いや、死に方は確かにあるし、我も憧れる気持ちもなくはないが、誰もが電池の切れたオモチャのように突然終わるわけではない。逆に我が父母のようにじょじょに衰弱して、しだいしだいに何もできなくなって動けなくなり、何もわからなくなって緩慢に死んでいく場合のほうがはるかに多いと信ずる。
 一億総活躍社会なんて絶対に不可能な話で、可能性としては一億総お荷物社会と言うほうが現実味があろう。
 つまり長生きすれば誰もが寝たきりになり癌や認知症となり、自ら一人では何もできなく、わからなくなって「お荷物」と化す。
 だからこそそうした「現実」を、この社会全体が認識して、政治主導で国家全体で「お荷物」を負う社会をつくらねばならない。そして老いも若きも人は誰もがいつかは「お荷物」と化すときちんと認識、自覚せねばならないはずだ。
 そもそも消費税導入の時の「理由」はそうした福祉に充てるという目的であったはずだ。もし、福祉が充実して国家がその「お荷物」の面倒を一切見てくれるというならば、どれほど高額の税負担を強いられても国民は誰一人文句も異論もないかと思う。
 が、逆に少ない年金の支給遅らされ、過労死寸前までサービス残業を強いられ、何であれ全ては自己責任だと突き放される社会や政治では誰も「お荷物」を負いたくないし、お荷物になれない。しかし現実は誰もがやがてはお荷物と化し、この国には誰も背負うことのない「お荷物」が溢れていく。

 誰だって誰かの「お荷物」にはなりたくないし、誰だってその「お荷物」を背負いたくはない。しかし、我はまたこうも思う。本来は国家が責任もってお荷物を負うべきが前提だとしても、そうでないとしたら、人は誰もが多かれ少なかれそれぞれの「お荷物」を負うべきだと。
 何故ならば、自らもまたそうした「荷物」になるからで、負わなかった者は、やがて晩年、「お荷物」と化したとき、やはり誰も追わないのではないか。
 と、書いて、ならばお前は、老いたとき、お前を背負ってくれる者がいるのか、それを期待しているのかと問われると言葉に窮す。そもそも家族のない我が「お荷物」と化したとき、我を背負う者がいるはずがないのである。
 そう、だからこそ我は叫ぶ。「みんな誰かのお荷物だ!」と。社会全体で背負う仕組みを願い期待して。

コメント

_ ふく助 ― 2018/06/08 11時57分13秒

ヒトは一人では生きらんない。誰でも。

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