もう一度外の世界と関わりあうためにも2018年07月01日 19時07分27秒

★フェイスブックを三カ月ぶりに見ている

 記録的に早い梅雨明けしたばかりだが、連日早や一週間30度を超す真夏日が続いている。まだ七月に入ったばかり、今年の夏は長く辛いものになりそうだ。

 そう、今日から7月、今年も後半戦へと入っていく。我が人生もいよいよカウントダウンが進んでいるのだが、人生再スタートへの準備の作業、この暑さもあってなかなか思うようには進んでいない。
 が、今日は父も手伝わさせて、ようやく父の下着や外出着の夏物と冬物、引き出しの入れ替えを終えた。ならば少しでも成果があったと良しとすべきであろうか。
 しかし、もう早くもクーラーは各室全開で、またもや来月の電気代は3万にもなるのではないかと案じている。結局、暖房や冷房も入れないですむ、電気代が一万円ちょっと収まるのは春秋の二か月程度しかなく、あとの八カ月はやはり主に冷暖房のエアコン代としてときには月に三万を超すほど電気に金がかかってしまうのだ。
以前は少しでもそうした出費を削ろうと暑さ寒さも我慢したが、我はともかくも父を思い、父が家に居るときは、ケチってはいられない。当人は今暑いか寒いかもよく実感がないのだから、熱射病にさせないためにも室内は常に快温にしておかねばならないのである。もう金の事は今は考えるのはやめにした。とにもかくにも父が生きている間は。

 さて、今日からその七月。この春から我は、いろいろ思うところあってのことと、家庭の事情もあって、ほとんど誰にも会わずにどこへも出かけずにひちすら家にずっと籠っていた。
 フェイスブックも今年から始めたわけだが、見るとあれこれ心騒がされたり煩わされることも多いように思えて、あえてチェックはずっと怠っていた。
 が、どういうシステムなのか、フェイスブック側は、そんな我にもメールでいちいちトモダチになっている誰々さんが、近況へのコメントを追加しました、とか、その近況へ誰々さんがコメントしたのをチェックしましたか、とか逐一「お知らせ」してくれるのである。
 誰々さんが動画をアップしたとか、何かコメントしたとか、むろん友人の近況や動向が伝わる、伝えていくのがフェイスブックというシステムなのはわかってはいるが、正直ウザい。いちいちそのお知らせを何でメールで連絡して来るのか。

 こんなことを書くと薄情な自分勝手な奴と思われるだろうが、誰々さんの近況への誰々さんのコメントはチェックしましたか、と「お知らせ」メールが来ても、そのお二方は共に我も良く知る二人だとしても、どうぞどうぞご自由に、ご勝手に!といういう気持ち以外何もわかない。
 まして会ったこともない人たちが何かしたとか誰々にコメントしたとかのお知らせ受けても困惑するだけで、今の若者言葉いうところのマジウザいという気持ちしかわかない。他人様が何かしたことをどうしてチェックしないとならないのか理解に苦しむ。こちらが恣意的に時間あるときに知れば良いのである。
 我はとことん自分勝手、他者に対して冷淡という以前に、今はそもそも他者の動向には関心がない。その余裕が全くない。情けないが今は自分事、親父のこと、この家のことだけで手いっぱい頭いっぱいで、他者のことまで一切気が回らないのである。いや、いろいろ思っても会うことも出かけることもできないならば心騒がされるだけではないか。
 むろん皆が元気で、それぞれ多彩な活動や活躍しているのならば喜ばしいと思うし、その近況がほぼリアルタイムでわかるのは有難いことには間違いない。
 しかし、逆に皆の動向、活動状況に心煩わされることにも繋がるし、今の我が求めていること、知りたく思うことはその方が何々したとか個人的・私的日常よりももっと大事な対社会的動向であって、その人の人生の些末なことまで我は知る必要ないと思うのだ。

 ただ、ある親しい友人のご母堂が先日亡くなられたということは今回確認できた。同じく老齢の親を介護する者としていろいろ思うところもあるし、そうした報告的近況の書き込みに、友人たちがコメントしてくれるのはどんなに気が休まる、有難いことかと想像できる。ただ、それもまた「いいね!」という評価が付くのはいったいもって理解に苦しむ。どんな悲惨な辛いことでも近況記せば何でも「いいね!」というのはいかがなものか。
 それよりは、個々に、相手方のメルアドわかる相手とはきちんとしたお悔やみの「手紙」を送るべきだと我は考えるがどうであろうか。

 あまりにフェイスブック、チェックを怠り更新していなかったらば、マスダさん、新しいお知らせが○○件あります、が99件を越えたらば、ついに、、Facebookで大勢の友達が待っています、と来た。そして「もっとト友達を見つけよう」と。う~む、である。

 正直な気持ち、今さら新しいトモダチも、バーチャルな付き合う相手も欲しいとはまったく思わないが、このまま引きこもって誰にも会わずにセルフネグレクトの挙句、自死的孤独死しないためにも、「外」に向けて意識的にフェイスブックで「発信」していかねばと思い直した。
 ただ、そこでは、私的に何々した、例えば、今年はラッキョウは漬けなかったが梅干しは漬けたとか、そんな我の「近況」は投稿しない。拙ブログでは近況の一環としてちょこっとふれたとしてもフェイスブックではしない。もっと対社会的に意義のある、誰にとっても普遍的かつ意味あることだけを書いて行く気持ちは変わらない。

 ただこれもまた外の世界と繋がる一つの窓口だと思っているし、それ自体ないよりもあった方が間違いなく良いものだろう。我がまだうまく活用できていないだけのことだ。
 このまま家に一人引きこもり、誰とも会わず何もしないで孤独死に陥らないためにも、もう一度「外」の世界と関わり合うためにも、改めてフェイスブックなるものを活用していかねばならない。
 そんなことを新たな月の頭に考えている。

しっかりせよと抱き起し2018年07月03日 15時10分48秒

★最後の日本兵をショートステイに送り出して

 今日も晴れて猛烈な暑さが続く。が、何とか父を今朝がたショートステイに送り出しこれを記している。今日も暑いがやや曇りがちで風もありいくぶん過ごしやすいかもしれない。
 父は、先週木曜の夕刻から、金、土、日、月とずっと家にいた。唯一の同居家族、息子である我はほぼずっと傍らで付き添っていた。さすがに疲れた。今、ほっと一息ついている。

 いろいろあって、家にいさせることを我自ら選んだのだが、何度もまた殴り殺しそうになったものの今回はまだ未然に済んだ。
 というのは、金曜の午後、ずっと伸ばし放題にしていた父の髪を切りに、近くのヨーカドーの中にある、千円床屋へ車に乗せて連れて行こうとした矢先、父は玄関先で転び、頭から地面?に激突、左顔面をかなり負傷してしまった。

 そのとき、我は財布をとりに家の中にいて、父だけ先に杖ついて外に出てしまって何が起きたのか見てないのでわからない。
 ただ、父が地面にへたり込んでいて、転んだ、と言うので、顔見たら、擦り傷ができていた程度だったので、軍歌「戦友」のうたの文句ではないけれど、「しっかりしろ」と抱き起し、まあ大したことないだろうとそのまま車に乗せ床屋へ連れて行った。

 で、その前に、ヨーカドーの中のフードコートで、まずは昼飯として軽くうどんとか食べさせたのだが、よくよく父の顔見ると次第に腫れて来て、血も出て広範囲に打ち付けたことがわかった。洗面所で顔を洗わせどうしたものかと考えた。
 ただ、頭を打ったわけではないようなので、床屋だけは済ませて、家に戻って仮眠とらせて休ませてまずは様子見ることにした。その後、ケガはかなり赤黒く腫れて顔面半分大きな痣になり、もし目の部分だったら失明したかと思うほど強く打ちつけたことが想像された。

 事前に、今回はいつも週末に通っているショートステイはお休みにしておいたのだが、こんな状態では、いずれにせよ休むはめとなっただろうし、もし施設の人が見れば、また暴力息子が虐待してこんなケガしたと通報されたかもしれないので、なにはともあれ休ませておくことにして良かったとつくづく思った。
 昨日、月曜は、訪問診察で担当医が我が家に来たけど、診てもらったもののケガ自体は大したことはないととりあわなかった。それよりも転ばさせないよう我がもっと注意しておかないとと釘さされてしまった。そう、今度転んで骨でも折ればそれが冥途の一里塚、もうその先はないのである。

 フェイスブックで、親しくしている物書きの方で、我よりは少し年上かと思うが、つい先日、ずっと介護していたご母堂を亡くされたことを知った。お悔やみのメールでも送らねばと思う反面、いまはともかく何もこちらからはアクションは起こさないほうが良いようにも思って、気にはしているが、迷いながら時間をおいている。
 人の死は常に衝撃や哀しみや痛恨やいろいろんな負の感情をもたらすものだ。ただ、我は様々な死を経験して思うのは、高齢の方の死ならば、それはそれで良いことだと割り切れば良いのだと。
 むろんご家族としては様々な思いや悔い、哀しみは尽きない。しかし、その方が高齢ならば、介護していた側もまた高齢になってきているわけで、非情な言い方すれば死んで良かったのである。

 死者は生者を煩わすべからず、とはまさに至言で、ならば生者だって生者を煩わしてはならないはずで、人と人とは本来できるだけ関わるべきではない。他者を煩わせてはならない。
 しかし、家族はそうもいっておられず、結局肉親、子たちが親の最後を看るしかない。
 ならばいろいろ今世の別れ、離別の哀しみは尽きないとしても、ともかく介護の荷が下ろせたことは介護する側にとっては救いであり、良いことだとあえて言うのである。むろん人の気持ちはそう簡単に割り切れるものではないことは百も承知のうえでこれを書いている。
 我が父は、今回も顔にケガは負ったものの、またショートで介護施設にお泊りに行ってくれた。やっと我は今ほっと一息ついている。ただ今回は短くて明日の夕方四時半にはまた家に帰ってきてしまう。我が羽を伸ばして休めるのは今晩だけだ。
 
 林美雄的映画『八月の濡れた砂』のテーマソング、石川セリが物憂くうたうその曲は、「私の夏は明日も続く」という印象的なフレーズで終わっている。
 そう、彼の最愛のご母堂は逝き、彼の夏はこれで終わったかと思う。が、我の夏はまた「明日も続く」のである。
 今はまだ7月。今年の夏は長くなりそうだ。果たしてこの夏を我は乗り切れるだろうか。

ヨボヨボの爺さんの行くところ、帰るところ2018年07月06日 18時30分24秒

★父はどこに帰りたいのか


 僕がヨボヨボの
  じいさんになったならば
  僕は君をつれ
  この街を出るんだ
    
 きっと待ってるさ
  ふるさとの 山や河が
  生まれ 育った
  あの土の におい

  僕たちが ゆくところ
  僕たちの 住むところ
 ふるさとの あの丘さ
  あの雲の下さ

 ――とは、このところ疎遠になってはいるが、おそらく今も山口県でお元気で活躍されているかと思う、我がずっと敬愛している優れたシンガー・中塚正人さんの名曲『風景』の歌詞である。
 この曲が作られ唄われた頃は、まだ二十代の若者だったはずだが、彼ももはや六十代後半になられるはずで、よぼよぼのじいさんになっていないとしてもある意味、「うた」が現実に追いついてきたと複雑な思いで唄い聴かれることが多くなってきたかもしれない。

 さておき、そんなよぼよほの爺さんや婆さんが行くところ、住むところはいったいどこであろうか。歌の世界の中では、理想として、生まれ育ったふるさとの山や河がイメージされている。
 が、現実の問題としては、よぼよぼの爺さんになってしまったらば、当然、要支援、要介護となり介護保険や福祉の世話にならねばならぬ。
 ただ、そういう状態になっても、人にはどこか、今ここではない、別の場所があって、そこを求め続けているようにも思える。

 我が父は、このところ家にいると、夕刻どき晩飯前に昼寝でもさせると、起こすと寝ぼけて、「帰る」と言い出す。「今日は帰る日じゃなかった?」と我に問うこともよくある。自宅の自室で短時間眠った後のことである。
 今週は、わけあって、父は水曜から今日金曜までずっと家にいた。明日の朝土曜日、またショートステイに送り出し、来週は途中一晩だけ家に戻るもののまた木曜夜までずっと施設に行ってもらう予定でいる。
 そしてこのところ、そうして父が家にいて、我が犬の散歩や買い物などの所用で家を空ける時は、父は裏の自室に入れて鍵かけて閉じ込めておくようにしている。
 実は、先日のこと、水曜の夕方父が帰って来てから、着替えさせ水分摂らせてから自室のベッドで昼寝させて、我は夕方の犬たちの散歩にのんびり出かけた。

 先にも記したかと思うが、今、ウチには、この春?産まれた二匹の子猫がいて、基本二階に餌場もトイレも置いて、未だ外へは勝手に出ないよう部屋飼いしている。あの前回の失踪の轍を踏み、まだ猫ドアから自由に外に出ないよう厳重監視の状態にして犬たちに見張ってもらっている。
 いや、正確には、老犬が始終家の中、居間の四畳半に横たわっているので、猫たちはその犬の前を通らねば外には出られない。
 大人の猫たちは、旧知の犬だから怖れずに出入りしているけれど、子猫はまだ犬を知らないので、その巨体を前に母猫の後をついて外へはまだ行けてないのである。ほとんど日がな一日眠ってばかりの甲斐犬だが、これもまた一つの抑止力となっている。

 で、金曜の夕方のこと、ショートステイから戻った父に留守を頼んで、我は老犬は部屋に残して、まずは若い雌犬ベルコとやや長めの散歩に出かけた。父にはくれぐれも絶対に玄関を開けないよう、開けておくと子猫が外に出てしまうから、と、きつく言いつけて頼んで出た。
 ウチは二階への階段は玄関の上がり框にあり、玄関が開いていれば子猫たちは老犬の前を通って猫ドアを使わずとも二階から階段を下ってすぐさま外に出られる構造なのである。
 ところが帰ったら、玄関の引き戸が10㎝ほどしっかり開け放してある。電気も煌々と付けっ放し。父は四畳半の居間でうつらうつらしていた。

 慌てて二階に駆け上がり、猫たちを確認したら幸いそのときは母猫もいたので、親が監視していたせいか、子猫たちは階段を下りることなく親子三匹二階の踊り場に勢ぞろいしていた。ほっと安堵した。
 そして父に、何故あれだけ言ったのに、玄関を開け放したのか‼と問いただすと、その黒親子ではない、前からウチにいる灰色の猫が、このところ帰ってこないので、その猫が入れるよう開けておいた、と言う。

 大人猫たちは台所脇の猫ドアからいつも自分で出たり入ったりしているし、そこはいつも開いているのだから、玄関からは入ってこない、危うく子猫たちがそこから外に出てまた去年の子たちみたいに失踪するところだったじゃないかと叱っても、帰らない猫のために開けておいた、といって恬としてまったく反省ない。
 ぼけ爺さんは、あれだけきつく玄関は開けるなと言いつけておいたのに一時間もしないのに失念してしまったのである。いや、猫ドアがあることすらも忘れてしまったのだ。ついまた我は激高してしまった。

 以後、もはやいくら父にきつく言いつけ、約束させたとしても絶対に記憶が続かないから無駄だと確信したので、短時間でも父を家に残して我が外出するときは、玄関か父の部屋に鍵かけて、父が外に出られないよう、あるいは戸を開け放すことのないよう「仕掛け」しておくことに決めた。
 ただ、玄関の鍵は元から調子が悪く、外からうまく施錠できないので、戸に錠前を外からつけてロックキーをつけたのに、先日父が馬鹿力で、内側から開けようとしてその錠前を壊してしまったので、今玄関はうまく鍵がかけられない。
 で、今日は、我が夕方の本の発送のとき、一時間で戻るから部屋にいてと頼み、父をベッドある自室に閉じ込めて鍵かけて出かけた。

 用事を済ませて夕方戻り、晩飯の支度を、と思っていたら、裏の部屋の閉まったドアを父がまた力まかせに開けようと騒いでいる。
 開けてくれーと戸をドンドン叩きまくりともかく騒がしい。晩飯の支度中だからもう少ししたら開けるから大人しく待ってろ、諭しても聞かず、挙句に、「今日は帰る日じゃないのか」「帰る~、帰りたい!」と騒いでいる。

 いったいどこへ帰るのか、ここは自分の家だろうと言っても、ここはNというデイサービスだとか、Mといういつも泊まる施設だとか言って、我家だとわからないようだ。
 ではなんでそこに職員ではなく息子がいるのか?施設はこんな汚く乱雑なのか?と訊き返してもきょとんとして、ここがどこかワシはわからないと言う。鍵開けて、居間に連れ出しても、ここが自分の家だとわからないようだ。
 さすがに呆れ果て、ともかくもう少し眠るなり頭冷やせ!と怒鳴りつけてまた裏の部屋に入れて鍵かけたら、さすがに騒がなくなった。
 それから30分位して、鍵開けて父を呼び居間に連れてきたらやっと正気に戻ったらしく、ここはどこか、いまは何月何日で朝か夜か、いまとごにいるのかと確認したら時間はかかったけれど混乱なくここは自分の家に決まってるじゃないか、とまっとうな返答があってほっとした。

 当人はさっきは寝ぼけていたから、勘違いしたとか言い繕っていたが、前にも何度かこうした「帰りたい、帰らせてくれ~」という自宅にいながら、「帰宅願望」を口にしたこともあり、おそらくこのままだと、うっかり目を離すと、勝手に一人で、「帰ってしまう」かもしれないと確信した。
 友人の父で、もう先年亡くなられたが、やはりアルツハイマー型の認知症を患っていて、最後は家で手に負えなくなり病院施設に入れたと聞いたが、その人もやはりこうした自宅にいながら「帰宅願望」を常に口にしていたことを思い出した。

 そこの老いた父も妻や子を前に晩飯を食べていて、食べ終わると、突然ごちそうさまでした、と言ったか知らないが、家族に、では これで失礼しますと頭下げて、玄関に行き、どこかへ帰ろうとするのだそうだ。
 その誰もが帰る先は、かつて長年住んだ昔ながらの故郷なのかもしれない。
 我が父も今住むこの地に来る前の、我が生まれた高円寺の家のことを口にしていた事もあった。彼の呆けた頭の中には、半世紀も前の住み慣れた、父の父母たちが健在だった頃の懐かしい昔の家の様子がはっきり残っているのかもしれない。
 そう考えると少し悲しく哀れにも思えなくもない。

 ただ、だからといって勝手に帰られたらそれは大変なことで、事件となってしまう。世間では徘徊とそれを呼び、もう自力では絶対に戻れず、やがては市内に流れる野外放送で「行方不明の方のお知らせ」されてしまうのである。
 父には申し訳ないが、やはり家にいるとき、我が出かけなくてはならないときは、鍵かけて閉じ込めておくしかないと思う。人間の尊厳!?それ以前に、一人で外に出たらよぼよぼフラフラなのだから、転倒してそれっきりとなることだろう。
 帰る場所が「帰天」ならば、また帰るというのもわからなくはないが、それだって自分勝手に帰られては家族は困るのである。

 よぼよぼの爺さんや婆さんたちは皆いったいどこへ帰りたいと願うのか。我もそんな歳になったとき、どこかへ帰りたいと騒ぐのであろうか。
 ともかくここではないどこかへ。そんな場所があるだけ彼らは幸福なのかもしれない。

サマークリスマス 2018.ハヤシヨシオメモリアルクラブ2018年07月07日 18時54分46秒

★今年も井之頭公園前の某スタジオでにて「サマークリスマス関連企画」のイベントがあります。

 ついつい、うっかりしていた。
 我マスダが、世話人役を務めていたTBS・東京放送のアナウンサーで故人となられた林美雄を追悼、顕彰するファンクラブ「ハヤシヨシオ的メモリアルクラブ」は、昨年の8月、そのサマークリスマスにて、「発展的解散」した。が、その後、本年明けに、非公開の「フェイスブック」もできて、現在もかつてのクラブ会員たちがそのグループで活発なやりとりをしている。
 そして今年も、ハヤシヨシオ的関連企画として、8月の26日(日)に、旧クラブ会員たちが集う、サマークリスマス関連企画イベントを開催することになった。

 本来、我は「残務処理」として、クラブサイトが無くなってしまったのだから、拙ブログの場で、旧会員たちの「窓口」として、もっと活発にフェイスブックが出来たことを宣伝・告知していかねばならなかったのだが、諸般の個人的事情で、ついつい失念してそれを怠っていた。
 メルアドなどが変わってしまい、連絡不能となってしまった会員方は、まだ旧クラブ会員に向けてね新たな交流の場「フェイスブック」が出来たことすらまだご存知ないに違いない。
 まあ、人との繋がりは、それで切れてしまうのならば、それはその程度の関係でしかないと思えなくもないわけで、こちらから連絡がとれなくなった人でも、偶然このブログでヒットして、再度こちらにお知らせ頂ければまた縁も関係も繋がっていく。
 というわけで、まずはそのお知らせをこの場でしておく。

 70年代のTBSラジオの深夜放送「パックイン・ミュージック」内の、みどりぶたこと、パーソナリティ・林美雄さんの深夜放送を若き日に聴き、その人生に大きな影響を受けた方々が集うイベントがあります。
 毎年8月25日の、彼のバースデーに、かの荒井由実や石川セリ、山崎ハコさんたちを招いてリスナーたちが集っていた企画の流れを受けて、今年も去年度と同じ場所で、ビデオ上映とトークイベント、アトラクションのイベント、企画進行中です。
 既に、非公開のフェイスブックではそのお知らせは告知済みだが、それでは仲間となっている十数名の者しか知り得ない。
 本来、最盛期は50名を超す会員を擁したクラブとして、この情報をもっと幅広くお知らせしたいと願うところだ。

 そのクラブ自体は昨年発展的解散してしまったわけで、今はそうした企画へも誰でも関心・興味ある方は参加ご自由に、というスタンスだが、そもそも林美雄という人をご存知なければ、その声と放送を聴いていなければなかなかご理解難しいかと思える。
 ただ、今はリアルタイムでご存知なくとも、新たなファン、フォロワーが増えれば亡き人も我らも嬉しく思う次第であって、もし1970年代のサブカルチャー、深夜放送ブーム、若者大衆文化、日活ロマンポルノ等反体制的カウンターカルチャーにいくらかでもご関心ある人はご連絡・ご参加頂きたいと願う。

 ご連絡頂ければ場所や会費など詳細をお知らせします。まずは当ブログに「コメント」でメルアドなど記してお問い合わせください。非公開で応対しご連絡先へマス坊からメールなりいたします。

まだできること、すべきことがあると信じて。2018年07月10日 17時51分45秒

★ここが「底」だと思いたい。

 辛く苦しい日々が続く。今日は文月十日。早や7月も半ばになろうとしている。

 何であれ、何はともかく憂い思い悩む前に、今できること、すべきことを一つでも少しでも進めていくだけだ、と自らに言い聞かている。、もうすべてどうでもいい、どうなってもかまわない、何にも囚われるな、と思うものの、父のことも含めて日々の雑事だけで手いっぱいでほとんど何もできずに時間だけが過ぎていく。

 このブログさえも書きたいことは多々あれど、思うように心静かに書き進め事ができない。全てもう終わりしたいと思う反面、では、それで何か解決するわけでなし、人生を新しくリセットするためにも、早くこの「危機」を脱して、もう一度以前のように「戻して」「取り戻して」いかねばならない。
 だが、それがなかなか進まず、家にずっといるとさすがに焦り苛立ち頭おかしくなりそうだ。幸い今日は父は不在で、父のことで時間とられ頭痛めることはない。が、今日は久しぶりに旧友と会い、何年も前の借金を返す用事があり、久しぶりに外出する。それが今後に繋がる良い結果になれば幸いだが、もうそれで縁が切れてもそれはそれで仕方ない。ただ、借りていたもものは返して、後腐れなく人間関係も何もかもきちんとさせて終わりに備えたいと願う。

 自縄自縛という言葉の通りに、そもそも自ら一人では何もできない、片付けられない男が、あれこれ気分と欲望のままに様々なことに手を広げてすべて「いっぱいいっぱい」にしてしまったのである。
 フツーの人、頭いい人なら、己と己の器を知っているから、そんなバカなことはしない。が、我は基本ボンボンのバカだったから、甘やかされ過信し、自らの処理能力の無さに気づかずあれもこれもと手を広げ過ぎた。
 そして今すべてが飽和状態となって、してきた事の後片付けどころか、日々の事務的処理、当たり前の日常生活すら滞ってしまったのだ。
 何とかかろうじて父のことだけはまだ面倒見ているけれど、それだってもうほぼ限界に近づき、下手すれば「爆発」して最悪の事態が起こるかもしれない。
 何にしろ、すべて失敗したなあと、米軍機が間断なく飛び交う夕暮れの茜空を眺めながら溜息をついている。そう、60年生きて来て。

 しかし、では、父や犬猫もぜんぶ殺して、この家に火をつけて、自分も逮捕され(たぶん自殺する勇気はないから)、すべてを終わらせようとは思わないし願わない。
 どうしようもない人生を命ある限り生きて行かねばならないと覚悟しているし、それこそが我の、「かけがえのない」人生なのだと思う。

 先に記したように、また我は愚かにも「イベント企画」に動き出してしまった。正直なところ、気は進まず憂鬱でならない。この秋にはまたなのある歌い手を招いてやや大きいコンサートの話も進んでいる。
 が、森田療法では、囚われて鬱々とている時こそ、引きこもらずいつも通りの平常の生活をすべし、とされているから、また「外」の世界と関わるしかないと覚悟した。
 家に籠ってじっとしていても成果はさほど上がらないだけでなく、ますます焦り屈託して来る。誰も我に声かけてくれないし助けの手は差し伸べない。ならばこそ、また自らが外に出、いつも通りのことをやっていくしかない。
 清志郎も言っていた。何も特別なことなんかない。いつも通りやっていけばいいじゃないか、と。
 そう、人の死もまた、そんな風に、いつも通りやっていければ、何も困りも恐れもしないはずだ。
 
 嫌な時代が続く。知れば知る程憂鬱になるニュースばかり報じられる。しかし、多くの得難い仲間を失った今、こんな我がまだ生きて生かされているとしたなら、そこにはきっと何か意味があるのだろう。
 何もできずに季節は変わり月日は進んでいくけれど、こんな我にもまだできること、すべきことがあると信じたい。いや、だからこんな無価値な、罪深い愚かな人間が生かされているのだ。
 世界は本当に多様なもので、どんな生物もいまそこに生きて在ることは何らかの役割があるのだから。

 麿赤児の言葉どおり、生まれてきたことだって才能なのだと信じたい。そう、まだ生きている。ならばまだこれからもともかく生きてやっていかねばならない。
 誰のものでもない、自分だけの、どうしようもない人生を生きていく。

下界は夜になってもマジくそ暑い2018年07月13日 21時27分14秒

★半端じゃない猛暑が続く

 一昨日から昨日まで、一泊二日だが、山梨へ行っていた。※子猫たちは親ごと簡易ケージに詰めて連れて行った。去年=前回の出産のときは、やはり山梨へ出かけて戻ったら子猫たちは姿がなく、忽然と失踪してしまったのである。
 
 向うは山里で、標高700mはあるところだと思うので、当然ながら涼しい。そこでは高尾山よりも高地で暮らしていることになる。
 一か月以上も籠っていた空気を入れ替えて、窓開けて寝たら明け方は寒いほどだった。久しぶりに何も考えず、手足伸ばして深く眠った。
 が、早朝、二階で寝ている部屋の窓の横、一回の庇になっている部分の屋根瓦の上を、ものすごい勢いでドタドタと走り過ぎていく何かの物音で起こされた。瓦の上をかなりの重量ある動物が走り去っていったのだ。
 連れて行った猫がどこか家の隙間から抜け出して、現地の猫に追われて逃げ回っているのかと一瞬心配したが、窓開けてみると、須玉町名物、野生の猿が向いの家の屋根にいる。子猿もいる。
 外に出て確認してみると、我家の屋根にも電線にも猿たちがぶら下がっていて、どうやら猿の群れが大挙して襲来したことがわかった。
 窓の脇の庇の瓦の上を騒がしく走り去ったのもお猿だったのである。猿独特のキーキーという鳴き声もうるさい。
 この民家は、車道を挟んで急峻な崖の川沿いにあるのだが、その道は猿たちでいっぱいだった。今年の春?産まれたばかりの猫程の大きさの子猿から若猿まで、その数は二十匹以上いただろうか。
 猿たちが人家近くにやってくるのは、柿などを求めて秋になってからだと思ったが、この季節の「襲来」は驚かされた。
 彼らは、人間のように地上、道路を歩いて来るのではなく、屋根から樹から電線、電柱へと、高い所を空間移動するので、我家の屋根もその通り道になってしまったのだ。
 日本猿とはいえ大人の猿はニンゲンの子どもぐらいの大きさと体重もあるから、それが何匹も瓦の上を走ったりすれば瓦は割れたり外れたりもする。
 猿の都合、勝手とはいえ、困ったことだなあと思うしかない。じっさい奥多摩のほうでは、窓を開けたりしておくと、家の中に入って来て冷蔵庫の中の食べ物を失敬していくという話も聞いた。
 彼らはほぼ人間と同じ知能を持ち、人間よりもはるかに高い身体能力があるから、もし徒党を組んで襲ってきたらとてもニンゲンはかなわない。
 うっかり窓開けて寝たりすると、猿が押し入ってもおかしくなかったのだ。動物に起こされるのは犬猫だけでたくさんである。まして野生の動物だからけっこう凶暴なのだ。それが共謀して襲来してきたらたまらない。うっかりのんびりし過ぎると油断大敵であった。

 うんと昔の頃、立川の伊勢丹の屋上に、小さな動物園のようなものがあり、そこの檻に、日本猿がいたことを思い出す。
 我が小学生低学年か、上がる前だか、その檻の猿にさわろうと右手を出したら噛まれたか引っかかれたか忘れたが、かなり血が出て、デパートの救護室で処置受けたことを思い出した。
 その傷は大人になってもずっと残っていたと記憶するが、もうどこだかわからない。まあ、ペットとして長年ニンゲンと付き合っている犬猫とは違って、彼らは野生のままだから、何するかわからないし何してもある意味良いのである。
 が、人間の都合と彼らの都合がぶつかると騒動やトラブルが生じニンゲンのほうに被害が出る。時間ができたら、一度屋根に上がって瓦がずれたり割れたりしていないか確認せねばならない。

 で、今回は子猫たちも連れて行ったので、翌日早々に向うを出、出盛りの桃やプラムなど、お中元用の果物を買って、動物たちが暑さで衰弱しないよう高速をとばして昼過ぎには帰って来た。
 が、こちらはやはりクソ暑い。まして高地から下界に戻った身には夜になっても30度以上あるのはたまらない。むろんクーラーは入れてあるが、電気代がいったいどのぐらいになるか。

 まだ七月半ば、猛暑はあと二か月は続くだろう。父をずっと施設に預けて、犬猫たち全員連れて、山梨へ夏中「疎開」することも考えたが、諸般の事情から行けても二泊できるかどうかだ。
 次に猿たちと会えるのはいつのことか、楽しみにこの猛暑をここで凌ぐしかない。

老いて死に行く者に、最後に残るもの2018年07月15日 07時19分05秒

★感情と欲望、そこに愛と希望はあるか

 連日、容赦ない猛暑、酷暑が続く。予報では、「命に危険が及ぶ暑さが続く、最大限の熱中症対策を」と呼びかけ、不要不急の外出は控えるように、と警告している。
 今日は15日、まだ七月半ばであることを思うと、いったいこの夏、どうなるのか乗り切れるか不安にさえなるが、とにもかくにも持ち堪えて無事に秋を迎えられることを祈るだけだ。
 そんなで犬猫たちと早朝、夕暮れの散歩と庭木の水やり以外は、ひたすらクーラー入れて家に籠り鍵かけて裸で息をひそめている。

 パソコン作業も、デスクトップタイプの専用パソコン自体が冷房の効かない場所にあるので、この暑さでは怖くて長時間連続使用できない。数年前の秋口、やはり秋になっても残暑が続く中、うっかり起動状態にしていたら突然イカれてしまい大きな損失と痛手を受けたこともある。
 そんなで、パソコンは出来るだけこまめに電源を落として暑さの影響を受けないようあまり使わないようにするしかないのだ。
 そんなこともあり、また拙ブログ、更新怠りついに百位圏外となってきている。が、とにもかくにもこの暑さ、人も物も動物もともかく乗り切る事だけで精一杯なのだから仕方ない。

 それにしても先の豪雨で被災され今も自宅に戻れない人や復旧途上の方たちのことを思えば、暑くて辛いとか大変とか言ってられない。冷房もない猛暑の夏、生活再建の目途もたたない中でのこの暑さ、その心中はいかほどか。
 そんな豪雨災害が予想された日に、多勢集い宴会に興じていた政治家たちは真に糾弾されるべきではないか。そんな浮かれた政権を今も支持する国民もまた同罪ではなかろうか。庶民からの国税が首相案件で特別に優遇され用いられてもこの国の国民は怒らないのだから。

 さておき、このところ人の死についてあれこれ常に考えている。
 去年の今ごろ、同世代の友人・知人の死に遭い、死は親たちの世代だけのものではなく、もはや我らの身近なものに下りてきたという「実感」がつよくある。
 といって、今は、今日明日を生きることだけで手いっぱいで、自らどうやって死のうとか、どういう死に方がいいかとか具体的に考えはしない。思うは、まずは、我が父の「死」のときとあり方であって、それがごく近いとは頭ではわかっていてもどう手を打つか、備えておくか、そこに至らない。
 そう、ともかく日々何とかやり過ごすかだけでいっぱいいっぱいで、何もできずに月日だけが過ぎていく。

 ただ、漠然とだが、人はこうして老いて死に行くのだなあというリアルな認識が父と暮らしていると常にわいてくる。そう、不治の病や事故で若くして無念の死を遂げる人も多々いるが、そうならずに特に進行性の病などなければ、人は長く生き、老い呆けて全身の機能が衰弱して最後の最後は出し殻のようになって死ぬのである。「老衰」とは言ったもので、老衰死という言葉は一般的ではないが、おそらく我が父の場合、老衰のため死去ということになるかと思う。すべてがダメになって機能不全で死ぬのである。

 我が父は、大正13年、10月生だから、今年の秋が来れば94歳になる。来年の正月が来れば、昔でいえば数えで95である。我の身近にそんな歳まで生きた人は今までいなかったし、そんな人と共に暮らしたこともなかった。
 母方の我が祖母はさらに上の百歳近くまで生きたけれど、晩年は施設や病院をたらい回しにされていて、意識はあっても寝たきりで、父のようにショートステイを利用しつつ自宅で暮らしてはいなかったし、息子や娘たちも介護してはいなかった。
 我は、父がこれほどまで長く生きるとは思ってもいなかったし、父よりも四歳下の母のほうが先に逝くとは予想だにしなかった。そしてそうした想定外の事態の果てに、今、還暦の息子とその九十代半ばにならとんとする父との男同士二人暮らしが続いている。これもまた神のはからい、思し召しであるのだろうか。何のためか。その「意味」はまだわからない。

 ただ、そんな父は、特にどこか悪い所がないといっても「元気」というわけではなく、もう今は、自力では立ち上がることも難しく、歩くのも杖ついてもよく転び、何かに掴まってやっという有様で、食べるのも嚥下障害で咽て咳き込み、食べさせるのも一苦労、さらに認知症も進み、寝ぼけたときなど今が朝か夜なのかもわからないどころか、今どこにいるのかさえわからないときもままある。
 汚い話だが、便意も尿意も認識できず、終日、履いている紙パンツの中に垂れ流しである。
 歩けず食べられず何もわからなくなって、当然共に暮らしその世話する者として疲弊しうんざりもし時にキレることも多々ある。もうこうなればどこか介護施設に入れてしまおうかと何度も考えたし、多くの心ある方々からもそう勧められた。
 が、それはまだできない。というのは父自身がそれは絶対にイヤだと望まず、できるだけこの家に居たい、この家で死にたいと懇願するからだ。

 そう、何もできなくわからなくなってもまだ父には、しっかり感情があり、呆けても意思をこちらに伝えてくるのである。ならば、その意思を無視して施設に連行し収監させることは息子は出来ない。せいぜいショートステイをロングにしてできるだけ長く介護施設に通ってもらうだけだ。
 もちろん呆けがもっと進み、家に居てもここがどこだか常にわからなくなったり、眠ってばかりになれば、「ここ」であろうと施設や病院か「どこか」であろうともう何もわからないのだから我が家にいる意味はない。
 しかし、父に意思や「感情」がある限りは、その思い、希望にできるだけ沿いたいと思う。

 老いた人と長年連れ添ってわかったことは、何もできなくなっても人には最後まで気持ち=「感情」だけは残っているということだ。ただ、それも喜怒哀楽でいえば、喜樂よりも怒や哀、それも不安の感情が強く、何もわからくなった分だけ、気楽さが消えて、不安や怖れの負の感情に囚われるのかと推察される。
 だから父は常に、すぐ忘れてしまうのに今日は何日か、カレンダーや時計を繰り返し執拗に見たり、施設に持って行くもの、持って帰って来たものも忘れものがないかと心配でならず何度でもバックを開けて確認したりこちらに問い質してくる。
 ここまで長生きしたのだから好々爺としてもっとのんびりと悠々自適になっても然るべきと思うが、ますますもって父の不安神経症は老いてさらに烈なりなのである。

 父を観ていてこうも思う。昔から希望する死に方として、ピンピンコロリ、が望ましいと言われた。つまり、ずっと元気で長生きして、死ぬときはあっけなく、あまり長患いなどで家族を煩わすことくなくポックリ死ぬのが良いと。
 が、人はその死に方さえも自らの思うように、望みどおりにはならないのではないのか。むろん、長年の暴飲暴食、過度の飲酒や喫煙で自己管理を怠れば、不摂生のあげく長くは当然できないだろう。
 しかしそれでも長生きする人はいるだろうし、若い時から健康に常に注意していても早死にする人も出てこよう。
 我が父も若い時から病弱で結核で入院したことも前立腺がんを患ったこともあった。病気の宝庫という人だったのが、何故か長生きして呆けても感情を保ち、この家で死ぬまで暮らしたいと強い意思と意欲を示しているのである。
 このままだと冗談抜きで最後の日本兵として、話題になるかもしれない。思うに、父が今も生き、生かされている理由は、あの悲惨な戦争の生き残りという一点のみ、その「役割」を与えられたからかもしれない。
 ならば父からもっと戦争の話を聴かねばならないのだが。

オウムがサブカルとして身近にあった時代・前2018年07月16日 09時28分03秒

★オウムを面白がっていた、あの頃の我らは

 今日も朝から晴れてものすごく暑い。窓を開ければもわっとした熱風が吹きこんでくる。慌てて窓を閉めた。

 若い時分、といっても30にならんとしていたかと思うが、フランスを中心に西欧を何度か旅する機会があった。
 初めて行ったときの飛行機は、パキスタンエアラインで、まず北京に停まったあと、カラチやイスラマバードに停まり、そのどちらからパリ行きの便に乗り継いだ。
 そのとき、乗り換えのため現地の空港に降ろされたが、飛行機から外に下りて、その赤茶けた大地に立ったときの風がまさに熱風で驚かされた。最初は飛行機のエンジンからまだ冷めやらぬ風が吹き出ていて、その熱さかと思ったほど、その国は信じられない程暑い熱風の中にあった。
 束の間、迎えに来たミニバスのような車に乗せられて空港内の建物に連れていかれ、そこは冷房も効いていてほっと一息つけたが、この世にあんな暑い場所があるという衝撃は今も忘れない。
 が、人とはそんな地でも外へ出て暮らし生活を営んでいるのである。
 今朝の外の風は、体感としてそんなパキスタンの大地に降り立ったときをとつぜん思い出させた。
 そんな暑さの中でも日々木陰のない野外で働く人や、被災地で懸命に瓦礫や土砂を運び出している人たちがいるのである。胸が痛むが、駆けつけてボランティアとして手伝うことは我はできやしない。

 パキスタンの暑さもだけれど、このところ普段はずっと忘れていた大昔のことを思い出すことが多い。

 我は十代の終わりの頃、自宅の二階を編集室にして、高校の後輩たちと部数500部ほどのミニコミ誌を約一年間出していた。
 ページ数も少ない小冊子というようなものだったけれど、いちおうオフセット印刷で、近隣の書店や喫茶店などに置かせてもらい、自慢するわけではないが、それなりにこの地域では売れてはいて、駅前のレコード屋やら知り合いのお店から広告代ももらっていたこともあってまあまあ採算はとれていた。
 もしそのままずっと続けていれば、椎名誠や沢野ひとしらの『本の雑誌』や『ロッキングオン』のように、ミニコミからメジャー誌へと昇格していたかもしれないと夢想もする。
 ただ、何事も飽きやすく続かない我の性分として、確か6号ほど出して終わりにして、福生のやつらとは縁を切り、我はとりあえず町田にある、バカネ学長のアホウ大学という大学に潜り込み、そこで何年も音楽やらマンガやら自主映画やら日々遊びほうけて、青春を無駄に燃焼させることになる。
 思い出したのは、そんな大学時代のことではなく、そのミニコミをやっていたとき知り合った人が話していたことだ。

 その編集室は出入り自由で、今もそうだが、我は来るものは拒まず、去る者は追わずというスタンスは変わらないから、ミニコミを通していろいろんな人が昼夜問わずやってきて雑魚寝してもいった。※うちは両親共働きで、まったくの放任主義であった。
 その中にナカタさんといったと記憶するが、国立かどこかに住んでいたやや年上のヘンな人がいて、よく遊びに来たし編集を手伝ってくれたり原稿も書いてくれた。二十歳は過ぎていてたと思うが、それでもまだ二十代そこそこではなかったか。
 他にも女の子と同棲して出版社でアルバイトしているやはり二十歳過ぎのハンサム氏とか、関西から家出同然に東京に出てきて住まいもなくそのまま我が大学に通うために借りたアパートに居ついてしまった奴もいたりと、今から思うと若さとはバカさの同義語だと自分でも呆れるほど誰もがそれぞれ「自由」にやっていた。
 
 その中のナカタ氏が話していた話だが、あるとき彼は、中央線沿線の阿佐ヶ谷だかどこかの駅近くのヨガの教室、道場を訪れた。
 ちょうどそのとき、その教室の主宰者だか、師とか先生だとかいういちばんエライ人が来て、教室にいた者たちは皆大喜び、歓待して出迎えた。
 ナカタさんがそこに何の用件で行ったのか聞いたかもしれないがもはや思い出せないが、彼はそもそもそんなものには関心も興味もなく、その師匠のことを無視して、彼らと離れて自ら持っていた本を読んでいた。
 と、それがその師のカンにさわったのか、その先生と呼ばれた男はナカタさんに向けて「念」を飛ばしてきて、ナカタさんはどうしても本が読めくなってしまったと言う。
 手が震えたからなのか、頭痛でもしたのか詳しいことは訊いたけど思い出せないが、「ともかくどうしても本を読み続けることができなくなってしまった、あんなこともあるんだなあ」とぼやいていたことは憶えている。
 彼曰く、その師匠を無視したので怒らせたらそんな目に遭ったのである。
 
 その話を聞いたとき、どうもピンと来なかったし、そんな不思議なことがあるのかと半信半疑であったが、ナカタ氏は間違いなくその男を怒らせたので念力でそんな目に遭ったと言っていたことがずっと記憶に残っていた。
 そして後年、オウム真理教がマスコミに取り上げられ、さらに様々な犯罪を起こしたとき、不意にそのナカタさんから聞いた話を思い出した。もしかしたらあれは、オウムのごく初期の集まりで、来たのは麻原彰晃ではなかったのか。じっさい彼ならばそんな「超能力」をやりかねないとその時は思ったし今も我は思っている。

 彼の有名な「空中浮遊」はともかくも、あれだけの組織を短時間で築き、多くの有能な若者たち信者を集められたのは、それがマヤカシや手品ではなく何か特殊な「超能力」とも呼べる特異な力があったからではないか。
 じっさい当時のマスコミ上での対談などでも彼は饒舌に読心術的に対話相手のことを語り当てて驚かせていた記憶がある。
 そもそもごく当初の麻原が始めた宗教は、純粋に病み悩める人を癒し救う目的であったのではないか。彼には元々特異な能力があり、それゆえ多くの人々を魅了し教団は肥大化していったのだと我は考えている。
 ただ、その「力」は彼を無視したナカタさんに怒って懲らしめたがごとく、次第に私利私欲に向かい、権力を手にしてから悪質な妄想と被害者意識の肥大から狂信的かつ破滅的凶行に走っていくのである。
 
 ※もう一回書きます。

オウムがサブカルとして身近にあった時代・中2018年07月17日 17時40分22秒

★オウムを面白がっていた、あの頃のバカな自分

 オウム真理教幹部らが起こした事件で、首謀者の麻原彰晃こと、松本智津夫らに死刑が執行された。
 一度に7人というのは、あの大逆事件以来とのことで、我はむろん麻原らが無罪。冤罪だなどとまったく思わないが、比べた時に何かそこに昔も今も変わらない国家権力側の強い意思と思惑が感じ取られただただ嫌な感じがしている。
 我はもとより死刑廃止論に与する者であり、今日のように、自らは自殺ができないがため、死刑を求めて無差別に誰でもいいから殺人事件を起こすなどという論外の事件が起こる時世では、まさに本末転倒だと言うしかない。
 死刑はあくまでも被害者遺族のための心理的「報復」であり、死刑制度があれば犯罪は減少化、抑止できるということはまったく当たらないと考えている。
 どのような犯罪であろうとも犯罪を起こす者は、逮捕されることはまず想定しないだろうし、まして捕まったら死刑になるから、と考える者はそもそもそんな犯罪は起こさない。

 さておき、テレビや新聞の報道では、そうした死刑に値するオウム真理教の起こした数々の凶悪な事件のみが報じられ、ネット上の検索だと、麻原は、日本のテロリストとして記述されている。
 確かに国家転覆を狙って数々の凶悪かつ無差別な殺人事件を起こしたオウムであり、その代表ならば、テロリストということになるのかもしれない。が、どうにも違和感がある。彼は、やはり最後の最後まで宗教家、それも極めて歪んだ、狂った宗教家だったと我は思う。
 今の人は、今回その死刑報道から彼らのしでかした数々の凶悪事件を知って、そういう狂信的テロリスト集団がかつては存在して「浅間山荘事件」的に事件を起こしたのだと思うかもしれない。
 が、それは違う。オウムとは一時期、極めてこの日本社会に溶け込み、合法的に活動しマスメディアにもしきりに登場し、特に当時の若者たちにかなり注目されていた存在だったのである。
 そうした「前段階」「表の顔」もまたきちんと記録し書き残しておかねばならないはずだと我は思う。

 考えてみれば、オウム逮捕のきっかけとなった地下鉄サリン事件が1995年なのだから、もう四半世紀近く経つ。ならば今の若い人のみならず、30代、中年の人でさえも事件が起きた頃は子供で、その社会状況はよく覚えていないかもしれない。
 だからこそオウムの犯した特殊かつ前代未聞の凶悪犯罪が、「裏の顔」だとすれば、そこに至るまでの「表の面」の彼らのことを書いていく。
 そう、かつての一時期、オウムは間違いなく一つの社会現象と化していたのである。

 オウム真理教、という新興宗教団体の名がマスメディアを賑わすようになったのは、1980年代の終わり頃からであったか。
 まずはチベットのダライラマと並んだ麻原のツーショットの写真をよく見かけるようになった記憶がある。またすぐに宗教特有のトラブルも多多く報じられ、弁護士たちが動き出し批判記事も多く見かけるようになった。
 が、1990年の衆院選に、彼らは尊師自らも含めて大量に立候補して大きくマスコミに注目された。※結果は惨敗であったものの。
 そして彼ら特有の耳慣れない「オウム用語」がメディアに多数登場して来る。選挙に出てきた幹部一人一人の奇妙なホーリーネームもだが、ガネーシャからイニシエ―ション、マハーヤーナ、ニルバーナ、ハルマゲドン、サティアン、そしてボアする、まで、その多くが「流行語」となっていった。

 テレビをつければ、広報担当の上祐氏のみならず幹部連、青山弁護士もよく出てきたし、書店に行けばオウムが出した関連書籍のコーナーがあり月刊誌も出ていて平積みになっていた。彼らは自前の出版社があり大量の出版物を出していたのである。
 今では皆が口を閉ざしてしまったが、名のある宗教学者や文化人が彼らを支持し擁護する発言も多くしていた。
 秋葉原に行けば、オウム信者たちが自ら作り販売していた格安のパソコンショップ「マハーポーシャ」があったし、全国各地に道場、さらにロシアやN・Yなど海外にも支部があった。ラジオ放送局さえ持っていたと記憶する。
 ※また、尊師自らがつくったとされる「うた」や彼を讃えるオウムソングも選挙戦の頃は頻繁にメディアに流れていたから今でも口づさめる人も多いはずだ。そうそう、ロシアにはオウムの楽団もあった。
 本好きとして、我もそうしたオウムの出していた月刊誌、名前は失念したが何冊か買い求め、今もどこかにあるはずだが、なかなか面白く読みごたえがあった。

 そうしたオウムに対して我は、シンパシーは感じなかったが、胡散臭く思いつつも面白く興味持って眺めていたことは間違いない。
 いや、世間一般の反応は、彼らはかなりヘンだが、何か面白そうだと、当初は嫌悪感や恐怖感よりも好奇心のほうが勝っていたと思える。
 特に若者たちにとっては、間違いなく興味引かれる面白そうなサブカルの一つだったのではないか。
 ウチの近所の家の次男にあたる青年もその頃、オウムに魅かれて、家族に「遺産分け」を求めて、ひと騒動起こした末、「出家」して教団に入ってしまったことを思い出す。「勘当」された扱いになってしまったはずだが、彼は今どうしているのだろうか。

 早くから教団を批判し敵対していた坂本弁護士失踪事件は、1989年に起きてはいたのだけど、部屋にオウムのバッチが落ちていたことから、オウムの犯行ではないかと当初から疑われつつもそれ以上追及されることはなかったのである。
 けっきょく、オウムの幹部全員が逮捕され、一連の事件の真相が判明して、坂本弁護士事件もまたオウムの犯行と確定したわけだが、ミステリー小説やドラマでは有り得ない、一番最初から怪しいやつらがやっぱり犯人だったという陳腐な「結末」に呆れ果て言葉を失った。

 当時のことを思うとき、オウムは、小型でも創価学会に倣ったのか出版から芸能音楽まで、実にあらゆるメディア操作、宣伝工作に長けていたと感心してしまう。どこにそれだけの資金と多くの人材があったのか今でも不思議でならない。
 そしてこうも思う。我も含めて、マスコミも当時の世相も、多くの人たちは、オウムの、そして麻原の裏側の顔に気づかずに、ヘンだと思いつつ許容してしまっていたのだと。

オウムがサブカルとして身近にあった時代・後2018年07月18日 23時02分59秒

★・・・・

 先に、我が若かった大昔、ミニコミを出していた頃に聴いた、麻原らしきヨガの先生の「超能力」について書いた。
 今回、改めて彼とオウムの「年譜」を確認してみると、年代的に合わないことに気がついた。我が友人から話を聴いた頃は、まだオウムの前身の会も含めて、そうした活動を開始していないと思えてきた。じっさいの話、我と麻原はさほど歳は変わらないのである。
 ということは、それはまた別の麻原的人物であり、その人物とオウムを結び付けてはならないと気づく。が、この世には、そうした科学的には説明できない不思議な力を持つ人物は確かにいるし、オウムを率いた男もまた多かれ少なかれ確かに何らかの不可思議な能力は持っていたと我は確信している。

 まあ、世間ではそれをオカルトとか神秘主義とか言う。超常現象、UFOとかフリーメーソン、ユダヤの謀略とかノストラダムスの大予言などが持てはやされたのは80年代から90年代にかけての頃で、特に1999年に世界が滅びるとされるノストラダムスの予言本は大ベストセラーとなった。
 当時の若者の中には、それを心から信じた者もいたし、半信半疑ながらも不安に思っていた者も少なからずいた。そして瞑想し解脱した神秘的な「超能力」者にも同様の関心があった。
 オウム真理教という宗教が出て来て、ごく短期間にあれほど拡大し若者中心に支持されたのは、そうした時代背景があったからだと我は考えている。
 さらにオウムという宗教は、マスコミに報じられる分には、きわめてポップでお茶目で若者向けであり、ある意味それはおバカであって、従来の厳格な既成宗教よりもはるかに間口は低く思えた。
 今思うと、その内部の出来事、裏の顔を知らなければ、あの時代のニーズに合っていたのである。

 また、今でもあんなものに何故エリートたちが多数集まってあんな凶悪な犯行に手を染めてしまったかと問われているが、我思うにそもそもオウムはエリート集団ではない。多くは今でいう、社会的・家庭内でも落ちこぼれの若者が多かった。
 凶悪な犯行に関わった幹部たちはかなり知的レベルは高いが、エリートたちの世界では落ちこぼれであって、その本来の組織の中では居場所が無かったり悩みを抱えて、麻原の宗教に自らの居場所を見出したのだ。
 本当のエリートとはいつどこでも、組織や体制にどっぷり浸かって保護されているから、先のサガワ前局長のように、権力の庇護のもと、そこから「落ちこぼれる」ことは絶対にないしその組織を裏切らない。
 いつの時代もエリートであれ、真の居場所がない者たちはいて、彼らは、自らが求められる「居場所」を求めている。オウムもそうした悩み挫折した若者にとっての救済の場であったはずだ。

 そこでは何でも御見通しの包容力ある尊師がいて、若者は魅せられ「師」として絶対的に従ってしまう。エリートならばこそその持ち味を活かせる場が与えられた。
 オウムのしでかした数々の凶悪な殺人事件だって、常識的に考えると通常の組織であれば、計画段階で異論は必ず出るだろうし、ときには師を裏切り、警察へ密告に走る者も出たはずかと思える。
 が、宗教ゆえ、尊師麻原の命令は絶対であり、ましてその彼の心に「魔」が入ってしまっていたら、その決定は覆せない。結果としてオウムの暴走は加速して、類を見ない悲惨な凶行は繰り返され、彼らは破滅してしまった。さらにはオウム事件を口実に、今日の対テロ用法律や国家権力による大衆監視社会が生まれたのである。我はそこに神ではない何かの見えざる手が動いているようにも思えるがどうだろうか。

 ただこうも思う。オウムもその教団がしでかした犯罪も絶対に理解も肯定もできないが、バブル崩壊後のあの時代、様々な不全感を抱えて悩み迷い居場所を求めた若者たちにオウムがあったのは「良いこと」ではなかったのか。むろんもっと最良の正しく良識ある場があれば幸いだったが、オウムというもう一つの「現実」の場があった。
 それから時は過ぎ、2000年代も20年目になろうとしている現在、人と人とを繋ぐバーチャルな場と手段はいくらでもあるが、現実の「場」は今はもはやどこにもなくなってしまった。

 今の人、特に若者は、すべてスマホの中だけで体験し、学び知り、発信する。そしてそこで知り得た情報を鵜呑みにして深く考えることなく判断し決定していく。
 抱えている不安やストレスは誰かが発した失言や事件で炎上させて発散させる。昔も今も若者の不安と不満、不全感は変わらないはずだが、今ではバーチャルな場で解消させ、SNSで他者と「繋がっている」という幻想で紛らしている。そこでは自己の評価だけが最大の関心事となってしまった。

 過ぎた時代が良かったなんて思わないが、落ちこぼれた若者たちに現実の「場」がまだあったのが20世紀の終わりの頃だったのだ。最大の過ちと不幸は、それがオウムという、狂った指導者に率いられた宗教だったことなのだと今にして思う。