もう一度外の世界と関わりあうためにも2018年07月01日 19時07分27秒

★フェイスブックを三カ月ぶりに見ている

 記録的に早い梅雨明けしたばかりだが、連日早や一週間30度を超す真夏日が続いている。まだ七月に入ったばかり、今年の夏は長く辛いものになりそうだ。

 そう、今日から7月、今年も後半戦へと入っていく。我が人生もいよいよカウントダウンが進んでいるのだが、人生再スタートへの準備の作業、この暑さもあってなかなか思うようには進んでいない。
 が、今日は父も手伝わさせて、ようやく父の下着や外出着の夏物と冬物、引き出しの入れ替えを終えた。ならば少しでも成果があったと良しとすべきであろうか。
 しかし、もう早くもクーラーは各室全開で、またもや来月の電気代は3万にもなるのではないかと案じている。結局、暖房や冷房も入れないですむ、電気代が一万円ちょっと収まるのは春秋の二か月程度しかなく、あとの八カ月はやはり主に冷暖房のエアコン代としてときには月に三万を超すほど電気に金がかかってしまうのだ。
以前は少しでもそうした出費を削ろうと暑さ寒さも我慢したが、我はともかくも父を思い、父が家に居るときは、ケチってはいられない。当人は今暑いか寒いかもよく実感がないのだから、熱射病にさせないためにも室内は常に快温にしておかねばならないのである。もう金の事は今は考えるのはやめにした。とにもかくにも父が生きている間は。

 さて、今日からその七月。この春から我は、いろいろ思うところあってのことと、家庭の事情もあって、ほとんど誰にも会わずにどこへも出かけずにひちすら家にずっと籠っていた。
 フェイスブックも今年から始めたわけだが、見るとあれこれ心騒がされたり煩わされることも多いように思えて、あえてチェックはずっと怠っていた。
 が、どういうシステムなのか、フェイスブック側は、そんな我にもメールでいちいちトモダチになっている誰々さんが、近況へのコメントを追加しました、とか、その近況へ誰々さんがコメントしたのをチェックしましたか、とか逐一「お知らせ」してくれるのである。
 誰々さんが動画をアップしたとか、何かコメントしたとか、むろん友人の近況や動向が伝わる、伝えていくのがフェイスブックというシステムなのはわかってはいるが、正直ウザい。いちいちそのお知らせを何でメールで連絡して来るのか。

 こんなことを書くと薄情な自分勝手な奴と思われるだろうが、誰々さんの近況への誰々さんのコメントはチェックしましたか、と「お知らせ」メールが来ても、そのお二方は共に我も良く知る二人だとしても、どうぞどうぞご自由に、ご勝手に!といういう気持ち以外何もわかない。
 まして会ったこともない人たちが何かしたとか誰々にコメントしたとかのお知らせ受けても困惑するだけで、今の若者言葉いうところのマジウザいという気持ちしかわかない。他人様が何かしたことをどうしてチェックしないとならないのか理解に苦しむ。こちらが恣意的に時間あるときに知れば良いのである。
 我はとことん自分勝手、他者に対して冷淡という以前に、今はそもそも他者の動向には関心がない。その余裕が全くない。情けないが今は自分事、親父のこと、この家のことだけで手いっぱい頭いっぱいで、他者のことまで一切気が回らないのである。いや、いろいろ思っても会うことも出かけることもできないならば心騒がされるだけではないか。
 むろん皆が元気で、それぞれ多彩な活動や活躍しているのならば喜ばしいと思うし、その近況がほぼリアルタイムでわかるのは有難いことには間違いない。
 しかし、逆に皆の動向、活動状況に心煩わされることにも繋がるし、今の我が求めていること、知りたく思うことはその方が何々したとか個人的・私的日常よりももっと大事な対社会的動向であって、その人の人生の些末なことまで我は知る必要ないと思うのだ。

 ただ、ある親しい友人のご母堂が先日亡くなられたということは今回確認できた。同じく老齢の親を介護する者としていろいろ思うところもあるし、そうした報告的近況の書き込みに、友人たちがコメントしてくれるのはどんなに気が休まる、有難いことかと想像できる。ただ、それもまた「いいね!」という評価が付くのはいったいもって理解に苦しむ。どんな悲惨な辛いことでも近況記せば何でも「いいね!」というのはいかがなものか。
 それよりは、個々に、相手方のメルアドわかる相手とはきちんとしたお悔やみの「手紙」を送るべきだと我は考えるがどうであろうか。

 あまりにフェイスブック、チェックを怠り更新していなかったらば、マスダさん、新しいお知らせが○○件あります、が99件を越えたらば、ついに、、Facebookで大勢の友達が待っています、と来た。そして「もっとト友達を見つけよう」と。う~む、である。

 正直な気持ち、今さら新しいトモダチも、バーチャルな付き合う相手も欲しいとはまったく思わないが、このまま引きこもって誰にも会わずにセルフネグレクトの挙句、自死的孤独死しないためにも、「外」に向けて意識的にフェイスブックで「発信」していかねばと思い直した。
 ただ、そこでは、私的に何々した、例えば、今年はラッキョウは漬けなかったが梅干しは漬けたとか、そんな我の「近況」は投稿しない。拙ブログでは近況の一環としてちょこっとふれたとしてもフェイスブックではしない。もっと対社会的に意義のある、誰にとっても普遍的かつ意味あることだけを書いて行く気持ちは変わらない。

 ただこれもまた外の世界と繋がる一つの窓口だと思っているし、それ自体ないよりもあった方が間違いなく良いものだろう。我がまだうまく活用できていないだけのことだ。
 このまま家に一人引きこもり、誰とも会わず何もしないで孤独死に陥らないためにも、もう一度「外」の世界と関わり合うためにも、改めてフェイスブックなるものを活用していかねばならない。
 そんなことを新たな月の頭に考えている。

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