それは、趣味嗜好か障害か、体質か2018年08月05日 11時02分53秒

★記録的猛暑が続く辛く厳しい夏に思う

 八月に入っても日中の焼けつくような陽射しと夜間も寝苦しい暑さが続く。今年、2018年の夏は、誰にとっても辛く厳しい夏に違いない。そう、世界中のどこでも誰にでも。

 同性愛者にせよ、障害者にせよ、それは多数者の世界の、フツーの人たちから見れば、マイノリティであり「異常」に見れるのであろう。
 このところ繰り返し批判されている自民党の杉田議員の寄稿文やこれまでの発言もつまるところ、ニンゲンの価値を、生産性の有無だけで測り、子を産むという「生産性」がなければ無価値だと考える「独善性」、身勝手さから来ている。そうしたトンデモナイ発言を支持したり共感する人たちも少なからずいるだろうし、それが「正義」だと信じる者もいることは想像に難くない。
 身近にも、男が男を好きになるなんてキモチ悪い、信じられない、想像もできないという声をよく聞く。そうそれはそれである意味当然でそう考えるのはまったく自由なのである。

 と、同時に、だからといって、そうした当事者や支援者を批判したり貶めたりする権利はそこにはない。多数者が常に正しく少数者は間違っているという理屈は成り立たない。つまるところ性的嗜好の一つであって、人それぞれ好きなタイプが違うように、男が男を、女が女を好きになり愛し合ったってそれはまったく自由でありその権利も保障されなくてはならない。※幼児性愛などはその範囲外なのは言うまでもない。何故なら、そこには一方的加害者としての嗜好しかないからだ。

 ところが、まあ昔から世界どこでもホモセクシャル、同性愛者というのは疎外どころか差別迫害されて、世間では異常な目で見られている。
 特にキリスト教社会では、ソドミーの語源となった、旧約聖書に出てくるソドムの市のごとく、同性愛が極まった町は、神の怒りにふれ硫黄の火で焼かれ滅びてしまうのである。よって迫害は、中世の魔女狩りからナチスドイツまで続き、優生思想のもと同性愛者は、ユダヤ人、ロマ、障害者、共産主義者と共に、捕えられては殺戮の対象となった。

 それがようやく戦後、そうした誤りは人類にとっての犯罪であり、人権意識の高まりと共に、人の価値は「生産性」だけで測ってはならないとようやく人々は思い至ったのである。人と人が愛し合うのは、年齢、性別を問わずとことん自由なのだ。
 ※男であれ女であれ、愛する人、愛しあう相手がいることは幸福なことなのだと我は心底羨ましく思う。この世で一番悲しく情けないのは愛されないことなのだから。

 が、今でも多数者の側から、特に政権を担う保守政党、ウヨク思想の側から、少数者の権利を認めない、批判どころか愚弄するような発言が繰り返し出てくる。
 先日もやはり自民党の男性議員が、「同性愛は趣味のようなもの」と口を滑らしたのがメディアで取り上げられていたがまさに噴飯ものである。

 我の性的嗜好や性自認はここでカミングアウトしないが、それが趣味ならばコトは楽なのである。趣味や嗜みならば、一時は夢中になったとしてもときが来れば辞めることもできよう。ホモにも軍隊の中でとか、同性のみの寮や寄宿舎の中ならば、同性間の性交渉はごく当たり前のように行われていること内外数々の文学作品やレポートに記されている。確かにそれは「趣味」の範囲で、ノーマルな環境に移れば「正常」に戻るのだろう。
 問題は、まさにどうしてもやむにやまれず、性対象が同性であったり、異性も同性もOKであったり、そもそも自らの性自認が生まれて来た性と異なるという、やっかいな人もいるのである。

 それはあえてそうしているとか、趣味嗜みではない。努力しても矯正しても治しようがなく、まさに「体質」でありその人の、いわば資質なのである。そしてあまり使いたくない言葉だが「障害」なのだ。
 ならばそれは理解できなくとも認めなくてはならないし、政治の世界の場こそ認めてほしいと願う。人の価値と権利は多寡ではかれないのだから。
 今日ではキリスト教でも万人平等という理念のもと、同性愛にも理解が示されている。そう、まさに汝の隣人を愛せ、なのである。逆に政治の世界、特にこの国の自民党安倍政治こそ、もっともそうした「理解」や世界の「常識」から遠いように思える。

 生産性がないとか、国民の税金を無駄に使っているという愚かな批判を口にするならば、政権を揺らし続けているモリカケ問題はどうなのか!安倍晋三記念小学校=森友学園建設には大幅な値引きという特別待遇を与え、総理の親友、加計氏の獣医大には不要不急でも特別認可をはからい、国民の税金を私物化流用している。
 まずはそうした税金の無駄遣いにこそ目を向けて、「真相」の疑惑解明ができないならば、安倍首相は最高責任者としてまず自ら責任をとって退陣すべきだと我は考える。

 人はみんな違ってみんな良いかはともかく、ことごとくみんなそれぞれ違っている。何が「まっとう」なのか簡単には語れないし決めてはならない。多様性の社会なのだからこそ、自らの正義を過信してはならない。

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