オヤジらしいってわかるかい~これもまた「男らしさ」なのか2018年08月10日 11時53分30秒

★何であんなにエラソーかつ横柄・傲慢な物言いができるのか

 今秋予定している、かけこみ亭での「共謀」コンサートに、現在沖縄在住のながいよう氏をお招きすることが決定したと先に記した。
 そう、あのディランⅡのながいさんである。ディランⅡといえば、ディランの名曲「I shall be released」を、「男らしいってわかるかい」と超訳して唄い世に知らしめた関西の二人組だ。
 秋のライブでもたっぷりとディランⅡ時代のうたもご披露して頂けると期待しているし企画者ながら今から楽しみでならない。そう、まさに乞うご期待、である。
 
 さておき、このところ「男らしい」とか「男らしさ」についてよく考えることがある。
 今でもよく「女子力」という言葉はあちこちで見かけるが、「男子力」という言葉はついぞ見かけた記憶がない。
 「女子力」が高い女子とは、つまるところ炊事家事裁縫などがよくできて、昔でいう「良妻賢母」となれる人のことを指すのであろうか。しとやかで大人しく控えめで気がきく、とかそういうイメージがわいてくるがどうであろうか。少なくとも田中真紀子さんや小池都知事には「女子力」という言葉はあまり結びつかないから我の想像もあながち大外れではないかと思う。

 では、男子力ならぬ、「男らしい」ってことはどういう男を指すのであろうか。ケンカが強いとか、決断力がある、モノゴトに動じない、堂々としているとかいうイメージがある。そう、あの西郷どんのような。
 しかし、現実世界では、あまりそんな人はまずいないから、「男らしさ」はイメージとしては存在しても、「男らしい」人はなかなかいないように思える。よって、男子力が高いとか言う物言いは定着しないのかもしれない。
 まあ、ここまでは前説というか与太であって、あまり真剣に読まないでくれてかまわない。
 
 そう、ボクシング連盟の山根会長である。いや、会長は昨日辞任したそうだから前会長の山根氏である。何であんなにエラソーかつ横柄な傲岸不遜なもの言いができるのであろうか。いったい何様のつもりなのか。
 我はボクシングに限らずスポーツ全般が大嫌いで、いや、そもそも野球もサッカーもアメフトもスケートもまったく関心がなく、世の人たちが何であんなに夢中になって騒ぐのか不思議でならない人間である。
 ※プロレスだけは若い頃、力道山からずっと熱い思いがあったが、あれはそもそもスポーツではなく、肉体を使ったエンタメショーの一種であって言わばサーカスに近い。
 何であれ、自分でやるならまだしも、ただ観客としてサポーターとか称して応援に夢中になるのか理解できない。我の信念はどんなことでも自らやってみるに如くはない、のである。
 それはともかく、このところメディアを賑わしている山根氏、嫌でも我もその顔と発言を知り気になった。何でこんなに、人を人と思わぬほどエラソーなのか。いったいどんな人物なのか。よくこれでやってこれたと驚かされる。

 と、思い出したのは、先に、日大アメフト部が起こした不祥事のときも監督も理事長も含めて、みなこんな感じだったなあ、ということだ。大学側の関係者すべてが、記者会見の司会進行者までみんなエラソーであった。これはスポーツ界の人たちだからであろうか?
 確かにスポーツの世界とは、こうした指導者とされる上の人たちの存在は絶対的で、常にパワハラは指摘され選手や下部の人たちは口答えできないし唯唯諾諾従うしかないのだろう。スポーツだけに限らず軍隊、戦争にしろ勝ち負けの世界では、上司の命令は絶対的なのだと想像できる。ゆえに我はスポーツが嫌いなのだと気づくがそれはともかく。いわゆる体育会系の世界に身を長く置くとああいう「人を人と思わぬ」言動が身につくのであろうか。

 いや、政治の世界だって麻生太郎という、常に上から目線の、人を人と思わぬ非礼かつゴーマンな物言いの人がいるではないか。森元首相も同類であろう。そういえば石原慎太郎もそうであった。ただ彼の場合はもっと小心かつ卑劣なスタンスが見え隠れしていたが。
 ということは、こうした人種は決してスポーツの世界だけではないのである。じっさい身の回りを見ても中小企業の社長にもこんなタイプはいるし、さっこん話題の新語「パワハラ」や「セクハラ」をしでかすのもこの種の人たちなのである。
 そしてじっさい彼らはある程度偉い地位についているから、エラソーなのであって、その権力をカサに、選手や部下、下位の周囲のものに高圧的態度で接しときに怒鳴り叱りつけ侮蔑までするのである。
 他人の意見には一切耳を貸さないし、絶対反省しない。あくまでも俺が俺が、俺は常に正しいという唯我独尊、つまるところ、いわゆる「オヤジらしい」男なのである。
 思うに、これもまた「男らしい」ということではないか。いや、正しくは「男らしさ」のようなものだ。女でもごくたまにこうしたエラソーな人、件の「このハゲー‼」と秘書をなじったり暴力をふるって話題になった自民党議員もいたが、やはり「オヤジらしさ」は男の特権であろう。男らしいと言えなくもないのではないか。

 しかし、我もその性を受けて生まれた者として、山根会長のようなタイプの人には昔から虫唾が走るほど嫌悪感を覚える。同性として恥ずかしく思う。少なくとも我らの世代にはああいうエラソーな顔する「オヤジらしい」男は皆無だし、少し上の団塊の世代にもまずいないのではないか。
 よく考えてみれば、「オヤジらしい」人たちは皆かなりの年齢なのである。麻生太郎しかり、皆七十代から八十代なのである。戦後教育は受けたかもしれないが、少なくとも戦後生まれではない。
 ということは、その親たちは明治生まれという可能性も高く、ある意味ガチガチの封建的家庭に育ってきたのかもしれない。男は主人で、一番偉いと強圧的な父親を見て育ったのではないか。ゆえにそこで歪んだ男らしさ=人を人と思わない身勝手な物言い=オヤジらしさが生まれるのではないだろうか。

 「男らしいってわかるかい」の歌の中では、「ピエロや臆病者のことさ」、とうたっている。そう、じっさい男の方が女よりいざとなると臆病だったり決断力なかったり優柔不断なのである。
 男らしいにせよ、女らしいにせよ、それはあくまでも理想であって、男こそ女々しいし女こそ雄々しいのがじっさいのところで、性差による役割分担が生みだした幻想なのだと我は考えている。

 加川良の「教訓Ⅰ」では、戦争に行きたくない男らしくない男は、「女の腐ったの」として唄われ、「女の腐ったのでかまいませんよ」と自嘲しているが、ならば我もまた「女の腐った男」として、それは誇りに思いたい。「名誉男性」の某杉田議員よりマシではないか。