母の命日、三回忌を過ぎて思うことなどなど・62018年10月08日 10時07分10秒

★癌発見、そして手術と抗癌剤で一度は「生還」したが・・・

 ともかく若い時から元気活発で、世話好きで始終出歩き病気らしい病気は皆無の人であった。入院したのは、あんたたち(我ら子供)を産んだときだけ、と豪語していた母が、2000年、ちょうど八十代に入る前から胃や腹痛を訴えて食事が摂れなくなり痩せて衰弱してきた。むくみも少し出てきたかと記憶する。
 近くの全国規模で展開している最新検査設備もあるT会にもかかって内視鏡検査もしたが不明のままで、あちこち手を尽くし漢方の名医がいると訊けば行って診てもらったが、一か月間薬飲んでも症状は改善しない。

 けっきょく、かかりつけの診療所系列の立川の病院で、再度の肛門から内視鏡入れて、癌が大腸にあることがようやく発見されたのは翌年早々のことではなかったか。
 そのときは、まず当人も家族も皆びっくりで、まさに「想定外」という思いだった。よりによって元気の固まりのような人が癌発症したとは、と。
 手術で、切除するしかないと診断受けて、藁にすがる思いでとうぜん応じたが、もうかなり進行していることと、身体も痩せてひどく衰弱しているので今のままでは手術に耐えられそうにないとも言われ、けっきょく入院して、口からは食べられないため、鼻の片方からチューブで栄養を胃に入れてとることとなった。
 身体中、点滴やら排尿の管で巻かれたうえ、鼻までも息も苦しいだろうにと、痩せ衰えた母の姿に我の胸は激しく痛んだ。母のことが心配で何晩浅い眠りの夜を過ごしたことか。

 しかし、そのときは、それで体力がついたらしく、やがて数時間かけて母は開腹されて、癌で癒着した部分、大腸がかなり何mも取り除かれた。見せてもらったが、手術で判明したのは、癌の原発、つまり最初に癌化した部位は、卵巣であった。そしてそこからの癌が大腸に転移して腸が癒着してイレウス、腸が圧迫されてしまい食べたものが流れなくなって痩せてしまったことが理解できた。
 手術は成功した。当初はもしかしたら人工肛門になる場合も、と告げられたいたが、単に腹を切って癌の部位と癒着して機能しなくなった大腸を取り除いただけですんだ。
 ただ担当医師からも、癌はかなり大きくちらばっていたので全部取り除くことはできなかった。また再発するだろうとはっきり告げられた。

 その手術が、あの2001年の東北大震災の直前のことで、母は立川の古い総合病院のベッドのうえで、大地震の揺れを体験した。
 慌てて見舞いに行ったときは、「あまりに揺れるのでまた高熱が出て身体が震えたのかと思った」と話していたから、手術の前も院内で二度ほど40℃前後の高熱が突発的に出たことは間違いない。
 
 それから・・・手術後の母は驚くほど早く回復して、じょじょにだが口からも食事も摂れるようになり、こちらの予想よりも早く一か月そこらで退院できてしまった。そして家に戻りリハビリ的生活を送ったが体重も戻って来て、無事「生還」したと誰もが確信できた。
 母は癌の原発が、卵巣であったことから、卵巣癌ということで、以後産婦人科医の診断を受けることなった。
 手術後の経過観察の通院で、わりとすぐに癌が再発していると告げられ、迷ったが抗癌剤治療を受けることになった。月に数日入院して強い薬を身体にいれていく。
 よくあるドラマや映画のように、その治療しているとじょじょに髪の毛が抜けて母も坊主になってしまったが、吐き気や不調など副作用は特に起きることなく、母の場合は抗癌剤が効き、半年後であったか、治療が終えたときは癌は消えてしまった。ほんとうに「完治」したと思えた。

 そしてそれから約4年。月にほぼ一度だけは経過観察に立川の病院へ、婦人科の担当女性医師の元に通院するだけで、母はまた元通りの日常生活が戻った。※担当医師は効果を疑問視していたが、こちらが望んだ丸山ワクチンを承諾してくれたので、面倒ではあったが、近くの診療所に隔日で通い持ち込んだワクチンを看護師に注射してもらっていた。幸いその病院は車での送迎サービスもあり、母は自ら手配しこらちは何も煩わされないで済んだ。
 といっても手術後は、八十代ということもあって、病気前のような元気さは戻らず、要支援ということで、認知症の父と共に近くの介護施設二か所を週に数日は日帰りで利用するようになった。社交的な母はそこではそれもまた楽しんでいたが。利用者の老人の中では母が一番元気だとよく聞かされた。
 
 とにもかくにも、癌に襲われ一度は死神に遭遇したが、幸いにしてまさに九死に一生を得た。あのまま癌がわからず何の手も打たなければ間違いなく母は八十歳で死んでいただろう。
 しかし癌は必ず再発する。つい忘れてうっかり油断していた。二度目の癌が、いや、手術直後のことを入れれば三度目の癌が、2015年の春先?頃から再活動し始めたのだった。
 そこからはもうあっという間に、まさに成すすべなく転げ落ちるように早く母は死んでしまったのだ。