抱えきれないほどのものを抱えながらやっていく2018年10月21日 13時15分34秒

★どこもかしこもいっぱいいっぱいだけれど、さあ、良い季節到来、ここからだっ!

 曇天や雨がやたら多い今年2018年の秋だけだけれど、10月も終わり近くになり、ようやくこの数日カラッと晴れた爽やかな日が続くようになった。
 昨夜も小雨がバラつきはしたが、今朝は朝から晴れて爽やかな秋の一日だ。何か胸が痛くなるほどの青空である。頑張って溜まった洗濯ものを洗って干した。
 日毎に寒さも増して早や庭の樹々も落葉が少しづつ始まって来た。朝晩は暖房がほしいほどで、そろそろ冬物を出したり、コタツなど防寒の対策を始めないと父が風邪ひいて死んでしまう。

 また当ブログ更新が空いてしまった。書きたいことや報告すべき記事は山ほど溜まっているのだけれど、ともかくパソコンに落ち着いて向かう時間がとれない。その時間があれば少しでも長く眠りたい。
 父と手のかかる老犬の世話で、睡眠が断続的にしかとれず、深く眠って疲れをとることができず、終日鈍く頭痛がしている。
 ともかく一分でも長く連続して眠りたいと切望していたら、今朝がたはやっと久しぶりにたっぷり長く寝た気がした。
 昨夜は午前1時頃、犬たちをたっぷり散歩させて、それから下の部屋で耄碌老犬はすぐにまた吠え出し、しばらく鳴き騒いでいたけれど、もうほっとけ、という気持ちで無視して我は眠りについた。
 幸いそれから犬も諦めて眠りについたようで、朝また6時頃、騒いで吠え出したので起こされたが、それは想定内のことだから、抱えて外に出して小便させて簡単に近場をぐるっと散歩させてまた寝かせた。
 幸いその後も少しは騒いでいたがまた眠ったようで、それから3時間追加で深く眠れた。今日は父もいない。9時半ごろまで寝坊した。我は眠るとほとんど寝がえりもうたないようなので、久しぶりに腰や背中が寝疲れて痛い気分である。

 実は今週は火曜から二泊三日で久しぶりに山梨へ行ってきた。金曜に、父の訪看さんが来るので、木曜の夕方急いで戻って来た。向うはもう紅葉しているかと思ったがまだ少し早かった。
 再三督促受けてた固定資産税の支払いなど、向うは向うでやることがいっぱいで、また不要本も積み込んで持って行ったわけだが、向うもそれこそそれをどこにとりあえず置くか頭痛めるほど本や雑誌でいっぱいの状態で、ほんとうにそろそろ腰据えて整理処分していかないとどこもかしこも満杯で立ち行かない、どうしようもなくなると今さらながら強く思った。
 けんあんのコンサートを13日に何とか終えて、その後の休養目的の山梨であったが、今回は犬猫たちも連れて行ったため、その世話に追われ気が休まらずほとんど眠ることもできなかった。そんなで疲れがとれるどころかさらに疲労困憊のこの一週間だった。

 そう、すべてがもはやいっぱいいっぱいなのである。おまけに時間も金もない。モノだけがいっぱいいっぱいどんどん増え続けていく。増えたものは犬猫も含めすべて自業自得なのである。自ら選んで得たものもあるが、大概はそのときどききちんとすぐに分別処分できず、とりあえずそこらへんに置いてまたいつしか自然に溜まり山積みになっていく。
 混乱と混迷、つまり我が人生はなにもかもが混沌としてしまった。
 もう一切何も増やさず何もせず誰とも会わず出かけず、そうした溜まったものの片付けに専念しようとこの春から夏は数か月家に引きこもっていたが、けっきょく大して進まず、それどころか鬱が悪化してしまった。
 わかったことはともかく日々何としても生きて行かねばならないのだから、そうした「混沌」はそれとして、何とかかろうじて父の世話や犬猫の面倒をみないとならない。様々な税金や支払いにもきちんと対応しないとならない。
 つまり糞便のついた父の尻を拭いたり、真夜中に何度も犬猫に起こされてその都度散歩したりしながら我は一人でこの家を維持し生活を続けていくしかない。

 父は先にも書いたが、ショートステイの日程をかなり増やしたので家にいる日は少なくなった。が、あまり預けっぱなしだと、戻って来ても我が家の日常自体失念してしまうので、帰ってくるとまたさらに手がかかる。短期とロングをうまく調整して彼の介護認定度数と年金枠の中で納まるよう調整のうえ、父に合わせて我の生活も組まねばならない。
 そう、父の年金だけではこの国の政治は、介護される老人は生活が成り立たない。仕方なくなけなしの貯金を毎月最低5万は取り崩して、我の古本稼業で得た貯金も下ろし続けている。
 もっと商売に専念せねばと思うし、何かもっと別の稼ぎ方、手段を考えねばと強く思うが、今はともかく、日々その日その日を何とかやり過ごすことで精いっぱいで、落ち着いて何かをまた新たに始めるところまでいかない。

 しかし今は絶望も鬱にもなっていない。結局根本の片付けはならずともともかく父も我もまだ生きて、その中で先のようにコンサートの企画とか立てて実現できるならば、それだけでも御の字ではないかと思うようになった。
 じっさい睡眠不足で何一つ片付かず進められないままだが、それでも生き続けるしかないし、生き続けていればやがては思いはかなうのではないか。これでも昔に比べれば少しは賢くなってきた。少しはモノの仕組みや生き方のコツも見えて来た。どう生きるか、なにをまずすべきかもわかっている。
 ただ今はともかく時間がなくて、季節ごと、四季のある日本は秋は秋でまたとくに忙しくて、先の台風の被害も補修ができていないまま冬を迎えるわけにもいかず、庭の樹々の落葉対策も含めてゴミ屋敷の庭先をまず冬が来るまでに一段落つけねばならない。

 そして、我の昨年の「公約」、12/23日の無頼庵謝恩ライブパーティも今年こそ開催せねばならない。あと二か月、日々の生活の傍ら、そうしたことを並行して片づけを少しでも一つづつでも進めていく。
 もう一杯いっぱいで、果たしてうまく全部やっていけるか背負えるかと不安になるが、聖書にもあるように、神は人に背負いきれない荷は負わせないとされるならば、きっと何とかなるだろう。そう願い祈り信じて良い季節、少しでもやるべきことをやっていこう。

 そう、生まれたものは死ぬまで生き続けるしかないが如く、人生がそうであるように、ならばともかくやるしかない、やっていくしかないのである。それができるかできないかではなく。