樹に登って考える2018年10月29日 18時24分56秒

★落葉を前に、庭のケヤキの枝下ろしをして

 昨日、今日と、遠く笠間より友人を招いて、二人で拙宅の片づけ作業に専念していた。
 それは、12月23日の家で開催するイベントに向けてのことで、ともかく場所を作って家の内外を綺麗に広くして、お客様を招き入れる状態にせねばならず、今から少しづつでも進めねばならないからだ。
 12月に入ってから取り掛かっていたら絶対に間に合わない。今から始めて果たしてどこまで片づけられるか自分でも不安でならない。
 と、というわけで、学生時代からの親友で、昔から我の作業を手伝ってもらってきた「社員」氏を招いて、二人で必死に不要雑本を二階から下ろしたり、レコードを詰めた箱を納戸に押し込んだりと場所づくり作業を進めた。
 それと今回は、庭の樹々の落葉問題もあって、本格的な落葉が始まる前に、込み入った茂みを枝ごと剪定して、少しでも落葉が散る前に手を打とうと考えたのである。
 昨日は朝から彼が来て、まず我が一番大きくて高いケヤキの大木に登って、道に伸びている枝から剪定鋏と園芸用ノコギリで手が届くものから次々と切って落としていった。
 実は、このところの睡眠不足と季節の変わり目で体調は良くなく風邪気味で咳と微熱もあった。しかし、本調子でないとか乗り気でないといって、人を招いて中止にするわけにもいかず、仕方なくフラフラしながらもかけた梯子に登って、樹の幹にしがみつき、かなりの高さまで上がって手当たり次第に枝を切っていった。

 このところ、六十代に入ったこともあるが、よく思うのは、生活をはじめとして全てをできるだけシンプルに、簡素にしてやっていきたいということだ。
 それは先が見えた人生の「終活」とか、断捨離とかいうようなものではなく、とにもかくにもモノが多すぎて収拾つかなくなつてしまった人生ゆえ、もっとスッキリシンプルに、世間並み、他人様のレベルになりたいという願いである。
 しかし、樹に登ってかなりの高所で地面を見下ろしながらチョッキンチョッキンと枝を下ろしなどしていていつも思うのは、世間の人はまずこんなことはしないだろうし、そもそもしたこともないはずで、何で我はこんなことをやっているのか、という不可思議な気持ちである。
 そう、誰々なら絶対こんなことはしないだろうなあ、と、親しかった人たちの顔を次々と思い浮かべる。
 そもそも庭に街路樹のようなケヤキやイチョウの大木があるのがオカシイのである。我が望み植えたのではなく、たぶん考えなしに母が苗木を植えたのではないか。この地所を約半世紀も前に手に入れたときに。
 そして樹々は南向きの日当たりも良い土地で、伸び放題に成長して家の屋根よりも高く育ってしまった。
 その母は先年死に、父ももう自らは歩くこともかなわぬほど老いて呆けて、けっきょく唯一の息子である我が、この何十年もときおり樹に登っては枝下ろしや剪定をやっている。
 招いた友人に登ってやってもらってた時もあるのだが、実は彼は一度転落して頭を打って入院騒動起こした事もあり、これはあくまでも我の責任で我家の問題だから、我がせねばと思い、今では常に自分が登って切り、下でその「社員」が落ちた枝を拾い集めてまたさらに細かく切って束ねるという役割分担が確立した。

 というわけで、屋内作業の合間、昨日も今日もまず午前中は我がケヤキに登り、せっせっと枝を切り落としては下で彼が束ねまとめていった。おかげで道路上に飛び出して伸びていた枝はほぼ切り落とすことができた。だいぶスッキリした。これで今年の晩秋は、隣近所の道の落葉掃きは幾分楽になるかもしれない。
 ただ、今回登った地点よりさらに高い頭上にはまだ葉をたくさんつけた枝が生い茂っているわけで、とてもそちらまではまさに手が回らない。
 細い枝とはいえ、何十本も切ると力を入れた腕は筋肉疲労でパンパンになっていく。手も痺れて箸も持てないほどだ。何より足場の不安定な高所作業なので細心の注意でやっているから気も疲れる。いったいいつまでこんなことができるのであろうか。

 今回の作業はあくまでも落葉にウルサイ隣近所に対しての我が家なりに落葉対策はしているぞ、というデモンストレーションであって、少しばかり枝下ろししたからといって効果のほどはたかが知れている。
 もう一本の高木イチョウは今回まだ手付かずで、果たして黄色くなって散り始めるまでに社員氏をまた招いてとりかかれるか何とも言えない。
 が、どれほど実際の効果があろうとなかろうと、けんあんのことが少しでもやれたのは嬉しいしほっとした。何しろ今年は春から一度も庭の樹々の剪定はほったらかしにしていたのだから。今さらながらだけれど、ほんの少しでも進めたられたのだから良しとしよう。
 一人でもできなくはないが、やはり危険な高所作業で、誰か万が一の時、救助の連絡してくれる人がいないことには怖くてできない。
 
 それにしても・・・犬猫も含めて、どうして我と我が家にはこうした余計なものが多いのであろうか。そしてそのためにこうして時間と経費が奪われていく。
 それがなければ、もっと自分のことに時間が使えるのに。しかし、「ない」ことの喜びよりも「ある」ことのほうに「喜び」を覚える性分なのだから、これはこれで仕方ないのかなあとも思う。
 もし庭先が全部コンクリートで覆われ、鉢植えも含めて植栽が何一つない家だとしたら、我は正気を保てるだろうか。それは簡便でスッキリして気持ち良いかもしれないけれど、想像しただけで味気ない。何しろ木陰がない庭は、この近年の異常猛暑をしのげないのではないか。
 庭に、家自体を覆い隠すほどの大木があることで、おそらく何度かは我が家は室内外とも気温が低いことは間違いない。
 毎年秋の落葉シーズンは、隣近所との間で落葉掃き騒動を引き起こすが、庭に大きな樹木があることは有形無形の恩恵が、我にはあるように思える。

 さらに今年は、昨年4月頭に死んで、柿の木の根元に埋めたブラ彦の柿が近年になくたわわに実をつけた。なりすぎて枝が重くて垂れ下がっているほどだ。
 愛犬ブラは死んで庭に埋められ柿になったのである。ならばこんな庭でもその樹々を愛し大事にしていかねばならないだろう?