まだ生きているならば、取り戻せる、元にもどせると信じて2018年11月04日 07時34分52秒

★混沌、混乱、混迷の人生とオサラバだ

 11月に入った。ちょっと風邪気味に腰痛と体調も悪いところに、父が在宅でトラブル続きで、気も萎えてすべてが嫌になってブログすら更新できなかった。
 今年も残すはあと二か月足らず。近況と思うところを記しておきたい。

 人はそれぞれ皆、自分の世界というものを持っている。抽象的なそれではなく、生活も含めた身辺のこと、自らの持ち物や関われる範囲のことを指している。 
 我、マス坊は、ご存知のように、個人的にも膨大な「物」を持っていて、そのオーディオ機材、その他、昔のカセットテープ、DVDなども含め世の人々が知ったら驚嘆し卒倒するほどの分量を自宅だけでなく山梨の倉庫などあちこちにも抱えている。
 そしてさらにそこに、物ではない、生き物も抱えていて、まず最大は、ニンゲンである「父」であり、その他、犬猫たちも何匹も我が世話しなければならない。そう、食餌から下の世話まで。
 つまるところそうした全てが我の「生活」であり、それに多少の金を得るための手段として、ネット上での古本稼業もある。これが我の今の「世界」である。

 以前、母が元気でまだ生きていた頃は、父も今ほど呆けて衰弱していなかったし、炊事や掃除などの日常的家事、ときに犬の散歩などでも、近場ならば父母に頼むことすらできたので、我は、基本的に我が「物」だけに、趣味も含めてそれに関連したことに向き合えば良かった。
 洗濯などは洗うのは我がしても干したり取り込むのは母が、料理も後片付けは母がしてくれていたので、モノゴトの分担はできていたのだった。だからとても楽だった。
 今から思うと、母が全ての「後片づけ」をしてくれていたわけで、税金など我家の様々な支払いなどの金銭管理も母に任せきりで、恥ずかしい話、それが当たり前だと思っていた。
 
 そしてその母が死に2年が過ぎて、先に記したように、我家のことは全て、94歳の父の世話も含め何もかも我が担当することになった。そして我家は破綻した。
 元より多動性障害気味の、今手元にあったものでもすぐに紛失して探しまくる人間が、日常生活から膨大な物から何もかも一人で管理し処理することはできなかったのである。
 何事もきちんとできないから税金や支払いの督促はひっきりなしとなり家の内も外もゴミが溜まり、物は溜まる一方でけんあんのことも何一つ片づかず我が人生、その世界はすべて行き詰ってしまった。
 すべてモノがあり過ぎるのがいけないのである。非力な独り者一人では、全てを管理掌握することは不可能だったのだ。恥ずかしく情けない話だが、その「現実」をまず認めないとならない。

 そして、今、還暦後の新しい年周りに、何とか立ち直したい、やり直したいと思い新たに再スタートを切ろうと「奮闘中」であるわけだが、相変わらず「人生を取り戻す」どころか、収拾つかず精神的混乱のあまり、このところ金銭の紛失が続いて、自分でも情けなくとうとう「発狂」してしまったかと不安になった。※先に山梨へ固定資産税支払いに行ったときの残金を入れた封筒をまずどこかに落としたかして失くしてしまった。それは二万円弱。また、さらに昨日は別件で一万円。
 ただ現金であり、諸々のカードが詰まった財布や失くすと取り返しのつかない物ではないので、それも想定外の「出費」「必要経費」として考えて受け容れていけば良いわけで、こぼしたミルクは戻らない、覆水盆に返らずと考えるしかない。
 父も我も体調はよくないが幸いまだ生きているわけで、動物たちも含めまだ今年は我家の者は誰も死んでいない。
 ならば、もう一度、ここから、やり直せる、今から全てをきちんと管理して、取り戻せる、元に戻せると願い信じてやっていくしかない。

 混乱と混沌、そしてそれがもたらす混迷の人生。モノがそもそもありすぎるのが原因なのだが、今さらそれをどう処分するかとか根本原因解決には取り掛かる時間もない。ともかくまず今を、この我が世界、人生を少しでも一つでもきちんとさせていくしかない。

 我の中の迂闊さと愚かさは、親譲りの生来のもので、そこに不安神経症も加わり、だらしのないキチンと出来ない人間が欲望のまま手を広げモノゴトを増やすということを続けて来た。
 そして今、そのすべてが破綻して、悩みもがき苦しんでいるわけだが、それもこれも我が人生の考えの甘さであり、母に依存してきたツケなのだ。

 今朝がた見た夢の中でも何か人がたくさん来るトークイベントに我は関わっていて、自分は壇上にいないのだけれど、関係者的立場でそれを眺めていた。
 そして休憩時間に、自分が編集して持参したDVDを、出演者の誰かに渡そうと、受付の物販の置いてあるテーブルの上辺りにポンと何気なく置いた。で、少ししてそれを取りに戻ったら、誰かに持っていかれたのか、無いのである。
 慌てて夢の中でも、そんな人が出入りするところに何で置いたのか、と自問しつつ慌てて必死に探しまくっていた。
 目覚めて、これは夢の話だと気づきほっとしたが、バカである。夢の中でもうっかり失くし物をして探し回っている。ほんとうに救いがたい。

 もうともかくこれ以上モノは増やさず、いま在るものをすべて管理して少しでもきちんとしていこう。本当に取り返しのつかないことが起きる前に、我が死が訪れる前に。少しでもほんの一つづつでも。
 失くしもの、探し物人生とはオサラバしたい。漱石の俳句、『菫ほどな小さき人に生まれたし』 のように、小さき人にと、我もなりたいと今心から願う。