いま理性と感情を取り戻して思う2018年11月10日 20時40分28秒

★残り少ない「平成」に誓う

 というわけで、心身疲弊しストレスが溜まりに溜まって、呆けて頭がおかしくなった父を殺して我も自殺してこの家に火をつけて全てを終わらせようとも考えたが、未遂に終わった。
 昨日、前回も書いたが、今ようやく心が戻って、落ち着いた心持になったというわけだ。
 そう、何事も忍耐と寛容、なのであった。愛す、憐れむ、慈しむ、そして受け容れていくことだった。
 今もこの病的性格ゆえ、常に探し物、失くしもので焦り慌て苛立ち、ときにパニックになったり他人様にまでご迷惑おかけするかもしれないが、もうそれこそが、自分の個性、我そのものなのだと覚悟のうえで肯定してやっていくしかない。
 ダメで元々という言葉がある。が、自分の場合は、ダメは元々、なのである。そのダメさときちんと向き合い、その上で、少しでも良くなるよう、ダメから脱却できるよう慎重にやっていく、努力していくしかない。
 そしてそれはできると信ずるし、さすれば少しは今より、今までよりは良くなっていくことだろう。まだまだ人生は続くと信じたい。

 やるべきことはいっぱいある。「やりたい」ことと、「やるべき」ことは、以前は違っていたけれど、今は、その差がしだいに縮まって、気がつけば、やりたいことはやるべきこととほぼ同様になってきた。
 ただ、様々な諸事情と非力かつ無能さゆえ、なかなかそれが果たせず、抱えているものも多すぎて、何とか一日に一つでも、ほんの少しでもできるかどうかという日々である。
 そして今年も残り少なくなり、この「平成」も間もなく終わってしまう。
思えば、我が人生は、実質この30年間しか生きていなかった。パソコンを導入してインターネットの世界に分け入り、ネット古書店を始めたことと、「フォークソング」というものと再会して、その道、その畑の人たちと再び音楽活動を始めたのもこの30年間のことだった。
 その前にも生まれた時からの30年間は確かに存在しているのだけれど、今思えば、その期間は、助走期間というか、学生時代の延長そのままで、まだ子供時代のまま、恥ずかしい話だが、社会人として社会に出ていなかったのだ。
 その頃流行りの言葉でいうところの「モラトリアム人間」として、何一つ自ら責任は負わず果たさず、ただ好き勝手に遊びまくっていたのであった。

 そして曲がりなりにもネット上でも「商売」を始め、ほぼ並行していつしか「音楽」の活動にも関わるようになって、この平成の30年間はちょうど終わりの節目を迎える。
 ある意味、母を喪くし「親」という家族の束縛から離れたところで、30年+30年が過ぎ、我にとっても新たな次世紀が始まる。父の歳まで生きられればそれがまた30年は在るということなのだろうが、それだけは期待も予測もできないことだ。
 今までは、その日が終わってもまた「明日こそ」と誓い、何であれ先送り、後回しにしてきた。が、今はわかる。明日なんて来るかわからない。
あるのは、「今」だけ、朝起きた時の「今日一日」だけであり、ともかく今できること=すべきことを、一つでもやっていくしかない。
 手のかかる父が家に居るから、トラさんが騒いで眠れなかったとか、言い訳はいくらでもできる。しかし、それはそれとして、そうした難状況の中でもほんの少しでもできることはある。
 困難はいつだって起こる。今度暇になったらとか、余裕出来たらやろう、なんていつも言い訳して怠けて後回しにしているうちにここまで来てしまった。鏡の中の我は、浦島太郎よろしく内面は若い日のままでも外面はもう白髪交じりの老人である。
 もう時間も何もかもが残り少ない。まだ我はじぶんの人生を生きていない。ようやく30年、やっと少しだけ生き始めたところだ。さあ、これから今度こそ本格的に自分の人生を真剣に、本気で生きていく。取り組んでいく。いつだってここからだ、と信じて。