青息吐息でやっとまたここから2018年11月28日 21時59分58秒

★老犬と老人いよいよ待ったなし

 11月も終わりとなったが、春めいた暖かい晩である。
 日中も小春日和で、日向にいると汗ばむほどの陽気だった。なにはともあれ暖かいのは楽で助かる。

 久々のブログである。この25,26の日~月、一仕事と移動させるものもあって笠間から社員氏を招き、一泊二日でまた山梨へ行ってきた。ちょうど紅葉盛りで良い時節であった。
 が、連れていった老犬の体調が悪く、起きている間はひっきりなしに鳴いて騒ぎ、その出かける日の夜もだったが、その二日間ほとんど眠れず睡眠不足で頭痛に苦しみ、我まで体調崩して咳の発作が出、寝込んでしまった。向うでもそんなで疲れ果てて何もできず、荷物だけ下ろしたもののいったい何しに行ったのか無駄に時間と金を使ってしまった。
 おまけに帰ってきた月曜夕刻から父もショートステイから戻って来て、今週は訳あって金曜までずっと家にいる。

 父もますます衰弱が激しくほとんど歩けなくなってしまい、食事の世話も含め介助の度が増して我、息子はもうフラフラである。
 そう、ずっとこのまま施設に預けてしまえば良いわけだが、先のような卑劣な抜き打ち的行政のやり口には断固与しないと誓ったこともあり、今月末は利用料の調整もかねて、通常のお泊り期間をいったんキャンセルしたので連日家に居るのである。
 そう、情けない話、フルに介護施設を利用してしまうと、二か所合わせると介護保保険料、食事代金も含めた利用代金だけで10万近く録られてしまい、父の乏しい年金枠を考えると利用を控えるしかないのが現実なのだ。

 我もろくに働いていないこともいけないのだが、母が死んで以降、ずっと赤字家計が続いていて、我のなけなしの貯金もほぼ尽きてきて、もうこのままではとても生活自体が成り立たなくなってきた。
 不仲の妹に懇願して生活支援のため援助の金送ってもらうのも先の一件があってからもう御免だという気持ちもあって、あとはいかに今ある金、入って来る金の枠の中でどうやりくりするか、いかに出費を削るかが問われている。
 どこそこの某ゴーン氏のように、毎年10億円も収入がありながら、さらに別に10億円も隠すような身分になりたいとは思わないが、せめて父の介護で疲弊しているのにさらに金の支払いで日々頭痛める事態から脱却できる状況になれないものか。いちがいに政治が悪いとは言えない不徳の者としても、この介護の現実、日本国のシステムは真っ当だとは思えない。

 工場や農業、そして介護現場等あちこちで人手不足だとしても場当たり的に外国人労働者を単純労働者として入国させようというのはどう考えてもおかしい。これはかつて米国が黒人奴隷を強制的にアフリカから連れて来たのと同様、その先のことまで考えないとやがてこの国の根幹、人種構成さえ揺るがす事態になるのでないか。きちんした受け入れ態勢ができず審議で示すこともできないまま、後から考えていくと言って外国人労働者を安易に受け容れるのは右翼的愛国者の皆さんはどうお考えか訊いてみたいと思う。
 それでも安倍自公政権を右派・タカ派論壇の方々は支持支援していくのであろうか。日本と日本人とは何かということが今いちばん問われているのに、彼らはあまりにも鈍感ではないか。
 北方領土二島返還も含めて、今の自民党安倍内閣は真に売国奴だと国民は声を上げて然るべきだ。

 さておき、すべてに終わりが見えて来て、あと少しと思えども、それがいったいどこまで続くのか、この先が見えないのが辛い。
 父も犬も衰弱と呆けが甚だしい。が、どちらもカンタンに保健所なり病院施設に投げ込んでしまえ、とできないところに人生の苦難と試練、まさに艱難辛苦がある。
 我は日日、忍耐と寛容さが試されている。そう、神様、我をこれ以上試みにあわすなかれ、という気持ちである。その先がいつくるのか、だ。

地獄ではないが地獄に近しいと思えること2018年11月30日 08時39分32秒

★父のボケが悪化、老犬と交互に騒ぎ、ほとんど眠れず

 夢現、と書いて、ゆめうつつ、と読む。前回、拙ブログで、今週は父がやや長く家にいることを書いた。
 その理由も記したが、家にいると昼寝させてしまうのがいけないのか、眠り自体が浅くなるようで、まさに、ゆめうつつの状態が多くなってきてしまった。
 目覚めているときもぼうっとして反応乏しく意識朦朧のときもあるし、ならばと寝かしつけてこちらはほっと一息つき、我も仮眠とって身体休めていると、一時間もしないで起きてしまい、鍵かけた引き戸を激しく叩き、開けろ!!何で開かないんだ!!と怒って騒ぎ出す。
 とても眠っていられない。ドアの掛け金を引き違って無理やりこじ開けたこともあったし、昨日は、あろうことかまたユニットバスの窓から裸足で脱走して庭先で捕まえた。
 普段は杖着いてもよろよろ、何かに掴まってやっと歩く状態の人が、どうして杖もなしに、高さ80㎝はゆうにある窓から降り抜け出し我家の裏から狭い路地を通って表に出られるのか理解に苦しむが、これは二回目である。
 午後3時頃のことだ。昼飯摂らせて、我も寝不足で疲れたので本人も寝ると言うので愛猫抱いて寝かせたところだった。寝てから一時間しかたっていない。我は二階の自室でうつらうつらしてたら激しく父がドア叩いている音が聞こえる。また、開けろ、開けろ、と父が大声で騒いでいる。でも我はともかく眠い。
 まだ一時間しかたっていないじゃないか、としばらくほっておいた。そしたら静かになったが、何か不安な気がしてもう眠れず仕方なく階下に降りた。外に出てみたら父が泥だらけで裏から歩いて出て来たのである。驚いた。呆れ果てた。

 幸い昼間だったから良かったが、ケガもなく衣類が汚れた程度で済んだ。が、夜でもいつまたこうして危険な脱走を企てるかわからない。
 部屋に鍵がかかって出られないから出た、と暴れて怒り騒ぐ父を家の中に連れ戻し、着替えさせたら、父はしきりに「家に帰る!」「家に帰らせてくれ!!」と騒いでいる。手に負えない。ここが彼自らが建てた住み慣れた長年の自宅だとわからなくなっている。
 こちらも呆れ果て激高して、ならば、どうぞ帰ってくれ、勝手にしろ、と玄関まで連れて行き、もう好き勝手に気が済むまで徘徊させようと考えた。
 ああ、そうすると父は言い、靴はいたものの、ポケットとか探して、ワシのメガネがない、と今度は騒ぐ。で、とってくると言って部屋に戻り居間の棚をあちこち探している。
 しかし、父はもうこの何十年もメガネなどかけていないのである。もう新聞や本など読まないし、もともと老眼鏡は持っていない。若い頃、車の免許取るのに近眼だったのでメガネをかけていた記憶があるが、高齢の今は何故かメガネ無しでも生活には何も支障がなく父のメガネなどどこにもないのである。なのに、ワシのメガネがない!とあちこち探しまくっている。いくら元々持っていないし、かけてないじゃないか、と言っても聴く耳持たない。自分の家に帰るのが、今度はメガネがない、に変わって騒いでいる。

 ついに発狂したかとさえ思い怖くさえなって、どうしたら良いか相談先をあれこれ考えた。いちばん良いのはこのまま父が目指す、もう一つ別の自宅、として、今利用している介護施設に連れて行き、そのままずっと預けてしまうのが一番楽だが、利用日でもなく今すぐ急に連れて行っても空きはないので即追い返されるだろう。
 父も知っている母の懇意にしていた一人暮らしの婆さんがまだ健在で近所にいることを思い出し、その人のところに連れて行き、話でもしてくれればこの状態は鎮まるかと思って電話したが、やはりデイサービスにでも行ってるのか不在である。
 仕方なく、担当のケアマネに連絡して状況を訴えた。彼も当然甲高い叫び声上げて驚いている。
 
 ケアマネはともかく父をなだめて興奮を鎮めようとしたのだが、電話で話していると父は、「息子が私を追い出そうとしているんですよう、何とかしてください。助けてくれ~」と、「自宅」に帰る話は息子に対する不満へ変わってきてしまった。
 
 しばらくケアマネ氏と電話で話しても父の興奮は収まらないし話は支離滅裂なので、結局彼がこれからこちらに伺うと言ってくれたが、父としては、「自分の家に帰りたい、お前(息子)がワシを連れていけ!」と言ってたので、ウチにいるよりともかく一度車に乗せて外に出すことにして、ケアマネが今いる、東中神駅近くのケアプランセンターへ直に父を連れて行って話してもらうことにした。
 もう夕刻4時過ぎであったかと思うが、隣接する訪問看護ステーションの馴染みの看護師もまだそこにいて、声かけられたものの父はぼうっとしてそこはどこか、誰かまったく理解できない。
 車椅子に乗せられ、二階の小部屋でケアマネ氏と対面したが、もう何年もお世話になり毎月数回は会う人なのに誰だかわからないと言う。
 興奮は収まったが、ただ眠そうな顔で目にも光がなく反応も乏しい。
 が、我が今回の状況、経緯を話し父の奇矯な行動について説明していたら、しだいに彼の脳内の回路が繋がったようで、自分でユニットバスの窓から抜け出したことも思い出してきた。
 で、何でそんなことをしたんだろう、と自問自答して、何で部屋に鍵かけられていたのか、こちら側の説明にも納得して、ワシは半呆けだからバカなことをしてしまった、と言い出した。
 そして最後は来たときとは打って変わって、皆にどうもすみません、お騒がせしてご迷惑おかけしましたと頭下げる始末。
 ケアマネも我もやれやれとほっとしたが、ともかくひと騒動しでかしたが、またいちおうは「戻った」のである。そうキチガイから元の「ニンゲン」の側に。
 家に帰り、夕食を食べた頃の父は、今日の出来事はもう反省したとか、部屋に鍵かかっていても騒がない、息子が開けるまで待ってるとか、閉じ込められても勝手に風呂場から抜け出さないと「約束」してくれた。
 それでも夜寝る頃には眠そうなぼうっとした顔になって来たので、もう今日のことは忘れたな、と想像できた。それでもとも書くいつも通り自室のベッドで愛猫と共に寝かせて鍵かけた。

 が、また翌朝、我がまだ眠ってるとき、朝にはなっていたが、午前7時頃、激しく戸を叩く音がして、父は「開けろ!!開けろ!!」と騒いでいる声で起こされた。
 睡眠不足で遺体頭抱えて下に降りて戸を開けると、父は、「今日は旅行に行く日じゃなかったか」と興奮している。訊けば、旅行に行くので早く起きたのだと言う。
 今日もどこにも出かけやしない、午後訪問看護士のお姉さんが来るだけだ、と諭してだから安心してもう少しこちらが起こすまで寝ろ、と再び寝かしつけた。
 そしてそれからはもうこちらも眠れず、その顛末を書いた次第。

 思い起こせば、母の最期の頃も同様であった。のときもかなりしんどく睡眠不足でフラフラでもう体力気力の限界だと母にこぼしてしまった。今もそのことを悔やむ。
 そのときも生きながらの「地獄」だと思ったが、過ぎてしまえば、それは地獄でも何でもなかった。つまりその先が見えない「今」だからこそ、苦しく不安で地獄だと人は思うのだと今はわかる。
 地獄に近しいことはこれからもいくらでもあるし起こるだろう。しかし、それは近しいと思えるだけで地獄ではない。それは聖書の中の金持ちと乞食の喩え話のように、死後のことだ。
 カルロス・ゴーンにその覚悟はあるか。