すべてが有難く思える、新しい朝に2018年12月13日 09時44分19秒

★自分の人生を生き直していく

 昨夜は、午前四時前に一度だけ、トラさんが啼いているような気がして目覚めた。
 が、夜は深閑として当然ながらもう毎夜のなき声、吠え声はなかった。起きてトイレに行き、それからがあれこれ考えてしまいなかなか寝つけず辛かった。誰の人生にもこんな夜はあると思いながら。

 老犬には可哀想なことをしたと今も胸が張り裂けるような悔いが残る。が、ここでまた止まって鬱々と自らを責め嘆き続けても時間が戻せるわけでなし、何にもならないしもはやどうにもできない。
 ただ、居間に下りて、いつもいた場所にいつもそこにいた犬の姿がない「空白」、「不在」は、そこを見るたび何ともやるせない気分になる。胸が締め付けられる。しかし時間が経てばまたそれが当たり前になっていくことだろう。
 
 今日も晴れても厚い雲が空を覆い、北国のような曇天模様だが、ときたま暖かい陽射しも出る。晴れれば暖かい。寒さも一段落した感じだ。
 トラさんには申し訳ないが、これでやっと自分の人生に落ち着いて向き合えると思えてきた。何より自分のペースでモノゴトをコントロールできることだ。

 新しい朝がまた来た。死んでしまった者、やがて死んでいく者、そしてまだ生きている者たちすべてに、今はただ有難い気がしている。
 ありがとう、という感謝の言葉は、言うまでもなく「有難い」から来ている。つまり、じっさい有る事が難しいことに、感謝してこの言葉は存在している。
 我が、この世に生を受け、物心ついてから半世紀以上もまだ死なず、無事に生きていることだって本来有難いことであるはずだし思えば奇跡に思える。
 それは未だ健在の父も同じく、また我と関わるみんなすべて、人のみならず動物生き物すべてが、今この世に、同時代に共に生きていること自体が有難いことなんだなあとつくづく思える。

 ならばこそ一日一日、一つ一つ、もうこれで最期かもと、明日は来ないかもという気持ちで、まさに一期一会の気持ちで何事にも誰にも向き合い、その時を大切にしていきたい。
 神の見えざる手、という言葉があるが、生き物の生き死にも含めて、全ては神のはからいなのであろう。「則天去私」と漱石は晩年記している。そう、まさにそう思える。

 これからも様々な悩みやトラブル、耐え難い哀しみ、そしてそのことの苦しみは我を襲うことだろう。眠れぬ夜も繰り返すだろう。
 しかし、生きている限りまた新しい朝は来る。そして新しい一日が始まる。あとはただその一日、ひと時を、丁寧に無駄なく慈しみ生きていくだけだ。我にまだやるべきことと成すべきことはいくらでもあるのだから。
 愚かな我は、これからも忍耐と寛容さを試され問われ続けていく。次回こそもう少しは良い答えを出したいと切に願いながら。

 今もふと下でトラさんが吠えて騒ぎだした気がする。幻聴だろう。が、そんな犬が家にいたことを忘れずに、その「声」に急き立てられるようにしてしっかりこれから生きていこう。
 それこそが死んでしまった者たちに対するまだ生きている者の責務なのだから。亡き者たちの声に耳を傾けていかねばならない。