老犬亡き今、犬の恩返しを思う2018年12月20日 18時42分52秒

★23日の拙宅でのパーティを前にして

 このところ幸い晴れて穏やかな冬空が続く。20日の木曜となった。

 ようやく今週になってから本腰入れて懸命かつ必死に二階広間の片付けを進めている。
 まずその前に、月~火と、笠間より友人を招き、階段に積み上げたまま、溜まりに溜まってしまい人ひとり通るのもやっととなっていた本の山を全部庭先に下ろした。
 玄関先、上り口の積み上げた雑誌の山も外に出したし、薪ストーブのある土間も、靴入れの棚も外に出して、直でストーブまで辿りつけるようスペースを空けた。
 問題は、その肝心の会場となる広間にまだまだ山積みままの本やらギターやらレコードの箱だが、何とかまだあと当日まで二日あるので、お客が座れるスペースは作れるかと思う。
 ただ、そろそろ当日の料理の仕込みにも取り掛からねばならないわけで、鶏を丸々一羽早く買わねばならない。もし余裕あれば、二羽あれば、十分皆に行きわたるかと思う。
 焼く前に塩水に漬けて、下処理しないとならないので、遅くとも前日昼頃までにはまずその作業を始めないとならない。
 庭先に出した本の山も基本処分する方向のものだが、市の紙ゴミ回収日は過ぎてしまったのと、もう一度再確認してからと考えているので、みっともないけれどブルーシートかけて、後日ゆっくり処分することに決めた。何しろ一朝一夕に数年来溜まりに溜まったものが一気に全部処分できるはずもないのだから。
 庭先は情けない有様でもともかくお客が集うことがかなえば、今回はそれだけでも良しと前向きに考えることにした。

 さて、老犬が死んで一週間過ぎた。いや、正しくは我が死なせて、である。
 今もまだ何ともやるせない、可哀想なことをしたと、痛恨の苦い思いは強くあるけれど、正直に告白すれば、犬がまだ生きていたらたぶん今回のパーティの片付けはもっともっと遅れていたことだろう。
 昼夜問わず啼いて騒ぐ犬がいなくなったので、犬に振り回されずにようやく自分のペースで作業を進めることができるようになった。
 それでもまだ遅々とした歩みで、捗りはあまり進んでいないが、休みたい時に休み、体調優先しつつ進められることは実に有難い。
 犬が死んでくれて、と言うのは不謹慎だし、良いことだったと絶対思わないが、ほんとうに以前のまま、老犬を抱えながら片付けを進め当日に向けて準備し当日を迎えるのはしんどかったと今つくづく思える。
 たとえ片付けは終わって当日を無事迎えられたとしても睡眠不足と疲労で我は倒れてしまったのではないか。命縮めたことは間違いない。

 つまり、思えば、老衰の手のかかる父と呆けて徘徊、夜啼きする老犬を抱えて、何かこの家でやる事自体無謀だったのだと気づく。
 父は当日の前日からお泊りさせて不在としても昼夜騒ぐ老犬が室内にいたら、パーティの準備も含めて落ち着いてそれに集中できなかったかと思える。
 迂闊にも事故死させて、苦しい思いをさせて殺してしまった者が言う資格はないけれど、それもこれも犬の気遣い、つまり飼われたことの恩返しだったようにさえ思う。
 ほんとうにかわいそうなことをした。しかし、今、当日23日に向けて日々必死にその準備に追われながら、その犬の「不在」が有難いと思っている自分がいる。非情であろう。しかし、非力にも二兎を追うことはできなかった。そう、いっぱいいっぱいであった。

 そもそも我の今回の計画自体が無理無体であったのだ。だから犬は死んでしまったのだ。ならば、我はもう一度新たな犬を飼い、その死なせた犬の分もお詫びとしてまた可愛がり最期まで世話せねばならない。それこそが供養ということだろう。人は嗤うかもしれないが、これが我のリクツなのだ。
 もう今年は時間がないが、来年こそまたどこかでおトラさんのような不遇な身にある犬を探して共にまた暮らそうと考えている。
 人は一人では生きていけない。特に我は、犬が傍らにいないと淋しくてオカシクなる。猫も可愛いけれど、犬こそが人類の原始の頃からの最良のパートナーなのである。
 犬は常に応えてくれる。こちらを思いやり気遣う。愛せば愛を何倍も返してくれる。ならばこれからも犬と共に暮らしていきたい。

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