今さらながら今年の誓いを2019年01月13日 19時50分57秒

★人生再建の年にしていく

 天気予報では、この多摩地区でも積雪とのことだったが、夜来の雨は雪にも霙にもならず、今日は幸いにして雨上がりの暖かい一日となった。雪にならずやれやれである。
 気がつけば、もう明日は14日の成人の日、祝日。早くも年明けて、二週間が過ぎてしまった。
 毎年のこと、新年の年明けには「今年こそは」と誓い期するものがあり、何としても今年はがんばろうと決意するのだが、毎度のことながらずるずると何もできずに月日は流れ季節は移ろい、結局年末になってしまい 一年が無為に過ぎて終わってしまう。
 ただ日々、その日そのときを何とか凌ぐというか、やり過ごすだけで手いっぱいで、けんあんのこと、成すべきことまで手が回らない。ともかく時間がないのである。
 だが、今年は、これまでの年、特に去年とは違う。

 去年、いや、年も改まったので、一昨年の年末のことだが、はやる、焦る気持ちはあっても暗中模索というか、何をどうしてよいものか先行きは何も見えなかった。ただ、来年(2018年)こそ何としてもがんばろうと、やはりいつものように拙ブログでは記したかと記憶する。
 そしてそのまま、去年となり、やはり何もできないままその2018年も後半からは、老父の介護だけでなく、犬猫たちの世話まで加わり、特に山梨から引き取った老犬が呆けて徘徊夜啼きがひどく、昼夜問わず相手せねばならなくなり、こちらも睡眠不足でフラフラで倒れる寸前まで疲弊した。

 幸い、という言葉は使いたくないが、そう、幸いにしてその犬は死んでくれていなくなった。12月半ばに室内で事故死させてからは、やっと我は解放されて、父を施設に預けてしまえば自分のことに自分のペースで専念できるようになった。
 そしてそれから大急ぎで二階広間の片付けにようやく取り掛かり、12/23日、二年ぶりの「無頼庵クリスマス謝恩ライブパーティ」は、友人たちの手助けで何とか開催できた。犬には申し訳ないが、生きていたらその集いは中止にするか、惨憺たる有様のまま、客人たちにさらに不快な思いだけをさせる結果となったことだろう。

 そして今もその二階広間は、まだスペースを保っているので、そこで書類などの分別、仕分け作業も進められるという次第だ。有難いことだ。
 つまり去年とは違うというのは、そのすべきことの「道筋」は見えているわけで、手のかかる犬猫たちも片付いたので、後は、その場で地道にそうした片付けのための作業を進めていけば良いだけなのだ。

毎年新年に思うことはさほど違いはないが、いかに決心し誓おうとも現実にそれが出来なければ、まさに紙に書いた餅でしかない。
 ただ今年は、今年こそは、本格的に老年期に入ってきた我は、まさにもう「待ったなし」なわけで、来年こそとか、いつかそのうちに、なんてありえないし、その時は来ない。
 幸い、まだ特に身体に病気はないようだし、周囲の先人たちを見る限り、70歳ぐらいまでは、たぶん今と変わらずに体は動くかと思える。となるとあと約10年は使える人生がまだ残っていると考える。
 しかし、それだっていつ我も癌に侵され、70歳を無事迎えるどころか多くの亡き友人、仲間たちのように、この先数年のうちに、癌発見、告知後、あっという間に半年もしないで死んでしまうかもしれない。
 しかしそれは誰にもわからない。神のみぞ知ることだ。それもまた神の計らいならば、そういう人生、定めだったと受け容れるしかない。何もできずにガラクタだけ残して死んでいくのはただ情けないけれど。
 しかし、だからこそそんな先の「予定」や「想定」は考えずに、死のことを考える以前に、日々、今を「生きる」こと、それもしっかり生きていくことだけに専念すべきであろう。

 今年のテーマというか、特に位置づけるモットーとして、ともかくあらゆる無駄をなくしていくことだ。お金の無駄、場所の無駄、使わない物の無駄など、我は無駄の固まりのような人間だが、中でも残り少ない、先の見えた人生を意識するとき、時間の無駄がいちばん気になる。
 お金や場所は、取り戻すことも増やすことも可能かもしれないが、過ぎていく限りある時間だけはどうにも取り戻せない。金では買えない。ならばこそ、自由に自ら動けるうちに、何であれすべきこと、ほんとうにしたいことだけをまずともかく少しでもやっていくしかない。
 あれこれ先のことを悩み憂い心配する時間だってモッタイナイ。そんなことに考え囚われる時間があれば少しでも動いて、けんあんのこと、自分がやるべき、できることを一つでも成すべきなのだ。そう、ほんとうにもう時間がない。時間こそもったいない。

 そして母の死の年、2016年前後から行き詰って滅茶苦茶になってしまった我が人生を再建していく。巻き返すとかそんなもんじゃない。まずはせめて元通りに、元に戻す、取り戻すということからだ。
 むろんどんなに頑張ったって、今年一年でそれができるとは思えないしそんなことは願わない。今年はまずその取り組みの一歩でもかまわないし、少しづつでもその「作業」が進めばそれでいいじゃないか。
 これ以上、最悪最低の、混迷混沌の状況から抜け出し、ヤコブの階段のように、曇天の人生に光が射しこみ、雲が少しづつ晴れてくるのならば、それだけで成功だと考える。

 日暮れて道遠し、という言葉があるけれど、そうならないよう、まだ我に真の夕暮れまでにはまだ少し時間があると信じたい。
 夕陽に向かって歩いて行く。だいぶ陽も傾いて来たが、まだ日没までは時間がある。ならばそれまで行けるとこまで歩いて行こう。急がない。焦らずに。