春よ、春よと駆けていく2019年01月18日 08時07分24秒

★この数日寝込んでしまったけれど

 まだ寒さは厳しいが、陽射しも伸びてだいぶ春めいて来た。
 私事だが、暮れから年明けまでずっと老父が家に居たことでの疲れが今頃出たのか、この連休から胃、腹が鈍く痛くて調子がすぐれず、その父がお泊りで不在だったこともあり、気も緩みただただ眠ってばかりいた。そんなで更新空いてしまった。

 惰眠を貪る、という言葉があるが、春眠暁を覚えずというわけでもなく、ただ何か胃というか、腹が重く胃もたれの感じで何だか鈍く痛い。で、仕方なく寝てばかりいた。
 母のように腹部に癌ができたならばまず癌性発熱があるはずなので、正月に黴てきた餅とか処分しないように食べ過ぎた反動かとも思うが不快感はまだ少し続いている。
 年末に山梨でひいた風邪は相変わらずで、熱は出ないものの鼻水や喉の痛み、突発性の苦しい咳は続いている。それと関係もあるのだろうか。
 ただ今は、父不在ならば常に自分のペースで、そうしたときは夜も早くからとことん眠ることもできるので、不義理はブログだけで身体を癒すことができるのは有難い。あんまり長く寝ていると腹空かせた猫たちが来てニャンニャン啼いて起こされてしまうが。

 いずれにせよ、歳をとるとはこうしたもので、我だけでなく他の方のフェイスブックをちょっと覗いても、体調が急にどうしたとか、病院に行ったとか、不景気なことばかり書いてある。
 まあ、そう不調や病気のことを自らこぼすことができるうちがまだ幸いで、そうした「更新」や書き込みが途絶えて、連絡がとれなくなってしまうと、一人暮らしだと死んでしまってたり入院中でネットに何か書き込むどころではなくなっている。
 そんなでこのところ、口から出る言葉は「情けない、情けない、まったく・・・」と愚痴ばかりであったが、いつまでも寝てばかりいられない。
 身体が弱っているときは気も弱り、ついつい内省的というか、かつての自分のしたことに悔恨の思いばかり湧いてきてあれこれ考えてウツウツして自己否定的になってしまう。すべてが虚しく無意味に思えてくる。

 決して多くないけれど昔付き合った女の子たち、いや同性でも同じことだが、この我の愚かで身勝手な性格から、失望させ呆れ果てさせ、去っていった人たちのことが次々思い浮かぶ。
 そのときは、バカだからよくわからなかったのだけど、今なら彼女たちが何を求めていたか、どうすべきだったのか、手に取るようにわかる。その期待というか、願いに我は全然応えられなかったのだ。そして逆に手痛い失望を与えてしまった。
 ああ、もっとあのときうまくやれば関係は今も続いていたはずだし、我が人生もこんなに孤独に、行き詰ることもなかったかもしれない。
 結果として、彼女たちの人生の「反面教師」的存在としてしか存在しえなかったのだからまさに痛恨、情けない。

 しかし、今は前向きに、こうも考える。それはそれで結果として良かったのだと。我はこういう人間でその本質は変わらないし変えようがない。無理して取り繕って向うに合わせて、たとえ結婚まで至ったとしてもけっきょくはダメになる。それは間違いない。
 ならばその前段階で、あるいはうんと早い時期に我の本性が知れたほうが彼女や彼らにとって良かったのだ。何であれ長く付き合い関係が深入りすればするだけ傷は深くなるのだから。
 かといって、今のように何でも浅く手短く、それぞれが身勝手に何かを発信し、他者はそれに気まぐれに「いいね!」や拍手を送るだけの関係はもっと嫌だし無意味だと思える。そこでは何も始まらない。

 このところよく考えるのだが、人は人と、つまり他者ともっと深く語り合うべきではなかったか。少なくとも昔は、我も周りの皆もそうしていた。携帯など普及する前は、重たい受話器で、深夜など何時間でも電話した記憶がある。
 近年でも、もう死んでしまった滝口氏と、主に向うからかかってくる電話だったが、彼の悩みを中心にとりとめのないことをあれこれお互いの宅電で長く話した。
 そしてそうしている間に、我もまた自らの悩みや問題を話しだし、結果として思索が深まり、何かしらの答えや解決策、出口も見えたことがよくあった。
 個々の付き合いはあまり深まると、たがいに干渉しあったり求める度合いに食い違いが生じて来る。だから水魚の交わりより、浅いほうが良いように思える。が、ひと頃流行った言葉「対話」ほどではないが、人はもっと他者と深く長く、自らの考えや思いを語り合う必要があるのではないか。

 トランプ大統領によって分断された今日のアメリカ社会では、共和党支持者と民主党支持者は完全に反目し合い、日常的会話はともかく政治となると一切話はできないししなくなったと伝えられている。
 互いに相手を軽蔑し何を言っても無駄だと諦めて政治的には敵意さえ抱いている。そうした社会は間違いなく間違っているし民主主義とは程遠いことは誰だって読み取れよう。
 対話がない社会は、どちらか強者が一方的に他者、弱者を抑圧し否定しときに排斥していく。それは強者にとっても誰にとっても良い事態ではない。何故なら世界は多様性のものであり、相互に複雑に関わりすべては神の意思的に必然として存在しているのだから。

 そう、全てこの世に在る者には役割があり、起こる事には意味がある。だからこそ、それぞれがもっとその役割と関係を深く考えて、その答えを見出すためにも個々ではなく互いに他者と語りあうべきではないのか。
 我は他者に対して「反面教師」的にしか存在しえないとしてもそれはそれでその役割はある。しかし、今は、願わくばもっと人のために役立つ、誰かのためになる善き「隣人」でありたいと願う。
 そのためにはまず語り合いたいし、そうすべきだと思っている。一対一で、誰かと。
 今の我にはその用意ができている。今年は、「うた」のことはもちろんだが、「語り合う」ことに重点を置いて人と多く接していきたい。
 誰もが実は、もっと他者と語り合うことを求め望んていると信じる。一方的発信はもういいのではないか。 

 さておき、北風が吹き荒れる日があろうとも春はすぐそこまで来ている。体調も少しづつ戻って来た。
 これから良くなる、きっと良くなる、もっと良くなると信じて、春へ向かって我も駆けていく。