2/23日の女たちの「共謀」コンサートまで一週間2019年02月16日 12時46分09秒

★参加協力者、お手伝い、募集中!! もちろん観客も!!

 また胃というか、みぞおち辺りがしくしく痛む。どうしたものか。
 父のこともあるが、毎度のこと、コンサートが近くなったが、まだいくつか必須の下準備が滞ってることとか、今回はスタッフとして「お手伝い」してくれる方が皆無となりそうなので、我一人で果たしてどこまでできるか、あれこれ考えてしまいそうした「人間関係」で心痛ならぬ胃痛が起きてるかと思える。そう、とかくこの世は住みにくいというか、生きにくいと痛感する。

 すべてつまるところ、我の不徳の致すところということであり、毎度の考えなしの行動や不用意な発言が他者を傷つけ、ときに怒らせ、不信感につながっていく。
 そうした「トラブルメーカー」なのは自認し極力注意して何事も臨むように務めているつもりだが、それでもまた人間関係の問題は常に起きてしまうわけで、正直めんどくさいとも思うし、ならば誰とも関わらず対世間的なことは何もせずじっと家に籠るか、山梨の古民家に居を移して、まさに世捨て人として何も一切発信せず、古本とレコードに埋もれて一人きりで暮らすべきかと夢想する。が、それは人非人、人でなしであろう。

 漱石の小説は、ごく初期のユーモア小説を除けば、そうした人が生きていくとき、どうしても生ずる面倒な世の雑事との軋轢と倦む気持ちとをどう処理するか、主人公たちに託して彼の苦悩を告白していることに気づく。 
 そして連載のつど、重度の胃潰瘍や神経衰弱に苦しみ、けっきょく今の我よりもうんと若くして胃潰瘍の悪化で死んでしまったのだ。作家生命もじつに短い。今ならば胃癌はともかくも胃潰瘍では死ぬ人はいないだろうに。

 我も敬愛する漱石先生と同じ病気に罹ったのかまだ何とも言えないが、胃痛の夜に、仰向けに寝ながらともかく腹部を温めようとして、電気アンカや猫を腹に乗せてまどろんでいるとき、「そうか!」と気づいたことがある。
 漱石は、胃潰瘍で入院したとき、腹部に乗せた温かいコンニャクをちぎって食べたと記してあるのを読んだ記憶があった。本人が書いていたのか、誰かの回想だったか忘れたが、それを読んだときは理解に苦しんだ。医師だか家人にそのことをたしなめられたとあったかと思える。
 が、今は、その気持ちは実によくわかる。我もまた空腹時に胃の周辺が痛むわけで、昔は胃腸病院でも治療のために腹部を温めるのは、湯で温めたコンニャクを乗せるぐらいのことしかできなかったらしく、空腹からの胃の痛みを止めるためにも、そこに食べられるものがあれば、味のないコンニャクであってもやはりちぎって食べていたかもと得心した。漱石先生のことを笑えない。

 何であれ、人は自らがそのとき、そのことを実際に体験してみないことには、ほんとうのことはわからないわけで、いくら読んだり聴いたりして想像力を働かせるとしても絶対に実体験には及ばない。
 人の痛みがわかる人になれ、とよく言われる。それは他者にとってそのことはどうか「想像」しろということだろう。しかし想像したとしても食べたことのないものは想像できないが如く、やはり人の痛みは自らもじっさいに体験、経験しないと絶対にわからないものではないか。
 俚諺に同病相憐れむというのがあるが、同じ病気の苦しみを味わった者同士は、経験において憐れみ合うことができるのである。

 病気ではなく戦争体験のようなものもいくら名文や優れた作品を読んだとしても想像の範囲以上には理解できない。まして実際の体験者や語り部が消えてしまえば、人はまた実際に経験してみないことにはその筆舌に尽くしがたい辛苦は理解できやしないだろう。よって戦争は必ず繰り返す。
 だからこそ戦争に関わるもの全て、武器や弾薬、軍隊も含めて、モラルや道義上の問題としてとらえるのではなく明白に「犯罪」だと認定して向き合うべきではないか。
 そう、他国を攻撃しニンゲンを殺すための軍事基地、米軍基地はその存在の時点で「犯罪」なのである。その基地をまた新たに、恒久的なものを美ら海を埋め立てて建設することは犯罪に加担することであり、それを許すことは「共謀罪」に値すると我は考えている。

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

名前:
メールアドレス:
URL:
コメント:

トラックバック

このエントリのトラックバックURL: http://masdart.asablo.jp/blog/2019/02/16/9036764/tb

※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。