平成30年間と半世紀50年を思うあれこれ・前2019年03月04日 08時13分11秒

★平成も間もなく終わる

 元号の是非について我の周囲では喧しいご意見、異論があるのは知っているが、今ここではふれない。
 今は、平成31年であり、それも間もなく終わる。実質30年間、「平成」という時代は続いたことになる。
 このところ終わりゆく「平成」を回顧する企画がテレビや雑誌、メディアでは溢れている。どんな時代であったかは、きちんとその時代を生きていた者たちが記憶し検証することが大事であろう。権力側の意向に沿った大手メディア任せではなく、我々個人一人一人が、だ。
 そしてその最後の頃に、あたかも符号のように、相次いで噂の真相誌の岡留安則と橋本治が、亡くなったことは、まさに一つの時代の終わりの象徴だと思える。
 平成の象徴ではない。我が生きて来た「昭和」という時代がまさに終わった、遠くに過ぎ去ったということの証だ。新元号の時代になれば、この二人について、知る者も語る者も少なくなって過ぎ去った「平成」という時代だけがやがて懐かしく語られていくことだろう。
 しかし、我は思う。この二人こそが、この平成の終わりにあたってその時代、いやこれまでの時代を統括する意味でも大きなキーマンではないか。

 まず橋本治である。
 平成とは何か、昭和(戦後の)とは、何がどう違ったかを考えると、我は、「知的」から「カワイイ」に、人々の関心、価値が移行したことだと考える。
 昭和の終わりまでは、人は「知的」であることが大事だと思っていたし誰もが憧れ重きを置いていた。だからその時代は「知的~」と題した本が巷に溢れていた。
 しかし、橋本治がデビュー作「桃尻娘」で登場したときから、「知的」はしだいに衰退し、男も女も「カワイイ」ものに憧れ、そこに価値を見出し置き、誰もが女性的になった。何故なら「知的」とは、実は男性的価値観であったからだ。今では、老いも若きも男も女もすべてカワイイければそれで良しなのである。難解な哲学書などもう流行らない。
 橋本治自身は東大卒のもっとも知的な人であったし、そのソフトな語り口で、わかりやすく知的なことを生涯書き続けた人だったが、少女マンガの評伝本「花咲く乙女たちのキンピラゴボウ」も含めて、「カワイイ」という価値観に誰よりも早く先鞭をつけた人ではなかったか。

 そして岡留安則は、自らの雑誌を武器に権力と権力者のいつの時代も常変わらぬ腐敗と不正、欺瞞を突いてきた。それはトランプ氏に象徴される「フェイクニュース」蔓延の今の時代をいち早く「予言」していたからではないか。どんな時代もメディアは大衆操作、不安煽動を意識的、無意識的に行い、結果として権力側を利するものだから。
 噂の真相誌がなくなって、「噂」は堂々と、ネット上に解き放たれ肥大巨大化しその「真相」は検証されることすら少なくなった。世界中で「都合のいい真実」だけが1人歩きし、米国を見るならばトランプ氏の熱狂的支持者たちは、どんな嘘や詭弁であろうとも自らの都合良く彼を「信ずる」のである。

 平成の次の元号が何になろうと、どんな時代になろうと関心ないし、どうでも良いことだ。それはそのときの話である。今の我には、この二人、聖書でいえば、荒野で叫ぶヨハネのような先駆者が消えたことが悔やまれる。情けないことは、現実社会には、キリストは現れず地上に富を積むカルロス・ゴーン的に悪しき不正な金持たちの世界が続いていることだ。

 と、毎度ながらこれは前置きである。終わりゆく平成時代を振り返るようなことではなく、我なりにこの30年を、いや、昭和から振り返ってみたいと思う。
 じっさい、30年間なんてあっという間だった。昭和が終わった日がつい昨日のことように思い出される。