いつまでも続くと思うな、「ある」のが当たり前と思うなかれ2019年03月11日 09時18分42秒

★3.11大震災の日の朝に

 昨日の夜から降り出して一晩中かなり強く降り続いていた雨は今ようやく上がってきた。外は明るく陽ざしも出て来た。今日は晴れて暖かくなる。そう、あの日と同じように。
 8年目の大震災の日の朝である。

 昨晩は、敬愛するブルースシンガーさこ大介さんのライブが、彼の地元狛江のイタリア料理店の三階の一室であり、久々にお会いしてうたもお話も堪能した。考えてみれば数年ぶりの再会ではないか。
 何度も同報メールでライブのお誘いは受けていたが、なかなか都合がつかず、昨年夏も行こうと決めた日は出る矢先に颱風で電車が動いていなかったりと何故かタイミングも合わなかった。毎年お招きしていた年末の拙宅でのクリスマス謝恩パーティにも昨年のは来られなかったし。
 そうこうしているうちに、老いた甲斐犬もやたら手がかかるようになってきて、我は父不在の日でも気軽に家を空けることが出来なくなってしまったのだ。

 今回、3/31の、みほこんのライブに、特別ゲスト出演お願いした手前、その前に一度お会いしてカンタンな打ち合わせもしたかったので、狛江はウチからもさほど遠くないので、久々に南武線で登戸まで出て小田急で多摩川越えて行ってきた次第。もう七十過ぎたはずだが、軽妙な語りに渋い喉は健在で、お元気そうで一安心した。

 だからといっていつまでもこうして達者にライブ活動が続くとは達観してはならないと思う。まだまだお元気だからいつでも観れる、会えると楽観してお会いするのを怠ってると必ず後悔するときが来る。
 そう、先のことは誰もわからない。何がいつ起こるかは神のみぞ知るわけで、その采配、サイコロの目はどう出るかまさに明日をも知れないのである。※もちろんいつまでも長くお元気でさらなる活躍を祈り期待することは当然のことであるが。

 あの様々な神話が崩れた大震災の日も、その起こる直前までは誰一人予測も想像もできなかった。そして突然それが起きて、命も家族も家もすべて何もかも失ってしまった人が何万にも達したのだ。
 そして八年が過ぎた今でも多くの人たちが仮設住宅で暮らし、避難生活を強いられている人が5万人を超すとされるのに、「復興五輪」を謳い浮かれるこの国の政府とは・・・
 拙宅は幸いにして古家を増改築し終えた時だったので被害と言えるほどの被害は何もなかった。ただ、この8年の歳月を振り返れば、そのときはまだ生きていた母は既に亡く、母の愛した犬猫たちも一新されて、今も変わらずに在るのは、父だけだと気づく。
 その父だって果たして来年の今頃はこの世にいるか定かでない。

 先だっての「共謀」コンサートの折、参加してくれた、このブログを読んでくれている友人から、このところブログでは年中、お前の父が死にそうだとか書いてるけどちっとも死なないじゃないか、お前も元気そうだしこれは「死ぬ死ぬ詐欺だ」と批判的ご意見を受けた。それでこんな我でもかなり傷ついた。世間とはそうしたものなのか!である。
 じっさいもう九十半ばになるのである。これが70代ならばともかく、この先5年も10年も生きられるはずがないではないか。しかも誤嚥性肺炎と認知症、さらに身体不自由となって、今はかろうじてデイサービスとかショートに通えているが、向うでは車椅子で移動して食事から排便まで何につけても手もかかるのでそろそろ利用限界と言われているのである。
 本来は治療を目的としない病院施設に入所すべき段階の超高齢の人を、死にそうだと言うのがどうして詐欺なのかと憤る。もう口から食べるのも咽て大変なので胃ろう(腹に穴開けて経口栄養液をそこから入れる)も検討されているのだ。
 今度誤嚥性肺炎を発症したら、間違いなく即入院、認知症も悪化するだろうからそのまま死ぬまで院内で過ごすという手筈なのである。
 ただ幸い今のところは肺炎にも至らず、当人も呆けがひどくないときは、この家で死ぬまで暮らしたいと強く意思表示しているから、行政や医者の度重なる施設入所要請も断り、この老いて来た息子が一人で尻の穴まで拭いてやっているのである。
 まさに日々「薄氷を踏む思い」で生活を共にしているのだ。それで自分も疲弊して、つい愚痴もこぼしてしまう。そうした「現実」と「不安」を記してきて「詐欺」だと言われるのは不本意かつ心外でならない。いや、それもこれもこの我の不徳のいたすところか。

 幸いにして今年の冬は、本格的風邪はひかずインフルエンザにも罹らず、何とかまた年を越せて春を迎えられた。が、深夜など階下の眠っている父の部屋から苦しそうな咳が聞こえてくるたび、我は目覚め不安な気持ちで耳をすまし様子をうかがう。
 その咳が軽くてすぐ収まって、静かにまた父は眠りに就いたようでも我は真夜中に、父のことも含めてあれこれ考えてしまう。
 いったいいつまで父と共に暮らせるのか。今が、この生活がどこまで続いていくのか。いつこれが終わるのだろうかと。

 ウチの近所に、駅に向かう途中の角に、長年続いていた手作りパン屋の店があった。ウチは犬が何匹もいたので、その店でサンドイッチ作ったときに出る切り落とした耳の部分をよく貰いに行っていた。むろんそこの手作り総菜パンも買うついでのことだ。
 その店は先代から続いていて、今の店主は、その家の、我とは同級生だった女の子の兄だと思うのだから、60代半ばか70代近くであろうか。そのご夫婦で切り盛りしていて、この街の名物パン屋であった。小さい店だが、サンドイッチだけでなく多数の意欲的な手作りの菓子パンがショーケースには常にいっぱい並んでいた。

 その店に行くのは、かつては父と母の役割で、10年ぐらい前、元気な頃は二人で犬の散歩がてら毎週行ってはしこたまパンを頂いて来た。閉店間際に行くと売れ残ったパンは、「おまけ」にくれたのである。思えば家族ぐるみで付き合いがあったのだ。
 ただ母が死に、父もパンはすぐに喉に詰まり咳き込むため、近年はなかなか利用することはなくなってしまいこのところは縁遠くなっていた。それでも我家とは長年の顔見知りであったから、その店の前を通ったり、オバサンと街で偶然会えば、「お父さんは元気?」と挨拶される関係であった。
  その店が、昨年の晩秋ぐらいからずっと店を閉めていて、一時期は「しばらく都合によりお休みします」と貼り紙が出ていてこちらもどうされたのかと心配していた。

 年が明けてもずっと店は閉まったままで、家の人は誰も見かけない。貼り紙もなくなってしまい、いったい何が起きたのか、いつ再開するかと常に店のことは気になっていたらば、先月の半ば、またシャッターに貼り紙があった。おそるおそる見たらば「都合により閉店いたします。長い間有難うございました。なお、体調不良によりお問い合わせなどはお断りします。」と記してあり、末尾に「代理人」と付け加えてあった。
 何の情報もないので想像だが、パンを作っていた店主かその妻のオバサンが、病気か何らかで入院してしまい回復の目途も立たず、廃業を決断したのであろうか。誰の姿も見かけないから二人してのことかもしれない。
 長年、何十年もそこにあった店、我が子どもの頃から親しんできたパン屋がこうして突然なくなるとはまったく予想もしなかった。不況とか商売的にやっていけなくなったわけではない。地元タウン誌やケーブルテレビやらにも紹介されて近年は常にお客で賑わっていたから、ご夫婦の都合であろう。

 まさかあの店がなくなるとは思ってもいなかった。我が父のことを心配してくれた人たちが病み?、店を閉めざるをえなくなり、我が父はまだとりあえず元気なのである。先のことはわからない。いつまでもそれがそこに「在る」と思ってはならない。つくづくそう思う。
 そう、いつ何が起こるかわからない。まさに明日をも知れないのである。だからこそ、日々、一日一日をとことん精いっぱい今日限りと、一期一会の気持ちで生きていかねばならないのだ。

 不慮の病気などに見舞われなくても地震列島日本、またある日突然大地は揺れ、すべての文化、文明が破壊され尽すときが来るかもしれない。いや、我家の頭上にオスプレイが墜落するかもしれない。
 それがそこに在る事は当たり前ではない。そう考えてはならない。今まだ、有ること自体こそが「有難き」ことなのだ。そう心して人は生きて行かねばならぬ。いつかそのうち、と後回しや先送りにしてはならない。
 すべては今だけ、今日一日だけなのだ。明日ありと思う心の仇桜、なのである。

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