さあ、気分を変えて新たな時代へと2019年04月02日 07時56分30秒

★春四月に入った。

 新元号についていろいろ思うところあるが、安倍首相たちは、改元騒ぎをお得意の「政治ショー」化し政権の人気回復を狙って私物化、利用したことだけは、改めて記しておく。またそれを、無批判に持ち上げたメディアの責任も問われるべきだと。※いま統一地方選の選挙戦のまっ最中なのである。

 またマスメディアも、国民皆が新元号の発表を待ちかね、テレビや街の大型スクリーンなどで、その瞬間を固唾を吞んで見ていた、と報じたが、じっさいはそんなことはない。ごく一部ではないが、「一部」の関心ある人たちが関心もち渋谷の「ハロウィン」的に騒いでいたことに過ぎないということも記しておく。
 というのは、我はその直後、近くのラーメン屋に行き、そこにいた客たちの会話や動向に注意していたが、その店内にいた人たちからは、ただの一言も「令和」なる言葉は聞かれなかった。拍子抜けした。
 カップルはスマホ片手に何かの予約サイトのことで話していたり、学生たちは雑談に興じて食べ終わった後も騒いでいたし、誰もがまったく新元号に無関心、無関係であった。
 一般の国民にとっては、新元号が何に決まろうとじっさいはどうでも良いことなのだと、関心ある者としてやや残念な思いで「現実」を痛感した。
 ただ、それに関心ある人、いや、このお祭り騒ぎにスマホ片手に「参加」したい者だけが、繁華街の大型スクリーンの前に集まっていただけの話で、報道というものは、それを「ニュース」として取り上げて「国民皆が」「多くの国民が」待ちかねていた、と報じたのである。

 よく歴史記録映像として流される、敗戦時の玉音放送の音声に合わせて皇居前で涙し膝まづく人々の映像も、じっさいは一部の人たちであったのだという。それが「特異」であったから、カメラが向けられ記録されたに過ぎない。しかし、今日では、その映像によって、「国民の多く」が、そのとき哀しみ泣き崩れたということになるのである。
 同様に、平成から令和への改元時、その新元号の発表の際には、当時の国民は、誰もが固唾を吞んで発表を待ちかねていた、と後世報じられていくのであろう。一般的「現実」はそうでないのに。

 そんな4月1日は終わり、今日は2日である。これから父を起こして朝食摂らせてまたお泊りに送り出して、我は今月、これからのことに取り組んでいく。そのスピードあげていこう。
 みほこんのコンサートも無事に終わった。次は、5月5日の「共謀」フォークジャンボリーだが、その準備と並行して、我は今度こそ「自分のこと、自分の人生」に本腰入れて取り組んでいく。
 元号が変わるからではなく、自分にとっての「新しい時代」を構築させていくために。本当の意味での我が「後半生」をしっかり確かな、自分のものにしていくために。