続・「動かない機械」を動かしていく2019年04月17日 11時59分21秒

★穏やかざる心中ながらも

 拙ブログ、書きたいことも多々あり、さらに5/5日のかけこみ「共謀」フォークジャンボリーに向けて、連絡事項も含めてやるべきことも山積しているのに、父を連れて立川の歯医者にまた行くことになった。
 先だって、12日に行ったばかりだが、入れ歯が壊れたのだから致し方ない。
 が、とことん待たされ結局日中は全部潰れてしまった。市内の選挙も含めてこの超忙しいのに何たることか!
 
 昨日はそんなわけで朝一で歯医者に電話入れて、急患扱いで行くからと連絡いれた。父もショートで施設に行く、お泊り日であったが、歯医者が終わったら連れていくということにして送迎なしにしてもらった。

 父にご飯を柔らかくして軽く食べさせ薬飲ませて、立川のかかりつけの歯医者に着いたのは10時半頃だったか。行きの車の中でも父は、何しに行くんだ、どこに行くんだと、何度説明しても同じ質問を繰り返して煩くてまいった。
 で、受付済ませて名前を呼ばれるまで待合室でただ待ち続けた。父は横の席でひたすらうつらうつら眠っている。が、目を離すと、ベンチから落ちてまた腰の骨を折りそうで気が気でない。こちらもここで仮眠できればと思うが、眠れずに仕方なく壁のテレビで流れているワイドショーをぼんやり見ていた。「徹子の部屋」のゲストは、風吹ジュンで、相変わらずかわいいなあと思ってたら66歳とのことで、う~む、である。

 昼過ぎても名前は呼ばれないので、歯科衛生士だか、うろうろしている女の子に順番を確認したら、カルテの束を調べて、まだこんなに前の人がいるので、早くてもあと一時間はかかる、とのこと。
 こちらは腰も痛くなってきたので、ここでじつと待ち続けるのも限界だと思い、父を起こして手を引き、近くへ食事に出た。
 が、界隈にはあまり食べるところがないのと、入れ歯無しの父が食べられるメニューがある店がなく、父の手を引っ張りながら大通りを少し繁華街に向けて歩いてみた。しかしこのところ足腰がさらに萎えた父は、少し歩きだしてもほぼ10mごとに、苦しい、休ませてくれ、とすぐ騒ぎ出し、ヘタするとまた転んで道にすってんころりんしそうで、連れて歩くだけでこちらも疲弊するばかりだった。

 そんなで道端の塀やフェンスにもたれかかったり植え込みに座ったりして、30分近く父を連れて歩き回ったものの、ろくな店がないので仕方なくまた歯医者へと戻り、そのビルの隣のうどん専門店へ入ってみた。父も我もフラフラである。
 父はうどんは好物だが、何かこの店のは固そうだと思い、昼時で混んでいたこともあり避けて通ったのだが、入ってみたらかけうどんは柔らかく父も何とか食べられた。それでもエプロンを持ってこなかったので、食べるのも一苦労する父は着てたものを汚しまくりでかなり時間かかったし半分程度しか食べてくれない。もう時間は2時近くである。

 でもともかく食事は済ませて、歯医者に戻ったらすぐに呼ばれて、歯科衛生士に割れた入れ歯を渡したら、これなら治せる、とのこと。だが一時間ほどかかるので3時頃になる、と言われて、また父を連れて外へ。車を停めてあるパーキングへ行き、少し離れたところにあるドラッグストアへ車で行き、犬や猫の餌を買ったりして3時に戻った。父は車の中でひたすら爆睡中であった。
 そして治った入れ歯を調整して入れてもらい歯医者が終わったのは3時半。何と着いてから5時間もかかったことになる。
 介護施設に電話して、これから連れていくと伝えて、大急ぎで拝島方面へ車を走らせ、父をそこの職員に引き渡したのが午後4時である。
 それから家に戻って、本日発送予定の本だけ大慌てで梱包し郵便局に持って行き、犬の散歩済ませて、暗くなってから一時間ばかし仮眠とった。
 そして、ようやく自分のことを、と思っていたら、父がいる施設から電話がある。「今、微熱があり37度6分とかで、もし38度以上になると、ここには置いておけないので、迎えに来てもらうことになる」と言ってきた。
 たぶん今日は一日歯医者に行って疲れて父も疲れているのだろう、ともかく様子見て、もし熱が上がってきたら電話くれ、すぐに迎えに行くからと伝えたが、やはり心中は穏やかでない。
 いつまた電話あるかと気がかりで、父不在でも落ち着いて自分のことに専念できやしない。けっきょく我も今日の疲れが出て、電話にいつでも出れるよう携帯を傍らに置いて、アルコール吞んで早く寝てしまった。父のことで今日は一日何もできなかったなあと思いながら。
 
 そして今朝がた、ベッドの中で、父は「動かない機械」なのだと思い至った次第。しかし、それでもすぐさま処分はできないし、誤作動ばかり繰り返し、ほとんど動かなくなってきているが、その古い機械をともかく動かしていくしかないのだと決意した。
 そう、もうずいぶん長く使った。百年近くももったのである。他の人、他の機械は皆、もと早く途中で、部分ごとにはまだ十分使用可能であるのに、一か所、もしくは数か所だけが悪くなり結果として全体まで廃棄されてしまった。
 我が母もそうで、頭は死ぬまでしっかりしていたし骨も頑健で、腸内に癌ができそれが肥大しなければ、まだ当分「使用可能」、つまり生き永らえたはずだった。

 父のように、まさに全体的にとことん使い尽くして全身が使用限界となって来た人は稀有な例かもしれない。モッタイナイとしてもここまで使えば十二分に元はとったかと思える。
 このほぼ動かなくなった機械を、果たしてどこまであと何日動かして使い尽くすことができるか、だ。そう、いかにうまく動かしていくか。それこそが介護する我の、子としての使命なのだと。