と、中休みをすこし2019年05月10日 07時02分58秒

★うたという、見えないものに手をひかれて

 と、ここまで去る5/5日に、無事成し終えた「かけこみ共謀フォークジャンボリー」について、このブログでは、画像で開演からの流れを追ってみた。
 いちおう、二部構成のうちの第一部というか、前半部だけはアップし終えた。コンサートは、ここで休憩入れて、その後は第二部の開始となる。
 それも続いてアップさせていこうかと考えたが、今日は終日父が家にいる日でもあり、パソコンに向かえるのは、今この朝方しかない。たぶん夜は疲れ果てて何もできない。
 父を起こす前に、あれから5日過ぎて思うことというか、いまの気持ちを記しておこうと思う。

 昨年やっと始めた我がフェイスブックのほうにもコンサートの画像は何枚か載せてある。そちらのほうが綺麗で大きく見れると思うが、我は「文章」の人なので、そこではブログのような長大な記事は書けないようなので(詳しくわからないが、そこでは長文はそぐわない)、あくまでも基点はここに定めて自由に書かせてもらう。※ぜひそちらも覗いてもらえればと思う。
https://www.facebook.com/profile.php?id=100024251173424

 フェイスブックは、写真などをアップするとダイレクトに反応があり、今何人の人が、誰がそれを見てくれたかさえ表示されるので手ごたえがある。素晴らしい機能だと思える。
 が、気持ちとしては当ブログのように、別にコメント禁止になってもいないのに、ほぼ誰も何の反応も返してくれない場のほうが、我は気軽で読み手を意識せずに自由に書けるし適時アップできる。それは楽だ。

 他の方のフェイスブックを見ると、まず自分の書いたこと、アップした画像にコメントが届き、それに「返答」するとまたそれに「返答」がある。えんえんそうしたやりとりを繰り返している人も多々見かける。たくさんのフォロワー?っていうのか、読み手がいたら、終日そんなレスポンスだけに追われてその画面にかぶりついていなくてはならない。

 そういうことで自分が認められていると思うのか、それがその世界の礼儀なのかわからないが、いったん始めてしまえばたぶん我もそれに囚われる。ほったらかしにはできなくなる。
 誰かが見て、読んでくれて簡易に反応を返してくれるのは嬉しいことだが、我はそれよりももっと人とはリアルに濃密に関わりたい。そして身勝手と言われようと何より自分の時間がもったいない。

 他の人の動向に関心なくはないが、今はまだ自分の人生すらきちんと管理・把握できてなく、自らの人生に、いいね!は一つも付けられないのだ。ならば他の方のフェイスブックのチェックにまでとても手が回らない。
 まずは何をさておき自分のことだろう。それが「誠実」ということのはずだ。まず自分に誠実でない者が他者に誠実であれるはずもない。


 また「前書き」だけで長くなったが、ともかくこれまでいくつもこうしたフォークコンサートに関わって来たわけが、その5日の「共謀」フォークジャンボーは、我が人生で最良最高のものとなったと今つくづく思う。
 先にも書いたが我が企画人生の中で、集大成、ある意味一つの到達点となった。観客自体の多寡については思うところあれど、ステージ上ではちょっとあれ以上のものを再度実現できるか今は自信がない。
 出演メンバーも演奏もコンサートの流れも選曲も最良のものであったと企画者自身が思う。ついにここまで来たか、という感慨が今も続いている。

 そして何より思うのは、我をそこまで導いてくれた見えないものの存在、縁であり、その奇縁というか計らいによってここまで来れたのだと思う。そうした不思議な縁が積み重なってそのコンサートは成ったのだと今さらながら気づく。
 では、そもそもそのきっかけは何か、誰かと振り返れば、高田渡の死であったのだと気づかされる。
 2005年の春に、渡氏が急逝され、その直後に中川五郎ら友人知人たちが催した追悼コンサートに出向くことがなかったら今の我は存在していなかった。それは間違いなく。

 高田渡が、「ぺけ君」と呼んでいた年下のフォーク仲間いとうたかお(素晴らしいシンガー!)が出した本に「小さな唄に手を引かれて」というのがあるが(同名アルバムのほうではなく、ビレッジプレス刊)、そう、我もまさに、「うた」という見えないものに手を引かれてここまで来たのだと深い感慨がわく。
 繰り返しになるが、我は、十代の初めに、深夜放送でRCサクセションら日本のフォークソングと出会い、その半ばで、吉祥寺の喫茶店「ぐゎらん堂」に手入りするようになり、渡氏ら日本のフォークシンガーたち本人実物を知った。そして十代の後半は、大阪天王寺の野外音楽堂で毎年今の季節開催していた「春一番コンサート」にも通うようになった。

 そんな熱烈フォーク少年だった我だが、受かった大学が小田急線の町田方面だったこともあり、青梅線で立川、南武線で登戸、そして小田急線というルートに動線が変わってしまい、いつしかフォークの盛んだった中央線沿線にはほとんど足を向けなくなってしまった。その吉祥寺にも。
 大学では自らもパンクバンドを結成したり、8ミリフィルムで自主映画を撮ったり、ひたすら遊び尽くして、卒えてやがては社会人となれば、生活に追われてしまいまったくフォークソングのことなど忘却の彼方となってしまった。折しも八十年代は、日本のフォークシンガーにとって冬の時代、ニューミュージックの次の、「イカ天」バンドブームである。元々四畳半フォークと揶揄されたフォークソングは、完全に時代遅れとなっていた。

 それから幾星霜。生活を喰い詰めて実家に戻った我は、21世紀になったのを機に、インターネットの古本屋を始めることにした。そしてアマゾンなどでも古本を売るようになり、少しはその商売も軌道に乗り始めたと思えた矢先、ネットで知り合った羽村のネット古書店仲間のHという音楽好きの男に、高田渡が死んだので、追悼するコンサートが小金井公会堂であるので一緒に行かないか、と誘われたのだ。
 正直に記せば、そのときは渡氏も含めて、かつてあんなに夢中になった日本のフォークソングになんて全く関心も思いもなかった。行くのも乗り気でなかった。が、そこでの「音楽」との再会が、我を大きく変えたのだ。

 その追悼のイベントは、「人間接着剤」と評された誰からも慕われ愛された渡氏の幅広い人脈を示し、旧友のシバ、中川五郎から、小室等、山本コータロ―、大杉連、さらには遠藤賢司、陽水、鮎川誠!まで、それぞれ各自が故人との思い出を語り1曲だけ唄うというもので、合間に渡氏の遺したうたを出演者・観客が一体となって歌って彼を悼んだ。
 我は、そこで初めて李政美、リクオたち新たな素晴らしい人脈も知ることになった。
 感動で打ち震える、とか焼けポックリに火がつく、とか月並みの言葉しか出てこないが、一度は枯れ果てたと思えた老木iに再び芽吹くがごとく、枯れていた井戸に地下水脈が届いたかのように、何十年間も眠っていた音楽の思いが突然再燃再興したのだ。

 終わってから、すぐさまかつて面識の会った五郎氏と連絡を取り(ぐゎらん堂は、彼のわいせつ裁判支援の東京本部であり我も応援団に入っていた。むろんこちらのことなど記憶にはなかっただろうが。)、彼のコンサートに招かれ、今は亡きHONJIを知り、また日本のフォークソングの世界へと再び舞い戻ることとなった。
 そして再開していた大阪での「春一番」へと、また毎年通うことになり、そこで有山たち昔ながらの顔ぶれと再会しただけでなく、いま21世紀の日本の音楽シーンも知ることができた。
 関西に行ったついでには、必ず京都の古川豪氏の薬屋にも顔出していろいろなお話も訊けたし、あの有名な喫茶店六曜社のオクノ修さんの知己を得た。

 そしてそうした「活動」を拙ブログに記していたら、それを読んだ方からメールが届いた。それには長々と詩が記してある。だがそれは定型のそれで、どうも歌詞のようで気になって会ってみた。
 それが今回出てもらった漂泊のシンガー太田三造さんとの出会いで、彼からまだ両国フォークロアセンターがあることを知らされ、半信半疑で彼に誘われて訪れて主宰の国崎清秀氏を知った。そしてそこに通うようになりそこで様々なアメリカンフォークソングの歴史を学んだ。
 今に続く、隅田川フォークジャンボリーも最初は彼と共に始めることになった。
 今、これまでことを振り返ると、まさに奇縁としか思えない様々な出会いで、今の我とその活動があるのだと深い感慨を覚える。

 古川豪さんが東京にライブで来られた折に、オフノートの神谷氏や、館野公一さんを紹介されたのだと思う。また拾得での藤村直樹氏の「中休み」コンサートも誘われて生前の彼をかろうじて知ることができた。
 館野さんと親しくなったので、谷保のかけこみ亭との関係も始まったはずだし、神谷氏の企画されたコンサートを通して、詩人・有馬敲さんとの関係も始まったのだった。むろんそここに岡大介もいた。
 西荻のみ亭は、彼から知らされなくても知っていた店だったが、我がフォークソングの世界に復帰してからは、そこを岡君がホームグランドにしていた関係で、我も頻繁に通うようになりそこでのライブでまた多くの素晴らしい人たちと出会えた。
 一番最後は、葬儀場で、遺骸となった彼を挟んでの山口敦子との出会いであった。渡氏もだが、彼もまた最後の最後まで人を繋いでくれたのだ。

 また春一では、会場で「春友」と呼ぶべき濃い昔ながらのフォークマニアと知り合い親しくなった。その中のガスリーという三重県津市の男が毎年地元でやっていた超ユニークな河芸の「ええかげん」まつり、というフォークジャンボリーにも何回か顔出し春一とはまた少しは違うが、多彩なシンガーが大勢登場するイベントの楽しさ、醍醐味を味わった。
 今回、飛び入りで参加してくれたコジロー氏もそこで名刺交換していたシンガーで、直前に連絡くれたのだ。

 春友から誘われて、10年前の京都丸山公会堂での勇造60歳フリーコンサートも参加したことで五十嵐正史とソウルブラザーズをはっきり知ったのだと思う。
 中川五郎から彼のコンサートを通して知り得たシンガーは数多いるけれど、中でも西島寛二さんとみほこんは我にとって今も一番大きな存在となっている。
 その他、と言っては失礼だが、そうして数多くの人たちが「うた」を通して我と繋がった。こんな非力で愚かな我に彼らとの出会いはまさしく僥倖、神の恵みと言うしかない。

 思うと、まさに見えないもの、さまざまな「うた」に手をひかれて、いつしかここまで来たのだと気づく。その現時点の集大成が、今回のかけこみ「共謀」フォークジャンポリーだったのだ。
 自らのことは何一つできない、だらしなく愚かで非力な我が無事成し終えられたのも、人としても素晴らしく暖かい音楽仲間たちとの出会い、その助力があったからだ。それを思うとただただ有難くて涙が出て来る。

 そしてそもそも一番最初のきっかけは、あの高田渡追悼のイベントであり、渡氏の死であったのだ。
 人は死んでも何かを残す。それが借金やガラクタ、ゴミの類という「負債」もままあるかもしれないが、何よりの「富」はじっさいの金や貴金属でなくとも、その人がいたことで生じた、繋いだ「人間関係」友情、愛情、親愛の関係であろう。
 人と人は今の時代、ネット上で、フェイスブックなどのSNSを通してごく簡単に出会える。が、真の人間関係は、やはり人を介して直の出会いから始まる。我はそう信じるしそのことに疑いはない。
 会ったことのない人に、いいね!をいくつも貰ってもそれはそれだけのことで何も始まらない。それよりも一度でも我の企画するコンサートで、我マスダが認めた良い、本物のシンガー、音楽家たちを観て知ってそして彼らと「共謀」してほしい。そして直にこんな我とも関わってもらいたい。

 音楽とは、YouTubeで観、ダウンロードしてイアホーンで一人で聴くものではないと知るだろう。
 素晴らしい歌と音楽は人と人を真に繋いでくれる。そしてそのことで少しだけ、少しづつ世界は変わっていく。そう信じてこれからもやっていく。
 我にとって「うた」とは、『この俺をこんなに変えてくれた、昔の友』であった。

 ※登場した氏名の敬称の有無に意図するところはありません。ご容赦を。