まだ人生を続けていくためには2019年05月28日 16時45分52秒

★ブログ再開します。まず何から書いていくか。

 つくづく自分は人並みの「当たり前のこと」が何一つできないんだなあと今さらながら嘆息している。 
 山梨から戻って、まさに足の踏み場のない台所を見回してつくづくそう思う。この家は、まさに庭も家の中も、家の内外共にゴミ屋敷である。どうしてこうなったのか。
 我が家は元々、親たちも含めてモッタイナイ症候群と片付けられない症候群の家系であり、ともかくモノが溢れてた。
 世の中にはともかく何でも少しでも溜まるとポイポイ捨ててしまう、生き方自体が断捨離モードの人もいるようだが(先だって亡くなった樹木希林さんもそう)、逆に常にモノが溢れ片付けられない人も多々いるかと信ずる。だから世には、片付け指南本の類が常に出続けベストセラーにもなる。

 先に、我は、母が死んでしまったからこういう状態になったと書いた。
が、元々これだけ大きな家を、モノで溢れている家を、維持していくのは限界になっていたのだと気づく。
 ただ母が生きていた頃、父が今ほど呆けずに自ら動けていた頃は、それでも各自分担してこの家はまだ経営が成り立っていた。
 つまり食事ならば、我が買い物して調理して、提供したあと、母が皿を洗い食器棚に戻すとか、洗濯も我がしたら干したり取り込んだりしまうのは母が、溜まる一方の新聞などは父が整理するとか、各種公共料金の通知や税金の支払いなどの管理は母と父とで担当する。
 息子が関西などへ音楽旅行のときは、犬猫の世話は父と母に任せてと。父も母も高齢の割には元気だったから、我家はそうして自然に分担して、維持できていたのだった。
 そして母が癌患ってまず先に逝き、父がさらに老いて呆けて何もできなくなって、我一人で父の介護も含めて全部やらざるえなくなった。
 
 元より我マス坊は、何であれ人よりできないのである。理解力も含めてヒトより常に遅いし不器用なのである。自分でも「知恵遅れ」か、そういう障害があるのではとずっと思っていた。じっさい、今ならばLD児とか診断されたであろう。
 母も今思うと社交的と言うよりも多動性障害的な人だったから、やはり世間目的にはだらしなく、常にきちんと落ち着いて片付けは出来ない人だった。そういう遺伝的なことも関係しているのかはともかく、現実問題としてついに我が家は行き詰ってしまった。

 妖怪人間ベムたちは、常々、「早くニンゲンになりた~い」と嘯いていたが、我はこのところ強く願うのは、「早くマトモになりた~い」であり、世間の人のように何であれきちんとできる真っ当な人間に心からなりたいと憧れる。
 じっさい世間には男女問わず、一人でどんな環境でもきちんと自らの生活を維持管理できている人がいっぱいるのである。我など自分では何一つ管理できないのに、欲望だけは人並み外れて強いから、モノは常に増え続け、もうすべてが飽和状態となってしまった。そしてついに行き詰ってしまった。

 しかし人生はまだ続くと思えるし、いまここでこのままの状態で死んでしまえば、後の始末で我が妹たちは命と時間すり減らしてしまうだろうから、せめて自分のしてきたことなのだから自ら落とし前つけねばならぬ。妻がいようが孫や子がいようが、自分の人生は人任せにできないはずだし、死の間際に「後は頼む、任せたゾ」とお願いできる人がいないのは、我の場合は良いことだと思いたい。

 そう、ここで毎度の愚痴こぼしている時間あるならば溜まった紙ゴミ類を片付けたり、台所の古い食材などは全部処分して少しでもスッキリと広く快適な空間にしていけば良いだけの話だ。
 基本もう欲しいモノは、ほぼすべて手に入れたし、モノはモノでしかないのだから、後はいかにそれを自分のモノにしていく、つまり活用していくしかない。
 物心ついてから半世紀以上生きていて、その間のことは我の中でボーダイに知識として溜まっている。ラジオやテレビや本や雑誌で知り得たこと、じっさいに出会った人、経験したことなど、このまま我の死と共に全てが消えてしまうのはもったいないと思う。
 日本のフォークソングに限らない。芸能音楽史というべきか、我が幼少の頃よりより知り得た大衆文化史というようなものを、できるだけ書き残しておきたいと今は強く思う。
 結局のところ、日本書紀にしろ古事記にしろ、文字に残されたもの、書かれてあることだけが「あったこと」なわけで、後世になって、その頃はどんな時代であったかと、振り返って知ろうとしたとき、残された資料は一つでも多いほうが良いではないか。

 大正時代の風俗を語るときに、よく銀座を闊歩する洋装断髪のモボやモガたちの姿が写真などで紹介される。しかし、それはごく一部の特殊な事例であったから話題になり特筆されただけで、あの時代に一般の若者はあんな格好していなかった。
 それは、バブル期のジュリアナで踊るボデコン姿の女たちも同様であり、その時代を生きていた者として、あんな風な格好で踊りまくっていたバカ女なんか我の周りには一人もいなかった。ただ、風俗とした場合、マスコミが取り上げるのに格好の話題であり、ある時代の象徴かもしれないがそれ一つで一つの時代を語る愚は避けねばならないはずだ。

 それよりも我は、明治33年生まれの祖母から聞いた、彼女が子供の頃は、まだちょんまげ結っていた人がいたという話や、その祖父母から聞かされた「明治の新政府になってから不作であろうと税金で年貢を取り立てるので生活は前より苦しくなってしまった。徳川さまの時代のほうがまだ良かった」という話のほうが、庶民の現実として、真に価値ある「事実」、後世に記すべき「真実」ではなかろうか。

 昨年は明治150年で、我が国は、封建制から脱して近代日本へと脱したわけだが、果たしてそれは無条件に良いことだったのか、まずそのことも新元号令和を祝う以前にもっと再検討すべきではなかったか。
 少なくとも近代日本とは、富国強兵の侵略戦争国家日本帝国の時代であり、その結末が第二次大戦、太平洋戦争での壊滅的敗北であったのだから、そこに至るまでの足取りは強く批判されねばならないはずだろう。

 もしこの我に人並みか人並み以上の才能があるとしたら、それはこうして脳内のことを即そのまま文字にして打ち出すことができる、ということであろうか。そこにどれだけ意味や価値があるかはともかく、これまで我が知り得たこと、立ち会った事、出会った人、様々な事象や風俗(ここでいう風俗とは性風俗でないことは言うまでもない)、大衆文化について、今も敬愛する色川武大や山本夏彦翁のように、ちまちま書き記していきたい。
 大したものではないが、レコードや雑誌、本など自分には貴重な得難いものもかなりある。世間的には意味も価値もないと思うかもしれないが、だからこそ我はそこに意味と価値を付加していく。
 
 この家と実生活を維持していくのは大変だが、我は書くことはまったく苦ではない。音楽は好きだが、我の中には音楽はない。外に在るものより、ウチに在るものに目を向けて、その引き出しを開けていこうと思う。
 そう、まだできることとすべことがある。それを一つでも進めてから死にたい。
 生きていることは、それだけでただただ有難く素晴らしいことだ。どんなに最低最悪で、どうしようもない人生でも。
 
 関係ないが、トランプ氏来日での安倍首相の土下座外交ではないが、おもてなしを通り越した「おだて、へつらい」外交、中でも相撲観戦時の映像を見て、突然、芸者上がりの歌手たち、市丸や神楽坂はん子とかを思い出した。
 理由はわかないが、安倍晋三の芸のない幇間姿に、大昔のウグイス「芸者」たちを思い出したのかもしれない。
 子どもの頃は、そうした芸者歌手を見ても何がいいのかちっともよくわからなかったが、歳取ってくると、「三味線ブギウギ」のようなバカらしいものこそ、さすが服部良一だと感心している。そう、市丸姐さんだ。やはり昔の人たちはしっかりした本物の芸があった。政治家も然り。