まだ人生を続けていくためには・②2019年06月04日 15時22分43秒

★ご心配おかけしました。ブログ再開します

 私事だが、このところずっと体調が悪くてどうにもブログすら更新できなかった。また愚痴めいたことと思われるだろうが、事実なので隠さずにありのまま書いていく。

 慢性化した持病・腰痛のほうは、だいぶ収まったのだが、それとは別にこのところずっとともかく目が痛くて、パソコンなどに向かうことができないでいた。
 目がしばしばするというか、乾いて痛くて目を開けていられない。特に夜になるとそれがひどくて、視力もかすんで何も見えなくなる。おまけに鈍い頭痛もずっと続いているから、結局、起きてられずに早く寝てしまう。日中でも時間あれば横になって仮眠とって目を休ませている。

 そんなで、まさに「半病人」と化して、父の世話とか注文本の発送とかは無理してやっているが、それらを終えれば時間あらば断続的に眠って目を休ませ、少し起きて家事とかしてはまた眠るということを繰り返していた。夜中も数時間おきに目覚めては悶々としていた。

 先週末はいつも通り、父が家に居たのだが、床屋に連れて行ったり、あれこれ月末の用事を終わらせて、いったん二泊三日で、ショートステイに送り出し、昨夕帰って来て、今朝がたまた別施設に何とか送りだした。次に戻るのは今回は木曜の夕方だ。
 が、先の施設でもずっと排便がないとのことで、昨夜は就寝前に下剤を飲ませたら、今朝起こしたら、軟便が就寝中にかなり出て紙オムツからあふれ出してしまい、パジャマもシーツも全部広く汚していた。
 幸い寝ぼけて中の紙パッドなどを自ら取り出してベッドの上に撒き散らす「妄動」はしないでくれたから、汚したのは部分的で助かったけれども。
 しかし、朝から下着、パジャマ、シーツ、毛布まで大量に洗濯機で洗いながら、父を素っ裸にして身体拭いて着替えさせ、軽く食事撮らせて施設の送迎に送り出してから、午前中は洗濯と干すのに追われた。
 お昼ちょうどにそれらを終えて、我もやっと軽くパンとか齧って、午後1時から今さっき3時頃までまた深く眠った。そして今起きて、これを記している。幸いまだ目は痛くなってきていない。
 が、今は30分でも同じ姿勢、座ってモニターに向かっていると、また腰も痛くなりそうだから、このブログも一気に書き上げるのではなく、ちまちま断続的に書き足していこうと思う。

 こうした身体の不調、不具合は、やはり原因がある。病気と言うほどの「病気」ではないが、何故か常に全身の調子がすぐれない「不定愁訴」のような原因不明のことを我はこのブログでもずっと書いて来た。そして、ようやくその原因というべきか、とりあえずの「病名」が判明した。
 「寒暖差アレルギー」とそれからの「自律神経失調」であった。

まだ人生を続けていくためには・③2019年06月07日 06時30分05秒

★寒暖差アレルギーと自律神経失調

 体調は相変わらずで、今も鼻水垂らしながら目は、しょぼしょぼ涙目でこれを記している。
 昨晩もともかくブログだけは更新しようと思ったのだが、目が開いてられず11時頃には布団に入った。おかげで今朝は5時前には目が覚めた。
 なにはともあれどんな状態でもやるべきことはやらねばならず、人生は続けて行かねばならないのだから、ほんの少しづつでも日々先へ進めていこう、それしかないと自らを慰めている。
 そう、不調だからと言って寝てばかりいたらますます身体のリズムやサイクルが狂って夜の眠りも浅くなってしまう。

 母が元気で生きている頃から、いや、この十年来、季節の変わり目になると我は必ず風邪をひいていた。
 風邪というのは正しくない。風邪らしい高熱などは出ないしただ鼻水が出たり咳が続いたり、鈍い頭痛やメマイがしたり、風邪っぽい状態が続く。
 自分でも風邪ひいたと思い、無理せず葛根湯とか吞んで早めに床に入って大人しく寝ていればすぐに快癒する。本格化はしない。が、また少しするとそれは再発して咳が続いたり何か苦しい体調がすぐれない状況が続く。
 口さない友人は、マスダは風邪ひいてない時ないじゃないか、と揶揄されたが、じっさい昨年の秋は、それで病院通いもしていろいろ薬出してもらった。しかし、原因もよくわからず、何とか冬になったら収まった。

 そして今年も冬が終わり春となりときおり異常に暑い日もあったりして、毎度の風邪っぽい症状が始まった。じっさいそうした「不調」はこのブログでも折々書き記して来たかと思う。
 外から家に出入りした時や、冷房の効いた店には行ったときなど、まずくしゃみが止まらなくなり、鼻水が出て涙目となってしまう。

 で、やっと判明したのは、これは「寒暖差アレルギー」という症状で、ある一定の温度差のあるところに移動すると、その都度身体が過敏に反応して鼻炎や風邪の症状を示す。通常のアレルギーのような特定物質はカンケイない。
 我が家は、昔ながらの土壁部分もある旧い家がベースになっている造りだから、室内は常にひんやりとして一定して涼しい。ところが、今春は四月でもいきなり真夏日になる日もあったり、雪もぱらついたりとともかく寒暖差が大きく、その都度、我の毎度の「風邪症状」が出て体調不良となった。
 今朝も暖かい布団から出て、早暁、犬の散歩に外に出た途端、今朝は妙に涼しくひんやりとしていたから、鼻水が出始め目もしょぼしょぼとなったという次第。我の場合は数度の差でもその症状がはっきりと出る。
 だから、暑い日、冷房の効いたスーパーとか入ったときは咳や鼻水で大騒ぎし、しばらくしてその気温に慣れれば収まるが、また暑い外に出ると同様となる。
 要するに身体が気温にその都度過敏に反応してしまうからだ。

 亡き母は、我が秋口など夏みたいな服装のまま、Тシャツ一枚とか薄着で家を出ようとすると、玄関口で後ろから来て、必ず、「あんた、そんな格好だとまた風邪ひくよ、あんたは風邪ひきやすいんだから」と口やかましく言ってたことを今思い出す。うるさいなあ、とその老婆心が煩くいつも思ったが、まさにその通りであったと今気づく。
 そう、そして案の定、夜になると寒くなってきて風邪ひくか、風邪っぽい症状と必ずなった。
 出かけには暑くても、何かもう一枚羽織るものや上着を持っていけば良いのである。が、たいがいいつも大慌てで家を飛び出して、着るものなどにかまう余裕はなかったし、我は基本汗っかきで、寒いより暑い方が苦手だと思っていたから、常に春秋は薄着で、夏のままの格好で過ごしていた。
 思えばそれが全ての原因だった。

 母の死後、心労と加齢もあって、体重がずいぶん落ちた。元々筋肉などは一切ない文弱の輩であったから、脂肪がなくなれば今は寒暖の差に身体は過敏に反応してしまう。そしてそこに交感神経と副交感神経の自律神経も関係して、そのバランス、統合がおかしくなってきてしまった。
 男にも更年期というのがあると聞くが、暑かった昨日は、夜になってだいぶ涼しい風が吹き、気温も下がって過ごしやすくなったのに、我は顔がほてって、ヘンな汗が止まらず何度も顔を洗うはめとなった。

 今までは、こうした頭痛やメマイも含めた咳、鼻水、さらに腰痛まで全身の原因不明の不調・不全感の理由がわからなかった。いろいろ検査もした。
 眼科医に何度も通ってメガネもいくつ作り直したかわからない。昨秋も咳で病院通いが続いた。
 そうしてただ「不定愁訴」的に、何か調子がずっと悪いと、母や友人に訴えては呆れられ、けっきょく拙ブログで常々それを愚痴っぽく記すしかなかった。
 が、今はそうか、そうだったのか!とだいぶ救われた思いでいる。
 しかし、これは適切な治療法などはなく、漢方は飲んでるが、要するに身体を温めて食事も含めて規則正しい生活を日々営むしかないのである。そう、すべてのバランスに細心の注意を払うことだ。身体の歪みも含めて。

 冷たい飲み物、炭酸や砂糖の入った飲み物は摂らない。でかけるときは、面倒でも一枚は予備の上着を持って、外気温との温度差を自ら調整していく。ともかく身体を冷やさない。温めること。食事も家に居る時、玄米食と野菜中心にしてできるだけ揚げ物やインスタント食品は食べない。アルコールもできるだけ控える。
 ごく簡単にでも体操やストレッチを日課としていく。同じ姿勢をとらずに、身体は常に伸ばして緩めておくこと。夜は遅くとも〇時前に早めに寝て、朝は出来るだけ早く自然のリズムで起きること。

 思えば、この60年、ずいぶん無理に無理を重ねて来た。我は幸いドラッグとかは手出さなかったから、致命的な打撃は受けていないが、歯も目も腰も全身全てがそろそろ金属疲労ならぬ、使い続けた勤続疲労で限界となって来た。
 機械ならばそろそろパーツ交換の時期なのである。いよいよこれから老年期となるわけだが、今ここできちんとメンテナンスすれば、もう十年はじゅうぶん動けるかと思える。そう願い信じたい。

 今さらジムに通ってトレーニングしたり街中をジョギングしようなんて考えないが、せめて自らベッドのうえで、ストレッチやヨガ的体操は欠かさず、これ以上の老化、硬化をできるだけ抑えていく努力は続けたい。

 何であれ、行動していくこと、続けていくことだ。そうした教本は商売柄いくらでもある。が、読んで頭で理解したってまったく効果はない。ともかく何であれ、じっさいにほんの少しでも動くこと、動かしていくことだ。

 おそらく体調はこんなでそれは変わらないかもしれない。が、自らを防御して自愛していけば、やがて少しは楽なっていくかもしれない。
 我は一人で、誰も面倒も見てくれたり介護してくれないのである。頼むのはこの誰よりも頼りにならない自分の身体だけなのだ。
 自ら自死や自殺行為的自滅行為はもうしない。誰からも愛されないからこそ、まず自らを愛して御身大事にいくしかない。

山梨で古民家修復のため土壁塗り体験に参加した話2019年06月10日 17時53分57秒

北杜市須玉町下津金の「古民家なかや」
★北杜市津金の農家民宿での「壁塗り」作業で学んだこと

 東京も先日梅雨入りしたとかで、今も外はかなり本格的な雨が音立てて降り続いている。やや薄ら寒い感じだが、寒暖差アレルギーの我としては、冷房はいらないこのぐらいの気温が楽でちょうどいい。

 私事だが、一昨日土曜日の夕方から、今日、月曜午前までまた山梨へ行っていた。二泊三日だが、向うに丸々いたのは実質日曜だけで、今回は天気も悪く行きも帰りも雨にたたられたが、実りはあった。
 というのは、向うでの古民家修復のための壁塗り作業に短時間だけど体験参加できたからで、新たな知り合いも増えて今さらながら自分の人生、今後についても考え直す機会となった。

 マス坊の本の倉庫と化した古民家は、山梨県北杜市須玉町の山里にあるのだが、その北杜市という市じたいは、平成の?大合併だかで、山梨県北部に点在していたちっこい町や村がいくつも集まって近年できたものだ。
 だからこの市は、山梨でも韮崎市から上の部分ほぼすべて、長野県に隣接する清里に至るまで網羅した巨大な「市」であって、八ヶ岳から駒ヶ岳など南アルプス山麓までも含んでいる。
 そのなかでもさらにいちばん外れというか山中に津金という集落がある。かつては津金町といったらしいが、今あるウチの古民家よりさらにまた山の中に入っていく。
 ウチは、高速のインター出入り口「須玉」から車で約30分程度、山道を登れば着けるが、津金の集落はまたさらに15分は余計にかかるほど奥地で、清里に向かう別荘地が点在する街道とも外れて本当のド田舎である。東京都で言えば、奥多摩よりさらに奥の丹波山に感じが似ている。
 しかしだからこそ、昔ながらの旧い農家がいくつも点在しているし、ここの観光の目玉は、明治・大正・昭和の三代にわたる小学校が遺っている「三代校舎」で、懐かしい昔の校舎は、博物館として、農産物直売所、レストランや宿泊施設として活用され、観光客に開放されている。※興味ある方は、お知らせ頂ければマス坊がご案内します。

 それで、今回は、街道筋にある、農家民宿なかやで、古民家修復のため土壁塗り作業のボランティア募集とのお知らせを地域のコミュニティFMで小耳にはさんで出向いた次第。

山梨で古民家修復のため土壁塗り体験の話・12019年06月11日 22時12分20秒

農家民宿「なかや」さんの宣伝ハガキ
★まず「土壁」とは何かから説明しないと

 今日の家に住む、今の人たちには、昔ながらの「家づくり」の工法から説明しないといったい何のことなのか、何のためにやってるのか伝わらないかと思う。

 今の家は、鉄筋構造にしろ、昔ながらの木造にしろ、外壁は不燃パネルを貼り付け、内部の室内の壁や間仕切りは、内部に断熱材を入れて石膏ボードの上にクロスを貼っている。
 その方が気密性もあり、断熱も優れているとされているが、何より安く早く簡便に家が出来るからそうしているに過ぎない。

 そうした工法が一般的になる前の昔ながらの家は、木造で骨組み、つまり躯体をくみ上げた後、部屋ごとの壁や間仕切りは、すべてまず、竹を細く裂いたもので格子状に組み上げたところに、土をこね上げたものに藁を透きこみ、その「粘土」状のものを左官屋がそこに埋め込み「壁」に仕上げていた。
 マス坊のこの家は、改築した時もそうした昔ながらの「土壁」をかなりそのまま残してあるので、新建材で建てた部屋に比べて夏でも冬でも常にひんやりと涼しい。また化学薬品などは一切使っていないからシックハウス症候群などになることはない。
 昔の旧家の蔵も同様のつくりで、ゆえに中は常に一定の温度であるし耐火性に優れて、モノを保存するのに適していたむろん外部には漆喰を塗って耐水性を高めておかねばならない。

 しかしこうした昔ながらの土壁工法はものすごく時間がかかるし、長い年月の間に、地震などで剥落やひび割れもしてくる。
 マス坊は、昔ながらの旧い人間で、何にしろ古いものが大好きだから、「古本音楽家」としても、土壁の工法は一度きちんと学んでおきたいと常々考えていた。じっさいのところ、今日では、そうした工法で新築を建てようと考えたとしてもそれができる大工も左官屋もまず見つからないかと想像する。そしていたとしてもバカ高く経費が掛かることも間違いない。
 ならば、自分でやるしかないわけで、山梨の倉庫兼古民家も外壁の一部が剥落して来て、そろそろ「修復」しないとと考えていた矢先、まさに「土壁塗り体験」は渡りに船であった。
 そしてじっさい短時間でも実に多くの収穫があった。

山梨で古民家修復のため土壁塗り体験の話・22019年06月11日 22時54分14秒

「なかや」の裏側。建物北側の外壁を今回塗った。
★外壁の「土しっくい壁」は、生石灰がキモであった。

 さて、そもそも「土塗り壁」に興味や関心のない方には、まったく無関係な話であるので、できるだけ手短めに。

 というわけで、我、マス坊は、以前から昔ながらの土壁、漆喰壁に関心を強く持っていた。
 で、その古民家修復のために塗り壁体験の機会があると知ってなにはさておき連絡とって申し込んだ。この6月6~7日の土日、場所は山梨県内同じ市町内である。まあ、近いと言えば近い。
 が、土曜日は着いたのがもう夜で、積んできた古本など荷物だけは何とか下ろして、翌朝9時すぎには、現地、須玉町下津金の農家民宿「なかや」さんに到着した。が、あいにくの小雨で何か山里はうすら寒い。
 今回は、昨年に続き二回目の壁塗り作業とのことで、前回は正面入り口側をやって、今年は裏側の壁面を塗り直していた。
 前日の土曜日は晴れて作業も進んだようで、既に一回下地が塗られている。そして、簡易テントの下では、舟と呼ばれる大きなトレイの中で、今日塗る分の塗り壁ベースづくりが始められていた。
 
 材料は、ここの家の庭先から掘りだした粘土質の赤土と、砂が同量で、まずそれをクワでよく混ぜ合わせたところに、生石灰を数割加え水を入れてよくかき回す。
 すると、化学反応が起こり発熱してくる。さらにそこに「わらすさ」、つまり数センチに切った稲わらを足して、さらによく練って少し寝かせる。これで塗るための「壁土」は完成となる。
 それをこて板に乗せて、金ゴテで壁面に15ミリほどの厚さに塗り付けていく。

山梨で古民家修復のため土壁塗り体験の話・32019年06月12日 19時51分40秒

★まず、塗り壁の材料を混ぜ合わせることから

 粘土質の土と砂を同率で混ぜ合わせた所に生石灰を加えて水を少しづつ加えていく。化学反応が起こり、熱くなって湯気が上がってきた。

山梨で古民家修復のため土壁塗り体験の話・42019年06月12日 19時56分16秒

★そこに、切った「わらすさ」をもみながら加えていく。

 子供もお手伝いしてくれた。これで少し寝かせれば「完成」だ。

山梨で古民家修復のため土壁塗り体験の話・52019年06月12日 20時02分41秒

★そして、じっさいに金ゴテで、昨日下塗りした上へ、まささらに下から上へと、塗りつけていく。

山梨で古民家修復のため土壁塗り体験の話・62019年06月12日 20時16分02秒

★最後に、コテで押さえて「完成」。

 子供も手伝っております。
 これで乾けば石灰が入ってるので、外でも雨風では剥落などしないとのこと。

 この後、当初の予定では、別の場所に石灰クリームを塗る作業があったが、天気が悪く、そこは乾いていないとダメとのことで、材料だけ拵えて今回の作業は終了となった。
 実質、午前中で終わってしまった。マス坊も作業を観察しながら、自分でも塗ってみたり、砂を運んだり、久しぶりに汗かく肉体労働を少しだけどした気がした。

古民家修復のため土壁塗り体験に参加した話・お終い。2019年06月12日 20時38分01秒

★ともかく日々身体を使うこと、汗かく必要を痛感した。

 というわけで、ざっとだが、作業の手順も含めて、「土しっくい壁」というのが正しいのか、昔ながらの「土塗り壁」作業を体験して来た。
 じっさいに作業をしてみると存外コツも必要でタイヘンだし、泥をこねていく下地作りも含めて経験を重ねていくしかないことも痛感したが、ともかくノウハウは、頭では理解できた。そうかこうやって「塗っていく土」を作るのかと知り得たことは大きい。
 そして何よりも様々な出会いがあり、ずいぶん刺激を受けた。

 行ってわかったのは、今回の「塗り壁作業」は、非営利民間団体の「塗り壁隊」という人たちが、請け負ってやってることで、彼らは建築家のリーダー夫妻を中心に、こうした作業を20年も続けてきているとのことだった。
 その塗り壁隊のメンバーも不特定多数だが、自然と人体に安全な見地資材、土壁の普及を目的に、全国規模で活動を続けているとのことだった。その趣旨に大いに賛同したし、我も関わりをもって今後ともお付き合いしていきたいと強く思った。
 今回は、体験農家民宿なかやのオーナーが、前年に引き続き、彼らに作業を依頼したとのことで、今後も、古民家は常に手を入れることもあろうから、またの機会もあるかと思えた。
 天気は悪かったが、我が参加した二日目も、塗り壁隊の隊員以外にも、近所の人や聞きつけた若い夫婦などが参加して来てくれて、幼児も入れればおよそ20名もの人が入れ替わり立ち代わり来ていたように思える。
 じっさい、この地に、都会から「入植」してきた20代~30代で幼児を抱えた若い夫婦も手伝いに来ていて、彼らは自分たちで今、家を建てているとのことで、そうした若い人たちとの出会いは大いに刺激を受けた。
 このところ、我と付き合いのあるのは、同世代もしくは、さらに年上の高齢者ばかりだったから、自分の息子世代の若い人たちと会い話すのは久しぶりで新鮮だった。

 じっさいのところ作業したのは、3時間に満たないほどで、それもリーダーの説明を聴いたり眺めていた時間もあるから、ほとんど働いてはいないのだが、終えて庭先で皆でカレーライスの昼食をごちそうになって散会となって自らの家に戻ったらどっと疲れが出た。
 自分の体力のなさ、衰えをつくづく痛感した。
 どうしたものかと迷ったが、気合い入れ直して、増冨までまたさらに車走らせ、ラジウム鉱泉に浸かって温い湯の中で一時間そこら爆睡した。
 何とか立ち直って、また山道を事故らないようく下り、その晩は早く寝て、久しぶりに深く眠った。

 そして起きたら身体はいつもと違う。いつも続いている寝起きの怠さ、抜けない疲れが消えていた。そうか、こういうことか!と気づいた。

 我はこのところ、もう何年も汗をかくような肉体労働は何一つやっていない。知的な頭脳労働というのとは違い、パソコンに向かって検索したり、調べものしたりこうして書き物したりはするが、身体はほとんど使っていない。動かすのは指先だけで、後は買い物や犬の散歩で近所を歩くだけだ。汗かくような運動はしたことがない。