「老衰」という死因と認知症について2019年07月01日 21時50分18秒

★九十過ぎまで生きれば、人の死因は「老衰」となる

 我の亡き母は、八十歳になったかならない頃、癌を発症し、一度は手術で、患部を取り除き、数年間は元通りの日常生活が送れるほど回復したが、やはり癌は再発してしまい最期は進行性の癌によって衰弱してまさに精根尽き果て、我に抱かれるようにして息を引き取った。86歳であった。
 が、幸いにして癌の苦痛はなかったようで、食欲不振と絶え間ない下痢には苦しんだものの、鎮痛のモルヒネなどは用いなかったので、死のときも意識ははっきりしていて頭はクリアで、弱弱しくも最期の最後まで言葉も発していた。

 その母よりも5歳か6歳年上の我が父は、昔は前立腺癌の疑いで、手術受けたことはあったが、何故か癌は患うことなく、基本身体が頑健にできているのであろう、90代半ばの今も生きている。
 大陸での戦争も含めて、結核、誤嚥性肺炎と何度も死にかけたが、この近年は入院することもなく、まさに馬齢を重ねて来た。
 しかし、健康であっても各臓器、脳や筋肉も含めて全てが耐用年数の限界に来ていて、歩けない、食べられない、何もわからないという限界状況となってきていることは、何度もこのブログで書いて来た。
 認知症も進み、デジタル時計の表示の現在の時刻が、月日だと思い込み、丸い掛け時計とカレンダーの区別もつかず、時刻が9時40分だと、今は9月40日だと言いはったりする。昼寝して起きると朝だか夜だかわからなくなり、朝八時なのに暗い、何でだ、と大騒ぎする。

 で、とうとう、家族のことも、今世話している息子の名前も関係もわからなくなることが多くなって、お前は、ワシの弟だと言い張る始末。半世紀以上連れ添った亡き妻の名前も思い出せない。情けなくて涙が出る。
 そこに、これまで何度も誤嚥性肺炎で入院した前科があるほど、吞み込めない、食べられない状態が進み、毎食事時は、すぐに咽てひっきりなしに咳き込むばかり。で、横で我が付ききりで、食べたくないと言い張るのを、なだめすかせて無理して何とかしっかり食べさせたと思った瞬間、突然、噴水のように口から食べたものを吐き戻すことも何度もあり、先日は、さこさんのライブツアーに行こうとした日の朝も戻してくれた。もう出かける格好に着替えさせたのに、何ともやれやれである。

 九州にいて、今、介護の現場の仕事に就いている我の妹に言わせると、もう家で介護するのはとっくに限界だから、早く介護施設に入所させるしかないとのことだが、問題は当人の意思である。
 そんなに呆けていて、全てが何もできなくわからなくなってもまだ喜怒哀楽の感情は残っている。二泊三日で、ショートステイから帰ってくると、やっと帰って来れた‼と満面の笑みである。まだ、ここは自分の住処、「我家」だとの意識は残っている。通ってる施設でも、ワシはいつ帰れるのかとうるさく職員に聞いてるらしい。

 そんな人を、全面的に、老人介護施設に入れてしまうのはどうだろうか。つまり、住まいそのものがその施設になって、終の住処となるのである。しかも彼の年金の関係で、個室は無理で、四人以上の相部屋となるとのこと。
 今、訪問診療に来ている医師とか、ケアマネたちは、どうせもう何もわからないのだから、どこだって同じだろう、とか言っているが、やはり当初は絶対に帰りたいと騒ぐだろう。
 そしてしだいに、さらに呆けも進んで、我家のこともそこでずっと面倒みてきた「弟」のことも忘れてしまうのだろう。最後は、ほんとうに何もわからなくなって、ほぼ終日寝たきりとなって、食事も摂らなくなってこんこんと眠り続けて、我が枕元に行って声かけても反応なく、まさに眠るように息をひきとるのだと予想する。※そうした死に方を、多くの縁ある老人を見舞って見て来た。

 それが父当人の望む死に方か。いや、望む人はいないだろう。では、我は子としてそう死なせたいか。そう望むか。
 しかし、先日、訪問診療で医師が来て、ケアマネも同席した時も、彼らが問うと、父は、子である我を指して、これは私の弟だ、と真顔で宣言してしまった。
 で、ここまで痴呆が進めばもう限界と、ケアマネは、ともかく施設入所の申請だけしておきましょう、そのほうがいいと、いくつか入所先を探すことに決まった。

 聖書に、汝の隣人を愛せよ、とある。それは自分がしてほしいと望むことを他者にも施せということだ。ならば、我が父にしようとしていることは、我は自らのこととした場合、自分自身は望むかだ。
 我の望む死に方は、ただひとつ。永井荷風のように、誰にも看取られなくとも我が家で暮らして最後は住み慣れた我が家で死ぬことだ。孤独死、野垂れ死でもかまわない。
 父には我という子、親族、身内がいる。ならば、何故に施設にぶち込んでそこで死なせなくてはならないのか。

 そう、我には誰もいない。それでもこの家で、自分のベッドで誰にも看取られず介護されなくとも一人で生き、一人でのんびり死にたい。四人部屋なんてまっぴらだ。
 さて、父のこと、ではどうしていくか、だ。
 人は皆さん、どう死にたいのだろう?

続・「老衰」という死因と・・2019年07月02日 00時04分13秒

★人の死は、大別すると三つに分けられる。

 このところ、新聞の訃報ニュースで、俳優高島忠夫をはじめ、高齢の方の死因として「老衰」のため、と記してあるのをよく目にする。
 共産党の衆議院議員であり、画家岩崎ちひろの夫としても知られた松本善明も「老衰」とあった。※余談だが、我は赤旗祭りで大昔、彼と握手してもらったことがある。にこやかな笑顔の忘れがたい人だ。

 さておき、人の数だけ人生があり、つまるところ「死に方」も人の数だけ様々なわけだが、大きく分けると3パターンに分類できるのではないか。
 一つは、交通事故や災害死なども含めて、不慮の「突然死」だ。あるきっかけで、元気で生きていた人が不測にも突然命を奪われるというものだ。
 病死でも、脳梗塞とか心筋梗塞など、あっという間に、「急死」することも多々ある。昔は、理想的な死に方として、ピンピンころり、などと言って、長患いすることなく、つまり家族に介護の世話かけることなく死ぬのは、「理想」とされたが、果たしてそうだろうか。
 年下の友で大動脈破裂で、突然「苦しい」と胸をかきむしり発症から数時間で、救急搬送された時点で急死した男がいたが、棺の中の顔は激痛と苦悶のあまり別人のように歪んでいた。さぞや苦しかったのだろう。まだ50歳そこらではなかったか。
 そんな「急死」は家族も大いに驚き困るし何より本人としても何の心構えもないのだから、それだけは絶対に願い下げだ。死ぬとわかったら人はやはり何らか後顧の支度はしたい。

 そして二つ目は、病気でも癌などの「進行性」のもので、老いも若きもカンケイなく清志郎をはじめ多くの人たちが、治療の甲斐なく病魔に命を奪われた。今日では、日本人の二人に一人が、癌を患い、三人に1人が癌で死ぬとか聞くから、闘病と介護の果てに、時間かけて死んでいく人がこれからも増々増えるだろう。我が母も高齢だったが癌に殺されたと思っている。癌家系の我もまたそうなる気がする。
 癌は何しろ臓器だけでなく、皮膚から血液まで身体中あらゆるところに発症する「病気」なのだから。

 三つ目は、そうした進行性の病気を患わないで生き続けた場合の死だ。いまは、医学も進んでいるし、皆誰もが体調には気遣っているから、日本は信じられない程長寿の時代となった。女では八十代は当たり前だし、男でも我が父のように九十過ぎまで生きる者がかなりいる。
 が、当然それだけ長く身体を使い続ければ、目も耳も歯も足腰もガタガタ、よろよろになるし、何より頭の方が呆けて、認知症に程度の差はあれ誰もが陥る。
 我が父を見ても昔はあれだけ鋭敏明晰で頭の切れた人が、もう今ではしじゅうボーとして亡き妻の名も同居している息子である我の名も思い出せないときが多々あるのだ。
 そのうえ、筋力が衰えバランス感覚も失いほとんど自力で立ち上がることも歩くこともできないし、食べるのだって、吞み込みが難しく誤嚥性肺炎の危険がいっぱいだ。だから体重も減り、全盛期は80キロあってメタボを指摘された六尺男が、今では60キロもない。全身すべてが衰弱してしまった。

 これが「老衰」ということで、大病や進行性の病気を患わず、息災に長生きしたとしても結局のところ、最後の最後は、もう何もできなく何もわからなくなって、口から食べることも難しくなり、ただこんこんと寝てばかりとなって死期を迎えるのである。
 むろん、人の死に方はもっと複雑で、2と3のパターンは複雑に絡み合い、様々な病気を繰り返した挙句に全身衰弱して肺炎になって死ぬというパターンも多い。

 ただ、我は、母のように進行性の病気で、頭はしっかりしていても死なねばならなかった人と、父のように、特に病気にかからずともかくただ長生きして、呆けが進みついに全身が衰弱して死期を迎えようとしている人を看取って、二人の死に方は両極端だと感慨を覚える。
 一番理想的なのは、頭が呆けずに、長生きして日々できるだけ「健康」でいて、ある日、眠るように死ぬことだろうが、そんなうまく死ぬ人はまずいない。
 何人も死期を見て聴いたりして今思うのは、存外、死ぬというのもそんなカンタンなことではなく、死ぬまでかなり時間がかかり周囲も当人もけっこう疲弊し心身共に苦しいものなのである。
 完全に命のエネルギー、つまり「生命力」をその身体から出し尽くさない限り、人はおいそれと簡単に死ねない。

 当たり前のことだが、人生は生きている間だけのことだ、とこのところつくづく思う。死んでしまった人のためには何一つできない。あの世とか天国があろうと、彼らも我ら生者にできることは何も無い。
 せいぜい夢の中で、母やのみ亭のやっちゃんたちと会い語らい、彼らを偲ぶことしかできない。
 
 こうした話は、人は暗いとか縁起でもないと厭い嫌う。が、生きるとは、その裏側にある「死」をどう見据えて考え対処していくことに他ならないではないか。目を背けても死は常に我らの傍らに在る。死者たちも同様に、我らの背後で我らが来るのを静かに待っているのだ。
 彼らのためにもしっかり生きて自らのも含め「死」について考え続けなくてはならないのではないか。

 ※父のことは、何か動きがあったらまた拙ブログで報告していきます。いよいよ参院選スタート、選挙についても書いていきます。

若い貧困層ほど安倍支持という「破滅への道」2019年07月03日 00時31分47秒

★若者が体制に対し怒り抗うことをなくした国家に未来はない。

 「アングリ―・ヤング・メン」、つまり「怒れる若者たち」という言葉が昔からある。香港での「犯罪者を中国本土へ引き渡す」という悪法廃案を求めて国会突入までした若者中心の抗議活動を見るまでもなく、本来若い世代こそ、常に国家や既存の体制に対して怒り反抗し何らかのアクションを起こすものだ。
 それは愚かさにも近しいが、若者らしい正義感からのことで、社会の歪みや欺瞞に対してビビッドに反応し、その苛立ちや不満を外に向けて、大人たちや規制の社会、体制に対してプロテスト、つまり異議申し立てするものである。
 日本でもかつては、1960年の安保改定時、そして68、69の学園紛争などそのときどき若者中心に大きな怒りの嵐が吹き荒れ、時の政治も含めて日本社会を大きく動かして来た。
 が、今日のこの国の若者たちはもはや抗い怒ることはしないようだ。ブロイラーの鶏のように、ケージの中で飼われて、ひたすら与えられる乏しい餌を待ち望み、飼主(政権)の意向におとなしく従ってるように我は思える。

 いよいよ参院選が始まる。朝日新聞などの報じるところによると、今の自民党支持層は、若い世代ほど高く、しかも貧困層こそ支持しているとのことだ。理解に苦しむ。
 大企業のトップや株主、カネモチ、富裕層が自民党政権を支持するのはよくわかる。彼らはアベノミクスでしっかり恩恵を受けているのだから。しかし、恩恵受けていないビンボーな若者たちが現政権を支持するとはいったいいかなる理由か。
 報じられるところだと、非正規や薄給であろうとも今はともかく仕事があり、何とか生きていけるからで、もし体制が変わって、また「悪夢の」民主党政権時のような時代に戻ったら今のささやかな生活さえ維持できなくなるかもしれないから体制変革は求めない。よって安倍政権を支持するのだと言う。
 一理あるような気もしなくもないが、あまりにもさもしい、情けない、我に言わせれば若者らしくない考え方だと思う。

 確かに今の野党には期待できないかもしれない。いちど政権を任せてみた旧民主党政権はあまりにひどかった。何一つ公約は果たせず迷走の果てに瓦解してしまった。で、返り咲いた自公安倍政権に代わってから確かに表向きは景気が良くなったように見える。仕事を選ばなければいくらでも仕事はある。失業者が街にあふれている時代ではない。
 が、本当に生活は良くなったのか。暮らしは楽になったか。実質の収入は増えたか。仕事に就けてもサービス残業で奴隷のように働かせられ、身体を壊したら即お払い箱で、使い捨ての末、過労死や自殺が後を絶たないのが現実ではないのか。
 貧富の差はさらに進み、最初からカネモチの家の子こそ東大や有名大学に進学でき、貧乏人は大学へ進学できても奨学金の返済で何十年も苦しめられる。学歴と貧富の差はますます正比例して広がっていく。貧困家庭に生まれれば孫子の代まで貧困が続く。

 アベノミクスが成功したとは、一部の恩恵受けた富裕層と大企業だけの話ではないか。
 折しも厚生労働省がこの2日に発表した「国民生活基礎調査」2017年度は、平均所得が4年ぶりに減少し、生活が苦しいと答えた層が57%にも上ってる。
https://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/k-tyosa/k-tyosa18/dl/03.pdf
 ※内容についてはもう一回記す。

若い貧困層ほど安倍支持という「破滅への道」・続き2019年07月04日 10時22分24秒

★これからも自公政権を許し託すのは緩慢な自殺への道~選挙で「怒り」を示そう!!

 厚生労働者が今回発表した2017年の全世帯所得の平均は、551万6000円。2016年の560万2000円から8万6000円の減少となった。これは、4年ぶりのことだ。さらに平均所得以下の世帯は、全体の62.4%、つまり六割にも上る。
 平均所得は、551万~とされているが、それは高額所得の富裕層も含めてのことで、中央値、つまりじっさいの真ん中の額は、423万と記されている。多くの国民の実感はこちらに近いかと思う。
 
 とうぜん生活が苦しいと答えた層は、「大変苦しい」が24.4%、「やや苦しい」が33.3%で、合計57.7%に上る。「普通」は、38.1%で、逆に、「ややゆとりがある」「ゆとりがある」の合計は、わずか4.3%しかない。
 中でも子供のいる世帯では、「大変苦しい」と「苦しい」を合わせると合計62.1%と、さらに高い。前年より3.4ポイントも増えている。
 裕福とされてきた高齢者世帯も「苦しい」が57.7%と2017年より約2ポイント増えている。

 この数字から見えることは、単純に、本当にゆとりある富裕層は、わずか全世帯の4%しか存在せず、国民の10人に一人もいないことが想像つく。全世帯の半数以上、約六割の世帯では、生活が苦しく、これは改善されるどころか現在もさらに悪化していると「景気動向」を鑑みれば想像がつく。
 そんな現況なのに、参院選後の今秋には、消費税は増税されるのだ。つまり国民は税金をさらに払わされるわけで、生活はますます苦しくなっていく。

 先に、我は今の日本人は、火にかけられた鍋の中のカエルだと書いた。彼らは水のときから入れられたから、鍋に火が点いていることに気がつかない。
 カエルを茹で上げるためには、いきなり熱い湯の鍋に入れてはならない。カエルは驚いて鍋から飛び跳ねて逃げてしまう。
 カエルを入れた鍋を、水からじょじょに熱くしていけば、カエルは気づかず逃げないから茹で上がる。
 いま、安倍政権を支持している貧困層、若者たちもそのカエルと同様で、たぶん「何だかだいぶ熱くなってきたなあ」とは思ってる。が、鍋から逃げ出す勇気もなく、ここにいれば安全だと、他に選択肢はないとじっとひたすら我慢している。
 そして気がついたときは、煮えたぎる湯の中で茹でガエルとなって死んでいく。

 「老後に二千万必要」と金融庁が試算出した。じっさい、安倍晋三が他に代案はない、打ち出の小槌はないと言い張る「マクロスライド制」で、年金受給自体は将来も維持できたとしても、それだけでは暮らせないことは明白だろう。
 今だって、働いていたって「生活が苦しい」のだから。「100年安心」とはまさにまやかしで、全ては「自己責任」で、自分で何とかしろというのが政府の本音なのだ。
 
 こんな「現実」を良しとして、これからも自公政権に政治を任せていけば、まっさきに「茹でカエル」となる若年貧困層が現政権を支持するなんて言語道断、あってはならないことだ。それは緩慢な自殺であり、そうした無気力な怒りを忘れた若者たちにすべく彼らを長年だまして「洗脳」してきた自民党の成果でもあろう。

 『老人は国会突入をめざす』、とは、故藤村直樹が遺した名曲であるが、香港の若者たちに倣って、日本の若者よ、かつてのアングリーヤングメンたちの如く、怒りを抱えて国会に突入しろ‼
 君らが食えずに、生活が苦しく結婚も子供もつくれないのは、自分が悪いとか自己責任ではない。労働に見合うまっとうな対価と待遇を与えずに、私腹を満たしさらに金を溜め込む大企業の役員・経営者たちのための「政治」を続けて来た自公政権の悪政が全ての原因なのだ。
 
 若者たちよ目覚めよ‼そして怒りをもって立ち上がれ‼ 茹でガエルとなって殺されるな!

亡き「のみ亭」やっちゃんの三回忌へ2019年07月06日 07時38分36秒

★死んだ人と死にそうな人たちと関わっていく

 今日、6日もまた外はどんより曇り空。本降りではないが小雨がぱらついている。
 一昨年のこの季節に亡くなった、西荻「のみ亭」の主人、高杉やっちゃんの三回忌が、本日午後、茨城県の牛久沼聖公苑である。
 この6~7は、あっちこっちで様々なイベントがあり、お誘いも受け迷ったが、今も元気でいる人よりも、死者や死に行く者たちと過ごすことにした。
 彼らを悼みその魂と向き合い慈しむことこそ今我はしたいと思う。無事行けて戻ったら報告いたしたい。

人は死しても「思い出」の中で生き続ける2019年07月07日 23時48分28秒

★西荻「のみ亭」やっちゃんの三回忌とお墓参りへ

 昨日は広い関東平野を、多摩の西の端から東は茨城県牛久沼まで片道122キロ、往復で約250キロ走り通してきた。ガソリン代は別として往復で高速代約5000円。
 いろいろ反対運動もした圏央道だが、やはりこれが出来たおかげで、都心を走らず常磐道までぐるっと直で行けるのは実に便利だと痛感した。

 のみ亭主人、高杉やっちゃんが亡くなられて早や2年が経とうとしている。病気治療中だとわかっていたが、突然の訃報が駆け回ったのは、ちょうど今の季節だった。享年61歳。
 彼は我よりほんの少しだけ歳上だったから、今、自分が彼の死んだ歳になって、ちょっと不思議な気持ちになる。そして我はこれからも生きていけば、彼は年下となっていくのだから。
 そう、死んだ人はいつまでも変わらない。永久にその歳でそのままの姿でとどまっている。生き続けられれば我らはさらに老いさらばえ変わってとまうが、記憶の中の彼らは若い姿のまま変わらず生き続けていく。生者と死者との間にはそうした大きな溝がある。溜息のような深い感慨がわく。

令和の夏は、冷夏となるのか2019年07月09日 16時06分56秒

★今年も半分が過ぎて今思うことなど‥

 今日も朝からどんより終日曇り空。雨は降っていないが、うすら寒い。
7月に「寒い」というのはおかしな表現だが、今春ひとたび夏日、真夏日を経験した身には、寒いとしか言いようがない。ここ多摩地方では、外の気温はいま、20度もない。他の地方ではどうなのだろう。

 昔から梅雨寒という言葉もあり、曇った梅雨の時期は、気温が低い日も多々ある。が、たいてい湿度も高くて蒸し暑いのが常で、今年はやはり異常だと思う。日中でもシャツ一枚ではとてもいられない。この異常気象は全国的なものなのか。
 一昨日など、北からの強い風、東北ではヤマセと言ったと思うが吹き荒れて7月とは思えぬ寒さでまいった。ともかく空気が冷たくひんやりとしている。これでは農作物にも被害が出よう。そこに消費税アップは何としても避けたい・・・

 平成が終わり、令和初の夏は、冷夏となるのであろうか。令和に冷夏ではシャレにもならないし、ある意味、これからの新時代を象徴しているように思うのは我だけか。参院選の行方も気にかかることだし。

 さて、先月から出かけることや父のことも含めていろいろ何かとあって慌ただしく、今もまだ落ち着いた心持ちで、ブログも含めてパソコンにゆっくり向き合うこともなかなかできない。
 が、気がつけば、7月も七夕が過ぎて半ばになろうとしている。今年も半分以上経ち、折り返し地点を過ぎてしまった。さあ、どうしたものか。
 焦る気持ちもなくはないが、今日は父をショートステイに無事送り出せたし、今週は週末も含め出かける用事もないので、腰据えて家に籠り、成果を上げたいと思う。そう、何か落ち着いてできるのは今週しかない。

 で、今後のことも含めていくつかお知らせと報告いたしたいことも多々ある。以下、作業の合間見て書き足していこう。また子猫が生まれたとかそういう失態についても正直に書く。

簡単なことが簡単にできずに2019年07月14日 16時21分02秒

★当たり前のことを当たり前に

 鬱陶しい梅雨空が続く。他の地域はどうか知らないが、関東は何だかずっとうすら寒い不穏な感じの今年の梅雨である。
 が、昨日からやや湿気が増え、いつもの梅雨らしく蒸し暑く感じるが、それでもまだ平年より気温が低いかと思う。今日も雨がしとしとと降ったりやんだりだ。

 我が人生はついに行き詰ってしまい、今「再建中」だと書いてきた。で、確かに少しづつでも元に戻しすがため、今ある抱えているもの、つまり人生の「負債」を減らすべく格闘中なのだが、稼ぎに追いつく貧乏なし、という言葉の如く、片付けても片付けてもまた新たなモノ、面倒な手のかかるものが増えてしまい、もうお金も時間もなくいったいどうしたものかと曇り空を見上げて暗澹たる気分でいる。
 むろん何をどうすべきか、方向も手順もわかっている。ともかく一つでも少しづつでもやっていけば良いだけの話だ。が、父の世話や目先のことで手いっぱいで、どうにも進まない。常に日々後からやってくる「現実」に追いつかず、負債はまたさらに増え続けていく気がしている。これでは賽の河原の石積みである。あるいはギリシャ神話の中にある牛小屋の掃除であろうか。

 しかしだからといって、もうダメだ、父を殺し家に火をつけて終わにしようなんて思わない。自分には音楽も含めて古い本やレコードなど今も大事な残すべき大切なものがあるので、それを始末しないと、いや、後々活用できるようその手筈を整えない限り死ぬに死ねない。
 若くして逝った親しかった人たちの顔を誰彼思い浮かべるとき、彼らは何であれ、きちんとその使命を果たしたと思える。皆に愛されしっかりきちんと生きたのだ。よって休息のときを得たのだと知る。
 我はまだ何一つその使命、役割を果たしていない。今のままでは、ダメ人生の「見本」として、あんな風にならないために、という後ろ指さされる「反面教師」としか記憶されない。
 せめてあと十年、何とか動け生き永らえて我の集め録りためたものをきちんと世に公開して、後世に残して死にたいと思う。それこそが産まれてこの歳まで安穏と生かされてきたことへの恩返しだし、何よりこんな我と付き合い相手してくれた人たちへの感謝返礼の証だろう。

 というわけで、この7/20日に、東中野じみへんで再演予定の「太田三造+みほこん」のジョイントコンサートに向けて、我のできるお手伝いとして、彼ら双方に、ライブ資料となるべくこれまで録りためた音源を送ろうとずっと編集作業に専念していた。
 が、それがカンタンにはなかなかできなかった。ごく簡単なことのはずだ。語りや余分な部分を切り取って、主にうたの部分だけを繋げてCDに焼くだけの「編集作業」だ。しかし、そんなことがかなり難行であった。
何でだろう。

 我マスダは、この10年来、我が関わったコンサート、参加した企画は基本として映像もしくは録音するように務めて来た。そして出演者・企画者たちにそれを後日無償で返礼として配布して来た。
 が、これもまたその「編集作業」はかなり時間がとられることであって、数時間のライブであっても、きちんとどのシステムでも再生できるよう、CD、DVDに焼くまでは、最低まるまる二日、数日はかかる。
 録ったものをそっくりそのままアップしてYouTubeなどに公開する作業されてる知人もいるけれど、集会などはそれでも有りだけれど、やはりどこかでハサミ入れて、ある程度編集しないことには、長すぎて盤面だけが増えてしまう。また、ある程度編集処理して「作品」としてカタチにしないと、無責任な気もする。
 が、そうした作業は、じっさいのライブそのものの時間の何倍もかかるから、他の私的案件、生活も抱えていると、次々ライブはあるわけで、録るばかりで編集が追いつかない。
 情けなく申し訳ない話だが、もう3年、いや、それ以上、録ったまま未編集のライブ映像も多々溜まっている。我としては早くきちんと編集して、ミュージシャンや企画者側に盤面としてお渡ししたいし、今もそのつもりでいるが、けっきょく時間がなくてそれは未だ果たせていない。
 それは、母の癌進行と自宅介護と、その死とまた死後の後始末もあった。そうしたことに時間とられて何もできなかったし今も以後、老いたちちを抱えて生活が立て直せずメチャクチャ、混乱しているという現状がある。
 そんなでこの2年ほどいっさいの音楽の活動は控えていたわけだが、去年から、「共謀コンサート」も含めてまたコンサート企画を再開して、お誘い受けたライブにも顔出すようになった。
 それで、ごく親しいシンガーの共演ライブの企画だから、我としても彼らのために何か少しでもお手伝いを、と思い「下準備」として「参考資料」の音源をつくろうと考えたのだ。

ごく簡単に近況だけ2019年07月19日 07時43分27秒

★拙ブログ更新できず申し訳ありません

 このところ寒く異常な長梅雨もようやく終わりが見え始めたようで、一昨日は晴れ間も続いたし、曇りや雨でも梅雨らしい蒸し暑さが戻ってきた。
 が、今朝もまた曇りときどき小雨が降り、台風が来ていることもあってまだ梅雨明けの気配はない。

 今週はともかくあれこれ慌ただしくて、父の世話など家事だけで疲れ果て落ち着いてパソコンに向き合う余裕も体力もなかった。
 まず、この水曜に、自分のことで立川のかかりつけ総合病院の整形を受診した。晴れていたので自転車で行き、11時の受け付け締め切りには間に合ったものの、何故かその日はものすごく混んでいて、何と医師の診察まで5時間!待たされた。
 レントゲン撮ったり、その結果の説明受けたりは実質15分程度で、慌てて戻り、父がショートステイから帰宅する日であったが、その時間に間に合わなかったため、施設に連絡入れて待ってもらい、こちらから車出して迎えに行った。

 そして昨日は、曇り空だったが朝から洗濯して干し終えてから父を起こして軽く食事摂らせて、歯医者の予約が昼12時に入ってたので慌てて連れて行った。※結局夕方早くからまた雨が降り出してしまい洗濯物は完全に乾かないまま車の中に全部とりこんだ。
 終えて戻って2時半頃。うどんつくって食べさせて、二人して夕方まで少し仮眠。父を起こしたら、また朝夕誤認がひどく、朝7時なのに何でこんなに暗いんだ!?と騒ぐ。
 そうした対応に疲れたことと、父はまた食欲なく晩飯も進まず、無理して食べさせるとまた吐くこと確実な感じだったので軽く食べさせて、九州の我の妹に電話してから寝かしつけた。※父の孫の一人に娘が生まれてひ孫が三人目となったのだ。それでも10時過ぎてしまい、あれこれ悩みいっぱいのままこちらもどっと疲れて倒れ込むように爆睡。

 今日は、午後?訪問看護があり、そのあと、市から父の介護度等級の再認定のための調査員が来る。等級はずっと3だったが、今の状況では間違いなく4になってしまうかと思う。それは良いことではなく、利用時間などは増えるが、利用料自体が上がってしまう。今のような環境で、基本在宅で、デイサービスやショートステイを利用するにしろ、施設に完全に移行するにせよ、またさらに金がかかるようになる。
 いったいどう生活していったらよいものか。いくら考えても答えも出口も見えやしない。
 選挙のことや書きたいことも山ほどあるのだが・・・・

 ともかく今日をまず終えて、父を明日朝お泊りに送り出してゆっくりブログ書き記したい。

足底筋膜炎という足底の病気に2019年07月20日 18時32分29秒

★我は今、歩けなくなった。

 つくづく歳は取りたくないと思う。まさかこんなことになるとは、である。
 私事だが、このところずっと左足の踵部分が痛くて、歩くこともままならない。今もずっと左足はびっこを引いている。もう一か月近くその痛みが続いていて、いつまでも治らないので先日ついに立川の総合病院の整形を受診した。
 予約なしで行ったので、常に混んでいる整形外科だから待たされるのは覚悟の上だったが、何と午前11時に受付済ませて、医師の診察受けられたのは午後4時近く。実に5時間延々待たされた。いったん診察受けて、別の階でレントゲン何枚も撮って、その診断をあおいだ。
 結果は、「足底筋膜炎・そくていきんまくえん」という、足の裏にある薄い筋肉の膜の炎症だと診断され、治るまで三か月か三年だとのこと。
 理由というか、原因は何も思い当たらない。医師によると、マラソン選手のように過度の負担をかけたり、重たいものを持ったり無理すると起こるとのこと。

 ぎっくり腰や、腰痛持ちの身として、それらのように激痛で寝たきりというほどの痛みではない。が、鈍く痺れるような痛みで、無理して歩くとしだいに熱帯びてきてともかく距離歩けない。痛い足をかばって歩くので、右足までヘンに痛くなってくる。
 原因として思い当たることがあるとすれば、今夏はずっと安物のサンダルを常に履いてどこでも出かけていた。それは、たぶん100円ショップのそれで、底が薄く確かに足底にかなり負担がかかる。
 で、いつから痛くなったかと思い起こすと、亡き、のみ亭のやっちゃんの三回忌に牛久沼墓苑に行ったときはまだ痛くなんかなかった。が、我は貧乏性なので、実はその日、その近くに住む茨城県の笠間市在住の友人をその地に招いて、彼を乗せてウチに連れ帰った。※拙ブログに度々登場する「社員氏」である。
 せっかくそんな遠くまで行ったのだから、自分一人でただ行って帰るのではモッタイナイ。せめて片道浮かす意味でも友人を連れ帰って一仕事しようとカクサクしたのである。
 で、その晩はともかく、彼とせっせっと家の片付けというか室内の移動作業に専念した。

 というのも、今、父の帰宅時寝ている部屋のエアコンが先冬壊れてしまい、先の冬季は、デロンギ(オイル式ヒーター)で暖をとって何とかなったものの、この夏は冷房が使えないのである。※メーカーに電話したら修理だけで6~7万円~と言われた。
 それなら新規のそれに換えたほうが安いわけだが、今は我家は父の年金内では介護に金を奪われ赤字続きでそんな余裕は全然なく不可能だ。幸いこの夏はこれまでは冷夏で冷房が必要になる程暑い日はなかった。
 しかし、一切の冷房無しに、95歳の老人がひと夏無事に過ごせるとはとても思えず、梅雨明け後いったいどうしたものかと頭痛めていた。
 で、思いついたのは、玄関わきの小部屋である。その部屋は母が死ぬまで介護していた部屋で、四畳半ほどの板の間だが、エアコンが付いている。そこに簡易ベッドを入れて、夏の間だけ父をそこに寝かせばいいではないか。
 しかし問題は一つ。今、その部屋は我の古本の不良在庫の置き場と化していて、本や雑誌がびっしりと天井近くまで積み上げられてとてもそんなベッドを広げるスペースはなかった。
 その部屋を片づけるべく、まず父の今寝ている部屋に、その、今そこにある本を移動させることにした。そうして何とか折り畳みベッドが設置できるスペースをつくった。そうした作業のために、男二人して二日がかりの時間がとられた。とうぜんかなり過度の労働であった。

 思い返せば、それ以降、いつからか左足のカカトの部分が痛むようになってきて、寝ているときはともかく、まず朝起きると痛いし、無理して距離歩くとさらに痛みは激しくなる。
最初は、我の身近で、やや年上の人たちに多い「痛風」かと案じた。しかし、通風は指先とか先端の部分とのことで昼夜問わない。我の場合は、起きて歩き出すと痛いわけで、それは体重がかかると痛みだすとはっきりしている。
 何か骨の病気かもと心配になったが、今回やっと医師の診断で、「足底筋膜炎」だと判明した。ネットで調べてみると、スポーツマンや高齢者に多い病気で、高齢の場合、固くなったその足裏の筋肉が、サンダルや底のすり減ったシューズが原因で炎症起こすと記してある。

 治療には、飲み薬から痛みを抑える注射、手術までいろいろあるようだが、我が医師から言われたのは、できるだけ無理せず歩かず安静にしていれば三か月ぐらいで自然に治るだろうということだった。※カカトの部分に中敷き入れてかばうことも。
 だから、今は基本、近所へ行くのも自転車や車を用い、左足にできるだけ負担かけないようにしている。
 むろん腰痛のように激痛で歩けないわけではない。が、鈍く痛いだけでなく無理して多く歩くととさらにまた悪化して痛みがじんじんしてくるわけで、いまはともかく犬の散歩すら距離が歩けない。

 情けない話だが、60年以上生きて来てこんなことが起こるとは、まったく初めてのことで未経験ゆえ戸惑うばかりだ。そんなで車とか自転車ならばともかくも電車での移動は、ホームや階段とか自力で歩く部分も多いから今は控えるしかない。無理して歩いた晩は、寝ていても足のその部分が痺れるようにシミジミずっと痛い。
 ともかく一日も早く治癒させて、また元通り自由に、好きなだけ自分の足でスタスタ歩けるようになりたいと心底思う。同時に、足元を見るとか、見られるという言葉があるように、足元こそ大事なのだと今さらながら気づく。

 暑かろうが寒かろうが、良いしっかりした靴を常に履かないからこうなるのである。我は究極の面倒くさがりであり、ネグレクターだから、ついつい足元なんか何も気にかけないでいた。我が身のことはほったらかしにしてきた。そうしてずっと足に過度の負担をかけていたのだ。

 御身大事に、と我は常々他人様には進言している。が、まずは自らこそ歳とって来たからこそ、大事にせねばならなかったのだ。若いときならば無理もきく。無理しても回復も早かった。
 が、いまは、ちょっと徹夜したり、無理して身体に負担かけるとあとが怖い。これが老いであり、現実ということなのだろう。
 というわけで、今はそんなわけで気軽には出かけられないわけで、ご迷惑おかけする方も多々いると思うが、どうかご容赦願いたい。と、同時に誰もが無理なさらぬよう、皆様も老いてこそ慎重に、無理せずご自愛ください、お大事に、と言うしかない。
 これが老いの現実なのだ。そしてそれは我だけではないと信じたい。