靴に高い中敷き入れて東中野じみへんへ2019年07月28日 23時59分56秒

★みほこん&太田三造共演ライブ

 左足底が痛くなって「足底筋膜炎」と診断されてから初めて、久しぶりに電車に乗り東中野の「じみへん」へ行ってきた。お知らせしたように我らがみほこんと太田さんのジョイントライブである。

 昨日Amazonで注文して今朝がたさっそく届いた二千円近くする医療用のインソール(中敷き)を靴のカカト部分に入れて初の外出である。
 確かにその柔らかい中敷きを靴の中に入れるとだいぶ衝撃はやわらぎ痛みは軽くはなる。しかし元のようにスタスタ速足でフツーに歩けるわけではなく、やはり階段の上り下りには難儀した。
 登るのはともかく、降りる時が体重が足にかかるからどうしても慎重に、ゆっくりとなる。そんなで太田さんとライブ前に約束した打ち合わせの時間に間に合わず暑い中かなり待たせてしまった。ホームに降りることに時間とられ目の前で東京行きが出てしまったのだ。

 自由にスタスタ歩けないという障碍者、その身に自らなって気づくのは、駅にはもっとエスカレーターなどどの駅にも、どの階段の上り下りにも必要だということだ。
 我の最寄り駅は、橋上の改札口までの上りにはエレベーターがあるが、肝心のホームに降りるのには自ら階段を自力で一歩一歩下りねばならない。これが痛くて一苦労であった。
 何故か、JRの駅には、階段の上りにはエレベーターが多いが、逆にホームに下りるのにはそれがない。登山でも大変なのは実は上るより下りるほうだと膝や足の負担を顧ればわかるはずなのに、乗り換えの中野駅も東中野駅も下りのそれはない。これでは真のバリアフリーーではない。
 車椅子利用程でなくても歩くのに辛い人はかなりいると思う。21世紀はさらなる高齢化社会なのだから当然のこと公共機関は動く歩道はともかく、どこも全ての階段には上下ともエスカレーターを完備してほしいと望む。
 
 さておき、その「じみへん」でのコンサート、素晴らしい出来であった。我と長年親しくお付き合い頂いている旧知のお二方だが、二人だけの共演ライブは前回のじみへんが初めてで、今回はその再演である。
 非礼を承知で記せば、その前回ときは、二人はきちんと最低限の打ち合わせもできなかったことからもう一つうまくかみ合わなかった。
 悪い出来だったとは言わない。即興の天才みほこんは一生懸命唄う太田さんにバイオリンで合わせたが、我が望み期待していたものには至らなかったのだ。天分ある二人の持ち味が相乗効果とならないでいた。
 でセンエツながら今回は、事前に太田さんとシークレットライブを開き、彼の主な持ち歌をざっと歌ってもらい、それを編集してみほこんに送り、バイオリンやコーラスで共演できる曲をこれとこれと指定しておいた。イントロの入り方、間奏の位置なども。
 企画者ならともかくずいぶん出過ぎた行為だったと自分でも思う。しかしそうした事前に最低限の決め事がないと、ライブ本番ではうまく乗らないしまとまらない。我の大好きな、深く敬愛する素晴らしい才能あるお二人だからこそ、観客に最善のものを示してほしいと願いおこがましくもしゃしゃり出たのだ。※今かなり反省している。

 しかしそうした事前の根回しが効を奏したか、今回は実に素晴らしい、ちゃんとしたコンサートらしくなった。太田さんにとってもみほこんにとってもベストの出来となったのではないか。が、太田さんらしい自由闊達さを削いでしまったと言われればそうかもしれないし、我自身だけが満足してご当人をはじめ観客はご不満となったかもしれない。そもそもこれはマスダの身勝手な我がままかもしれない。我が企画進行するコンサートも含めて。

 ライブが成功して今思うのは・・・
 今後はもう事前にあれこれ口を挟むことはしないつもりだし、あくまでもミュージシャン、シンガー側の自己責任だと彼らに任せたい。ただ、終えた時点でこれからも率直な感想は言いたいし言うつもりでいる。たとえ嫌われたとしても。何であれ、表現行為とは自己満足に陥ってはならないし、第三者の目や声が届かない限りその先に真の発展はないと信ずるからだ。
 自己肯定も自己卑下もそれだけではいけない。何故なら優れたうたは、それだけで広く世の人に聴かれる使命があり、もはやそれは作り手だけのものではないからだ。

 なにはともあれ、太田三造という不世出のベテランシンガーを、もっと広く世に知らしめたい、その唯一無比の昔ながらのフォークソングのスタイルをもっと多くの人に届けたい。そこには彼しか歌えない真に傾聴に値する、後世に残すべき「うた」があるのだから。
 その思いはみほこんも同じだと思う。ならばこれからも機会と場をつくって、彼をしっかりと応援していきたい。アメリカフォーソングの父・かのアラン・ローマックスが、監獄にいたレッド・ベリーと出会い彼にしたように。
 そう、これも出会いなのだ。人が人と幸福な出会いをしたならば、自らのためにだけでなく、さらに世のためになるように活かさねばならない。
 神の計らいに人は感謝してそれに応えねばならない。