五郎さんと僕2019年10月17日 18時16分30秒

★中川五郎祝・古希&音楽活動半世紀越え・記念コンサート10/19日@谷保かけこみ亭

 その『五郎と「共謀」コンサート』が明後日に迫って来た。いま、改めて彼と自分・マスダとの関わりを振り返ろうと思う。

 五郎氏は、いや、五郎さんは、昭和24年の生まれだから、我よりは十歳近く年上で、その初めての出会いからすれば、もう40年近く経つ。そのとき僕は、17か18歳だったか。
 いや、それだと計算が合わない。ならば40年以上時が過ぎているはずだ。

 正確な日月は思いせないのだが、1977年か76年だと思う。今も昔も政権与党は、様々な勝手な法律を拵えては、国民にそれを無理やり押しつけてくる。そして常にそれに抗議の声を上げる民衆がいる。
 尺貫法の法改正だったか、それと銃刀法、モデルガン規制の法律が出来、それらに反対する文化人、市民によるコンサートがあった。場所はもうどこだったか思い出せない。
 当時、僕は福生で、高校の後輩たちとミニコミを作っていて、彼らを連れて取材も兼ねて都内で行われたそのコンサートに出向いた。出演者も今ではほとんど記憶にないが確か永六輔さんも出ていたはずだ。
 そのとき、中川五郎さんも登場し、何曲か歌ったのだ。何を唄ったのか全く記憶にない。

 終わって、帰り道、皆と夜道を歩いていたら、ふとその道の先に、五郎さんが青木ともこさんと一緒に歩いている後ろ姿があった。
 で、声かけて、呼び留めて、何か手持ちの紙に、サインしてもらい少しだけ話したのが初めての出会いであった。今も変わらず才人の彼は、そのときもさっさっとモデルガンのイラストをその場で書き加えてくれた。
 が、彼のライブは、一人で東京から夜行列車で出かけて観た大阪天王寺公園での「春一番」コンサートのほうが先だった気もする。

 その以前からURCのレコードとか、受験生ブルースの作詞家とかではお名前は知っていた人だったが、当時、わいせつ裁判も抱えていたせいか、春一ステージの彼はともかく元気がなかった。
 情けないうたを弱弱しく情けなく歌う人というイメージをまず持った。客席からは、「ゴロ―!元気出せ!」という野次が飛んでいたことを今も思い出す。

 僕は高校生の頃から、吉祥寺にあった伝説的喫茶店「ぐゎらん堂」に出入りしていて、その店は、「中川五郎わいせつ裁判支援東京本部」であったから、僕も支援会員にもなっていたかと記憶する。
 店では、週一で、ライブもやっていて、友部正人やシバ、渡氏を生で見知ったのもそこであった。その流れで大阪・春一番に行くことになったのだ。
 が、当時既に東京に居を移していたはずの五郎さんのライブはその店で見た記憶はない。
 それだから、僕にとっての中川五郎とは、ずっと情けないうたを情けなく歌う人というイメージしかなかった。
 が・・・人は変わる。時の流れと環境、状況で人は良くも悪くも変わっていく。

 十代の頃は、わざわざフォークソングの祭典・春一番コンサートを観に、大阪まで大垣行き夜行列車でキセルして出向くほどのフォーク少年だった僕も、大学を出て、社会に飛び込むようになると、仕事や新生活に追われてフォークのライブにも吉祥寺にも足が遠くなってしまった。
 折しも時代は80年代のバンドブームで、かつて一時代のを築いたムーブメントであったアコギによる「日本のフォークソング」は、すっかり古臭い、時代遅れのものだという風潮に代わってしまった。
 地道に歌い続けたシンガーもいたかと思うが、多くのフォークシンガーは、うたと離れて、別の生業に手を染めるしかなかったようだ。
 五郎さんもマガジンハウスで、雑誌編集に携わったり(その頃のことは、彼の小説『ロメオ塾』に描かれている)、レコードのライナーノーツ書きや音楽評論、洋楽の歌詞などの翻訳家として、その名を目にすることが多くなった。
 あの五郎さんは、今こんなことをしているのかと紙媒体を通してその動向はよく伺い知れた。
 僕もすっかり音楽からは離れてしまいJポップも含めて、日本の音楽シーンには関心を失いまったく疎くなってしまっていた。あんなに好きだったフォークソングは過去のもの、青春時代の思い出の一コマと化していた。そして20世紀も終わる。

 人生には、大きな転機のときが来る。もし、その日、その場所に行かなかったら、今の自分はなかった、まったく違ったものであったと思うきっかけのときがある。
 それは2005年4月の高田渡の死であり、その直後に、彼の友人知人たちが催した小金井公会堂での、縁のミュージシャン総出のお別れ会コンサートであった。
 ネット古本屋仲間に誘われて行く気もなしに連れていかれたのだが、そこで再びフォークソングと再会し、名状しがたい深い感動を覚えた。焼けポックリに火がついた。
 終わってすぐ感動冷めやらぬうちに、五郎さんにメールか何かで連絡したのだと思う。

 何事においても気さくな、フットワークの軽い彼からすぐ返信があり、近く水道橋の居酒屋スナックでライブがあるから、とお誘いを受けた。向うは、かつてモデルガン規制反対コンサートの帰り道、声かけてきた少年のことなど憶えているはずもない。が、ともかく出かけてみた。
 30年?ぶりに観た五郎さんのステージに僕は度肝を抜かれた。かつての弱弱しく元気のなかった、なさけない歌をなさけなく歌う姿はまったくそこにはなかった。
 パワフルでエキサイティングで逞しく力強く、しっかり声も出ている。まるでイギー・ボップのようなロックンローラーがそこにいた。ほんとうに驚かされた。人は変わる。これほど変わるとは。かつての何か弱弱しかったイメージはどこにもなかった。実に素晴らしい!

 それから僕は、誰彼問わずいつもきさくで親切に接する彼の知己を得て、彼のコンサートの追っかけとなり、そこからみほこんをはじめとして新しく多くの素晴らしいシンガーに出会うことができた。枯れて乾いていた僕の中に、音楽、フォークソングの水脈が再び流れ始めたのだ。
 以後多くの素晴らしいシンガーたちと知り合い、そしていつしか僕自身もコンサートの企画などに関わるようにもなり、今こうしているというわけだ。思えば渡氏の死の年から既に15年過ぎた。
 あの日、渡氏の追悼コンサートに行ってその後すぐ五郎さんに連絡しなければ、今の自分はここにいない。たぶん今でも本の山に埋もれて音楽なんか関係ない人生を歩んでいたはずだ。

 誰かの歌詞の一節ではないが、♪俺をこんなに変えてくれた昔の友がいるんだ、という気がする。
 五郎さんは僕を変えてくれた恩人であり、迷うことばかりの僕の人生を導いてくれる北極星のような不動の存在だ。ならばいつかきちんと恩返しをせねばならない。それも元気に生きているうちに。

 折しも今年2019年は、彼はちょうど70歳の古希にあたる。また、1967年、彼が高三のときに高石友也のコンサートでデビューしてから音楽生活は半世紀を越えた。
 そうした節目の年、7月25日の彼の誕生日辺りに、今住む地元国立でも記念の祝賀コンサートを、と仲間内で企画し始めたが、時遅く、既にその頃はスケジュールが一杯で、何とか今秋、10月19日だけが空いていて、今春やっと押さえられたというわけだ。そしてやっとその日が来た。

 五郎さん、古希おめでとう。そしてこれまでご苦労様。そしてこれからも変わらずお元気で、フォークソングの神髄を歌い続けるトップランナーとして、ピート・シーガーの歳までしっかり歌い続けてください。
 僕らはずっと応援していきますから。フォークって何かと問われたらば、五郎さんを見よ、その存在こそがフォークソングなんだと、僕は答える。
 有難う! ミスター・フォークソング!素晴らしき中川五郎。