危急存亡の秋2019年11月02日 10時13分40秒

★苦難の歳月を受け容れていく~まだできることとすべきことがある。

 11月に入った。今頃になって秋めいて来たというのはおかしいが、ようやく秋らしい晴れて穏やかかつ爽やかな秋の日が続いている。
 10月はともかく颱風が続いて来て天気も悪く、おまけに寒くて街行く人はコートにマフラーの冬の装いであった。
 今年は秋がなく、このまま一気に冬が来るのかと心配したが、もう晩秋ではあるが、この数日やっと秋らしい日が続いている。有難いことだとつくづく思う。被災地の皆さんにとっても恵みの晴天であろうか。

 私事ではあるが、このところ多事多難でついに人生行き詰ってしまった。そのことをどうこのブログで書くか、どこまで書くべきか迷っていたし、それ以前にとてもそんな気分にさえなれなかった。
 何であれ、書き残すには、ある一定の結末、結果と余裕がなくてはとてもその「現場」にいるときは書けやしない。誰だってそうだろう?
 どうしていいか出口も解決策もみつからず我が人生最大の危機とは大げさだが、記憶にある限り最も困惑する事態が生じた。

 一つは、まず金のことだ。世間には何百万、何千万もの借金や負債を背負ってその返済に追われ家も家財もすべて失うという方もいるだろうし、また、自然災害で家も家族も失う方も多々いよう。
 そうした人たちに比べれば実に些細な、小さなことで、嗤われても仕方ないが、自業自得とはいえ、いま、まず、ある件の支払いに頭痛めている。

 ウチに今春、子猫が何匹も産まれたことは記したと思う。その中の一匹のキジ柄の雌の子が、先月初旬に交通事故に遭い、まさに瀕死の状態で帰って来た。
 ウチの前の線路で電車にはねられたものか、後ろ足を大腿から切断する大ケガだった。太ももから骨が見えていた。血まみれで下半身の皮も総剥けていた。残った足も一部損傷、股関節も外れていた。
 泣き叫ぶ子猫をともかく動物病院に連れて行き、ともかく診察を仰いだ。その時点で、極めて命の危険な状態であり、医師から残った部分を切断する手術をするか、それともこのまま安楽死させるか判断を迫られた。
 その時の手術の見積もりは、20万円近くであった。我としては、ウチで産まれた子であり、そんな大ケガでも即死せずに必死に助けを求めて帰って来たのだから、みすみす死なすことは当初から頭になかった。ともかくできることはしてくださいと頼んだ。

 それで大型台風襲来の10日、かなり長い時間かけて手術は行われた。残った部分は付け根から取り除かれ、皮膚を寄せ集めて縫い合わせたが皮膚の皮が足りなく剥き出しの箇所もかなり広く感染症や敗血症の可能性も高いとのことで、果たして治る以前に生存できるか医師は返事ができなかった。
 そもそもウチに戻ってきた日より前に「事故」に遭ったようで、その部位は血は止まっていてやや腐敗も進み様々な菌に汚染されていたのだった。手術自体も体温が低下していて、輸血して何とか成し終えたとのことだった。

 だからまずは果たしてその後も生き永らえるかまったく予想もつかず、我としては日々ただ神に祈り、生死はその御心に委ねるしかなかった。
 が、毎日見舞いに、様子伺いに行き、当初はろくに口から食事もできなく一時期は元気もなく諦めたときもあったが、17日の頃から奇跡的にじょじょに回復の兆しも見えしてきて、こちらの呼びかけに反応も大きく確かになって、ようやく命の危機は脱したようだと、点滴の管は外され、このところは自力で餌も食べるようになってきた。

 やれやれ、だとほっとした。まさに神のご加護があった。が、当然のこと、保険のない動物の入院治療であり、次の問題はその支払いである。
 先月末の時点で、これまでのトータルの額を出してもらった、聞いて息をのんだ。最初にまず入れた一万円を除いても50万円近くであった。我としては30万円台ぐらいかと期待的に予測していたが、やはり手術代以外に当初の様々な薬や血液検査代等、日々の入院費がかさんでいた。
 しかしそれもこれも仕方ない。そもそも保険がきかないのだから暴利だとはまったく思いもしないが、さて、では、どうその金を工面するか、だ。しかもまだ、子猫は入院中なのである。これからも一泊だけで2500円消えていく。それに食事代と包帯取り換え代など看護費用が加算されていく。

 向うも幸いにしてこうした場合については理解もあって、毎月定期的に分割で支払ってもらえればと言ってくれた。で、昨日とりあえずまずは今月分として貯金下して5万円だけ入れてきた。※もう我の銀行預金は残額10万円を切った。
 正直に書けば、我家は父の年金だけではもう家計は成り立たないのである。介護保険とその施設利用料だけで父の年金の三分の二は消えていく。だから仕方なく「生活費」として毎月我の預貯金から、あるいは九州の妹から送金してもらって何とか補填してやりくりしている。
 そこに、猫の医療費の月月の支払いが新たに加わった。

 幸いにして動物病院は、有難いことに金利もつかず毎月ともかく数万でも返済していけば良いとのこととしてくれたが、カツカツの状態のところに更なる支払いが増えたわけで、どうその分をさらにまた工面するか頭痛めていた。
 我としては、ともかく父が生きている間、つまり父の年金が入って来るうちにはその病院への支払いは終わらせたい。恥ずかしい話、我自身は無年金なのだから父が死ねばさらに困窮する。となると、何としてもあと2年は父に生きてもらわねばと、心新たに決意した。しかし、そうなると父は97歳である。現実問題としてそんなことは可能なのか。
 まさに心千々に乱れて、つまるところ、我自身がもっと働いてしっかり稼ぐしかないと今さらながら大いに決意した。そのためには「商売」、まずは我の生業古本家業に精出すことである。

 子猫の件は何も後悔はしていない。まだ生きているものを、金がかかるからとみすみす安楽死させていたらもっと頭おかしくなっていた。だからそれはともかくとして、金の工面のことや三本足の猫が帰宅してからのことなど、先のことを考えると夜も眠れなくなるが、汝、明日のことは思い患うなかれと、イエスも言っている。ともかくまず一日一日何とか生きていくしかない。
 
 と、やっと決意したとたん、一昨日、今度はその父が、施設から帰ってくる日に、向こうで食べた昼食を全部嘔吐したと帰宅時に知らされた。熱はないしその理由もわからない。そしてその晩もほとんどウチでも何も食べられず、いよいよ老衰が進んで、口から食事も摂れなくなってきたのかと暗澹たる気持ちに陥った。
 しかし現時点では何とか持ち直してくれて、今はまた介護施設へショートステイで行ってくれている。向こうから特に連絡はないから、まあ食事もできているのだと思う。そう楽観的に考えるしかない。

 それにしても・・・還暦を過ぎて、自分でもこれからの人生はできるだけ何事も増やさず、面倒にせずに、スッキリ、シンブルにしていこうと誓った。
 が、あろうことか、現実はそうなるどころか、猫は増え続け、さらに大怪我して入院治療となるなど、ますます事態はさらに複雑に面倒になっていっている。抱えるものはさらに増えて多事多難とはこのことである。
 ますます身動きとれないし金ばかり出ていく。いったいどうしたらよいものか。この先に出口はあるのか。いつ抜け出せるのか。

 やることはいっぱいあるが、幸いにして今はそれに向き合う時間、そのための時間がとれるのが有難い。それがうまくきちんと成し終えられるかはともかく、も。

 今思うは、すべては神、主の意思、御心の計らいだとするならば、人はその苦い杯でも飲まねばならないということだ。ましてこれもまた自らが播いた種、結果なのだから。
 小猫のこと、これが愛だとか愛の証だなんてとても言えはしないが、何にしても我は今もその誠実さが問われ試されていることだけは間違いない。あとは、それにどう少しでもきちんと応えていけるか、だけだ。

 ともかく一日一日、無事に、誰も損なわれることなくすごせることを 祈り感謝するしかない。まずは祈ることからだ。焼け落ちた首里城の復興も。そして非力でもいまできることをやっていく。

これからの予定2019年11月04日 14時03分31秒

★11/20日(水)に、太田三造さんと東中野じみへんでライブやります。

 今日も晴れて暖かい。穏やかな秋の日である。
 先に書いたように、金のことは何とかなるだろうし、何とかしていくものだから、今はあれこれ考えない。超高齢の父のこともあり、こまかく予定立ててもその通りに進むとは思えない。
 ただ、日々その日ごとの生活があり、喫緊の予定、せいぜいひと月単位の「予定」はないと困る。
 今年も残すは二か月。本格的な冬が来るまではまだもう少し時間もあろう。ならばそのときまでまずは今月11月、一日一日確かな歩を進めていくことだ。
 そう、寒くなる前に、冬が来るまでにその支度を進めていこう。

 今週末に、北海道浦河から、我が恩師鈴木翁二さんが上京してきて、その土日にライブ&トークイベントがある。下北沢と高円寺。
 我も何をさておき顔出さねばと思っているが、今回はどちらか一日行けたら幸いという感じだ。時間はなくはないが、今は金が乏しくイベントの後後までお付き合いは何とも難しい。ともかく尊顔を仰ぎ見るだけで赦してもらおうと思っている。

 それとはカンケイなく、親友太田三造さんの計らいで、有難くもセンエツながらも彼のライブの前座兼進行役を務めさせてもらうことになった。11月20日に、東中野の「じみへん」である。
 時間は7時半頃からで、投げ銭制でまずは我が30分ぐらい露払いを務めることになりそうだ。話だけではもたないから、何曲か拙いギターとうたで時間埋めねばと考えている。まあ、歌いたいうたは何曲かある。

 国会前の集会やかけこみ亭では何回も歌ってはきたけれど、別の場所、それもライブハウスのようなところでやるのは、学生時代以来というか、大人になってからは初体験であろうか。
 このところの我が唄っている、作った人たちが亡くなってしまい今ではあまり歌われることが少なくなってしまった歌を中心に何曲か歌えればと思っている。

 我の苦境をあれこれ書いた。が、考えてみれば、今秋の台風、強風・大雨などでもっと大きな苦難の最中にいる人たちは大勢いる。一見平穏、幸福に見えてもその家庭内のじっさいは火の車、火宅の人もいるだろう。
 介護や借金の支払い、返済で頭痛めている人なんて星の数ほどいる。老後の人生だって潤沢な年金で悠々自適の人がどれだけいるものか。誰もがそれぞれの地獄を抱えて、それと向き合い何とかその日をやり過ごしている。違いますか。
 
 だからこそ、「うた」がある。そしてそこに「うた」がうまれる。
 我はこのところそうした思いにつよく囚われている。J・ポップで昨今流行りの薄っぺらい「応援ソング」ではない、ほんとうのうた、真実のうたをどれだけ思いを込めて歌えるかどうか、だ。こんな自分にそれが出来るのか。
 しかし、それもこれも自らが望むと望まざるに関係なく、天の計らいであるならば、その機会を精いっぱい生かしたい。

 太田さんとはこれからもできるだけ一緒に活動続けて、彼の素晴らしいうたをより多くの人たちに聴いてもらうべく前座的音楽活動を続けていきたい。
 うたはどこから来たか、はわからない。が、うたは常にそこかしこにある。そのことは間違いない。そしてそれを、どうライブの場に乗せることができるかだ。聴き手に届くかはまたその先の話である。
 聴き手がいようといまいとまずは唄うことだ。そう。どんな人生にもそこにはうたがあるのだから。自分にもうたがある。

怪我した子猫は退院できました2019年11月05日 23時41分05秒

★三本足の猫と我もまた生きていく。

 おかげさまで、今日10/5日、入院治療中のキジ子は、とりあえず自宅へ、帰宅可能となった。
 まだ傷口の消毒や包帯取り換えなど介護の作業は山ほどあるが、正直、退院できたことでこれ以上入院費が増えなくなったことがまず嬉しい。有難い。現時点で残額45万円ほどだろうか。
 もう自分自身、金銭感覚がわからなくなってしまって、金が入るアテはないが、現実的なことは何もわからなくなってしまった。
 ただ、自宅に要介護・治療者が帰って来るとなるとそのための環境と態勢を整えて常に時間もとられる。日々傷口を消毒して包帯を日に一度以上取り替えたり薬飲まさねばならない。
 我一人でそれができるか不安でならないが、金は無尽蔵にないわけで、そろそろ退院の時期に来たのだから、後は自宅で我自身が面倒見る時期となったということだ。
 金かさえあれば、完全治癒まで病院任せにもできたかもしれないが、
もうウチの経済事情では限界も限界で、なにはともあれ退院出来てこれほど嬉しいことはない。もう毎日5000円はかからない。ほっとしている。

 というわけで、三本足の障害者猫とこれから生きていく。それもこれも神の思し召しであり、我の償いなのだと。

小さく弱く苦難の道にある者こそ。前2019年11月07日 23時19分48秒

★不運、災難、苦難に遭う者こそ、我々の身代わり、代理人、代表なのだと知った。

 大ケガした子猫は無事帰還で来た。が、それから自宅で介護することは甚だ大変な事態で、父の帰宅も重なり、この数日、自分の仕事もあって我が人生最大の真に多忙で辛く疲労困憊の日々であった。もう失神して倒れるかもと思いもした。
 今ようやく少し落ち着いてこれを記す。

 連休明けの5日火曜に、いつものように昼前、午前の診察が終わった頃に入院中の子猫の見舞いに行った。
 そしたらば担当医もちょうどいて、このところ一気に回復が進んだから、今日明日でもいったん退院、帰宅できると伝えられた。まさに予想外の良い知らせであった。
 で、夕方の診察時に合わせて再度訪れ、まだ剥き出しのままの傷口の消毒の仕方と薬の塗り方、包帯の巻き方などを教わって、子猫をそのまま抱きかかえて我が家に連れ戻った。
 急な話で迷いもしたが、一泊ごとに確実に日々五千円は出ていくわけで、ともかく一日でも早く退院を、とこちとらは切望していたのだから、それを先延ばしにする理由はない。
 しかし、では帰って来た子猫をどう、どこに置くか、どう扱うかである。何も考えてなかった。

 ウチは、まだ他にもその兄弟を始め猫たちがたくさんいて彼らは猫ドアから勝手に出入り自由なのだ。そのまま傷が癒えぬこの猫を連れて来ても、もしかしたらそこから外に出てしまうかもしれない。また、他の猫たちとの折合いもある。
 やはり完治するまでは基本管理下に置かねばならないわけで、いろいろ考えたが、父が今寝ている個室に閉じ込めて、そこで世話することにした。幸いその日は父は、ショートステイに行って不在であった

 また、眠らせるときは、金属製のケージはないので、Amazonから届いた大きな段ボール箱に入れて、その中で寝かせることにした。後ろ脚は一本なので、前足がかからないかぎり、この子は、そこから飛び出すことはできない。
 そうして障害者猫との生活が始まった。正直いえば、病院に預けていたときのほうが気楽であった。一切合切、向うに任せておけば、お金はかかっても心配しないですむのだから。。※以後、今は、父が在宅時、その部屋で眠るときは、子猫はそこの部屋で、その箱に閉じ込めて自由に出ないようにしている。

 その障害者猫の傷口を消毒して軟膏を塗って、ガーゼを当てて包帯を巻くのも、一人では当初はかなり大変な作業で、子猫は嫌がってさんざん暴れるし、きつく巻くと苦しそうなのでやり直ししたり、予想以上に大変な作業で時間とられ大いに疲弊した。緩く巻いておくとすぐに外れてまた一からやり直す羽目となる。泣き叫ぶ猫相手に何度繰り返したことか。
 昨日水曜は、またそこに、自分の商売の忙しい日で、早朝から本の回収と、午後は溜まった洗濯、さらに連休明けで出荷期限の注文本5冊の発送が重なり、すべて成し遂げられるか焦りと疲れで発狂しそうであった。
 そのうえのことを記せば、体調的にも、猫たちの世話で無理な姿勢をとっていたのがたたって、また腰痛が再発したことと、持病の寒暖差アレルギーからの絶え間ない咳の発作も続いて、ともかく苦しく心身共に限界かと思うほどだった。
 
 新約聖書の中の、ルカによる使徒行伝の章では、宣教者パウロの苦難が詳しく綴られ、また当人自身も数々の書簡で、迫害や苦難災難、それに加えて持病である「肉体の棘」について細かく記されているが、この我も思わずそのことが頭をよぎる程であった。
 しかし今はそこを過ぎて、全ては天の配剤、その深淵なる的確な英知にただ驚き感謝の念を覚えている。そうか、そうだったのかとの思いでいる。
 そしてようやくわかったことを記したい。

 この世には災害や難病、その他様々な当人が予期せず望まぬ不幸に遭う人たちがいる。それはいったい何故なのであろうか。また、そうした目に遭う人は、何かそこに原因、今でいう「自己責任」があるのであろうか。

 先に台風襲来の日、台東区の避難所では、助けを求めてきたホームレスの人を、区の職員が追い返したことがかなりニュースとして報じられていた。
 それを知って、我はまず思ったのは、まずイソップの『アリとキリギリス』の寓話である。何度も拙ブログでは挙げてきたが、この童話は、カタギの人、つまり真っ当な真面目に生きてきた社会人と、それとは異なるアウトサイダー、自由気ままな人との対比として常に深く示唆に富んでいる。
 台東区の、災難に遭ったとき救いを求めてきたホームレスとそれを拒絶した区の職員との応対は、その寓話そのもののように我は思えた。

 区側の言い分もわからなくはない。つまり避難所は、その区の住民のためのもので何よりもそちらを優先すべきだとリクツは成り立つ。つまりそこに住民票があるか、きちんと税金を納めているかである。
 ホームレスの人たちは元よりホーム、つまり住所がないから、ホームレスなのであり、住民票などはない。とうぜん税金も納めていない。だから、そこは利用できない、させないという彼らの理屈である。
 行政としてのリクツは正しい。しかし人としてその応対は人非人である。もし目の前で、彼らが濁流に流され溺れ死んだとしたら、見殺しにした区の職員たちの「正義」は保たれるか。

 何より生死にかかわる緊急時ならば、住民票の有無とかホームレスであるかとかはどうでもよいことで、ともかく助けを求めてきた者は一時的でもまず全て受け容れるのが人としての当然のありかたではないのか。それこそが「行政」であろう。営利目的の企業ではないのだから。何よりまずは「住民」の命こそ第一に最優先であるべきで、それはホームレスとか住民票の有無ではないはずだ。
 人は人として当然のこと、つまり困窮した人、助けを求めてきた人を前にしたら救わねばならない。それは当たり前のことであろう。台東区の職員は、それを建前を理由に怠った。どれほど糾弾、批判されても仕方ない行いだ。言語道断である。

 しかし我は、そこに行政側にイソップの寓話の、アリ側のような、キリギリスに対する差別的気持ちに通ずるものがあったような気がする。
 つまりホームレスになるなんて自己責任ではないのか、それで困ったからと助けを求めに来るとは、いかがなものか。ここは、きちんと税金を納めている人たちの場所なのだからと。
 この理屈、その気持ちは正しいのか。おそらくカタギの人の心根には漠然と在るのではないか。我もまた一昔前ならそう考えたかもしれない。ホームレスなんて勝手に自分でそうなったくせに、と。

 しかしそれは間違っている。誰だって落ち着く住まいのない、明日をも知れぬ不安だらけのホームレスなんてなりたくてなる人はいないだろう。それは「自由」ではなく、ある意味究極の不自由と不安なのだから。
 なりたくてなるのではなく、結果としてなってしまい、そしてそこから抜け出せず、ともかく日々必死に生きているというのが現実ではないのか。それがもし不幸ではないとしても、決して満足だとか望んだ「幸せ」だと声を大にして叫ぶ人はいないだろう。
 そしてそうなったのは、すべて本人の「自己責任」なのか、だ。

 もう一回続きます。どうかお読みください。

小さく弱く苦難の道にあるものこそ。中2019年11月08日 10時31分30秒

★何故、この世に悲惨・辛酸の目に遭う者が出るのか

 おそらく古今のどんな宗教でもその神や仏が人を救ってくれる、守り助けてくれると説いている。が、現実の世界では、災害も含めて悲惨な事件が後を絶たないし事故や先天的に様々な障害を持つ人たちが存在している。
 おそらく誰もが「神も仏もあるものか」と嘆き悲しみ、ときに憤りさえしたことがあるかと思う。
 何故、神がつくったこの世界に「不幸な」出来事、悲惨な災難災害が起こるのだろうか。キリスト者にとって、いや誰にとっても謎であり、理解に苦しむ疑問であろう。まず神様がいて(おられるという前提で)、ならばその主の作られた「世界」は完全なものであるはずなのに、だ。
 そう、なんでこの世には信じ難いほどの悲惨な事件、誰もが受け容れがたい事故や災難、戦争も含めて残虐な殺人事件などが繰り返し起こるのであろうか。
 聖書ではこう記している。

 ナザレのイエス存命中、というか、彼が地上に在るときのこと、イエスと弟子たち一行は、通りすがりに、生まれつき目の見えない物乞いの男を見かけた。
 弟子たちがイエスにこう尋ねた。「この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか」と。
 今から二千年も前でも、現在も続く「因果応報」の発想がこのパレスチナの地でもユダヤ人たちの間にも存在していたことに驚かされる。
 つまり、人が不遇な目に遭うのは、悪行を本人もしくは先祖がたちがしたからその「報い」だと考えるのである。

 それに対してイエスはこう答える。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」と。
 そう申して、地面に唾で土をこねて、その盲人の目に塗って、池に行って目を洗いなさい」と命じた。そしてその男は、目が見えるようになり家に帰った。※目が見えるようになってから、彼をとりまくその後の騒動も記されているのだが、本筋とは関係ないので略す。――ヨハネによる福音書第9章―。

 昔、この章を読んだとき、この奇跡譚は、イエスが世にあるとき、彼と出会わねば意味ないではないかと思った。
 が、今はわかる。そうではないのである。神の業とは、こうした実際の「奇跡」ではなく、イエスが説き続けた「愛の実践」のことであったのだ。
 今さら記すまでもなく、新約聖書には、人は、兄弟として互いに赦し愛し合うことの絶対的必要性が常に記されている。自らがして欲しいことを他者に、異国の民にも施せと。

 私事で、今回、拙宅の子猫が片足切断という大怪我して啼きながら帰って来て、今現在は回復途中であることはお知らせしたが、微細な例えで嗤われるかもしれないが、その子猫を撫でながらずっと考えた。
 いったい何でこの猫はこんな目に遭わねばならなかったのだろうと。他にも兄弟姉妹や、甥っ子にあたる猫たちは多数いるのである。おそらく彼らと線路で遊んでいるとき、電車にこの子だけ撥ねられたのであろう。そして下半身をひどく損傷して今は後ろ脚一本失ったものの幸い命だけはとりとめた。三本足の障害者猫に若くしてなってしまった。
 この猫のこれからの人生とを思うと心配で胸が痛むが、我としてはお金はかかろうとも安楽死などさせずに生き永らえさせられたと思うので何の悔いもない。ともかく命だけは無事だったのだから。
 そして気づいた。これこそが、聖書にある「神の業」であったのだと。

 こうした不遇、苦難に遭う者は今も昔もこれからも数多く出て来る。それは、本人たちの罪、つまり何か行いが悪かったら天罰を受けたとか、自業自得では絶対ない。※猫たちはたくさんいたから、その中の一匹が事故に遭ったに過ぎない。
 特に自然災害に遭う人たち、または障害を先天的、または事故などで後天的に授かる人たちも常にどこでも存在する。それを「運」「不運」でとらえてはならない。今回は台風がそれてこちらに来なかったから運が良かったと。いや、明日は我が身なのである。
 そう、ヒトの数だけ幸せと同時に不幸もまた来る。いつか誰かがそれを引き受けなくてはならないのだ。

 人が何千万人もいれば、当然のこととしてある一定の割合で、確実に不遇な目に遭う人は出てくるのである。そしてそれは運が悪かったとか、当人や両親などの「責任」では絶対にない。
 また何かのきっかけで住まいを失いホームレスになってしまう人も基本として本人の責任ではない。この資本主義の世界では、富める者たちはさらに富み、貧困にあえぐ者はさらに困窮していくのが自然の流れだから、彼らはその犠牲者なのである。

 そうした最下層の人たち、また様々な災害で被災して困窮している人たちにこそ、障碍がある人たちに「神の御業」、つまり「愛」が示されねばならないのだ。
 それは祈ることでもあるけれど、それ以上に彼らのために隣人としてできること、すべきことの実践であり、自分がして欲しいと望むことを彼らにすることである。
 つまり人は苦難のとき、助け合い愛し合わねばならない。そのために、悲惨な目に遭う者たちは常に「存在」するのだと気づく。
 彼らは、我々の身代わりであり、代理人なのである。我らは日頃の行いや「運が良く」てそうならないでそんな目に遭わずに済んだと考えてはならない。
 
 災難、災害、障害、貧困などで不遇、苦難の場に遭う者たちに、「神の御業」が働くように、我々は、できること、すべきことを全力でしなくてはならないのだった。

 そうした障碍者の代表として、れいわ新選組の二人の議員が国会に送られたこと、これは まさに偉業であり、心から祝福したい。そしてその神の計らいにただ感嘆し感謝するしかない。これもまた神の御業なのだと。

小さく弱く苦難の道にあるものこそ。後2019年11月09日 13時38分55秒

★有難きご支援頂きただただ感謝!!

 と、二回に分けて、不運や災難、苦難に遭う人について思うところを書いて来た。異論やご意見はあろうが、今はそう考えているのだからご容赦願いたい。

 それは誰かが引き受けなくてはならないのである。何故ならば良いことも悪いこともすべて天の計らいであり、ある意味、禍福は糾える縄のようなものだとしたら、『人間万事塞翁が馬』の老人のように、何事も一喜一憂しない心構えが求められるのではないか。
 が、じっさい「そのとき」は人は途方に暮れ、困惑し現実的には大いに哀しみ悲嘆し途方にくれるものだ。

 例えば、何より家庭内での介護や育児の現場では、一人の人で24時間不眠不休の対応が求められまさに自らの命を削って何とかそれを続けていることが多い。
 施設や病院のように三交代制でなくても、せめて二人で交互に休めればと我も母を在宅で一人で介護していたとき心から願った。
 それは常時でなくたってかまわない。ほんの一時でも誰かが来てくれて、「私が様子見ているから一時間でも横になって休んで」、と言ってくれればその時だけは気を緩めて休息がとれる。

 人は、他者のコトについては、常に「他人事」でしかないけれど、その他人事を「自分のコト」として考える想像力が求められると思う。
 イエスが説いた『善きサマリア人』の喩えの如く、悲惨な目に遭った人がいて、もしそこに出くわしたならば、つまり出会い知ったならば、人は誰であろうとできるだけのこと、精一杯できることをしてあげることだ。
 この我も、今抱えている者たちがいなかったら、明日でも千葉県へボランティア活動に一日でも行きたいと願う。義援金という手もあるけれど、こんな非力な我でも現地に行けば何かできることがあるのではないか。何事も「キモチ」より「行動」であるはずだ。

 と、何事においても苦難苦境に遭う人たちに自己責任論は間違っていると書いた。その思いは決して揺るがない。
 が、こと自らにおいては、今の困窮、苦境はまさに自分勝手に生きてきた自分のツケで、まさに自ら播いた種であり自業自得だと考えている。結婚も子も持てなかったのは、誰のせいでもない。この破綻した性格ゆえであろう。まさに不徳の致すところだ。
 もし仮に、我に子がいたらば、若いときだったら、その子の粗相やイタズラに激高して、躾と考えて虐待を繰り返していたかもしれない。
 我は気が短く真に自己本位で本来他者の痛みに気づかない自己中心的な男だから、神は我に子を与えなかったのだと今にして感謝すらしている。
 動物たちとのことはそんな自分の罪滅ぼしでもあったのだ。まあ、犬猫の嫌いな人たちには理解しがたいことであろう。たかが動物なのだ。
 しかし小さく弱く苦難の道にあるものに対して何をとれだけできるか。そのことが問われ薄情な我は試されているのである。

 そんな思いで、この数日退院して来た三本脚の子猫のことを拙ブログに書いて来た。
 こんな我にも寄り添って共に暮らしてくれているのが動物たちであり、「女房子供に手を焼きながら」というフレーズがあるように、犬猫、特に増えてしまった猫に手をやきながら何とかやっている。

 そしたら昨日のこと。突然大学時代の後輩K君から封書が届いた。
 もう何十年もあっていない。最後に会ったのはいったいいつかも思い出せない。ただ、共通の友人を通して近況は聞いていたし、その後輩も我のこの拙いブログを読んでいることは以前届いた彼からの「コメント」で知ってはいた。
 封書を開けてみて驚いた。中には一万円札が五枚も入っている。短い添え書きがあり、キジ子ちゃんの看護に役立ててください、と記されている。
 思わず手が震えた。大金である。

 まず思ったのは、これは貰えないな、である。気持ちだけ頂いて丁重に送り返そうかと考えた。彼が何の仕事しているか詳しくは知らないが、ホリエモンや孫正義みたいに景気がいいはずはないだろう。誰だってこの時代、我の知り合いたちは皆苦境にあえいでいるはずだ。
 が、まずは受け取って動物病院の治療費の返済に充てて、全て完済し終えたらまた直接会った時にお返しすればいいかと考えなおした。
 頂くのではなく、お借りすることにした。

 そう考えたら突然少しだけ気が楽になった。そして肩の荷が幾分軽くなっていることに気づいた。心に温かいものが流れてきた。彼の心遣いに心から有難いと思った。思わず十字を切って天を仰いだ。

 思えば、後輩と言ってもそれほど親しく面倒見たという関係ではない。そもそもサークルが違っていて、我は真の「先輩」ではない。
 K君は、映研、『映画研究会』の新入生であり、我はその部室に親しくしていた友人たちがいたからよく出入りしていて、宮崎から来た彼と出会ったのだ。映画イラストライターの三留まゆみもその部室で知ったのだ。彼らは同級生なのか。

 『映研』といっても映画を観て研究するのではない。自分たちで、8ミリフィルム回して自主映画を作るサークルであり、我も映研の学生たちと8ミリ映画を撮り合ったりして彼とも親しくなったのだと思う。
 もう今では8ミリ映画を撮る人は皆無だろうしそもそもフィルムもカメラも存在しないのではないか。撮ったフィルムは手元にあっても動く映写機がない。考えてみると大昔のはなしだ。まさに隔世の感がある。もう四十年も前になろうか。

 自分にとっては、彼の姿は、学生時代の記憶しかない。上京した頃の少年の面影を残す顔である。たぶん会えば彼だってもはや初老の域に入っていることであろう。
 学生時代、迷惑かけたとしても何の世話もしなかった悪しき先輩である我のことなどどうして覚えてくれて気遣ってくれたのか。
 その彼から突然届いた五万円。その金額に増して彼の善意、有り難き思いにただただ深く感謝する。

 「今日救いがこの家を訪れた」。罪深き徴税人の首領ザアカイに発したイエスの声が聞こえた。

 ※本来、直に御礼申すべきところだが、まずはこのブログで彼に感謝の気持ちを届けることに何卒ご容赦願いたい。

鈴木翁二健在!!11/10日、@高円寺西部古書会館2019年11月10日 22時58分13秒

★元気な「師匠」と再会できた一夜

 何が嬉しいって、若き日に魅かれ出会い大きな影響を受け、勝手に私淑した、我の「師匠」が今も元気で活動されていることこそ喜ばしいことはない。その再会の感激、喜びを記す。
 だって、この我も還暦を過ぎ越え、世間ではもはや老人の仲間入りなのだ。いろいろあって体調もすぐれず先行きに不安を強く覚える今日この頃なのである。
 その我よりも約10歳上の世代の人たち、70歳前後の方々が今も昔と変わらず健在で頑張っていることこそ励まされることはない。そう、「師」が元気でいるならば、我もまたともかくその歳までは頑張らねばならないし、頑張れるかもしれない。何より先行く道の指針になろう。師に倣うということだ。

 先だって古希を迎えた「フォークソングの恩師」中川五郎氏もそうであったが、老いても、いや老いは感じさせたとしても、「相変わらず」でいることは何て素晴らしくスゴイことなんだと感心感嘆させられる。じっさいその場所に辿りつく前に倒れ、既にこの世に亡き人もたくさんいるのだから。

 考えてみれば、五郎氏と翁二さんは、ともに我がまだ高校生の頃、レコードや漫画誌で知り、直に出会い、一時は、かなり時間は空いてしまったが、後年また再会でき知己を得、今また再び師匠として深く敬愛し仰ぎ見る方となっている。
 我には幸いにして有難くもそうした私淑する「師匠」が何人もいる。向うはどう思っているかはともかく、師にならい、その生き方に倣い、時に迷い行き詰ったときもその師の後ろ姿を追っては揺らぐ軌道を戻してきた。
 若き日に彼らを知り出会わなかったら、いったいどんな人生を自分は生きていたのだろうか。世間の人たちみたいに真っ当になんか生きられるはずもないのだから、たぶん自殺するか精神病院に入れられていたかもしれない。
 彼らから教わったことは、何よりもぶれない、ということだ。自分の好きなこと、これぞと信ずる「芸術」にとことん向き合い、自家薬籠中の物にまで高めたことだ。それは弱さも強さも含め一切合切に、だ。

 そう、煎じ詰めれば、何事も「芸」に、そして真の「芸術」になっていく。そしてそれは真にオンリーワンの、他の誰のものでもない、まさに追随を許さない独自の高みへと昇りつめていく。そういう生き方を翁二さんも五郎氏も示してくれた。我に教えてくれた。
 有難いことだ。

 翁二さんは変わらず元気であった。もう少し私的にいろいろお話したかったとの思いは残るけれど、人も多く慌ただしく、その尊顔を確認できただけで、もう何一つ不満はない。
 故郷の山は有難き哉、という言葉しか思い浮かばない。

その後のことなど、近況を少し2019年11月15日 06時37分44秒

★11月20日、東中野「じみへん」で太田さんとのライブやります

 様々な不安や、世人的には嗤われるような下賤な悩みはまだ限りなくあるし、これからも新たに次々と出て来るだろうが、ようやく我が人生、近年いちばんの多事多難多忙の時期は脱して来たようだ。
 じっさい母が死ぬ前後はともかく、これだけ忙しく、しかも自分の体調も悪かった時期はちょっと記憶にない。
 ※まだ咳は発作が起きるとひっきりなしに続き、腰痛も慢性化してしまったが。

 怪我した猫の傷はだいぶ癒えて小さくなりふさがって来た。事故当初の頃は、切断した脚の側、下半身半面ほぼ全部の皮膚が剥がれてむき出しだったことを思うと適切な切断処理とその後の治療が効を奏したとつくづく思う。
 動物、それも四足の生き物は大したもので、脚の付け根からきれいさっぱり失い、傍目にはかなり痛々しく思えるけれど、三本脚となっても当人は何も臆しもさほど不便さも感じることなく、今ではけっこう早くスタスタ走るように歩けている。心配した排便も問題ないようで安堵した。
 昔のように後ろ足でジャンプすることはできなくなったわけだが、日常生活では不便はないと思える。ニンゲンならばこうした場合、やはり他人の目を気にしたりすることもあるかもしれないが、当人も仲間たちもまったくかまわず気にせず、あくまでも個々のこととして普通に勝手にそれぞれやっている。それが素晴らしい。

 そう、災難ではあったが、これは不幸ではなく少しだけ不便になっただけのことなのだった。そして我の判断で生を紡いで、今もまだこの世に在るわけで、お金では測れない命の重み、大切さを我自身改めて知ることができた。
 たかが猫一匹のことなのである。いくらでも替えはあるようにも思える。が、その弱き者に対し、特に助けを求めてきた者に出くわしたとき、何ができるか、なにをすべきか、その問いかけは重く大きい。
 何であれ、日々、すべきこともだが、ともかくできることを、たとえほんの少しでもやっていく。それこそが「人生」、生きることなのだとこの猫から教わった。

 この世は、昨今結果重視の、それもいかに世間的に成功したか、金持ち、勝者に、と結果として成り得たか、ばかり問われ求められるが、それは間違っている。それは「幸福」と同一ではない。いや、逆に聖書的には一番かけ離れている。
 幸せとは、いかに「得た」かではなく、いかに「与えた」か、であった。
 「与える」というとエラソーに、という印象があろう。
 でもそれはそんな堅苦しいことではなくて、単に自らを愛するように他者をも愛せるかどうかということに過ぎない。いかに、愛情を外に向けられるか、だ。

 我は昔から本当に自分勝手で、他者のことは基本何も考えないし、その場そのとき、常に己の都合や欲望第一に生きてきた。それは、冷酷と言ってよいほど自己中心的、対人障害的で、治療不可能なことであるが、だからこそ今償いとして、ようやく「すべきこと」に気づかされた。
 弱者や貧者のために寄付したり、カンパしたりすればよいというわけでもない。むろんそれも一助になるし大きな意義があるけれども、まずは身近なところから、関わる者たちとの「関係」であろう。
 人であろうとなかろうと、困窮しているものと出会えば、その時点で出来る限りのことを惜しみなくまずはしていくことだ。
 求められたら、それに応えていく。そこに損得はないし、たとえ多くを失った、奪われたとしてもそのことを悔やまない。お金よりも大事なこと、世間的成功よりもはるかに価値のあることがあるのだとようやくわかってきた。

 そう言いいつつ、今だってあれこれ損得でむしゃくしゃしたり、他者を恨むことも多いが、聖人君子ではないからこそ、それもまた当然で、ともかくこの新たな「基本方針」でやっていくしかない。
 できないことはできないし、できることしかできやしないのだから。

 実は子猫の他にも、昔からいる老猫が今月に入ってからほとんど何も食べられなくなり、痩せ衰えそちらも心を痛めていた。
 しかし、別の昔からかかりつけの動物病院で診察を受け、点滴と注射1本で、かなり持ち直してきて、今は再び食欲は戻って体重も増えてきた。その金額は6100円。キジ子に比べれば、思わず「安い!」と叫びそうになった。そのぐらい金銭感覚は狂ってしまい、今では猫に50万近くの「借金」があることも何も感じなくなった。
 ともあれ、その老猫は、毎晩抱いて撫でて声かけて寝床を共にした。
 医者に連れて行ったことよりも、思うにそうした「励まし」というか、「愛情」かけたことが回復に繋がったのではないか。

 誰だって、自分が愛されている、他者から求められ必要とされていると確認したいのである。それこそが『生存理由』ではなかろうか。
 ところがこの世の中には、昨今、実の親からも愛されず虐待されてときに死ぬ子どもも多数いると報道が続く。
 そうして愛されずに育ち大人になった子は、また親になったとき、どうようのことを自分の子にするだろう。
 ならば、親でなくたって誰だって良いのである。その子が、その人が必要とされ、求められ愛されているという「実感」を与えてあげれば良い。
 それは児童福祉施設や行政、国がすべきこととだとか、そこに責任があるとは思わない。まずは、気づいた周囲の人たちが、声をかけてその「困窮」にその都度、その時点でできることを少しでもしていくことだ。

 同様に、それは大人たちにだって当てはまる。船橋だったか実子を虐待死させた夫婦がいたが、妻は夫に逆らえず、エスカレートする暴行を阻止することができなかったと。そして児相の対応が問題視された。
 しかし我は思うのは、まず一番救うべきはこの親、夫ではなかったのか。その「狂気」に向かっていくこの父親を救えば、女児は死ぬことはなかったはずだ。

 我はもう逃げない。何事にも目をつぶらない。ずっと卑怯者、臆病者であったからこそ今老いても立ち向かおうと思う。むろん自己中心的性格は変わらない。だからこそ、「そのとき」に出会えば、出来る限りのことはしていく。それは「正義」ではない。善悪でもない。ただそこに「愛」があるかだけだ。

歌いたい唄があり、うたえる幸せ2019年11月16日 12時31分26秒

★11月20日、東中野じみへんで太田さんとのライブやります

 幸せのカタチとは何であろうか。このところ思うのは、お金がたくさんあり、お金のことで憂鬱になったり明日の支払いのことで頭痛めずに済むのは幸せには違いないが、それは「幸せ」そのものとは違うと思う。
 お金は目的ではなくあくまでも幸せの「手段」であるはずだし、お金持ちこそいろいろ不安もや悩みもあり「幸福度」は高くないという話も訊いたことがある。何しろ「ある」ということは、失うという可能性も同時に抱えるわけで、資産を多く持つ人は、その維持管理に昼夜気を取られるに違いない。

 幸せの状態とは、人それぞれ違うだろうが、思うに、何かしたいことがあって、それが過不足なく「できる」ということではないだろうか。
 我の商売を考えて本を例えに出せば、まず読みたい本があり、それが手に入り、「読む」ことができるのは「幸福」と呼べるのではないか。
 仮に、そもそも読みたい本がない、書店に行っても読む気を起こさせる本がない場合はもあろうし、そもそも本がないという状態すら考えられる。
 早稲田の古書店主から以前訊いた話だが、 戦後すぐの頃、朝、棚に仕入れた本を並べても夕方には棚がスカスカになるぐらい飛ぶように右から左へ「古本」が売れたとのことだ。
 つまりそれぐらい、焼け跡の戦禍をくぐり抜けた人たちは活字に飢えていて、読めるものならばジャンルを問わず本を求めたのだと想像しえる。他に娯楽は何一つなくそんな時代もあったのだ。

 また、その本が手元にあっても忙しくてとてもゆっくり読むことすらかなわないという状況も多々あるかもしれない。じっさい我も疲れ果て、布団に入って枕元の本を手に取り開いても、1ページも読めずに睡魔に襲われることは常である。
 ならば、まず読みたい本があり、それが入手できてそれを読むことができる状況は「幸福」と呼んで間違いではあるまい。
 それは本に限らず、映画だろうが、音楽だろうがまったく同じことだろう。観たい映画、聴きたい音楽があって、それが観に行けること、落ち着いて聴くことができるのは、じっさい多忙な我々にとってカンタンなことではない。
 この我だって、落ち着いてレコードに針落として聴くことなんてもう何年もできやしない。ともかく何でだかわからないけど日々慌ただしく忙しい。

 そして今自分がつくづく思うのは、何より、我には歌いたいうたがあることと、それを拙くとも自らのギターで歌えること、その「幸福」である。
 それが当たり前に思う方もいるかもしれない。しかし、自らギターで伴奏しながら唄うということは傍目には簡単そうでも実はかなり難しい。
 我は高校生の頃から、ギターは手にしてきたけれど、大人になったら何十年もまったく弾かない時期もあった。
 ただ、岡大介やみほこんたちと出会って、彼らから刺激を受けてまた自分でも音楽をやってみようと思うようになり、練習を再開して、楽曲もコピーしたり自ら伴奏して歌ってみるようになった。

 しかし、彼らがごく自然に、人前で当たり前にやっているシンガーソング、弾き語りということが、やってみると、じっさいはとてつもなくスゴイことなんだと思い知った。
 恥ずかしいとか上がるとか緊張するということもある。しかし、それ以前に、うたに集中すればギターはとちるし、ギターに気をとられると歌詞は忘れ間違えるし、慌てふためきとちることばかりで、惨憺たる出来にしかならない。そもそも声も出やしない。
 とても他人様にお聞かせするものにはなりはしないと絶望したことは常のことだ。しかし、素人として、プロの域に達しない者としては、歌ってはいけないのか。
 そう、これはフォークソングなのである。民衆のうた、大衆の歌として、誰もが唄っても構わないはずなのだ。ただ、もちろんそれでお金なんかとれやしないし、我は生涯、お金がとれるようなことはできやしないというヘンな自信はある。
 そうしたエンタ―ティメント、歌手としてそれで飯が食える道を目指す人も多々おられることだろう。我はそもそもそんなことは昔からまったく考えないしそんな気は毛頭ない。
 その才にあらず、なのである。ならば、あくまでも自分がやっているフォークソングの「研究」の発表の場として臨むのはどうであろうか。そう、それこそが我の唄いたいうたなのだから。

うたは、歌われてこそ、本は読まれてこそ2019年11月18日 23時58分09秒

★明後日11月20日、東中野じみへんで太田三造さんとライブ

 こういう考えがある。道具は使われてこそ、道具なのだと。

 たとえば、ここにカッターがあるとする。それは主に紙を切るためのもので、そのために鋭い刃が付いて、それに適した形状でできている。
 しかしそれは使われないと、やがては錆びてまさに「使い物に」ならなくなる。ということは、道具とは使われてこそ道具なのだとわかる。

 我の仕事でもある「本」もまた同様で、それが流通するのは、読むため、読まれるためである。つまり、本は人に読まれてこそ「本」であり、そのために古来から本の類は存在する。それは映画だって、何だって同様だ。
 むろん、世にはコレクションとして、使われなくても「収拾」「保存」という用い方もあることにはある。本ならば貴重な本、稀覯本など集めている方もいる。特に切手などその最たるものだろう。使用済みの切手など実用できないものだから。
 が、それは本来の価値が変化しただけのことで、世に流通する限りそれもまた使われていることには変わりはない。
 ならばこの世のものは、すべて使われるため、用いるために「存在」しているのだとわかる。そこに存在している意味があるのだと。

 ならば「うた」も同様のはずだ。うたは、歌われてこそ「うた」なのだと。
 しかし、ふと気づく。CDやレコードならばそこに「実体」がある。プレイヤーにかけられて聴かれてこそ、CD、レコードなのだという「理屈」は成り立つ。
 が、そもそもの「うた」はどうだろう。それはカタチがない。詩も同様に、書かれて紙に残されたり、詩集として本のカタチになっているものならともかく、敬愛する詩人有馬敲氏のようにオーラル派の詩人たちの詩そのものは、そこで、聴衆に聴かれはしても、その場だけで消えてしまう。
 特に、うたや音楽のライブは、レコードなどの記録媒体に、あるいは昨今ならばYouTubeなどの映像などに誰かが録画しアップしない限り、歌われたり演奏された「そのとき」だけで終わって消失してしまう。
 むろんその場その時、聴いた人は存在はする。しかしそれは記憶の中だけで、その人たちもまた消えてしまえば、全ては雲散霧消してしまう。つまり「なかったこと」になってしまう。※あとは、明治の街頭演歌師の「うた」のように、文字による「記録」として「資料」は後世に伝わるが、実際はどんなものなのか今日では想像するしかできなくなる。

 うたが、本など実体のあるものと違うのは、まさにこの一点だけで、形あるものは、たとえ今は使われなくなったとしても形だけ残ることは残る。古代人の使った土器など最たるものだ。しかしうたは、実体がそもそもないから、まず残らない。レコードティングされたもの以外は。

 と、長くなったがこれは「前置き」なのである。我が唄いたい唄とは何かの説明理由であった。
 我の好きなフォークソングは、たくさんの名曲を生んだ。しかし、「神田川」や「学生街の喫茶店」のように、ヒットして広く大衆に聴かれ誰でも知られたうた以外のものは、存外、世に知られていない。※挙げた曲が「フォークソング」かどうかは今は問わない。
 特に、集会などでは歌われたものの、きちんとレコーディングされ「レコード」になっていないものは聴いた者の記憶には残っていてもまさに間もなく消えていく存在だろう。
 むろん、そのうたを作った当人が健在で、今もライブ活動を続けていれば、その「うた」は生きている。そしてこれからもまだ歌われ、聴かれていく。
 しかし、作った当人がまず亡くなったりすれば、そのうたは唄われることは少なくなり、聴いた人もいなくなればそのうたもまた消えて「死んで」なくなってしまう。

 もう何年も前の大阪・春一番コンサートでのこと。
 会場である服部緑地の音楽堂の前で、開演前、開場を待っていたら、中川五郎さんが楽屋入りのためふらふらやってきた。いや、楽器は持っていなかったと記憶するから、ただ始まるまで辺りをふらついていたのだろうか。
 観客?なのか、初老の男が彼を見つけて近づいて話しかけてきた。その一部始終を記す。

男・あんた、「雪の月光写真師」何タラいう曲歌ってる人だろう?
五郎・!いや、それは僕でなく若林さんのうたで・・・
男・うんにゃ、あんたの歌だ。あんたが唄っていたはずだ。
五郎・僕ではなくて亡くなった若林純夫さんが作ったうたです。僕は歌ってません。
男・そ~か。うーん。

 男は何か釈然としないまま去って二人の会話は終わった。これは実話だ。傍らでこのやりとりを聞いて、思った。この初老の人の中では、若林純夫の遺した名曲『雪の月光写真師』はずっと何十年も記憶の底に残っていたのだと。春一番を観に来た観客なのだろうが、大昔に聴いたその曲はずっと忘れがたいものだったのだと。
 ※このうたは、春一番のライブ盤で唯一録音されたものが今日でも流通している。五郎氏に問いかけた方はそのオムニバスのレコード、CD化されたもので聴いたか、実際の天王寺野音で聴いたのか、あるいは、TBSの深夜放送「バックインミュージック」内での山本コータローの担当日での若林さんの生演奏で知ったかのいずれか以外ありえない。
 ちなみに我は、天王寺野音では若林さんは観ていないが、コータローのバックで彼の相棒として常によく登場して、スタジオ内でこの曲を生で歌ってくれたので中学生の頃にラジオで知っていつしか聴き覚えたのだと思う。

 我にはこうした「うた」がいっぱいある。この『雪の月光写真師』もそうだが、聴いた人の心に、記憶の中には今も残っていても今日ではたぶんもう誰も歌われないうたがいくつもあろう。
 そうしたうたを、うたは歌われてこそ「うた」だという思いで拙くとも唄っていきたい。