小さく弱く苦難の道にあるものこそ。中 ― 2019年11月08日 10時31分30秒
★何故、この世に悲惨・辛酸の目に遭う者が出るのか
おそらく古今のどんな宗教でもその神や仏が人を救ってくれる、守り助けてくれると説いている。が、現実の世界では、災害も含めて悲惨な事件が後を絶たないし事故や先天的に様々な障害を持つ人たちが存在している。
おそらく誰もが「神も仏もあるものか」と嘆き悲しみ、ときに憤りさえしたことがあるかと思う。
何故、神がつくったこの世界に「不幸な」出来事、悲惨な災難災害が起こるのだろうか。キリスト者にとって、いや誰にとっても謎であり、理解に苦しむ疑問であろう。まず神様がいて(おられるという前提で)、ならばその主の作られた「世界」は完全なものであるはずなのに、だ。
そう、なんでこの世には信じ難いほどの悲惨な事件、誰もが受け容れがたい事故や災難、戦争も含めて残虐な殺人事件などが繰り返し起こるのであろうか。
聖書ではこう記している。
ナザレのイエス存命中、というか、彼が地上に在るときのこと、イエスと弟子たち一行は、通りすがりに、生まれつき目の見えない物乞いの男を見かけた。
弟子たちがイエスにこう尋ねた。「この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか」と。
今から二千年も前でも、現在も続く「因果応報」の発想がこのパレスチナの地でもユダヤ人たちの間にも存在していたことに驚かされる。
つまり、人が不遇な目に遭うのは、悪行を本人もしくは先祖がたちがしたからその「報い」だと考えるのである。
それに対してイエスはこう答える。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」と。
そう申して、地面に唾で土をこねて、その盲人の目に塗って、池に行って目を洗いなさい」と命じた。そしてその男は、目が見えるようになり家に帰った。※目が見えるようになってから、彼をとりまくその後の騒動も記されているのだが、本筋とは関係ないので略す。――ヨハネによる福音書第9章―。
昔、この章を読んだとき、この奇跡譚は、イエスが世にあるとき、彼と出会わねば意味ないではないかと思った。
が、今はわかる。そうではないのである。神の業とは、こうした実際の「奇跡」ではなく、イエスが説き続けた「愛の実践」のことであったのだ。
今さら記すまでもなく、新約聖書には、人は、兄弟として互いに赦し愛し合うことの絶対的必要性が常に記されている。自らがして欲しいことを他者に、異国の民にも施せと。
私事で、今回、拙宅の子猫が片足切断という大怪我して啼きながら帰って来て、今現在は回復途中であることはお知らせしたが、微細な例えで嗤われるかもしれないが、その子猫を撫でながらずっと考えた。
いったい何でこの猫はこんな目に遭わねばならなかったのだろうと。他にも兄弟姉妹や、甥っ子にあたる猫たちは多数いるのである。おそらく彼らと線路で遊んでいるとき、電車にこの子だけ撥ねられたのであろう。そして下半身をひどく損傷して今は後ろ脚一本失ったものの幸い命だけはとりとめた。三本足の障害者猫に若くしてなってしまった。
この猫のこれからの人生とを思うと心配で胸が痛むが、我としてはお金はかかろうとも安楽死などさせずに生き永らえさせられたと思うので何の悔いもない。ともかく命だけは無事だったのだから。
そして気づいた。これこそが、聖書にある「神の業」であったのだと。
こうした不遇、苦難に遭う者は今も昔もこれからも数多く出て来る。それは、本人たちの罪、つまり何か行いが悪かったら天罰を受けたとか、自業自得では絶対ない。※猫たちはたくさんいたから、その中の一匹が事故に遭ったに過ぎない。
特に自然災害に遭う人たち、または障害を先天的、または事故などで後天的に授かる人たちも常にどこでも存在する。それを「運」「不運」でとらえてはならない。今回は台風がそれてこちらに来なかったから運が良かったと。いや、明日は我が身なのである。
そう、ヒトの数だけ幸せと同時に不幸もまた来る。いつか誰かがそれを引き受けなくてはならないのだ。
人が何千万人もいれば、当然のこととしてある一定の割合で、確実に不遇な目に遭う人は出てくるのである。そしてそれは運が悪かったとか、当人や両親などの「責任」では絶対にない。
また何かのきっかけで住まいを失いホームレスになってしまう人も基本として本人の責任ではない。この資本主義の世界では、富める者たちはさらに富み、貧困にあえぐ者はさらに困窮していくのが自然の流れだから、彼らはその犠牲者なのである。
そうした最下層の人たち、また様々な災害で被災して困窮している人たちにこそ、障碍がある人たちに「神の御業」、つまり「愛」が示されねばならないのだ。
それは祈ることでもあるけれど、それ以上に彼らのために隣人としてできること、すべきことの実践であり、自分がして欲しいと望むことを彼らにすることである。
つまり人は苦難のとき、助け合い愛し合わねばならない。そのために、悲惨な目に遭う者たちは常に「存在」するのだと気づく。
彼らは、我々の身代わりであり、代理人なのである。我らは日頃の行いや「運が良く」てそうならないでそんな目に遭わずに済んだと考えてはならない。
災難、災害、障害、貧困などで不遇、苦難の場に遭う者たちに、「神の御業」が働くように、我々は、できること、すべきことを全力でしなくてはならないのだった。
そうした障碍者の代表として、れいわ新選組の二人の議員が国会に送られたこと、これは まさに偉業であり、心から祝福したい。そしてその神の計らいにただ感嘆し感謝するしかない。これもまた神の御業なのだと。
おそらく古今のどんな宗教でもその神や仏が人を救ってくれる、守り助けてくれると説いている。が、現実の世界では、災害も含めて悲惨な事件が後を絶たないし事故や先天的に様々な障害を持つ人たちが存在している。
おそらく誰もが「神も仏もあるものか」と嘆き悲しみ、ときに憤りさえしたことがあるかと思う。
何故、神がつくったこの世界に「不幸な」出来事、悲惨な災難災害が起こるのだろうか。キリスト者にとって、いや誰にとっても謎であり、理解に苦しむ疑問であろう。まず神様がいて(おられるという前提で)、ならばその主の作られた「世界」は完全なものであるはずなのに、だ。
そう、なんでこの世には信じ難いほどの悲惨な事件、誰もが受け容れがたい事故や災難、戦争も含めて残虐な殺人事件などが繰り返し起こるのであろうか。
聖書ではこう記している。
ナザレのイエス存命中、というか、彼が地上に在るときのこと、イエスと弟子たち一行は、通りすがりに、生まれつき目の見えない物乞いの男を見かけた。
弟子たちがイエスにこう尋ねた。「この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか」と。
今から二千年も前でも、現在も続く「因果応報」の発想がこのパレスチナの地でもユダヤ人たちの間にも存在していたことに驚かされる。
つまり、人が不遇な目に遭うのは、悪行を本人もしくは先祖がたちがしたからその「報い」だと考えるのである。
それに対してイエスはこう答える。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」と。
そう申して、地面に唾で土をこねて、その盲人の目に塗って、池に行って目を洗いなさい」と命じた。そしてその男は、目が見えるようになり家に帰った。※目が見えるようになってから、彼をとりまくその後の騒動も記されているのだが、本筋とは関係ないので略す。――ヨハネによる福音書第9章―。
昔、この章を読んだとき、この奇跡譚は、イエスが世にあるとき、彼と出会わねば意味ないではないかと思った。
が、今はわかる。そうではないのである。神の業とは、こうした実際の「奇跡」ではなく、イエスが説き続けた「愛の実践」のことであったのだ。
今さら記すまでもなく、新約聖書には、人は、兄弟として互いに赦し愛し合うことの絶対的必要性が常に記されている。自らがして欲しいことを他者に、異国の民にも施せと。
私事で、今回、拙宅の子猫が片足切断という大怪我して啼きながら帰って来て、今現在は回復途中であることはお知らせしたが、微細な例えで嗤われるかもしれないが、その子猫を撫でながらずっと考えた。
いったい何でこの猫はこんな目に遭わねばならなかったのだろうと。他にも兄弟姉妹や、甥っ子にあたる猫たちは多数いるのである。おそらく彼らと線路で遊んでいるとき、電車にこの子だけ撥ねられたのであろう。そして下半身をひどく損傷して今は後ろ脚一本失ったものの幸い命だけはとりとめた。三本足の障害者猫に若くしてなってしまった。
この猫のこれからの人生とを思うと心配で胸が痛むが、我としてはお金はかかろうとも安楽死などさせずに生き永らえさせられたと思うので何の悔いもない。ともかく命だけは無事だったのだから。
そして気づいた。これこそが、聖書にある「神の業」であったのだと。
こうした不遇、苦難に遭う者は今も昔もこれからも数多く出て来る。それは、本人たちの罪、つまり何か行いが悪かったら天罰を受けたとか、自業自得では絶対ない。※猫たちはたくさんいたから、その中の一匹が事故に遭ったに過ぎない。
特に自然災害に遭う人たち、または障害を先天的、または事故などで後天的に授かる人たちも常にどこでも存在する。それを「運」「不運」でとらえてはならない。今回は台風がそれてこちらに来なかったから運が良かったと。いや、明日は我が身なのである。
そう、ヒトの数だけ幸せと同時に不幸もまた来る。いつか誰かがそれを引き受けなくてはならないのだ。
人が何千万人もいれば、当然のこととしてある一定の割合で、確実に不遇な目に遭う人は出てくるのである。そしてそれは運が悪かったとか、当人や両親などの「責任」では絶対にない。
また何かのきっかけで住まいを失いホームレスになってしまう人も基本として本人の責任ではない。この資本主義の世界では、富める者たちはさらに富み、貧困にあえぐ者はさらに困窮していくのが自然の流れだから、彼らはその犠牲者なのである。
そうした最下層の人たち、また様々な災害で被災して困窮している人たちにこそ、障碍がある人たちに「神の御業」、つまり「愛」が示されねばならないのだ。
それは祈ることでもあるけれど、それ以上に彼らのために隣人としてできること、すべきことの実践であり、自分がして欲しいと望むことを彼らにすることである。
つまり人は苦難のとき、助け合い愛し合わねばならない。そのために、悲惨な目に遭う者たちは常に「存在」するのだと気づく。
彼らは、我々の身代わりであり、代理人なのである。我らは日頃の行いや「運が良く」てそうならないでそんな目に遭わずに済んだと考えてはならない。
災難、災害、障害、貧困などで不遇、苦難の場に遭う者たちに、「神の御業」が働くように、我々は、できること、すべきことを全力でしなくてはならないのだった。
そうした障碍者の代表として、れいわ新選組の二人の議員が国会に送られたこと、これは まさに偉業であり、心から祝福したい。そしてその神の計らいにただ感嘆し感謝するしかない。これもまた神の御業なのだと。
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