新規「共謀」コンサートに、どなたでもご参加を2019年11月26日 14時52分18秒

★今できることを、少しでもきちんと

 今日も我が愚かさと罪深さと向き合う日が続く。ローマ教皇が来ようと関係ない。そのぐらいで救われるのならば宗教なんて必要ない。
 実は今日もひと騒動あったが、いちいちここに記していたら我の愚かさは、世界をもここに収まらない。読み手は呆れ果て嗤うだけだ。
 いまは、ともかくどんな悲惨かつみじめな人生であろうと、ただ生きて「ここ」にあるだけで有難い。

 今年も残すは一か月となってきた。金の支払い、工面についてはあれからまた有難くも貴重なカンパが届き、順調ならば予定よりも早く負債、つまり動物病院への借金は終わるような気がしてきた。
 本当に思うのは、こんな愚かで罪深い我に、手を差し伸べてくれる人が少なからずいることの有難さだ。その人たちの御恩、愛に少しでも報いたいと切に思う。
 同時に、「気持ち」として我のことを案じてくれる方々にも神のご加護があればと祈りたい。
 どうしようもない愚かな人生だが、何とか続けてやっていけているのは、このブログを通して関わりある方々がいるからだとはっきり御礼申したい。
 同時に、貴重な音楽仲間たちの存在によって、何とか倒れず自滅せず、皆さんの支えでやっていける。我は自分に対する愛は薄い人間なので、ついついもうどうなってもいい。早く終わらせたいと自暴自棄になる。何度も警察の世話や病院通いする目に遭った事か。
 そうした事件や事故でもうとっくに死んでいてもおかしくない人間が、有難くも神のご加護によって、いや、皆さんの支えと励ましによっておこがましくも臆面なく未だ生きている。

 実際のところ、我には妻も子もいないのだから、後は親父が死んだら一切合切今あるものに火つけて自らオシマイにしても良いのである。
 そうした誘惑的衝動にも先行きのコトを考えると常々襲われるが、既に我よりも先に思い残して逝ってしまった人たちの顔を思い浮かべると、おいそれとそれはできない。
 彼らのためにも、こんな自分でも生きている証し、義務は果たせねばと思う。
 では、生きるとはどういうことか。どんな意味があるのか。

 それは自己充足、己の欲望の満足ではない。いかに他者のために、己の役割がそこにあったかの確認でしかない。自分のことなんてどうでもいい。

 世にはトランプ大統領のように成すこと全て自画自賛し、自分のことが大好き人間が多々いるようだが、我は違う。
 子どもの頃から学校でも社会でもずっと否定され続けてきたのだから、そのダメさは誰よりも身にしみている。しかし、それでもだからこそナニクソという思いもある。
 ダメはダメなりにそこに意味や存在理由、価値もあるのではないか。そう信じたい。

 金持や成功者が偉いとかそうなりたいなんて思いもしない。が、自分のことしか考えずに幸福でいられる人は真に幸福だと思う。我など、自分のことは何一つできず、いや、何一つ外のこと、社会的なこともできないままに、この歳まで生きてついに身動きとれなく貧困に陥り自滅に近くなってしまったのだから。
 しかし、そこにもまた神の愛は注がれている。こんな我にも、である。でなければもうとっくにこんな人間は死んでいたはずだし、そうあるべきだと自ら思える。
 ならばまだ生きていることの意味を確かめ、そのうえで自分が出来ること、生かされた理由、その使命を果たしたい。

 我は、若い時からずっと常に疎外され排斥を受けてきた。※自業自得と笑うなかれ。だからこそ、誰も疎外されず排斥されない場所をつくりたい。何をしたってどう生きたって良いんだと、その人がそのままで全人的に保障される場所を。
 そういう関係を他者と結びたい。そして思いついたのが新しい「共謀」コンサートである。誰も疎外されない。否定されない。生まれや環境で差別されない。あるがままに自然に生きられる、その人がそのままでいられる場を、そういう思いを発する場をつくれたら。

 人が人であるために、誰もが共に生きるために皆で「共謀」できたらばそれは素晴らしくスゴイことではないだろうか。
 人種や国家国籍、性別、年齢、障碍に囚われることなく、人がそのままその人であるために。
 自分ができることをやっていきます。どうかお力を貸してください。皆で共に、同じ夢をみたいのだと。
 
 美と善は分かち合うため、また他者に与えるために与えられました。
 わたしたちは主人でも主人でも所有者でもなく、創造的な夢にあずかる者なのです。               フランシスコ教皇のスピーチより。