死んだ方がマシ、殺した方が得策という欺瞞と誤り2019年12月14日 07時06分49秒

★生死を決めるのは神のみで、人はとことん生きる、生かすしかない。

 犬猫、動物のことに限らず、この世には、大きな障碍を持って生まれると、あるいは偶然的に障碍を持つ身になってしまうと、こんなんなら死んだ方がマシ、死なせた方が良いという意見、考えが昔からよく囁かれ当事者にまで届く。
 いや、誰の心にもそうした「声」は内心では流れている。ある意味、それは非常に説得力をもって迷い苦しみ悩む心に呼びかけてくる。
 「そんな身体では、生きていくのは大変だ。どれだけ苦労するかわからないし、周りにも大きな迷惑をかける。ならば(自らならば)死んだ方がマシだし(それが他者ならば)死なせた(殺した)方がその者のためになろう」と。
 しかしそれは決定的に間違っている。それは絶対的悪だと断言する。

 今回、まだ幼い子猫が事故に遭い、手術によって片足を付け根から切断するという「障害者」になって生還して今様々な思いに囚われている。
 先々のことを考えると不安や心配はいくらでもあるけれど、ともかく生きて元気になって今ここにいる、ということだけで、ああ良かった、殺さないで良かったとただつくづく思う。
 お金は正直、ウチの中古車なら3台買えるほどかかったけれど、今もいささかも悔いはない。自分の判断、選択に過ちがなかったことこそが我の誇りとしてこれからの人生を支えてくれると信じている。
 つまるところ我は 我の拙く乏しい「愛」を金で補充したのである。愛とは、自己愛などは別にして、愛する対象があってのことで、いかに愛せるか、相手に「愛」を示せるかだけが問われている。むろんまず自らにも。

 昨今、妊婦の出生前診断で、生まれてくる子に障害があると告げられ産むか堕胎するか悩み迷う両親もいよう。また、不慮の事故や病気などで大きな障害を受けて運命を呪い、絶望して自死を考えている人もいるかもしれない。
 その人たちにどうこうしろなんておこがましく何も言葉はないけれど、この世には死んだ方がマシ、死なせた方、つまり(自らも含めて)殺した方がマシという考えは絶対的に間違ってる我は確信している。

 大怪我した子猫を動物病院に運び込んだとき、医師から問われた。手術しても成功するかわからないし治っても障害が残るかもしれない。また、何より動物は保険がないからかなりの金額になる、と。
 お金のことでは日々支払いに頭を痛めているこの我だが、その予想金額を示されても迷いは一切なかった。ともかくできるこだけのことをしてやってくださいと頼んだ。そう、猫は他にもウチにはまだいっぱいいたけれど。

 新約聖書にはイエスが説く羊飼いの話がしばしば出て来る。百匹の羊を飼っている羊飼いでもそのうちの一匹がいなくなったら、他の99匹はさておいてまず、その行方不明になった一匹をけんめいに捜すだろう、と。それこそが善き羊飼いであると。
 また古来、窮鳥(きゅうちょう)懐(ふところ)に入(い)れば猟師(りょうし)も殺(ころ)さず、という諺も頭をよぎった。
 そう、どれほどお金がかかろうとも、ウチで産まれた我の子猫が、大ケガをして助けを求めて戻って来たのだ。それを何もせずに、助かったとしても障害者となって苦労するだろうから、お金がモッタイナイからと殺処分を医師にお願いしたらば、我はその遺骸を抱いたときどんな心持になっただろうか。
 たかが猫だけれど、この先一生その我が「殺した」という思いに苛まれまた鬱病に陥ったかと思う。

 何であれ、この世には不可抗力というものがある。いや、人生も含めてこの世に起こることはほとんどすべて不可抗力と偶然なのである。ある意味抗いがたい運命なのだ。
 ならばその「ときどき」、損得や生産性、利便性、先々の不便や苦労、様々な不安などに心は迷い苦しみ頭は悩まされるけれどもともかくまずは生きていく、(周囲は)活かしていくべきだと考える。

 折しも相模原の知的障害施設を襲撃して多くの知的障碍者の命を奪った事件の裁判が始まった。
 被告の彼は、そこで働くうちに障害者など生きている意味も資格もないと思うようになり、彼にとっては殺すのが「正義」だと、殺した方が彼らのためになると考えての犯行だと報じられている。
 もしそう考えているとしたら、それこそ大きな驕りであり絶対的誤りである。何故ならすべての者には存在する意味と意義があり、人が勝手にそれを変えてはならないと信ずるからだ。

 その意味でも素人による裁判員制度での裁判には絶対的に反対する。人が人を裁いてはならないし(死刑にして)殺してはならないのである。※その判決を下して、死刑が執行されたのを知り悩み苦しむ人も多くいるかと思う。裁判はきちんと研修を受け自ら志望した裁判官という法律のプロ、専門職に任せるべきことであろう。裁かれたくなければ裁くな!と聖書にははっきり記してある。

 確かにこの世、今の社会では生産性と利便性、つまりいかにその人が、そのこと、が「収益」を上げれるかだけが問題視されている。
 だからこそ先年、某自民党女性国会議員が、同性愛者は生産性がないから悪だと断じて大きな批判を受け社会問題化した。

 大事なことは「金」ではないのである。いかにそこに「愛」があるか、愛が働くかだけが問題であって、全てを優劣とか勝ち負け、生産性、収益の多寡で考えてしまえば、人は人でいられなくなる。
 みんな違ってみんないいとは言ったもので、我は、みんな違ってみんなダメだと考える人間だからこそ、そのダメさの中に「愛」をみつけて労り助け合い、共生していくことこそが真の人間社会の在り方ではないだろうか。
 経済成長や勝ち負けの先には真の幸福はない。何故ならそこに敗者が生まれて、勝者は彼のパンを奪うのだから。

 繰り返す。死んだ方がマシとか、殺した方がその者のためになるなんて考えは欺瞞に満ちた、その場と自らをごまかす浅く卑劣な考え方だと。
 いかに愛が示せるか、やさしくなれるか。愛と慈しみ、人は常にことにおいて問われているのである。