素晴らしい才能・作品と、その表現行為について考・12020年01月11日 07時32分05秒

★蘭は、幽林に在るも、亦た自ら芳し ではあるけれど

 このところずっと考えている。すぐれた才能、作品があるとして、それを世に知らしめること、「表現行為」との関係とその難しさについて、だ。

 古言に、優れた芸術は、自ずから世に知られることを希う、というのがある。まさに至言であろう。
 中国には近しい諺の、桃李言わざれども、下自ら路を成す(とうりものいわざれども、したおのずからみちをなす)とか、蘭は、幽林に在るも、亦た自ら芳し(らんは、ゆうりんにあるも、またおのずからかんばし)も同様のことを説いている。
 まあ、意味として、これらは主に人の徳性、儒教的に言えば、仁の高い人のことを指し、そういう人は、森の中(田舎)や陋巷にあったとしても世間の人たちがほっとかず、いつしか注目が集まり世に知られるということをたとえている。
 すぐれた芸能、芸術もまた然りではないか。

 例えば、かの啄木や宮沢賢治なども生前はほとんど無名であった。貧窮の中で若くして死んでしまった。昨今話題となった金子みすずもそう。が、死後になって歳月と共に残された作品にスポットがあたり、評価が高まり広く世に知られるようになって今日誰もが知る「大家」となっている。
 そうした死後、残された作品からその名が高まった芸術家は内外問わずいくらでもいる。詩でも短歌でも絵画でも小説でも、その作品が「物」として作者亡きあとも「現存」していれば、真に素晴らしい、良いものならば、きちんと評価されて世に知られていくのである。
 
 一方、芸術には、物としての「作品」にはならない種の芸術、「表現行為」としての芸術もまた存在している。
 音楽の演奏や歌唱、演劇、バレエなどの演舞がそれで、芸術かどうかはともかく、落語、歌舞伎などの芸能もそこに含まれる。※詩の朗読もまた。
 それらは、録画録音、保存され、記録としてメディアに流通しているが、それは上記の「物」として書かれ残された「作品」とは異なり、本来、「表現行為」そのものが無形の「作品」なのである。ゆえに「人間国宝」無形文化財という概念も生ずるわけだ。

 我は、本という、物質の「芸術」に魅せられ、長くその世界にいたが、昨今は、音楽へ、しかもジャンルで言えば「フォークソング」という「うた」の世界、つまり歌唱の演奏披露というライブ演奏、「表現行為としての芸術」に関心が移行して、企画も含めてそちらに関わるようになってしまった。
 そして今、様々なライブの場、コンサートで多彩なシンガーやミュージシャンと出会い、多く見聞きして思う。表現行為としての芸術は、そこに優れた「才能」、素晴らしい楽曲としての「作品」、素晴らしい「演奏」「歌唱」さえあれば、桃李もの言わざれどの諺の如く、いつしか観客は集まり世に知られていくのか、だ。
 残念だがそんなことはないと今は思う。そしてそれは何故なのかずっと考えている。
 そのことは、人気の有無とか、商業的に売れる、売れないということも関係している。こうしたことについて考察を進めていきたい。