バカであろうと意思や意識が無かろうと、この世に生まれてきて生きてるのなら人は人。そこに意味と価値がある。2020年01月17日 20時12分29秒

★人の価値はただ存在だけ。そこに意味や生産性はカンケイない。

 相模原市の知的障害者施設での大量殺傷事件の公判が始まっている。容疑者の元職員の男は、施設入居者を殺す段階で、まずその相手が話せて意思疎通がはかれるかとか問い、出来ない者を殺したとか報じられている。
 また、被害者の遺族からは、重度の知的障害がある者だが、しっかり感情もあり意思疎通もできていたと、反応もなく生きていてもどうしようもないから殺したと嘯く容疑者に対して反論、「抗議」の声も出ているようだ。
 だが、我は、そこにちょっと違和感を覚える。重度の障害ある人が、対人的に返す意識、反応、意思表示ができるとか、できないとか、その有無でもって命の価値を測ってはまさに殺人者の歪んだ論理の土俵に乗ることではないのかと。
 我は思う。生き死にも含めて、この世に起こる事にはすべてそこに何らかの意味があるのだと。
 ならば、そういう彼らが産まれてきたこと、生きていることこそが、大いなる意味と価値があり偉大な素晴らしいことだと我は思う。

 人は真っ当に生まれてより完全な者になるべく努力していくという考え方もある。それが人生だと。間違いではない。が、実のところ、実はもともと不完全な者であり、その弱さや愚かさ、不具合を抱え認めて共に何とか助け合い共に学んでやっていくことのほうがより社会的には正しいあり方ではなかろうか。
 何故なら、人は皆、やがては障害者になるからだ。我は元々人格的にも身体的にもそちら側、障害者の側にいると自覚して、それを声高に主張はしないが、世人と比べて真っ当ではないという意識で常に生きてきた。
 常に自らに問うことは、どうしてこんな異常なオカシイ人間が、世間にご迷惑をかけて生きていかねば ならないのか、その意味であった。
 そう、何度も書いて来たが、そもそも生活無能者なのである。人並みの、仕事も片付けも日常生活も誰もができることが自分は何一つできやしない。たぶんきちんと精神科に行けばいくつも病名はつけてくれるだろう。しかし、それが何になる!?

 結果として周囲の、我と関わってくれた人たちを怒らせ傷つけ迷惑ばかりかけるならば、いっそ生まれてこないほうが、生きていないほうが世のため、人のためだと何百回も考えた。
 じっさい自死を試みるような無謀なことは何度もした。が、幸いにしてこの歳まで何とか危機を乗り越え、本来とっくに死んでいて当然のようなことを何度も繰り返したのにも何故か今も有難くも生きている。
 自分でも周囲の先に死んでしまった善き人たちのことを思うと不思議でならない。あんな善い人が先に逝き、何故俺のようなひどい滅茶苦茶な者が臆面なくも生かされているのかと。

 そして今わかったことは、全てはそこに意味があり、生まれてきた者も含めてこの世に起こることは神のメッセージなのだと。
 繰り返しになるが、障害者が何でこの世にいるか、と弟子に問われたイエスは、神の愛が現れるためだと答えている。では、神の愛とは何か、であろう。
 神の愛、つまり神の国と神の義はあの世に、死んで出会えるものではない。今の世で、この現世で、それを現実の者として我々が実現できるかが問われている。その行為こそが「神の愛」なのである。そしてそれが成し得た時に、真に神の国がそこに待っているのだと。
 ならばこそ、障害も含めて、不幸や様々不具合があり苦労する者がそこにいたとしたら、それを知った者は、憐れみ慈しみ手を差し伸べ、出来る限りのことをしなければならない。そう、汝の隣人として、だ。
 相手に成り代わって荷を負うことはできない代わりに、善きサマリア人のごとく、大変な目に遭っている人に出会えば、そのときできるだけのことを、出会った共に生きる者として相手にすれば良い。

 死後裁きにあうとか、天国があるなんて我は今は考えてないし思わない。大事なことはこの生きている人生は今だけの話であり、死後の復活があろうと裁きがあろうとなかろうと、そんなことは正直どうでもいい。我は地獄が待っていると覚悟しているが、そのときはまたその時の話。
 人が人の価値を身勝手にも決めて、生き死にも含めてどうにかできるとかしようと思うこと自体、とんでもない驕った話なのだ。それは裁判員制度の裁判も含めてのこと。
 人の価値は、ただそこに生まれ生き、ただ今そこに在ることで十分なのである。むろん障害者を抱える家族、ご家庭はものすごく大変だ。我自身、無価値な者として、無価値となってしまった老父を抱え共に暮らして、こんな状態になって生きている意味があるのかと常に思うことがある。何もわからなく何もできなくなって記憶さえ続かず、排尿排便さえ垂れ流しとなってただかろうじて生きている。
 しかし、それこそが人間であり、それもまた人間なのである。人は誰もが若く元気な時だけではいられない。五体満足に生まれて来るとは限らない。
 もし、そういう人ばかりの世の中は、逆にとてつもなく息苦しく切磋琢磨の競い合いでしかなく、生きていくのはものすごくタイヘンであろう。まるで高木ブーのいないドリフのように。

 そうならないために、神は、自然は、世間的には落ちこぼれのような存在、様々な不具合のある社会的不適応者を生んだのだと我は思いたい。繰り返し言うが、どんなに美男でクレバーでも人は老いては最後には何もできなくわからなくなり立派な障害者と化するのである。我が父を見ていてつくづくそう思う。※我が父ほど若い時にハンサムだった美男に会ったことがない。
 ならばこそ、健常者だけではない社会、共に明日は我が身とも考えて手を携えて皆で助け合う社会を構築するしかないではないか。
 それこそが、神の愛が現れた世界であり、神の国は近いと断じてもかまわないと思う。

 なにはともあれ、全ては生きている間だけのことなのだ。ならばこそ、自らも含めて誰も殺しては絶対にならないのである。
 死は望まなくても誰にも必ず確実にやってくる。だからこそ誰もが今与えられている生を、とことん自信と確信持って最後の日までしっかり生きなくてはならないのである。他者の価値観や評価などくそくらえだ。