うたよ、音楽よ、今再び!!・①2020年05月01日 23時53分34秒

★社会が分断されたコロナという「国難」

 風薫る爽やかな五月となった。暖かいというより日向は汗ばむほどの一日であった。が、街には人の姿は少ない。ちょとあの大震災直後の計画停電で静まって真っ暗なあの頃を思い出す。
 あれから間もなく10年となるわけだが、この国はまたしても安倍晋三の大好きな言葉「国難」に襲われてしまった。
 ※思うに、その「国難」を作り出した、源となったことは、大地震はともかく、原発政策など時の自公政権の政治のツケであろう。今回のコロナウィルス蔓延も彼らの対応の愚策と医療に関わる予算を削減し続けてきた結果の保健所数、病院ベッド数、医療従事者不足を招いた責が問われている。

 さておき、3.11大震災と今回のコロナ禍、同じ大災害、国難であろうともその姿はまったく違っている。きわめて対照的だと我には映る。
 何回かにわたって、だからこそ今、何が求められなにをすべきか、自問していることを書き記したい。

 あの3.11東日本大震災では、記録的な数の人命をはじめたくさんのモノが失われてしまった。家屋も資産も公共の建物も何もかもが大地震と津波で破壊され消失してしまった。
 だが、生き残った人たちは、避難所や仮設住宅に集まり、ある意味濃厚かつ密な人間関係がそこにはあった。また被災地支援に多くの人たちが現地を訪れ、支援物資も全国各地から届き、新たな人間関係、絆が生まれて今もそれはかなり続いている。
 そう、物資や通信手段はことごとく失われたが、代わりに濃厚な人間関係、暖かい社会的つながりはその「災害」では確かにあった。※むろんフクシマから転校して来た児童に、放射能がうつるとかいう理のない差別もあったけれど。

 今回の未だ収束の兆しもないコロナ騒動は、モノは何も今現在失われていない。買い占めだが理由はわからないがマスクや消毒液などと一部の生活必需品、保存食料は今も品薄ではあるが、大地震のような家屋などは何一つ失われてはいない。
 では何が失われたかというと、何より人と人との関係、社会的接触こそが感染拡大予防のためとして制限され、社会的だか物理的だかわからないが、人との距離こそが求められスーパーのレジにならぶこさすら間隔空けるよう要請されてしまった。

 会社も学校もその多くが休業要請されてしまったから、人は人と会い直に語らうこともできなくなっしまった。そして感染の元とされる「三密」状況をつくる職種、業種は「自粛」せざるえなくなり、そこに携わる人たちはまさに死活問題に悩み苦しみあえいでいる。
 政府は様々な休業補償的なことや企業への支援策を打ち出しているが、それはまさに焼け石に水でしかなく、このままさらにまた「緊急事態宣言」状況が続けば、コロナウィルス原因での医療的死者数よりも経済的、社会的困窮が原因からの自殺や殺人での死者数が上まわるかもと我は予想している。むろんそれでも専門家たちが言うように、何の対策をとらなかったときの数十万というコロナ死者予測数よりは低いだろうけれど。

 3.11のときは、モノと同時にあらゆる通信手段が失われてしまった。被災地の避難所の壁に、皆がこぞって貼り紙してあったことを思い出す。
 じっさい当初はあの大戦後の焼け跡と同じく、「貼り紙」しか伝達・連絡の方法はなかった。
 が、このコロナ禍では、あの頃よりもさらに携帯などのモバイルと様々なアプリやSNS利用者が増えたということもあるのだろうけど、他者との通信手段だけは十分以上に今も確保されているしそれでのやりとりとして、会社に出向かずに在宅でのテレワークなる働き方も今後定着していくと予測されている。

 そう、コロナでは何一つモノは失われてはいない。通販・宅配業者、そのサイトも増えて、何でも携帯やパソコンから注文すれば感染の怖れある危険な人混みに、ゆざわざ街に出なくてもほぼ何でも家に届くようになった。
 しかし、結果として人が人と会う、語らうという直の関係、まさに顔の見える関係こそが失われてしまった。スーパーなど店舗での買い物もレジと客とはビニールで仕切られ、お互いマスクで顔も判別できないし、お金すら直接さわりもしない。客は自らカードで決済するだけだ。
 こうした社会的分断、人との距離をとる、その対応策は、おそらく今後も続くのではないかと我は案ずるし、コロナ騒動が収まった後も当たり前のこととして定着することを怖れる。

 このところ話題のネットで飲み会だか何だかよく知らないけれど、そんな集まりのどこが楽しいのか我にはわからない。
 電話は顔が見えないけれど、ともかくそこには人と人との直接のつながりがある。一対一で話しお互い向き合っている。そこには社会的つながりがある。が、そうしたモニターの中での集いでは、会話に加わっていない者の存在は無に等しいのではないか。そもそも分割された画面に顔も出ないかもしれない。

 我は今のようにネットが普及し、フェイスブックもだが人と人がカンタンに繋がる、繋がれるようになった時代を決して良いとは思っていなかった。それはあくまでもショートメール的なごく短く簡潔な用件のみのやりとりでしかなく、とことん踏み込んだ大事なことは何一つ言えないし書けない、送れないように感じていた。
 ならばこそ、街に出て気の合う仲間たちと会い、与太話であろうが、盛り上がり酔っぱらう場が我には絶対的に必要だった。

 西荻にあった吞み亭などでは、何か心が淋しいとき、もやもやとした気分のときにふらつと出向けば、必ず誰か顔見知りの奴がいて、例え誰もまだ客が来ていない早い時分でも、マスターのやっちゃんは温和な笑顔で出迎えてくれ、誰々のこの頃の動向や昔話に花をさかせることができた。そうして鬱気分からどれほど救われたことか。

 かつてそうした場があったことが懐かしいし、今またコロナ騒動で、同様の狭く小さい居酒屋が「自粛」要請によって経営困難となり廃業していくことを憂い心痛める。

【続く】