コロナという絶対悪の前に2020年05月14日 09時06分19秒

★もの言えば、唇寒しの世相に

 自分が好み求め、築こうとしてきたことが、突然、「悪」とされて禁止されてしまったとき、人はどう生きれば良いのだろうか。
 コロナウイルス感染防止のために「三密」状態が実質的に「禁止」されてしまったわけだが、あらためて思えば、その状態、密室、密接、密集の状況こそ我がずっと好み求めていたことであったのだと。
 「共謀コンサート」も開催の目安が立てられない今、どうしたものかと気も沈み、ずっと自問している。
 コロナ禍後の世界に、自分の居場所はあるのか、と。そこで何ができるのか。

 むろん、声を上げて異議申し立ては出来なくもない。が、この今の世相、状況下では、まさに非常識であり、他の抗議活動はともかくもこのコロナに関して異論唱え「要請」に従わなければ、社会の治安を乱す者として集団リンチされても文句も言えない風潮なのだ。誰一人賛同者はいない。
 コロナウィルスという、人類にとって大過、大きな脅威の前で、それにかかった者、人にうつした者は、絶対「悪」であり、ネット上ではまず頭を下げてお詫びせねばならないし、その各種の自粛要請に従わなかった者、違反している者には、「社会の敵」として誰だかあぶり出し、結果として自殺を強いるようなひどい文言が投げつけられている。
 迂闊なことを書けば、その礫は我にも飛んで来よう。つくづく嫌な時代、嫌な社会だと思う。まさに息詰まる。マスクをしなくても息苦しい。

 我が私淑する山本夏彦翁は、生前ことあるごとに、「正義とはつくづく嫌なものだ」と記していた。
 その頃は、自分も若かったし、どうもピンと来なかった。翁は、主に朝日新聞の姿勢に対してそう批判していたかと思うが、今の世相、この現下のネット上の「自警団」、そして「自粛警察」の人たちを見たら、やはりそう語ったことであろう。今ようやく、我も彼の言おうとしていたことが、はっきりわかる。そう、「正義」とはつくづく嫌なものだと。

 正義、及びその心情、正義感というものは、悪との対比であるわけだから、まずコロナという、人類を脅かす「絶対悪」の前では、その戦いに参加する者は、「正義」であることは間違いない。そう、それは当然正しいこと、なのだ。つまり「要請」に従うことは正義にかなう。
 が、では、それがコロナに罹った者、コロナを感染させた者が悪なのか、自分にはまったく理解できない。何で、感染した有名人は皆、頭を下げ詫びるのであろうか。誰だって好きで感染する人も、させる人もいないのに。
 むろん最低限の感染拡大予防は各自すべきであることは言うまでもない。しかし、それでも罹る人はかかるだろうし、感染の可能性高い状況下であろうとも罹らない人はかからない。
 ※じっさい感染した人の「告白」を読むと、感染予防にはマスクや手洗いなど人並みのことは欠かさず常に万全を期していたはずなのに罹ってしまったと多く記されている。だらしなく予防を怠っていた人だけが罹るわけでは決してないのだ。

 ならば、その自粛「要請」に従わない者も「悪」として、徹底的に叩くのはいかがなものか。それは、感染予防意識の程度の差であって、コロナと同列の悪ではない。そして正義の名の元に、その「正義感」から従わない者、違反者を悪人として「糾弾」するのは実に歪んだおかしなことだと我は思う。他県から来たと車のナンバーだけで、余所者だと判断しあれこれ嫌がらせする愛県家たちの心情も同様に理解に苦しむ。
 
 先日、所用で久しぶりにJRの電車に乗って都心に出た。むろん我が知るいつもより空いていたが、見回すとマスクをしていないのは、車内に我一人だけである。
 乗って来る人も降りる人も皆全員マスクをつけて席を空けて座っている。世界中でマスクを付けていない人は我とトランプ氏だけのような気持ちになった。
 我は元来呼吸系が弱く、マスクすると息苦しくまずそれを好まない。またメガネをかけているので、息で曇って見えなくなるのも困る。視力が弱いからメガネかけてるのだ。曇れば即歩行困難となる。
 世の中にはコロナ流行以前からどんなに暑くても常に日常的にマスクを欠かさない人がいて、よくそれに耐えられると感心してきたが、それもまた慣れなのかと想像できるけれど、我はきっと慣れないしその努力もしないしできやしない。それはこの状況下でも人それぞれで良いのではないか。むろん付けたほうが良いのだろうが。

 だいたい振り返れば、コロナ流行の当初は、マスクはあまり予防の効果はないとあちこちに記されていた。外からの感染予防よりも他人にうつすほうにマスクをしていればリスクを減らすと。
 また最近までは、WHO自体が、布マスクなど百害あって一利なしというスタンスで予防効果はないと言っていた。
 それがいつしか感染拡大に伴って世界中で、医療関係者のみならずマスクの必要性が叫ばれ、まさに猫も杓子も誰もがマスクをするようになってその需要が高まり、先のマスク絶対数の不足もあって、早朝からドラッグストアの前にはマスク求めて長蛇の列ができる騒動となった。
 そして有難くも一世帯に二枚の布マスクの政府からの配布である。友人宅に届いたのは薄汚れていたと聞く。が、ウチには今も届かないし10万円給付の書類も何も音沙汰ない。

 ともかく政府も感染学者たちもWHOも言うことがコロコロ変わる。耳慣れない横文字ばかり並べ立てただただ非常時、今が山場、瀬戸際だと不安感だけを煽り立てる。
 結果として誰もが常にマスクを付けてマスクしていない者には奇異の目が投げつけられるようになってしまった。

 先日の電車内も、後から思えば、マスクしていない我が車内に入って来て、座ろうとしたら近くに座っていた男は慌てて席を立って移動してしまった。そうか、マスクしていない男は、感染拡大の保菌者とみなされるのか、と今気づく。
 友人の話だと、三人でとあるレストランに入ったとき、一人だけマスクしていなかったら、ていよく追い返されたとも聞く。呆れた話だ。マスクをしていれば絶対に感染しないわけではないだろうに。
 明け方や早朝の町でも、誰一人出会うことも密接、密集になる機会もないはずなのに、犬の散歩などで道行く人は誰もがきちんとマスクをしている。感心すると同時に、この人たちはだぶん家の中でも寝る時でも常にマスクしているのだろうと想像してしまう。飯と風呂のとき以外は。

 日本人というのは、世界でも珍しく上からの言いつけ、決められたことに唯唯諾諾、粛々とおとなしく無条件で従うと海外メディアによく報じられてきたが、まさに今のコロナ騒動でつくづくそう感じる。感心すると同時に怖くなるほどだ。
 以前から気づいていたことだが、さほど広くない十字路で、信号機がついていると、真夜中で車一台走っていない状況でも、きちんと信号待ちをしている人がいる。目と耳をすませば、辺りには車どころか自転車も犬猫すら走ってくることはないことがすぐわかる。
 が、そういう人は、信号が赤だときちんと止まってそこで青に変わるまで待っている。みごとな法令順守である。それには異論ないし誰も咎めない。それは絶対的に正しいことである。が、我はおかしいと思う。不気味に感じる。そう感じる我がおかしいのか。

 それと近しい違和感をこのコロナ騒動は多く我に与えている。
 むろんじぶんを守ることが大事なひとを守ることに繋がる、というの絶対的に正しい。そしてその正義には誰も抗えない。
 が、今、ネット上で、自粛警察の人たちに糾弾され、顔写真や住所までも暴かれたされる山梨の「感染を知りながら移動した女性」も、そこまでされる大罪を犯したのであろうか。彼女の迂闊な行為で結果として感染死が起きたとしても、それだけの責がそこにあるとは思えない。しかもそれをやっているのは警察でも医療関係者でもないまったくの正義感あふれる一般人なのである。
 人は我もだが、基本愚かで様々なことに無自覚なものである。その過ちをそれだけ責め咎める資格が誰にあるのか。結果としてその「正義」と正義感でまた多くの人を傷つける。

 先にも書いたが、千歳烏山の椎の木が植えられたのは、朝鮮人虐殺の反省や贖罪のためではなかった。それは彼ら自警団の人たちの治安維持のための功績を記念するためであったと中川五郎はうたっている。そう、ならばそんな木は切り倒してやりたいと我も思う。
 そしてもし、その山梨県の女性がプライバシーを暴かれ、ネット上で多くの正義漢たちに糾弾され精神的リンチから結果として自死してしまえば、彼らは正義が勝ったと快哉を叫ぶのであろうか。

 それはコロナに勝ったのではない。コロナによって肉体だけでなく心まで侵され殺されてしまったという証であろう。
 ああ、正義とはつくづく嫌なものだ。この非情な、いや非常な状況はいつまで続くのか。いったいこの先、この国で我はどう生きていけばよいのだろう。